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ティベリウス・ネロの虜囚  作者: 東道安利
第二章 家族
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第二章 ‐5

 


 5



 庭園内の東屋に立ち寄った。チルコ・マッシモに向かう前、ここで子ども用トーガを脱ぎ捨てて身軽なトゥニカ姿になっていた。邸宅に戻る前に、もう一度纏うつもりだった。子どもの集まりとはいえ、公の場である。正装してしかるべきだった。

 東屋は、その両脇に立つ二本のたいまつに照らされていた。そこにはほか二人の奴隷とともに、トオンがいた。庭園内を警備する傍ら、邸宅内で余った飲食物を広げて、交替で食事をとっていた。

「坊ちゃま?」

 ティベリウスの登場に、トオンは面食らったようだ。若主人は奥の邸宅で友人たちをもてなしているはずだった。

「いったいどうしてこちらに?」

「友だちを呼びに行っていた」

 そう答えてから、しまったと息を呑んだ。横目を走らせると、いまいましいルキリウス・ロングスのにんまり顔が見えた。

 悔しがりながら、ティベリウスは東屋に入り込み、隅に畳んであった自分のトーガをとり上げた。白の正装用トーガは、子どもの純潔を象徴していた。

「手伝って」

 ティベリウスはトオンに言った。そこでルキリウスがうろたえた声を上げた。

「ちょっと待って。君はその立派なトーガを着ていって、ぼくはこの汗臭い運動着のままなの? 名家の坊ちゃん嬢ちゃんに白い目で見られながら、奴隷と変わらない格好でうろつけって言うの?」

 ティベリウスはまたしまったと思い、顔をしかめた。そこまで気がまわらなかった。

 ルキリウスは自分の奴隷と視線を交わした。アヴェンティーノの自宅まで戻るのは嫌だと、互いに無言で言っていた。ティベリウスはトオンを見た。こちらはうなずきを返した。

「会場に予備のトーガがあるはずです。取ってきますよ」

「やった!」

 ルキリウスは飛び跳ねた。

「早くしてくれよ。ぼく、おなかが空いて死にそうなんだから!」

「はあ…」

 トオンは不思議そうな顔でルキリウスを見て、若主人に視線を戻した。

「初めて見るお友だちですね」

 邸宅へ駆けていくトオンに、友だちってわけじゃないと、弁解したい衝動をこらえるティベリウスだった。

 辺りはすっかり暗くなっていた。二本のたいまつだけが煌々と燃えていた。二人に遠慮したのか、奴隷たちは東屋の外に出て、その炎の前で暖をとった。屋内の卓に残された料理に、ルキリウスは恋い焦がれる視線を注ぎまくっていた。会の目的に合わせているので、子ども好みの品ばかりだった。長椅子に腰かけ、ティベリウスはため息をついた。

「我慢しろよ、これは彼らの分だ」

 この世の終わりを前にしたような視線を無視しながら、ティベリウスはトオンを待った。手前の火鉢にあたりながら、目は外の庭園へ注いでいた。たいまつで、あたたかげに照らし出されている。

 この場所には、ささやかな思い出があった。ティベリウスにとってというよりは、オクタヴィアヌスと母リヴィアにとっての。ティベリウスもほんの少しだけ、覚えている。そんな気がする。

 七年前の十一月十六日。ティベリウスがローマで初めて迎えた誕生日。

 その日、オクタヴィアヌスがリヴィアをカエサル庭園に招待した。ぜひご子息もご一緒に、と手紙を添え、迎えの輿をネロ家に遣わした。

 もっとも、冬枯れの季節に女性をわざわざ郊外に誘い出すのは、気が利いているとは言えなかった。しかも相手は人妻で、妊娠中の身だった。それでも母は文句を言うでもなく、ティベリウスを膝に乗せて、パラティーノの丘をゆられて下りたという。

 庭園の入り口から、目を奪う道が出迎えていた。乾燥させた花びらを敷き詰めたそれは、ときおり冷たい風に吹かれ、色とりどりの吹雪となって母子の輿に降り注いだ。花の絨毯に導かれ、母子はこの東屋にたどり着いた。

 東屋もまた、美しく飾られていた。赤い実をつけた緑の木々で覆われ、この季節にもかかわらず、小さな白い花をゆらす鉢が並べられていた。甘く澄んだ香りが辺りにたちこめていた。

