表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ティベリウス・ネロの虜囚  作者: 東道安利
第三章 アクティウム
15/57

第三章 アクティウム ‐1

 第三章 アクティウム



 1



(前三一年)





 ブリンディジはイタリアとギリシア世界をつなぐ玄関口である。首都ローマからは徒歩二週間ほどで着く。

 本土を下るローマ軍の終着点はそこである。しかし首都を出て六日後、一行はアッピア街道から西へ逸れた。オクタヴィアヌスに寄るべき場所があったのだ。

 ティベリウスとマルケルスは、騎乗してオクタヴィアヌスのすぐ後ろに従っていた。ガリアやゲルマニアの同盟部族からなる騎兵隊が、それに続く。

 ローマ軍の行軍隊列でいえば、ティベリウスたちはちょうどその中間あたりにいた。通常、先頭を行くのは同盟諸国・諸部族からなる軽装歩兵で、敵の待ち伏せがないか探索する役目がある。次に軍の主力であるローマ軍団兵、その装備を携えた一隊、そして道路の補修隊と続く。司令部の荷物を運ぶ一団のあと、いよいよ軍の総司令官――オクタヴィアヌス――が行き、選り抜きの精鋭からなる護衛部隊がすぐ従う。それから騎兵隊、攻城機械を運ぶ輸送隊、軍団長と副官、彼らの精鋭部隊、各軍団の銀鷲旗が進む。後衛は同盟軍の主力部隊で、しんがりは彼らから選ばれた歩兵騎兵の混成部隊が務める。

 だが今は、敵が本土内にいないことがはっきりしていた。加えて、軍勢の大半はすでにアグリッパの指揮下、ブリンディジとターラントに集結済みだった。だからこの行軍は最高司令官であり執政官であるオクタヴィアヌスと、その同僚メッサラの護衛軍のそれと言えた。

 それで、最高司令官の家族までが同行していた。リヴィアとドルーススを乗せた馬車が、隊列の後方にいた。もちろん、一緒に来るのはブリンディジまでだ。

 家族と離れるのはもう少し先。その事実があるので、ティベリウスはまだそれほど気を張りつめていなかった。好奇心剝き出しに、毎日しげしげとローマ軍の様子を眺めていた。正規行軍の縮小版ということだが、聞けば進軍する場所や敵の性質によって、様々な隊列を組むらしい。その一つ一つを見てみたいと思った。敵がいる土地に踏み込めば、より大規模で戦術に沿ったそれで進むのだろう。

 色々と、だれか自分に解説してくれる人がいればいいのにと思った。だが好奇心が刺激されるたび、執政官であるオクタヴィアヌスやメッサラを煩わせるわけにはいかない。ユバや教師のネストルは、軍事に関してはティベリウスと同じくらい素人だ。従軍している奴隷たちにも、ティベリウスが望むほど詳しい者はいなかった。

 それでも、知りたいと思うことには積極的に近づいた。行軍の休憩中、ティベリウスはマルケルスと一緒に軍団兵を訪ねてまわった。彼らは二人に武器や防具を見せ、実際に持たせてもくれた。二人ともトロイヤ競技祭ではこうした装備の模造品を使って演技したが、使い込まれた本物を手にするのは初めてだった。

 ピルムと呼ばれる槍、ヒスパニア式のグラディウス剣、それに子ども二人の首から下をすっぽり覆うほどの盾。軍団兵たちは、それらと悪戦苦闘する二人を見て笑っていた。

 彼らはこれらのほか甲冑も身に着け、そのうえ食料などの個人的な荷物や、陣営や道路の建設に使う工具まで持って進軍するのだという。あんぐり口を開ける二人に、軍団兵たちは誇らしげに胸を張ってみせた。

「坊主ども、これが世界最強の俺たちローマ軍団兵だ。まだまだ遠い道のりだろうが、俺たちみたいな強くてたくましい男になるよう、がんばるんだぞ!」

「馬鹿野郎! この子たちは元老院のお偉方の息子だぞ。俺たちみたいな一介の歩兵になるわけあるか」

 もう一人が怒鳴りつけ、それから二人に眉尻を下げてみせた。「我々の苦労がわかる上官になってくれよ。国家ローマの安全を支えているのは俺たち軍団兵だって、忘れないでくれ」

 それから、彼らは体の傷や武器のすり減り具合や金銀の勲章を見せ、自分たちの武勇伝を語るのだった。

 だがそんな彼らでも、最古参はフィリッピの戦い前後という、若手から中堅の兵のようだった。ブリンディジに集結している軍団には、それより古参の者がいるかもしれない。

 もしも神君カエサルのベテラン兵に会えれば、最高なのだが。

「おしりが痛い」

 右隣の馬上から、マルケルスが苦笑を向けてきた。ティベリウスは小さく肩をすくめて笑い返した。二人とも馬術の訓練は積んでいたが、これほど長い時間馬に乗り続けたことはなかった。それに行軍は軍団兵の歩調に合わせているから、騎乗の者にとってはゆっくりと単調なものになる。

 けれども、子ども二人以上に騎乗がこたえるのがオクタヴィアヌスであるようだ。元々彼は乗馬か得意でないうえ、決して体が丈夫とは言えなかった。季節は一月。気候温暖なカンパーニア地方とはいえ、寒さは身にしみる。まして黙って乗馬していればなおのこと。周りの目などかまわず、彼はしばしば馬車や輿の中に引っ込んだ。もともと寝つきが悪い体質で、毎晩寝床を変える日々が辛いのだろう。輿の幕を下ろし、眠っている様子だった。

「叔父上、大丈夫ですか?」

 マルケルスが声をかけた。彼は叔父の姿が見えなくなるたび、不安げに顔を曇らせた。それから切なげに背後を振り返り、長く伸びる隊列の果てを眺めた。

 彼の母オクタヴィアは、隊列から離れていた。幼い娘四人を連れて行く困難もあるが、継子ユルスを気遣ってのことでもあるらしい。実父との戦争に行く軍に同道させるわけにもいかず、かといって一人残していくのもかわいそう。それで、ひとまずバイアエの別荘に滞在し、ブリンディジには遅れて到着することになっていた。

「大丈夫だよ、マルケルス」

 穏やかな叔父の声が、天幕越しに聞こえてきた。

「お前も疲れているだろう。こっちに来ないか? 少しはあたたかいよ」

 マルケルスはティベリウスも誘ったが、ティベリウスは微笑んで首を振った。マルケルスが天幕の内側に消えると、従者の奴隷が彼の馬を引いて下がった。

 輿の中からは、叔父と甥が楽しげに語らう声が聞こえてきた。

 ティベリウスは馬の歩調を速めた。目をじっくりと周囲にまわす。冬枯れの季節でなければ、カンパーニア地方のこの景色も、旅の慰めになっていたに違いない。もう少し西に寄れば、ナポリ湾の絶景も見えるのだが。

「君も無理はしなくていいんだよ、ティベリウス」

 後方から、ユバが馬を進めてきた。

「風邪でもひいたら大変だ。辛くなる前に休んでいいんだよ」

「ぼくは平気だよ」

 ティベリウスは答えた。それよりユバのほうは大丈夫なのか、という言葉を呑み込みながら。

 だがこの寒空の下にもかかわらず、ユバは元気溌剌としていた。今にも列から飛び出し、ウサギのように野原を跳ねてまわりそうだった。ティベリウスとマルケルスの護衛役を任されてはりきっているからだけではないのだろう。

「なんだかわくわくしてるみたいだね、ユバ」

「いやぁ、ごめん。不謹慎だよな。戦争が始まるっていうのに」

 ユバは気恥ずかしそうに笑った。

「でも正直、そのとおりなんだ。私はカンパーニア地方から南には来たことがなかった。この辺はギリシア系の街が多いから、いちいち興奮しちゃってさ」

 ユバがギリシア文化に心酔しているのは、ティベリウスもよく知っていた。それはティベリウス自身も同じものに興味津々だからなのだが、ローマの上流階級は、ほとんど例外なくギリシア文化に敬意を払う。今やギリシアを覇権下に収めて百年が過ぎるローマだが、文化に関しては千年先輩を見上げる気持ちでいる。世界の芸術作品の最高峰はギリシアで、世界の共通語と言うべき地位に座すはギリシア語である。哲学、修辞学、数学、科学、天文学など、あらゆる学問もギリシア人が最先端をいく。だからローマ名家の子弟は、留学してでもその文化教養を身に着けようと熱心だ。

 十八歳のユバも、そろそろローマだけでは知的好奇心を満たせなくなっていた。人質という立場でなければ、本当はアテネやロードス島に留学したいのだろう。

「それに、もしかしたら私はギリシア本土に行けるかもしれない。もう、考えただけでいてもたってもいられないよ! ホメロスが歌ってた場所を、この目で見られるんだ! 西海岸だったら、まずはオデュッセウスの故郷イタケ島だよな。それからテレマコスみたいに船でペロポネソス半島に渡って、ネストル王のピュロスを見つけられるかな。エーゲ海も見たいなぁ。そこへの海路なら、あの黄泉の国へいざなうタイナロン岬も通るよな。それとも陸路ならエリスのオリュンピアが見られるかも。今年は競技祭が開かれる年じゃないけど、もしかしたら近くで別の祭典がやってるかも。それからスパルタだ。コリントにも行きたい! それから、アテネ! アテネだよ!」

 それからはたと止まり、後ろを振り返った。騎兵仲間たちが、ぽかんと見つめてきていた。ユバは真っ赤になって顔を覆った。

「ああ、もう、私はなんて不謹慎なんだ。神々よ、お許しください!」

 ティベリウスは思わず吹き出した。

「ユバの気持ちはわかるよ。ぼくだって、ギリシアが見たいもの」

 ユバの不謹慎を責める資格はないと思っていた。ルキリウスにも話したが、本当のところ、これが従軍を喜ぶ一番の理由なのかもしれない。

「まだ見たことのない、あらゆるものが見たいんだ」

 顔を覆ったまま、ユバは目を細めた。

「テオドルス先生が言ってたよ。好奇心は人生最高の宝物だって」

 ユバに負けず劣らずギリシア文化に傾倒しそうなティベリウスだが、彼の場合は教師テオドルスの影響も強かった。テオドルスは彼にギリシアのあらゆることを教えてくれた。もちろんまだ基礎段階だが、それでも彼の敬愛と情熱をかきたてて保つには十分だった。

 年末、テオドルスの最後の授業を受けた。ティベリウスは残念でならなかったが、もっと知りたい、生徒にそう思わせることができれば、教育は成功だ。

「よっし! じゃあ、ノーラに着くまでテオドルス先生の授業の復習といこうか」

 元気を取り戻したユバが言った。

「まずは最後に扱ったカリマコスの詩を読み上げてみて。もちろん、ギリシア語で」

 ティベリウスとユバはそれぞれお気に入りの詩人の作品を暗唱し、ノーラに着くころにはホメロスの代表作『イリアス』の読み合わせに夢中になっていた。

「『もしもこの人と一緒なら、我らは二人、燃えさかる炎のなかからも帰って来られよう。なぜならこの人は、比類なく思慮深いのだから』」






「ドルースス、いいかげんにしろよ」

「フン!」

「いつまでいじけてる気だ。外へ出ろ」

「フン! フフン!」

「…ああ、そうか。じゃあずっとそこにいろ。ぼくはもう行くからな。今夜も独りぼっちで、凍えながら眠ればいいさ」

「……フン!」

 苛立ちの息をこぼしつつ、ティベリウスは馬車から離れた。ノーラという街に着いていたのだが、弟がいつまでたっても馬車から降りてこなかった。毛布をかぶり、座席の上で丸まったきり。

 首都を出てから、母も奴隷たちも手を焼いていた。だが特に兄の言うことは聞こうとしなかった。原因は、ただの一つ。

 ――カエサルっ、カエサルっ!

 ――うん? なんだい、ドルースス?

 ――ぼくのこと、すき?

 ――ああ、大好きだよ、ドルースス。お前ほど可愛い子なんていない。

 ――じゃ、一緒に連れてって!

 ――だめ。

 数か月前から「兄の従軍」はドルーススのなかで禁句となっていた。どんなに楽しく遊んでいても、だれかがそれを口にした瞬間不機嫌になった。それでもローマにいたうちは忘れたふりをする傍ら、隙あらばオクタヴィアヌスに思いつくかぎりの手でお願いをしていた。しかしいかに継子その二に甘い彼といえども、六歳の従軍を許可するはずもなかった。母と兄もなだめてすかしてしまいには叱りつけだが、ドルーススは駄々をこね続けた。

「なんであにうえだけ戦いにいくんだよう」

 カエサル庭園でのお別れ会では、ファビウス相手に愚痴をこぼしまくった。そしていまなお、あきらめていない様子だ。

「あにうえなんかきらいだ!」

 ティベリウスの背中を、そんな声だけが追いかけてきた。

 ノーラはアッピア街道をはずれたところにあるが、オクタヴィアヌスはわざわざこの街を訪ねた。彼の実父ガイウス・オクタヴィウスが没した場所だからである。二十七年前、任地の属州からローマへ帰還する途上だった。

 最期の息を引き取った屋敷の傍らに、彼の祭壇がしつらえられていた。今ではカエサル家の養子になった息子は、実父の霊に祈りを捧げた。このたびの戦争で最高司令官を務める自分を、どうか見守っていてください、と。ティベリウスとマルケルスも、オクタヴィアヌスの無事を祈って目を閉じた。

 マルケルスはもちろん、ガイウス・オクタヴィウスの実の孫である。ティベリウスは、一族三代の魂の交流を邪魔したくなかったので、そのあとは独り屋敷の裏手に引っ込んだ。今夜はここに宿泊することになっていた。

 夕暮れ時で、冷え込みがいちだんと厳しくなってきた。庭の階段に落ち着くと、火鉢と灯火をトオンに持ってきてもらった。彼もまた従軍奴隷の一人として、若主人についてきていた。

 今では、ネロ家の奴隷たちはカエサル家のそれと混ざってしまったと言えるが、それでも買われて長いトオンなどは、ネロ家に仕える者であるという、ゆるぎない誇りを抱いていた。トオンに言わせれば、このたびの従軍で生粋のネロ家の奴隷は、自分一人だけだという。

 行軍の途中、なにを思っているのか、彼はしばしばうるんだ目でティベリウスを見つめてきた。

「おいたわしや、坊ちゃま…」

 それから先代主人の霊にぶつぶつと祈りを捧げるのだった。目障りだからやめろと、昨日ティベリウスは叱りつけたところだった。

 ローマを出発する前、従軍する若主人をめぐって、ネロ家の奴隷たちは大いにもめた。

 ――十歳で従軍など聞いたことがない。カエサルはいったいなにを考えているのか。家族と離し、不慣れな土地で、しかも周りで戦争がくり広げられる陣営内で生活させるなど、正気であるのか。カエサル家の巻き添えで、我らが坊ちゃまが病に伏すとか、万一捕虜にされるとか命の危険にさらされようものなら……ああ、どうしたらよいのだ!