 オクタヴィアヌスはここで待っていたという。彼はまず東屋の中で、軽食と、火鉢と、羽毛の膝掛けでリヴィアに暖をとらせた。それからティベリウスに、誕生日の贈り物をした。剣と槍の刺繍が勇ましくほどこされた、新しいボールだった。大喜びしたティベリウスは、それで心ゆくまでオクタヴィアヌスと遊んだ。そのあいだ、母リヴィアは東屋のこの位置に座り、二人の様子を眺めていたという。息子は、かつて見たことがないほどはしゃいでいたそうだ。

 息子が遊び疲れるまで、しばらくかかった。それからオクタヴィアヌスはティベリウスを抱き上げ、従者たちと一緒に落ち葉を集めてまわった。その途中、可愛らしいどんぐりを見つけては、ティベリウスに差し出した。ティベリウスはそれを楽しげに袋に収めながらも、決してボールを腕から離さなかったという。

 落ち葉を一か所に集めると、それに火を灯してたき火をはじめた。ティベリウスの様子が一変したのはそのときだった。突然体をびくりと跳ねあがらせた。そしてオクタヴィアヌスにしがみつき、ちぎれるほど首を強く曲げて、炎から顔を背けたという。驚いたオクタヴィアヌスがどうかしたのかと尋ねたが、ティベリウスはなにも答えずに震えていた。

「息子は火が怖いのです」

 東屋から、母リヴィアが声をかけた。

「ギリシアを旅していたとき、山火事に巻き込まれたことがありました。その恐ろしい体験以来ずっと……あるいはそれより前、本土を出るとき、たいまつを掲げた兵たちに追いかけられた記憶のためかもしれませんが…」

 そこで口をつぐみ、つぶやくように言った。

「ごめんなさい」

「いいえ」オクタヴィアヌスはそっと微笑を返した。「あなたが謝ることではありません。そうだったのか、ティベリウス」

 オクタヴィアヌスはティベリウスを地面に下ろした。左腕にボールを抱え、右手でオクタヴィアヌスの肩口をつかみ、ティベリウスは動かなかった。

「大丈夫だよ」

 耳元で、オクタヴィアヌスはささやいた。

「怖くない。私がついている。さあ、手を貸してごらん」

 ティベリウスの背中にしっかりと腕をまわしてやりながら、その小さな右手をオクタヴィアヌスは取った。それからゆっくりと、たき火の炎へ近づけた。

「あったかいだろう? 火はときに恐ろしいけれど、とても大事なものなんだよ。気をつけていれば、私たちを助けてくれるものになるんだよ」

 頬をティベリウスのそれに寄せた。

「君の頬は冷たいよ。寒くなってきたんだろう? ほら、見てごらん。勇気を出して。一緒にもっとあったまろう」

 そう言うと、しきりに頬をこすり合わせた。

 ティベリウスはそろそろと首をまわした。オクタヴィアヌスの顔をじっと覗き込んだ。オクタヴィアヌスは笑いかけ、目をたき火に移した。恐る恐る、ティベリウスもそのあとを追った。

 もくもくと昇る白煙の下で、小さな赤い炎が揺れていた。

 ティベリウスは目をしばたたいた。困ったように小首をかしげ、もじもじと指を動かした。オクタヴィアヌスは笑い声を上げた。

「くすぐったいんだな? それはしもやけと言うんだよ。いっぱい遊んで、かじかんでたんだな」

 ティベリウスは不思議そうな顔をオクタヴィアヌスへ戻した。オクタヴィアヌスはその頭をよしよしとなでた。

「もう怖くないな? 君は勇敢だよ」

 たき火の熱とオクタヴィアヌスのぬくもりであたたまったティベリウスは、そのまますやすやと眠り込んでしまったらしい。それでも贈られたボールはしっかと腕に抱え込んだままだったという。オクタヴィアヌスはティベリウスを抱いて東屋に入った。

「ありがとうございます、カエサル」

 リヴィアが見上げて言った。

「おかげで息子は、初めて幸せな誕生日を迎えられましたわ」

「いいえ、とんでもない。お安いご用ですよ。ところで、リヴィア殿――」

 そこでいよいよ、愛の告白に踏み切ったのだという。

 だからこの庭園は、オクタヴィアヌスとリヴィア夫妻にとって、愛が生まれた思い出の場所なのだ。

「それって、完全に君をダシにしてるよね?」

 ルキリウスの言葉に、ティベリウスは思わずぐっとうめいた。がくりと頭を下げ、それから愕然、茫然自失となった。

 なんでこんなやつに話してしまったのか。

 自分が信じられないティベリウスの横で、ルキリウスはしきりにうんうんうなずいていた。口のまわりが、いつのまにか茶色いソースで汚れていた。

「カエサルもなかなかやるよね。人妻をオトすには、まずその子どもからってね。キザな演出までしちゃって、よく考えついたよね。マエケナス顧問あたりの入れ知恵かな? ぼくも将来の参考にしよう」

 顔から火が出るような感覚がした。

 ルキリウスに言われずとも、わかってはいた。わかってはいたが、それでもこれはティベリウスにとっても大切な思い出なのだ。たとえほとんど覚えていなくとも、思いはせればいつでも胸を満たしてくれる、ちょっと照れ臭くて、あたたかい――。

 だが、他人に話すようなことではない。ましてや色々とうさんくさい子どもに語って聞かせるような話では断じてない。これは弱み以外のなに物でもないはずだ。

 両手で頭を抱えながら、ティベリウスはただひたすら自分の正気を疑うばかりだった。

 ルキリウスはシトロン水をごくごく飲んでいた。

「まあ、それでも、カエサルは君をダシにした責任はとったわけだ。君から母上をさらっていかず、君のこともそばにおいて、守ってくれてるわけだから。今でもね」

 そのとおり。そう言うしかなかった。ティベリウスは歯噛みしながら、延々と足をぶらつかせた。トオンはまだ戻らないのか。

 戻った。傍らに友人を置いているとは思えないほど険悪な顔つきをしている若主人と、それを飄々として気にもとめていない様子の友人をいぶかしげに見ながら、白いトーガを差し出した。

 奴隷たちに手伝ってもらいながら、二人はトーガを身に纏った。紅紫の縁取りを具合よく整える。それから急ぎ足で、奥の邸宅へ向かった。

「わっわっ」

 トーガの裾を踏んづけたらしいルキリウスの声が、薄暗い遊歩道に響いた。

 意識も強く口をつぐみながら、ティベリウスは足を速めた。

 真珠を張り詰めた城のような邸宅。その門に近づくと、子どもたちのにぎわいが聞こえてくる。それでスッブラにいたころの絶え間ない喧噪を思い出したのは、あのボールにかかわる記憶だからだろう。こちらのほうの思い出は、よく覚えていた。あのころはまだ、カエサル家はパラティーノの丘ではなく、庶民がひしめいて暮らすスッブラ地区に居を構えていた。母とともにオクタヴィアヌスに連れられてきたティベリウスも、ここで育った。

 マルケルスに会う少し前、五歳の誕生日を迎えてまもなくのことだったと思う。その日ティベリウスは、今では継父になった人物からもらったボールを手に、一人で遊んでいた。ふと強く投げたボールが、壁に跳ね返って頭上を抜けた。通りに転がり出たそれを、ティベリウスはいそいそと追いかけた。

 そして、ボールが荷車に轢かれてつぶれる様を目の当たりにした。

 その夕方、アグリッパがカエサル家を訪れた。女主人のリヴィアが、息子がどこにも見当たらないと当惑していた。そこで奴隷たちと手分けして、彼は親友の継子を探しはじめた。

 彼はまもなく見つけた。人でごった返す通りから一本脇に入った路地の奥にいた。ティベリウスはうずくまっていた。

「もしもし?」

 アグリッパは陽気に声をかけた。

「君はネロ家のお坊ちゃんですね? お母上が心配していましたよ。もうじき暗くなるから、おうちに帰らないと」

 顔を上げたティベリウスは、何度か見たことがある大人が、あんぐり口を開ける様子を見た。

 ティベリウスの顔は、滂沱の涙でぬれていた。そのうえ、血だらけだった。

「どうしたんだね?」

 仰天したアグリッパが問いただした。

「いやはや、怪我をしているのかね?」

 ティベリウスはなにも答えなかった。アグリッパが伸ばした手からさっと顔を背けた。

 困ったアグリッパは状況を観察した。ティベリウスの体や服のあちこちに血がついていたが、最もひどいのは両手だった。そしてその両手でしっかと抱え、足のあいだに挟めたなにかにも、赤いしみがこびりついていた。