 怒鳴りつける気も起きず、ただ苦りきった顔で奴隷たちをにらむティベリウスだったが、やがてプロレウスが彼らをなだめに入った。

「家のことはどうぞご心配なく。必ず、定期的にお手紙をくださいまし」

 そう言って、プロレウスは若主人の手を取った。至極冷静に見えたが、握る力は痛いほどだった。

 火鉢を置いたトオンはなにか言いたげにしていたが、ティベリウスは気づかないふりをした。それで彼は無言のまま、若主人の肩に毛布を掛けて、下がっていった。

 ティベリウスは神君カエサルの『内乱記』をめくった。ルビコン渡河からアレクサンドリア戦役に突入するまでの記録が、神君カエサル自らの筆で書かれてある。神君カエサルとポンペイウスの戦争はギリシアで行われた。もしこのたびの戦争もギリシアで行われるなら、大いに参考になるはずだった。もう何度も読み返しているが、この作品そのものへの理解も深まるに違いない。神君カエサルがブリンディジを出港するくだりから、ティベリウスは読み込んだ。

 庭の奥から大きな影が近づいてきたときには、ちょうどファルサロスの戦いが始まろうとしていた。

「やあ」

 影が声をかけてきた。顔を上げたティベリウスは、目をしばたたいた。穏やかな笑みを浮かべた男が、目の前に来た。

「君が従軍していると聞いて、驚いたよ。私を覚えているかな?」

 確かに、見覚えのある気がした。恰幅が良く、頭はほとんど白髪。軍服姿ではなく、長身にゆったりとトーガをまとっている。余裕に満ちた立ち姿だった。

「お父上の葬式以来だったね。元気そうでなによりだ」

 この人物がだれなのか、ついに思い当たったティベリウスはものすごい勢いで立ち上がった。裂けるほど剥いた自分の目が、信じられなかった。

「ドミティウス・カルヴィヌス殿!」

 屋敷じゅうの人間が飛び上がるほどの大声だった。カルヴィヌスがまずびっくりして、目を丸くした。

「ど、どうして、あなたが…!」

「まぁまぁ、落ち着きたまえ」

 彼は右手をかざしてなだめた。

 だがティベリウスが大興奮するのも無理はなかった。見上げるは、グネウス・ドミティウス・カルヴィヌス。ファルサロスの戦いで、アントニウスとともに神君カエサルの副将を務めた男である。いや、この人物は首席副将であったから、神君カエサルの信頼はアントニウスより厚かったのだ。勢い余って階段に落としてしまった『内乱記』にも書いてあるように、彼がファルサロスで布陣の中央を指揮したことは、ローマ人のだれもが知っている。ティベリウスたち子どもにとっては、もはや生きた伝説のような存在だ。

 だがティベリウスにとっては、さらに重要なかかわりのある人物だった。

「生前は、父がお世話になりました」

 かしこまるティベリウスを、カルヴィヌスはまぁまぁとさらに抑えた。

「私はなにも世話などしてないよ。だがこの私より早く逝ってしまうとは残念だった。彼は真面目で、一本気な男だった。私のように肩の力を抜いてのんびり過ごす時間が、もう少し与えられてもよかったのだが」

 カルヴィヌスは父ネロの直属の上官だった。ギリシアからアジアまで、父はこの人物の下で軍団を率いていた。そして彼の命令により、アレクサンドリアへ神君カエサルの救援に駆けつけたのである。

 ティベリウスはなにも言えなかった。カルヴィヌスはその肩を軽く叩いた。

「でも今は、天上で君の健やかな成長を喜んでいるだろうね」

 それから『内乱記』を拾い上げ、いたずらっぽい笑みを浮かべる。

「熱心な勉強ぶりも」

 差し出されたそれを受け取り、ティベリウスは顔を赤らめた。カルヴィヌスは階段に腰を下ろし、ティベリウスを横に招いた。それで堅苦しくもう一度座り、興奮と照れ臭さの醒めやらぬまま、口を開く。

「引退されたとうかがってました」

「そのつもりだったんだがね」

 カルヴィヌスの笑みが、苦笑になった。

「バイアエの温泉につかってのんびり余生を送る気でいたのだが、カエサルに頼まれてね。断りきれず、作戦参謀の一人として従軍することになった。もちろん、この年で戦うつもりはもうないが」

「すごい…」

 ティベリウスは目をきらめかせていた。

「あなたほどの方が加わってくださるなんて。カエサルもどれほど心強いでしょう。このたびの戦争も、勝利が確実に近づいたに違いありません!」

「おいおい、君、そんな大げさなことを言うものじゃないよ」

 カルヴィヌスは肩をすくめてみせた。

「この老いぼれが、なんの役に立つというのかね。今陣営では才気あふれる若者たちに挟まれて、身を小さくしているのだよ」

「ご謙遜を…」

「それに、私は将軍として幸運にも多くの勝利を経験したが、一方で同じくらい敗北も味わってるんだよ。はてさてこのたびはどっちに転ぶのやら。そんな私を引き入れるとは、カエサルも大博打に出たもんだね」

「そんな…」

 だが当人の言うことは間違ってはいなかった。ドミティウス・カルヴィヌスは、一筋縄ではいかない経歴の持ち主だった。

 護民官に当選し、その六年後には執政官に登りつめた。ところがこのとき、相当な賄賂をばらまいたらしく、翌年には市民集会で投石を受けて、首都から追放されたという。

 だが神君カエサルがルビコン川を越えると、彼は幕僚の一人に取り立てられた。アントニウスやデキムス・ブルートゥスなど若手ばかりだったカエサル陣営で、唯一最高司令官と同世代に属した。彼はまずアフリカへ派遣されるが、そこでヌミディア王ユバの猛攻を受け、軍は壊滅する。カルヴィヌスは生き延びたわずかな兵を連れ、本国に戻った。

 翌年、神君カエサルはポンペイウスと決着をつけるべくギリシアへ渡るが、ここで副将を任されたカルヴィヌスは、本隊とは別行動をとり、ポンペイウスの義父スキピオの進軍を阻む。父ネロもこの作戦に加わっていた。

 ファルサロスの戦いでは、左翼を任されたアントニウスの右で、中央を指揮した。勝利後はポンペイウスを追う神君カエサルに同行して、アジアまで来た。そこでポントス王ファルナケスの襲撃に遭い、アレクサンドリアまで進軍していた最高司令官に援軍を要請するが、入れ違いに当の上官からも同じ要請が届いた。エジプトの王位継承争いに巻き込まれていたからなのだが、カルヴィヌスは上官命令を優先し、父ネロに二個軍団を与えてアレクサンドリアへ送り出した。直後、彼の軍はファルナケス軍に潰敗する。しかし半年後、神君カエサルと父ネロがアンティオキアでまで戻ってきたときには、無事な姿で二人を迎えたのだった。

 ファルナケスを打倒した後、カルヴィヌスはそのままアジアの統治を任されたが、一年後には神君カエサルとともにアフリカで雪辱戦に挑んだ。タプソスで勝利を収め、最高司令官の凱旋式に参列し、栄光を分かち合った。

 神君カエサルが暗殺後、その仇討ちであるフィリッピの戦いには、参戦するつもりだった。もちろんアントニウスとオクタヴィアヌスの側で。

 ところがいざギリシアに船出してまもなく、海上を警戒していたドミティウス・アヘノバルブスから思わぬ襲撃を受けた。今ではアントニウスの第一の友人であるアヘノバルブスだが、このときは神君カエサル暗殺に加担した一人と目され、対立関係にあった。アヘノバルブスによりカルヴィヌスの艦隊は炎上させられ、多くの軍団兵が死んだ。これを知った人々はカルヴィヌスも海の藻屑と消えたと思ったが、五日後、ただ一隻ブリンディジの港に現れた船に、かの人の姿を見た。彼が危機一髪を脱したのはアフリカ、アジアに次いで、これで三度目。以来、カルヴィヌスは「不死身の人」と呼ばれるようになった。

 こうしてフィリッピへの参戦は逃したが、その後カルヴィヌスは二度目の執政官に就任し、翌年、反乱鎮圧にヒスパニアへ赴く。勝利し、ローマで自身初めての凱旋式を挙げる。ティベリウスも四頭立て馬車を御すこの将軍の勇姿を眺めた記憶がある。

 この最高の栄誉を機に、将軍カルヴィヌスは引退したと噂されていた。元老院でも積極的な活動をしなくなり、最近では首都ローマで見かけなくなったとささやかれていた。

 それでも、父ネロの葬式には参列してくれた。だがそのときのティベリウスは、父を失った衝撃とあわただしさで、彼とゆっくり話すどころではなかった。

 今ティベリウスの目の前にいるかつての将軍は、もう六十歳は越えているはずだ。ローマでは老年とされ、軍人として引退してもだれも文句は言わない。

 だが、今彼はここにいる。当代ローマで、彼ほど戦の場数を踏んだ将軍はいない。アグリッパがアントニウスに劣るものがあるとしたらそれは経験だが、カルヴィヌスの存在がそれを補ってくれることは疑いなかった。