「それはボールかね?」

 アグリッパが尋ねた。ティベリウスはむっつりと押し黙ったまま、うつむいた。ボールであったものは、皮が破れ、中から詰め物が飛び出していた。

「破けてしまったんだね?」

 アグリッパは確かめると、ティベリウスはつぶれたボールの端をぎゅっと握った。アグリッパが見まわすと、針や糸や布やはさみがそこらじゅうに散らばっていた。空の箱が、土にまみれて転がっていた。

「ひょっとして、君はそれを直そうとしたのかね?」

 ティベリウスの唇がへの字になった。

「けれども、上手くいかなかったんだね?」

 赤く染まった詰め物に、また一粒涙が零れ落ちた。

 ティベリウスはなんとしてもボールを元通りにしたかった。それでこっそりと家に戻り、母の裁縫道具を持ち出した。母がそれで破れた枕を元通りに直す様子を見たことがあったからだ。ところが当然、五歳の男児は裁縫などしたことがなかった。それでも見様見真似でやるつもりだったが、上手くいくはずもなく、何度も針で手を突き刺すばかりだった。ボールは破れたうえに、今ではティベリウス自身の血でみるみる汚れていった。ティベリウスは取り乱した。しかし躍起になって取っ組み合えば合うほど、状況はますます悪化していった。目からは勝手に涙が流れてきて、手先が見えなくなった。血だらけの手で顔をぬぐいながら、日が傾くのにもかまわず長いあいだ格闘していたが、もうどうしていいのかわからなくなっていた。

 そこへやってきたのがアグリッパだった。彼はなんとか状況を理解した。

「かわいそうに。独りでがんばってたんだね」

 アグリッパはそっと頭をなでてきた。

「けれどもそんなに無理はしなくていいんだよ。きっとお母上が新しいのを買ってくださる」

「カエサルが――」ティベリウスはうめいた。「カエサルが…くれたんだ……ぼくの…たんじょうびに……」

「…え?」

「カエサルが…くれたのにっ……カエサルがっ…ぼくのっ、ため…にっ……」

 アグリッパはぽかんとなった。大きな青い瞳を見開いたまま、ティベリウスは涙を流し続けた。

「…そうだったのか」

 アグリッパはつぶやくように言った。

「わかったよ。どれ、私に貸してごらん」

「だめだ!」

 ティベリウスは叫んだ。ボールを抱えてうずくまった。

「いやだ! さわるな!」

「大丈夫だよ」

 アグリッパの声は優しかった。

「君からそれを奪いはしない。少しのあいだだけ、どうか私に預けてくれないかね? これでも少しばかり手先が器用なんだ」

 ティベリウスはアグリッパを鋭くにらみつけた。信用していなかった。それでもアグリッパは辛抱強くなだめてくれた。強情に固まる背中をさすってくれた。

「君は誇り高い。とってもがんばり屋だ。でも自分にできないことがあるのなら、だれかに助けを求めてもいいのだよ。それは決して恥ずかしいことじゃないんだ。完璧な人間なんていないのだから、自分に欠けたところは、だれかに補ってもらわなければ。だから助けてほしいと声を上げることは、生きていくのに最も大切な力の一つなんだよ」

 ティベリウスはじっとアグリッパを見つめていた。瞬間も目を逸らさずに、アグリッパは待ち続けてくれた。ついにティベリウスがゆっくり体を解くと、アグリッパは慎重にボールを手にとった。

「ふむ…」

 アグリッパは地面にどかっとあぐらをかいた。少しのあいだ、ボールの状態を観察し、それから転がっていた針と糸に手を伸ばした。

 詰め物を中に戻し、形を整えると、アグリッパは力強くボールの皮を縫い上げていった。ティベリウスはひたむきにボールを見守り続けた。その目の色がしだいに疑いから驚き、そして賛嘆に変わっていった。

「ほら」

 アグリッパはボールを差し出した。

「少々不格好だが、これでどうだろう? 容赦してくれるかね?」

 ティベリウスはボールを受け取った。アグリッパとそれを、交互に見た。ボールはいく分歪んではいたものの、ほぼ丸い形に戻っていた。新たに刻まれた縫い目と血の汚れだけが、惨事に見舞われたことを物語っていた。

 後で聞いたのだが、アグリッパはこのちょっとした手縫いの技術を、ローマ軍の一兵卒時代に習得したという。兵たちは基本的に自分のことは自分でしなければならないためである。

 ティベリウスは直ったボールを抱きしめた。

「あり…がとう……」

 口元が、ほんの少しだけほころんだ。

「よかった」

 アグリッパはにっこり笑い、ティベリウスの頭をなでた。

「さあ、今度は君の番だね」

 それからアグリッパはティベリウスを水道の前に連れて行き、血だらけの顔と両手を洗わせた。しみる痛みに無言で耐えるティベリウスを励ましながら、その横でボールの皮の汚れをこすりとってくれた。その後少しだけティベリウスを待たせて駆け出し、包帯を手に入れて戻ってきた。それで両手を丁寧にくるまれると、ティベリウスはふくれた真っ白い十指をもぞもぞ動かし、アグリッパに笑いかけた。

「ミイラだね」

 アグリッパも笑い返し、両腕を差し伸べた。それに素直に甘えたティベリウスは、アグリッパに抱き上げられ、カエサル家へ帰った。ボールをしっかと腕に収めていた。

 母リヴィアは心配のあまり、息子をきつく問いただした。

「申し訳ない」

 アグリッパが謝った。

「坊ちゃんを早く連れ帰るつもりが、いつのまにやらこの私までがミイラごっこに夢中になってしまって…。ボールをぶつけられたらミイラになって、しばらく動けなくなるのですよ、ねっ?」

 その日から、ティベリウスはアグリッパが大好きになった。けれども以来一度も、あのボールで遊んでいない。意味がないとは思いつつも、自室にしまったままだ。別荘に出かけるときには持ち出すが、不思議と投げて楽しむ気にはならなかった。

 このたびの従軍には、持って行くつもりはない。

 見張りたちに目をしばたたかれながら、ティベリウスはルキリウスを連れて邸宅内に戻った。クレオパトラもかつて客をもてなしたであろう中庭で、今は子どもたちの宴がたけなわを迎えていた。椅子や階段に腰を下ろし、あるいは歩きまわり、にぎやかに食事を楽しんでいる。中でも階段の最上段に腰かけたマルケルスの周りには、大勢の子どもたちが集っていた。

 だれもかれもが先を争うように話しかけていたが、マルケルスは一人一人ににこやかに応対していた。そしてティベリウスに気づくと、ひときわ笑みを大きくして手を振ってきた。振り返したティベリウスは、なんだか申し訳なく感じた。

「君はぼくを呼びに行くために、マルケルス一人に主人役を任せたの?」

 胸中を読んだかのように訊きつつ、すでにホタテをしゃぶっているルキリウス。

「元々あんな感じだった」

 弁解しながら、ティベリウスはキュウリの漬物に手を伸ばした。好物なのだ。

 ルキリウスの目線が、頬骨に当たった。

「まあ、人には向き不向きがあるからね」

「皿に食べたいだけの料理を盛って、ついて来い」

 命令口調でそう言うと、ティベリウスは手早く盛りつけた皿を手に、さっさと歩きだした。階段を上がり、列柱廊に入る。中庭では、ドルーススと妹のアントニアが卓のあいだを駆けまわり、給仕を驚かせていた。ユルスが二人を叱りつけた。まだティベリウスが帰ってきたことに気づいていないらしい。気づいていれば、弟をなんとかするように苛々と視線を送ってくるはずだ。ティベリウスは静々と進んだ。

 マルケルスたちの後ろも黙って通り抜けた。ルキリウスは皿に料理を山盛りしたうえに、口をフグのようにふくらませてついてきた。  

 邸宅の裏側に出た。そこはほっそりとした木々に囲まれた、小さな船着き場だった。白く輝く階段を下りると、眼前をティベリス川が音も無く流れていた。漆黒の水面に、黄金色の満月が震える。