 ティベリウスはうれしかった。神君カエサルがアントニウスより信をおいていた将軍が、父ネロと深い縁のある人物が、オクタヴィアヌスの味方になってくれたことが。ローマ全体がオクタヴィアヌス派とアントニウス派に真っ二つに分かれる情勢のなか、彼がどちらの側についてもおかしくはなかったのだ。

 その喜びと期待を、ティベリウスは懸命に伝えようとした。しかしカルヴィヌスは笑って首を振るばかりだった。

「私はたいして役に立たないし、役に立つ必要もないよ。だいたい私とあの自称ヘラクレス・ディオニッソスくんに、どれほどの違いがあるというのかね? 戦経験か? シリアやガリアでの活躍を考慮すれば、彼のほうが多いよ。ギリシアでの経験なら、互角。いや、このごろをアテネ近郊で過ごした彼のほうが、詳しいだろう。兵たちの心をつかむ人望も、勝利の女神からの愛され度合いも、彼のほうが優っているよ」

 ティベリウスは困ってしまった。

「アントニウスはパルティアで負けました」

「うん。私が何回負けたことがあるか、知っているかい?」

「あなたはヒスパニアで勝利し、凱旋式を挙行されました」

「彼だって挙げたよ、エジプトでだけど」

「あんなの、凱旋式じゃありません」

「それでもとりあえずパルティアとアルメニアの共闘を防いだことは確かだよ。国家統治上、これはなかなか重要なことだ」

「神君カエサルはあなたを首席副将に、アントニウスを次席にしました」

「年の功だったのかもしれない。もしくは彼がちょっとばかり酒酔いが過ぎて、いつも素面だったあの方を心配させたのかもしれない」

 ティベリウスは膝の上の『内乱記』をぎゅっと握った。

「神君カエサルは、年の功とかいう理由で部下を選びますか? そんな人じゃないと思います。きっとそんなことに関係なく、カルヴィヌス殿の才能を見込んだのだと思います」

「どうかな。自分の考えをほいほいしゃべる方ではなかったから。だが独裁官補佐に任命されたのは、愛すべきヘラクレスくんのほうが先だったね」

 ティベリウスは頭を抱えたくなった。

「カルヴィヌス殿は、アントニウスのほうが優勢だとおっしゃるのですか?」

「そうは言っていない。ただ事実と可能性を客観的に述べたまでだよ」

 カルヴィヌスはにやにや笑っていた。ティベリウスはからかわれている気がしてきた。

「そんなに心配しなくていい。この命根性だけが自慢の私が、わざわざ負けそうなほうについてくると思うかね? 伊達に修羅場はくぐっていないつもりだ」

 彼はティベリウスの肩を叩いた。

「それでも万一敗北の憂き目を見そうになったら、私にしがみつくといい。知ってるかい? すでにここの陣営では、命が惜しければカルヴィヌスから離れるなという文句が流行してるんだ」

 ティベリウスはうめくしかなかった。カルヴィヌスはからからと笑った。

「しかし私としても、運試しは二度と御免だ。そんなことはしなくていいと思うから来たんだよ。私など当てにしなくても、君の継父と未来の義父は最強だ。なにしろお二人こそ、あの方が認めた才能の持ち主なのだから」

 飄然と語るカルヴィヌスだが、「あの方」という言葉にだけは深い敬意がこもっているように感じた。

 そういえば、父ネロは、同じ人物を「あの男」と呼んでいた。

 ティベリウスには、聞きたいことがいっぱいあった。

 だがそれを整理できないでいるうちに、カルヴィヌスのほうから質問をふってきた。

「きみはなんでそれを読んでいたのかね?」

 カルヴィヌスは『内乱記』を指した。不意を突かれ、ティベリウスは一瞬戸惑った。

「ぼくは…なにか役に立つに違いないと思ったからです」

「ほう」

 カルヴィヌスの胸がふくらんだ。

「これは頼もしいな。よかったら私の代わりに総司令部に顔を出してくれないかね。もう若い連中ばかりで、気が滅入るんだ。もしかしたら君のほうが、私より有益な助言ができるかもしれない」

「そうじゃなくて!」

 ティベリウスはつい苛々と首を振った。完全にからかわれていた。

「ぼくの役に立つに違いないと言ってるんです。今のぼくなんかがカエサルたちの役に立つだなんて、そんなおこがましいこと考えていません。ぼくはただ知っておきたいんです。このたびの戦争は、神君カエサルが見たものを見る絶好の機会です。彼がどのように考え、なにを成したのか、もっとわかるかもしれない。無駄になんてできません。少しでも経験にするんです。そして将来、カエサルと国家に貢献できる優れた将軍になるんです。そのためです」

「…驚いたねぇ」

 必死にまくし立てるティベリウスを、カルヴィヌスはなにか不思議なものを見るように注視していた。

「君のその生真面目さはお父上そっくりだ。でも言っている内容は、とてもお父上からは考えられない」

 ティベリウスの息が止まった。胸に杭を打ち込まれた感じがした。

 カルヴィヌスにもうからかいの色はなくなっていた。初めて見せる真摯なまなざしで、ティベリウスを捉えていた。

「あの方を理解したい。君はそう思っているんだね」

「坊ちゃま」

 そこへトオンが戻ってきた。

「夕食のお時間ですが」

 そこでぽかんと立ちつくした。若主人がとんでもない大物と二人きりでいた。

「あとにして」

 ティベリウスはうわの空で言った。

「それはいけない」

 カルヴィヌスが立ち上がった。

「規則正しい生活は健康の秘訣だよ。旅のあいだだからといって、習慣を曲げるべきじゃない。召し上がっておいで」

「でも、ぼくは――」

「私も一杯やる時間だ。体に良いと評判の、ソレントの葡萄酒でも飲んでみるか」

 元の飄然とした感じに戻っていた。屋敷の中へ歩き出した背中に、ティベリウスはあわてて声をかけた。

「カルヴィヌス殿! よろしければぼくにもっと教えてくださいませんか? このたびの戦争のこと、神君カエサルのこと、それから父ネロのことも!」

 カルヴィヌスは足を止めた。振り返り、にやりと笑みを浮かべた。

「そうだな。総司令部で窮屈な思いをしているよりは、君と話をするほうが面白そうだ。私でよければまたお相手願おう、ネロ」





 食堂へ向かう前に、ティベリウスはマルケルスを探して屋敷内をまわった。

 彼は南側の一室にいた。半開きの扉から覗くと、オクタヴィアヌスと二人、質素なその部屋に花を飾っているところだった。

「私の父は、この部屋から神々の下へ旅立ったんだよ。残念ながら、私たち家族は臨終に間に合わなかった」

「お祖父様…」

 扉に背を向け、二人は並んで立ちつくした。ガイウス・オクタヴィウスが永遠の眠りについたのであろう寝台の横に。

 オクタヴィアヌスの手が、マルケルスの肩に置かれた。

「できることなら私は、お前や家族に看取られて穏やかに逝きたいものだ」

 その背中が言った。

 ティベリウスは立ち去った。





「あにうえぇ~」

 背後で、ぐすぐす音がした。きんきんに冷えた暗闇の中を、なにかがもぞもぞ動いていた。

 毛布の中に、冷気が侵入する。しかしすぐにやけにあたたかく、しめった、せわしない塊に替わる。

 それはのしかかり、ところ構わずぺたぺたと叩いてきた。

「ごめんなさいぃ~~」

 寝たふりをしていたティベリウスは、くるりと向き直って弟を抱きしめ、心をこめた接吻で寝かしつけた。





 ノーラを出発してから、騎乗姿のティベリウスは以前より見られなくなった。我慢も遠慮もせず、ドミティウス・カルヴィヌスの馬車に乗り込んでいたためである。

「アントニウスは、どのような戦略を展開しているのですか?」

 ティベリウスは隣の老将に、ローマ本土とギリシアの地図を広げて寄った。

「彼の本営はここだ」

 カルヴィヌスはコリント湾口南岸の都市、パトラスを指した。

「聞くところによると、彼は『本営』ではなく、『王宮殿』と呼んでいるらしいがね」

 嘆かわしいねぇ、と楽しげにつぶやきながら、カルヴィヌスは指先をギリシア西海岸に向けた。地図上を北から南へなぞりながら、アントニウス軍の基地を示していく。最北がコルフ島で、ブリンディジからは海路一日足らずの距離にある。次にアンブラキア湾口の、アクティウムと呼ばれる地域。それからレウカス島、ザキュンドス島、ペロポネソス半島に入ってメトネ岬、タイナロン岬、そして海を渡ってクレタ島、最後にアフリカに着いて、キレナイカのキュレネとくる」