「むぐぐ…。きれいだね」

 なんとか無事に咀嚼を終えてから、ルキリウスはつぶやいた。

「女王クレオパトラも、きっとここで月を愛でたんだろうね、神君カエサルと一緒に。雰囲気がたまらないもんね」

 このすばらしい場所に子どもを入れなかったのは、もちろん川への転落を防ぐためだった。それで見張りが立っていたが、ティベリウスのことはなにも言わずに通してくれた。

 二人は階段の下方に腰を下ろした。ちょうど背中に二本のたいまつの熱が届く位置だった。

「神君カエサルが暗殺されたあと、女王はここから船に乗ってエジプトに帰っていったんだよね。息子のカエサリオンと一緒に。そのときから戦いははじまったってわけだ」

 ルキリウスはしばし食べることを忘れたようだった。ぼんやり遠い目をしてティベリス川を眺めていた。

「カエサルとアントニウス、どっちが勝つにせよ、もうすぐ終わるんだね」

 ティベリウスはまじまじとルキリウスを見た。どこかで似たような言葉を聞いた気がした。似ているようで、どこか違う含みの。

 目線に気づくと小さく首をすくめ、ルキリウスは眉尻を下げて微笑んだ。それで思い出した。マルケルスだ。マルケルスもまた、こんなふうに笑っていた。

 冷たい風が吹きつけ、灯火がゆれた。

「はっ、待てよ!」

 とたんにルキリウスは身震いした。

「ここはひょっとして、女王が弟を川に突き落として殺したって噂の場所じゃないの?」

「…そうなのか?」

 ティベリウスは知らなかった。

「やだな。別の雰囲気がしてきたよ。水中からオバケの白い手なんかが伸びてきたらどうしよう!」

 階段の上に足を引っ込め、ルキリウスは噛む間も惜しむかのように、次から次へと料理を口に運んだ。

「落ち着けよ。味もなにもわかりやしない」

 呆れ返りながら、ティベリウスはあえてゆっくりと食事をとった。茹でエビを頬張り、うま味と食感を堪能した。

 ルキリウスの頭はどうなっているのやらわからない。腹が十分ふくれるや、オバケのことなどすっかり忘れてしまったようだ。

「おなかいっぱいで眠くなってきたよ」

 リンゴの芯を放り投げるや階段にひっくり返り、大きく伸びる。ティベリウスは無言で冷たい視線を送った。ここでのんきに眠らせるために連れてきたのではなかった。ルキリウスはにやりと見上げてきた。

「うん、もちろん、忘れちゃいないからそんな怖い顔でにらまないでくれよ。ぼくに話があるんだよね? 寝ている君の上で継父と母上が愛を語り合ったっていう、さっきの話じゃなかったんだ?」

「違う。全然違う。あれはお前と少しも関係ない」

 思い出させられたティベリウスは、いちだんと険悪な目つきになった。

「ぼくに関係がある話って、なに?」

 冷えきった視線を送り続けていたティベリウスだったが、ついにため息をついた。おもむろに皿を脇に押しやると、背筋をぐっと伸ばした。それから腕を組み、眉間に皺を寄せ、目を閉じ、歯を食いしばり、屈辱に耐える準備を整えるまでしばらくかかった。それから重い口を開いた。

「お前に頼みがある」

「おっと」

 ルキリウスは飛び起きた。それからきょろきょろと辺りに目をやる。子どもも大人もオバケもいない。腹に手を置き、上体をティベリウスに近づけてささやく。

「こういうの、買収っていうんだよね」

 ぺろりと唇をなめる。ティベリウスは鋭く言った。

「断わるなら断れ。ほかを当たる」

「だれも断るなんて言ってないでしょ。まあ、友人の役に立つべからずっていうのが、ルキリウス家の家訓なんだけど――」

「なんだ、そのわけのわからない文句は?」

「でも、命の危険なしに我が利になる見通しありならば――って例外条項を検討してもいいかも。だから話すだけ話してみなよ」

 ティベリウスは深いため息をついた。やはりこの少年は変わっていた。

 それでも、今は彼こそが最適任者なのだ。

「頼みっていうのは、ユルスのことだ」

 こういう羽目になったそもそもの発端は、およそ二ヶ月前にさかのぼる。実にまったくいまいましいことに、ようやくティベリウスがこの少年を捕まえたのが、その時期なのである。いや、正確には捕まえたのではなく、向こうから飛び込んできたというべきだった。どこまでも癪に障る子どもとは、ルキリウスのことだった。

 何ヶ月にもわたって目をつけてきた挙句、黙々とつきまとってきたのが去年である。ティベリウスは断固として彼を捕まえる気でいたが、トロイヤ競技祭が終わったあたりから、その姿が見えなくなった。拍子抜けしつつも、いつしか忘れて暮らしていた。ところが今年の夏あたりから、また視界をちらつきはじめた。以前のように、行く先々に現れては無表情で見つめてきて、追いかけようとするやたちまち姿をくらました。ティベリウスは再び苛立ちを募らせた。捕まえようとあれこれ考えをめぐらせたが、どういうわけかいつも時宜をはずされた。いまいましくてならなかったが、そうこうするうちに、自分とマルケルスの従軍が決まり、忙しく過ごすうち、つきまとい少年の捕獲作戦は先延ばしになるばかりだった。

 初めての接触は、まったく予期せぬ瞬間に起こった。

 その日、チルコ・マッシモで剣術の練習を終えたティベリウスは、またもユルス・アントニウスを囲む少年たちを見つけた。激高して突進していったが、今度は少年たちも簡単に退かなかった。貴族クラウディウス・ネロ家の子息であろうと、カエサル・オクタヴィアヌスの継子であろうと、容赦なく殴りかかってきた。激しい乱闘になった。

 ティベリウスは苦戦を強いられた。相手の数は前回よりも二人増えていた。六対一では分が悪く、二人を叩きのめしたところで、三人にのしかかられた。残る一人が冷酷な目つきで近づいてきて、ティベリウスの顔面めがけて足を振り上げた。そこへ例のつきまとい少年が体当たりをかましたのである。相手は吹っ飛び、階段を転がり落ちていった。屈辱の第一は、つきまとい少年に助けられたことだった。

 ところが、威勢がよかったのは最初の瞬間だけだった。彼はまったくもってひ弱だった。もう一人の腕に噛みつくやたちまちふり払われ、空しく手足をばたつかせるものの、あとはあっけなくボコボコ殴られる一方になった。それで、結局ティベリウスは彼のことも守って戦う羽目になった。

 決着までに長引いた。ついにはユルスも立ち上がり、傷ついた体で復讐を挑んだ。もはや独り亀甲隊形を決め込んで丸くなっているつきまとい少年のまわりで、ティベリウスは奮戦し続けた。

 最後の一人がしぶとかったが、そこで大声が聞こえてきた。マルケルスと友人たちが猛然と駆けてきたのである。相手の六人以上に、ユルスが顔をしかめた。それからはてんやわんやの騒ぎだった。

 以前ティベリウスが言ったように、マルケルスは泣きながら激怒した。乱暴者どもへの憤激をぶちまけ、自分を責め、涙で乱れた声でユルスを問いただした。ユルスはほとんど怒りながら、彼をなだめ続けた。マルケルスの友人たちの多くも、それに加わった。ティベリウスは、つきまとい少年の腕を捕まえて、騒ぎから抜け出した。

「いや~、助かったよ」

 初めて聞いた言葉は、このうえなく白々しく響いたとしても無理なかった。これまでの一貫した無表情とは別人かと思うほど、陽気な調子だった。

「もう、あんなにしつこいなんて思わなかったな。君がいなかったら、ぼくはあわや十分の一刑の犠牲者みたいな目に遭うところだった」

 十分の一刑とは、ローマ軍において、軍規を犯した部隊に科される重罰の一つである。くじで決めた仲間の一人に、残る九人が死ぬほど暴力をふるわねばならない。

 少年は笑っていた。青あざで縁取られた茶色の瞳を細めていた。乱れた金髪がぴょこぴょこ跳ねた。彼のこんな顔を、ティベリウスは想像だにしていなかった。

 それでも、最初に助けられたのはこっちのほうであると、指摘する気にはなれなかった。ティベリウスは冷えきった視線を返した。お前は、まさかぼくがこれまでのお前の行動に気づいていないとでも思っているのか、と言ってやったつもりだったが、彼はまったく気にした様子もなく、白々しい笑みを崩さなかった。

「強いなぁ、君は。これもガイウス・ネロとかのご先祖様の血? ネロってたしか『勇敢』って意味だよね。うんうん、クラウディウス・プルケル家の『美男』よりは君に合ってるよ。もっとこう、やわらかな顔でぼくを見つめてほしいなぁ。あと、ぼくの腕が折れそうなんだけど、ちょっと力をゆるめてくれないかなぁ?」