 カルヴィヌスは横の子どもを見た。

「これを見て、どう思うね?」

「アントニウスは、イオニア海より先になん人たりとも通すまいとしているように見えます」

「そのとおり」カルヴィヌスはうなずいた。「これで東方からの豊かな補給路を確保できるし、ギリシアの守備は隙なしだ。上陸には骨を折るだろう。しかし逆に言えば、アントニウスは本土に渡ってくる気はないように見えないかね?」

 ティベリウスは丸い目で老将を見上げた。

「だから、戦争はギリシアで行われる見通しなのですね?」

「まぁね。航海が厳しい冬だからとも考えられるが、ターラントとブリンディジのほかに、彼らの大艦隊が上陸できるほどの港は、本土の東岸にないからね。どちらにもすでに、カエサルの軍団が集結してしまっているし、アントニウスとしても自分の領土を鉄壁にするが得策と考えているのだろう」

「陸路を通ってくる可能性はないのですか?」

 ティベリウスは指先をコルフ島から北へ動かした。

「マケドニアからイリリアに入って、北からローマへ来ることは?」

「おっと。そうなったら完全に我々は出し抜かれたことになるぞ」

 カルヴィヌスはのけぞってみせた。

「だが今のところそれはなさそうだよ。見てのとおり、アントニウスは艦隊を中心に戦略を展開してる。だからあえてイリリアの山道を進もうとはしないだろうよ。あそこは寒さ身にしみるうえに、まだ山賊どもがうろついている。そのうえ骨を折って本土まで歩いてきたところで、味方が増える見通しはないしね。女王陛下にぬかずきたいローマ市民はだれもいないから」

「あ…」

 ティベリウスは地図からは窺えない条件を考えていなかった。カルヴィヌスは苦笑をもらした。

「残念ながら、ここにかの女人の影がちらつくね。女王はエジプトの富を満載した船から離れて歩く気にはなれないだろうよ」

「じゃあ、やっぱり海を渡って戦うしかないんですね」

「うん。もっとも、夏になれば、もしかしたら陸路を通ろうという気も起こすかもしれないが、女王陛下のご意向次第かねぇ。というわけで、今のところはイオニア海を挟んでにらみ合いというわけだ」

「春になったら、カエサルはなんとかしてこの防衛線を破って、ギリシアに渡らなきゃいけない」

 ティベリウスは指先で力強くギリシア西海岸をなぞった。やはり心情的に、アントニウスと大艦隊にはローマ本土に上陸してきてほしくなかった。あたたかくなって彼が陸路を検討し出す前に、彼の軍と対峙しなければ。

 そんな真剣なティベリウスに、カルヴィヌスはにやにや笑いかけてきた。

「ところが最近、カエサルはアントニウスに手紙を書いたそうだよ。『親愛なるアントニウス。どうか時間を無駄にするな。艦隊に港を提供してやるから、早くこちらに来てくれ。君がイタリアに上陸するあいだ、私は馬一日行程分下がって待っていよう』」

「なんですって!」

 腰を浮かしたティベリウスの反応に、カルヴィヌスは満足したようだ。笑いながら、両手をぱたぱたさせてなだめた。

「落ち着きたまえ。これは単なる挑発だ。ちなみにアントニウスの返事は『かつてのカエサルとポンペイウスのように、ファルサロスの野で決着をつけようではないか』だったとか」

「ファルサロス…」

 ティベリウスは座席にもう一度腰を下ろした。戦場がギリシアになる見通しならば、それもありうるのか。

「あと、こうも書いてきた。『もしくは我々だけで決闘しよう。私のほうが年上だが、気にはしない。私と君で、一騎打ちだ』」

「そんなのだめです!」

 あまりの大声に馬が驚き、御者があわてた。馬車は跳ね上がって止まった。

「そんなの、絶対にだめ!」

「いったいどうしたんだ?」

 横に騎乗姿のメッサラが現れた。

「これは執政官殿」

 腰を押さえながら、カルヴィヌスが挨拶した。メッサラはそれに片手を上げて応じた。

「どうぞおかまいなく、カルヴィヌス殿。ところでティベリウス、どうしたんだね?」

 ティベリウスはまだ落ち着いていなかった。頭を抱えて座席にうずくまり、ぶつぶつ言い続けた。

「だめです…。カエサルが一騎打ちなんて絶対だめ…。あってはならない…、させちゃいけない…、アントニウスが年上だろうが年下だろうが、どこのだれとだろうが、カエサルに一騎打ちなんてさせちゃだめ…。ぼくが、なんとしても止める…!」

「なんだって?」

 メッサラは目をぱちくりさせていた。

「ちょっと冗談がきつすぎたらしい。いや、私は事実を教えたにすぎないのだがね」

 腰をさすりながら、カルヴィヌスは弁解した。メッサラは気の毒そうにティベリウスを見た。

「あまりからかわないであげてください。この子は一日も早くカエサルを助ける男になりたいと、必死なのですよ」

 アッピア街道に戻り、ひたすら南進する。ブリンディジより前に、オクタヴィアヌスはターラントの港にも寄るつもりでいた。待機している艦隊を激励するのである。

 ティベリウスは懲りなかった。相変わらずカルヴィヌスの下へ通い続けた。

「アントニウスの戦力はどのくらいなのですか?」

 これにカルヴィヌスは、歩兵十万、騎兵一万二千と答えた。

 途方もない数のようだが、ティベリウスには今ひとつ実感が持てなかった。参考に思い浮かべたのは、ファルサロスの戦いだ。歩兵がポンペイウス軍四万七千、カエサル軍二万千。騎兵はそれぞれ七千と一千。

 カルヴィヌスは苦笑を見せた。

「アントニウスは大軍を率いるのが好きらしいね。フィリッピの戦いや、パルティア遠征のときも十万を越えていたっけね」

 そしてこのたびは十万の歩兵のうち、ローマ軍団兵は六万五千ほどで、残りは東方諸国からの援軍だと教えた。騎兵に至っては、ほとんどすべて諸王侯の提供になり、その諸王侯とは、マウリタニア、上キリキア、カッパドキア、ハブラコニア、コマゲネ、トラキア、ポントス、アラビア、ユダヤ、ルカオニアとガラティア、それにメディアだと話した。このほかにもクレタ島が自慢の弓兵を送り出し、ギリシア諸都市も人手や物資を与えているという。

 彼はティベリウスの顔を覗き込んだ。

「どうだい? 恐ろしくなってきたかい?」

「いいえ」

 言葉だけの東方連合軍十一万二千を、恐れてなるものかと思った。それで、敵がいかに大規模かよりも気になることを尋ねた。

「それだけ多勢の混成軍をまとめあげるのは大変ではないですか?アントニウスはそれだけ優れた器量の持ち主なのですか?」

「それはこの戦が終わってみないとわからない」

 カルヴィヌスは小さく肩をすくめた。

「人に好かれる男であることは確かだがね。だが重要なのは、王侯連中というのは、いつでも強いほうに味方するということだ。結果的に、それが年じゅう王権争いで忙しい自国と自分の地位を、外から保障してくれると考えているから。アントニウスが世界一の国の世界一の将軍だと見えているかぎり、彼らはほどほどに献身するよ」

 かつてカルヴィヌスは、神君カエサルとポンペイウスの形勢に応じて、まことしたたかに振る舞う東方諸国を見てきた。これは彼の実感なのだろう。

「おっと、我らがエジプトを忘れてはいけなかった。今回の戦費は、その地中海一の金持ち国が出してくれてるんだった。まぁ、自国の世界征服とやらとためだから、当然かねぇ」

 また茶化す感じに戻りつつ、カルヴィヌスは海上の戦力に話を移した。アントニウスの艦隊は軍船五百隻で、内二百隻がエジプト船だという。これにさらに補給船三百隻が従う。

「ちなみに君、船一隻に漕ぎ手が何人乗るか、知っているかね?」

 ティベリウスは首を振った。

「五段櫂船ならだいたい三百人だ。これが主力のアントニウス艦隊は、七万の漕ぎ手をそろえているらしい」

「七万ですか? 純戦力の十一万に、さらに七万?」

 ティベリウスはあっけにとられた。それから計算した。

「…それでもまだ全然足りないのではないですか? 五百隻の半分も動かせません」

「もちろん、全部が全部五段櫂船ではない。より小回りの利く三段櫂船や、連絡用の小型船もある。だが女王陛下その人が乗る旗艦は、なんと十段櫂船らしいよ」

「じゅ…!」

 五段櫂船なら、五人の漕ぎ手が三層に分かれて漕ぐ。それが十段櫂船ならばどういうことになるのか。ティベリウスには想像もできなかった。

「とてつもなく大きくて、豪華な船なんだろうね。城が丸ごと動いているのかもしれない。その名をアントニア号と言うらしいよ」

「ア……?」

 つまりはアントニウス号で、船が女性名詞だからそういうことになる。だがこのときティベリウスの頭に浮かんだのは、青き地中海をのしのしと這う、巨大な妹アントニアの姿だった。

「……」

 ティベリウスはうつむいた。

「どうした?」

 カルヴィヌスが不思議そうに見つめてきた。ティベリウスは腕で顔の下半分を隠した。

「ごめんなさい」

 耐えられなくなった。

「また来ます、ごめんなさい、今日も本当に、ありがとうございました!」

 そう言うとティベリウスは馬車から飛び下り、やみくもに野原へ駆けていった。しかし結局こらえきれずに体を折った。

 翌日は、マルケルスも一緒だった。なんでもっと早く教えてくれなかったのかと怒った彼だったが、アントニア号の話で機嫌を直してくれた。二人は休憩地になった村の片隅で、カルヴィヌスを捕まえた。

「どでっかいアントニア――じゃなくて女王の旗艦は、今どこにいるのですか?」

 カルヴィヌスを見つめるマルケルスは、目だけでなく全身をきらきら輝かせているように見えた。彼もまた、ファスサロス副将の従軍に、喜びと興奮を隠せないのだ。

「アンブラキア湾の内だ」

 カルヴィヌスは快く答えた。

「アントニウスと女王はパトラスにいるらしいが、いつでも行き来できる距離だよ。彼らはこの冬、艦隊の大半をそこに収容し終えたらしい。なかなか賢明な策だと思うよ。あそこの湾口は狭すぎて、こちらからは手の出しようがない」

 マルケルスはとたんに顔を曇らせた。

「敵が有利ということですか?」

「冬いっぱいギリシアを好き放題に動きまわれるのだから、有利な場所を選ばないほうがおかしい」

 カルヴィヌスは沈着に答えた。

「もちろん、湾内に五百隻と十八万人のすべてがいるわけじゃない。西海岸のあちこちの基地に散らばって、こちらの渡航を警戒しているよ」

「それにしても、十八万だなんてものすごい数だ」

 ティベリウスが言った。

「それだけの人間を、どうやって維持しているのですか?」

「うーん」

 カルヴィヌスはなにやら含み笑いをした。

「大変だろうが、それもこれもエジプトをはじめ、東方諸国のうなる富がなせる業だろうね。だが、居座られているギリシア人も、たいがい迷惑だろうねぇ。だいぶ強引に、漕ぎ手や補給物資を提供させられているとも聞いた」

「ぼくたちは、そんな大軍と戦おうとしているんですね。十八万人に、五段櫂船や十段櫂船の巨大艦隊と…」

 マルケルスの顔が、ますます暗くなった。妹と同じ名前の大型旗艦。それが実は恐るべき敵であるという認識に改めたようだ。

 ティベリウスは尋ねた。

「カエサルの戦力はどうなのです?」

 カルヴィヌスはこれに、漕ぎ手を含めず、総勢九万二千と答えた。内ローマ軍団兵が八万、騎兵が敵と同じく一万二千。艦隊は軍船が四百隻で、数は相手方にやや劣るものの、諸王侯を当てにせず、ローマだけで作りあげたのだから、たいしたものだと述べた。

 それから彼は、いちだんと笑みを大きくした。

「女王陛下に対抗して、こちらもオクタヴィア号十段櫂船でいくかと思いきや、ほとんど全部三段櫂船。旗艦の数隻だけが五段櫂船だよ」

「ええっ!」

 ティベリウスとマルケルスは同時に声を上げた。

「アグリッパはなぜ大型船を用意しないのですか?」

「それでは敵の船に押されて、沈められてしまうのではないですか?」

「うんうん、確かに、私もまだ見たことはないが、噂の十段櫂船に三段櫂船でまともに挑んだら、爽快なほど木端微塵に蹴散らされるだろうねぇ」

「笑いごとじゃありません」

 マルケルスは怒っていた。

「春までまだ時間はあります。どうして船を大きくしないんです?」

「三段櫂船にだって、利点はあるんだよ。小回りが利くとか、漕ぎ手が少なくて済むとか、作るのに時間がかからないとかね。あとは総司令官の力量次第だ」

 にやにや笑うカルヴィヌスに、ティベリウスとマルケルスは顔を見合わせるばかりだった。





 ターラントからは、ブリンディジまであと一日行程である。平坦な街並みがかすかに盛り上がった場所に、オクタヴィアヌスと司令部一同が宿泊する屋敷があった。そこからは港がよく見えた。

「さっき君の義理の従兄弟が来ていた」

 カルヴィヌスは窓辺から、夕焼けに染まるターラント港を眺めていた。後ろから近づいてきたティベリウスを確認もしなかった。

 ティベリウスは目をしばたたいた。この街に入ったとき、マルケルスはオクタヴィアヌスと輿に乗っていた。

 カルヴィヌスと並んで、外の景色を見た。冬の澄んだ空気の中で、湾内に夕日の赤がくっきりと映えていた。油いっぱいの鍋に火を放ったかのような眺めに、ティベリウスはかすかに顔をしかめたが、それでもぎっしりと停泊する艦隊の様子は確認した。カルヴィヌスが言っていたとおり、三段櫂船ばかりのようだ。

「私はどうも彼を不安にさせてしまったらしい。君にも言ったが、私は我らが総司令官二人は最強だと話してあげた。このドミティウス・カルヴィヌスはわざわざ勝つ見通しのない側にはつかないとも教えた。だが彼はまだ心配していた。あそこで居並ぶ三段櫂船が、それをさらにあおったらしい。私に敵大型艦隊への適切な対応策を作戦会議で進言してほしいとまで言ってきた」

 ティベリウスはまた驚いた。マルケルスがそこまで大胆に迫るとは思わなかった。

「彼は感受性の強い子だ。もっとも、あの年ごろの子どもならあれくらいが普通で、君みたいなのが珍妙なんだろうが」

 それはどういう意味かといささか憮然としたが、ティベリウスは当面の問題を優先した。

「マルケルスに話してやってくださいませんか。アントニウスとカエサル、それにアグリッパ、優れた将軍はどちらか」

「うーん」

 カルヴィヌスは振り返り、窓の手すりにもたれた。例の飄然とした笑みが、少し困っているようだった。

「ちょっとカエサルは置くとして、アントニウスと君の未来の義父のどちらが優れているかなんて、私にはわからない。そんなことは戦争が終わってみるまでわからんよ。だが嘘でも名言するとして、それが上手くいくとは思えない。私には、彼が君ほどにはあの事実上の総大将殿を信用していないように見える」

「アグリッパのことですか」

 ティベリウスは考え込んだ。言われてみれば、これまでマルケルスとアグリッパが二人だけで話しているところを見たことがなかった。たぶん、ただ機会がないだけだと思うが。

「ほうっておいたら、この先ますます不安定になりかねないよ。本土にいるうちは大丈夫だろうが、ギリシアに渡って、そのうえ戦が長引いたらどうなるか。君でさえ辛くなるはずだ。だから君から言って、安心させてあげるのがいいんじゃないかね?」

 そうしてあげたいのは山々ではあったが、自分にだって戦の行方などわかるはずがないと思った。

「ぼくはアントニウスを知りません。だからアントニウスの継子だったマルケルスに、なにかを言える立場ではありません」

「そんなことはない」

 カルヴィヌスは首を振った。

「勉強熱心な君は、すでに将軍アントニウスの戦歴を知っている。人間アントニウスについても、そこらじゅうのローマ市民が語ってくれる」

「それはマルケルスだって知っています。そのうえ彼は、継父だったときのアントニウスを知っています。マルケルスは彼がとても優しい人だったと言います。強くて、たくましくて、豪快で、憧れの人だったと」

「なるほど。そういえば君の家はこの内乱の縮図みたいなところだったね…」

 カルヴィヌスは小さくため息をついたように見えた。それから窓辺を離れ、ティベリウスの横を通り抜けると、長椅子に身を沈めた。

「でも彼が見たのは、私人アントニウスだろう。将軍アントニウスのことは、彼だって世間の評判以上に知らないはずだ。もちろん、将軍としての指揮ぶりには、その男の人間性が表れるわけだが」

「ならば、やはりカルヴィヌス殿が教えてあげてください。あなたは将軍アントニウスを間近で見た人です」

「私が彼を嘘でもこき下ろしたところで、その他大勢のお追従者どもの仲間入りをするだけで終わってしまうと思うよ。『カエサルならばアントニウスなどひとひねり』とかね。彼だって、そんなの喜ばないはずだ」

 ティベリウスは押し黙った。カルヴィヌスと言うとおりだと思ったからだ。

 マルケルスの究極の望みは、叔父と継父が刃を交えないことにほかならない。

 カルヴィヌスは奴隷を呼んで、なに事かささやいた。葡萄酒でも持ってくるように言ったのだろう。彼は向かいの椅子に座るようティベリウスに身振りし、自分は横たわった。

「嘘でもこき下ろしたところで、とおっしゃいました」

 腰を下ろすと、ティベリウスは口を開いた。

「カルヴィヌス殿は、アントニウスが有能な将軍だとお考えなのですか?」

「君はどう思うね?」

 カルヴィヌスは逆に質問してきた。

 ティベリスは眉根を寄せた。

「ぼくは……」

 そのまま、言葉を詰まらせてしまった。

 奴隷が、盆に杯を二つ載せてやってきた。カルヴィヌスはそのうち一方を受け取り、もう一方をティベリウスに持たせた。

「君の分だ」

 カルヴィヌスはにやりと笑った。ティベリウスは手元に不審いっぱいの目を向けた。葡萄酒は成人前の子どもが飲むものではない。

「ただのシトロン水だよ。大丈夫」

 見たところ、二つの杯に入った飲み物は同じ色をしていた。ティベリウスはおもむろに盃を持ち上げ、舌先で液体の表面をなめた。甘酸っぱい、馴染みの味がした。

 カルヴィヌスは軽く声を上げて笑った。

「君は慎重で、何事も自分の目で見ないことには信じきれないのかもしれないが、情報だけで対象を判断しなければならないときも、世の中には多いんだ。もちろん、その情報が正確かどうかがなにより重要となるわけだが」

 カルヴィヌスは杯を口に運んだ。ちょっと酸っぱいねぇ、と顔をしかめてから、先を続けた。

「私は君にアントニウスの軍事基地を教えた。戦力規模も、戦略予測も述べた。最も基本的なことだが、これはなかなかできることじゃないんだよ」

「感謝しています。ぼくのような子どもに、つき合ってくださって」

「違う。そういう意味じゃない」

 彼は杯を振った。

「私が言いたいのは、敵の情報を正確に知りえたならば、それだけですでに有利だということだ。もし君がこちら側じゃなく、アントニウスの陣営にいて同じことを聞いてまわったら、果たしてまともに答えられる人間がいるかどうか、怪しいね」

 カルヴィヌスが重要な点に触れたことに、ティベリウスも気づきはした。しかしこのときは、別のことで胸がどくんと鳴った。

 ――もし君がこちら側じゃなく、アントニウスの陣営にいて――

「それでも、実際に目で見るに優るものはないでしょう?」

「どうかな」

 振りきるように指摘するティベリウスに、カルヴィヌスは淡々と応じた。一瞬の変化には、気づかなかったかのようだった。

「自分の目だって、当てになるとはかぎらないんだ。ときにはこの目で見たものを見誤ることだってある。確かなものなんてないんだよ。それでも必要な情報を選別し、確かなものがどれか判断を下さなければならないところが、将軍の責任のうちで最も重いところだ」

 杯越しに、カルヴィヌスはじっとティベリウスを見つめてきた。

「優れた将軍を目指すなら、気をつけたまえ。これは勉学を積んだだけでどうなるものでもない。おのれを信じ、かつおのれの目を律しなければならない」

 ティベリウスは父ネロの言葉を思い出した。

 ――正しい決断を下せるまで、学び、考えよ。

 そして――

「『人は見たいと思うものを、現実と思う』」

 無意識に口にしていた。

「あの方の言葉だね」

 深い笑みとともに、カルヴィヌスはゆっくりとうなずいた。

「あの方くらいだよ。そんな人間の性向から自由でいられたのは」

 カルヴィヌスは目線を窓の外に向けた。まるでその夕焼けの向こうに、ありし昔の情景が映っているかのように。

 カルヴィヌスはぐっと杯を干した。それからそれを脇へぐいと退け、目をティベリウスに据える。

「さあ、質問に戻ろう。君自身はアントニウスをどう思うんだい?」

 ティベリウスは手元の杯をにらんだ。それでもなお、アントニウス本人に会ったことがない以上、なんであれ判断をしたくないと思った。けれども、自分の意見を持たない人間は学ぶことができないし、生きていることにもならないと思った。

「あなたもおっしゃっていましたが、彼の人望はすごいと思います。こんなことになっても彼のところにい続ける大勢のローマ人を見てわかります。マルケルスたちを見ていてわかります。でもぼくは、彼が情けなく思います。彼にはローマ人の誇りがないのでしょうか」

「彼はきっと、ローマ人である前に一人の男なのだろうね。あらがいようもなく」

「彼よりもカエサルやアグリッパのほうが、ローマのことを考えているし、物事をよく見て、慎重に行動していると思います」

「うん。それは彼の苦手分野だからねぇ」

「父は彼が無分別だと言っていました。ぼくもそう思います」

「そういえば、君の父上はよく彼を叱りつけていたね。『だらしない。君には自制心というものがないのか。まるで意志薄弱の権化だ』とか」

「えっ――」

「それで口論する二人を、あの方は笑いながら眺めていたものだ。『石頭とふにゃ頭の対決だ』とか言って」

 ティベリウスは口をあんぐり開けた。眼前に突然、かつて思いもしなかった光景が姿を現わした。空想であるのに、それは圧倒するほど生き生きとしている。

 卓に頬杖をついて、苦虫を噛み潰したような顔をしている父ネロ。その向こう側から足を載せ、のんきそうに椅子にもたれているアントニウス。二人のあいだで、最高司令官の椅子に腰かけた神君カエサルが、いかにも愉快げに笑っている。その横に控えるはカルヴィヌス、そして若き幕僚たち。そんなはずはないのに、デキムス・ブルートゥスまでいる。石頭とふにゃ頭の喧嘩を微笑ましげに眺めている。

 どうしてこんな光景が浮かぶのだろう。

 ティベリウスはずいぶん長いこと固まっていた。カルヴィヌスも口をつぐみ、その様子をしげしげと観察していた。

「なるほど」彼は言った。「君が本当に聞きたかったのは、こういう話だったのか」

「ティベリウス、どこ?」

 よくとおる無邪気な声が聞こえて、ティベリウスは我に返った。部屋には強烈な西日が差し込んでいて、ぎゅっと目を閉じた。

「ティベリウス?」

「マルケルス」

 彼は立ち上がった。まるで本当に葡萄酒を飲んでしまったかのように、足元がおぼつかない。

「ここだよ」

 開け放しの扉の前まで行くと、マルケルスがひょこっと現れた。不安の色は見えず、ティベリウスを見つけてうれしそうだった。

 ティベリウスはカルヴィヌスに礼を述べて去った。

 その夜は、久々に炎に迫られる例の夢を見た。





 イタリアという足の踵を、内側から外側へ横切る。そうすればターラントからブリンディジへは一日で着くが、オクタヴィアヌスは途中のオリアの街で、もう一泊することにした。強いて夜まで行軍を続けたくはなかったのだろう。

 イタリア最南端まで来たので、寒さはだいぶやわらいでいた。 

「君の根気には降参だ」

 その夜、カルヴィヌスは天井を仰いだ。

 現れたティベリウスは、無言で臥台のそばへ寄った。晩餐がお開きになったあとで、カルヴィヌスだけがまだその上に伏していた。ティベリウスにはとても都合が良かった。

 カルヴィヌスの眼差しはぼんやりとしていた。

「今夜はなにを聞きたいんだね? アントニウスをやっつける、最高の戦略かい?」

 やはり自分は執拗な男なのだろうか、テオドルス先生に言われたように。そんなことを考えながら、ティベリウスは別のことを口にした。

「今日は、神君カエサルのお話が聞きたくて来ました」

「私にあの方を語れというのかね」

 カルヴィヌスは銀の杯を干した。最後の一杯のつもりだろう。

「悪いが、それはできそうにないよ。私があの方のなにを伝えられるだろう。なにより君がこのあいだ読んでいたあれや、ガリアでの作品があの方を的確に表している。それ以上のものなんてないよ」

 ティベリウスは唇を引き結んだ。

 父ネロは、少しだけ「あの男」のことを語っていた。カティリーナ裁判のときの神君カエサルの弁論を、自分の口からではあるが、伝えてくれた。そして、どう思ったかを話してくれた。

 カルヴィヌスの言うとおりなのだろう。だがティベリウスは、彼の目から見たユリウス・カエサルが知りたかった。それで、訊いてみた。

「神君カエサルは、このたびの戦争をどのように思われるでしょうか?」

「嘆くだろうね」

 意外にも、カルヴィヌスはすぐに言った。それから臥台の横を叩き、座るように勧めた。ティベリウスはちょこんと乗っかった。

「こんなことは絶対に望んでいなかったよ、あの人は。でもだからといって、自分の成してきたことをなに一つ後悔などしないだろうがね。暗殺当日ポンペイウス劇場に行ったことも、姉の孫を後継者に指名したことも、もちろんあの女王とのめくるめく情愛も」

 最後のほうで、カルヴィヌスはいたずらっぽい笑みを浮かべて子どもを見た。 またからかわれる気配を察したティベリウスは、ふいっと目を逸らした。カルヴィヌスはくすくす声を漏らした。

「君の父上もそんな顔をしていた。まぁ、そうだよねぇ。異国の女王と仲睦まじく暮らした挙句子どもさえ作らなければ、今こんな事態にはならなかった。おかげで女王は世界征服の野心をたぎらす大魔女になってしまった。だが、もし女王とあの方の関係がなかったとして、果たして事態は変わっていただろうか。アントニウスが十八歳の少年カエサルに納得しただろうかねぇ?」

 ティベリウスは首を戻した。まばたきもせずにカルヴィヌスを見つめる。

 カルヴィヌスは、無表情でこう言っただけだった。

「君の継父の並外れたすごさは、十三年も待ったことにある」

 待った、とは、つまりどういうことなのか――。

 腰のあたりから、氷塊が背骨を這っていくような感覚がした。それは肩甲骨のあいだで分解し、肋骨一本一本を伝って全身に染み込んでいく。

 十三年。

 しだいに血の気が引いていく顔。灯火に淡く照らされた部屋で、カルヴィヌスには見えただろうか。彼はさっと体を反転させ、仰向けになって天井に顔を向けた。それから大きく、じっくり伸びをした。

「ま、だから今の事態の責めを負うべきは、今や亡き暗殺者一同ということじゃないかね。まったく惜しい方を亡くしたよ」

 その軽々とした言い方は、いかにもわざとらしかった。だがティベリウスは誘われるがまま、半ば自覚しながら気を逸らした。訊くまでもない質問まで口にしていた。

「あなたにとって、神君カエサルこそ最高の将軍ですか?」

「アレクサンドロス大王、ハンニバル、スキピオ・アフリカヌス。私があの方を彼らと同等以上の、世界最高位の名将だと言うのは簡単だ。だが本当は将軍という枠で見ていては、あの方の偉大さのほんの一部しか理解できないのだろうね」

 カルヴィヌスは空の杯を灯火に掲げ、とろんとした目でつくづくと眺めていた。ティベリウスは微動だにせず、そのもの物悲しげな姿を見守っていた。

「君のために、将軍として少しだけ語らせてもらえば…」

 杯の模様を眺めながら、カルヴィヌスは言葉をつないできた。

「あの方には魔力があった。あの方の指揮下に入る者は皆、最高の士気で戦った。我々将軍から一兵卒に至るまで、例外なく。変な言い方かもしれないが、我々はあの瞬間以上に幸福だったことはない。おのれの全力を出しきる快感だ。あの方のために身を削りたい。あの方のためなら命も惜しくはない。この私ですらそう思ったんだよ。信じられないだろうが、暗殺者になったデキムスだってそうだった。あんな至高の喜びを与えてくれる将軍は、あとにも先にもユリウス・カエサルだけだろう」

 息を呑んで聞き入るティベリウスに、カルヴィヌスは自嘲気味に笑いかけた。

「なんで私がこの年で従軍したと思う? もちろん、私は勝者側につくことにかけては抜かりないつもりだ。あの方が選んだ後継者側についたのだから。でもわざわざついて来る必要なんてなかった。こんなことをしてアントニウスが勝ちでもしたら、また面倒なことに巻き込まれる。若カエサルには適当に忠告だけして、あとは温泉につかって結果を待っていてもよかったんだ。我ながらおかしいと思うよ」

「…なぜです?」

「さぁ」

 自分から質問しておきながら、カルヴィヌスはあっさり両手を広げた。

「よくわからんのだよ、自分でも。アントニウスと若カエサルの決着を見届けるとか、そんな野次馬根性は残っていない。なにより、あの方はもういない。だからどこへ行ったって、あんな喜びを味わうことは二度とないんだ。君の継父も未来の義父もすばらしい男だが、遺憾ながらあの方に比べたら面白味に欠けると言わざるをえない。それでも、私は亡霊を探しているのかもな。よぼよぼの老人になる前に、もう一度、どこかであの方にお会いできることを、期待しているのかもな」

 そう言うと、カルヴィヌスは上体を起こし、ティベリウスの肩に腕をまわした。

「どうだい、君? 私のために、ユリウス・カエサルのような将軍を目指してくれるかい?」

 その目を見返し、ティベリウスはむっつりと答えた。

「ぼくは面白い将軍にはなれないと思います」

 するとカルヴィヌスは大声を上げて笑いこけた。ティベリウスの肩をしきりに叩く。

「すまない」

 カルヴィヌスは詫びてきた。

「君はやはりお父上にそっくりだよ」





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