 ティベリウスは突き飛ばすように腕を離した。

「いったいなんのつもりだ?」

「なにが?」

「なにがじゃない!」

 怒鳴りつけた。少年はいかにも無邪気そうに目をしばたたいていた。

「とぼけるのか? お前は何ヶ月も前からぼくをにらんでつけまわしてきた。家の中にまで来たこともあった。いったいなにが目的なんだ?」

「あれ、気づいてた?」

「当たり前だ!」

 ティベリウスは少年の胸倉をつかみあげた。

「とぼけるのはやめて、目的を言え。さもないと、お前もあいつらと同じ目に遭わせるぞ」

「待って、待って! いくらなんでもそれはひどいよ! ぼくはただ、君と仲良しになりたかっただけなのに!」

 ばたばたと両腕を振る少年に、ティベリウスはぎょっとした。いつだかレントゥルスの言った冗談が、頭をよぎった。

「いや、決して変な意味じゃなくて…」

 心を読んだかのように、少年は弁解した。

「ちゃんと話すよ。だから手を離してくれないかな、ティベリウス・クラウディウス・ネロくん。自己紹介させてくれよ」

 それでしぶしぶ、ティベリウスは少年を解放した。まったく信用していなかったが、自分がなに者なのか語りたいならば、そのあいだぐらいは待ってやってもいいと思った。

「さあ、そこに座って」

 少年はいそいそと階段を示した。ティベリウスは不審いっぱいに彼をにらんだが、しつこく勧めるので、しかたなく言うとおりにした。

 少年は今や初舞台に立った俳優のようだった。目線をあちこちに動かし、もじもじそわそわしていた。その様子がまた、芝居がかって見えたのだが。

「どうしよう、緊張するなぁ…」

「早くしろ」

 情けのかけらもなく急かされると、とたんに少年はぴたりと静まった。大きく深呼吸をし、ゴホンと咳払いをした。それから胸に手を当てて話しはじめた。

「ぼくの名前はルキリウス・ロングス。今年で十歳。父方の祖父はポッツオーリの貿易商。母方の祖父はそこの地方議員。騎士階級を名乗れるくらい、お金のある家柄だよ。というわけで、野心みなぎる我が家が手に入れていない唯一のものは、最高の名誉、つまり国家ローマを担う元老院議員の椅子ってわけ。ぼくの父は、両家の期待を一身に背負って出世を目指すも、ここんところの内紛で残念なほうに味方したせいで、あえなく夢破れたり。叔父貴は金の亡者すぎて、元老院議員とか、無給で国益に奉仕するなんて願い下げ。そんなわけで、若きこのぼくが一族すべての期待を背負う羽目になり、世界の首都に引っ越してきて、目下勉学に肉体鍛錬にコネづくりに邁進中――ってとこかな」

 ティベリウスはいささかあっけにとられて、ルキリウスの語りを聞いていた。こんなに流暢にしゃべりまくるやつだとは思いもしなかった。何度も繰り返し練習していたような、それでいてどこか他人事のように醒めたような調子だった。

「家は平民のたまり場、アヴェンティーノの丘にしか見つけられなかったところが悲しいね」

 ルキリウスはふうっと息をつくと、期待に輝く目を向けてきた。ティベリウスは感想を求められているらしいことに気づいた。

「…それで、なんの目的でぼくに近づいた?」

 ルキリウスは驚いた顔になった。

「決まってるじゃん。出世だよ」

「は…?」

 つい間の抜けた声をもらしてしまった。ルキリウスは教師のように人差し指を振ってみせた。

「つまりだね、ぼくの家はお金もあるし、地方議員になるぐらいの権威もあるんだけど、一族から元老院議員は一人も出したことがないの。だって元老院入りは、首都の有力者の後援でもないかぎり無理だからね。だからぼくは、ぼくを財務官に当選させてくれるような友だちを探してたんだ。言うまでもなく、元老院常連一族出身のね」

 そこでぽんっと手を叩いて、身を乗り出してきた。

「それでっ、色々候補を探してみた結果、ぼくには君が最適任者に思えたわけだよ、ティベリウス!」

 きらめく目を見返したまま、ティベリウスは言葉もなかったが、それはルキリウスの狙いを知ったからではなかった。出世目的だとはっきり宣言したことに驚いていたのである。あからさまにもほどがあった。

 両手のひらを重ねたまま、ルキリウスはうっとり踊るように体をゆらした。

「君はローマで最も名高い貴族の子ども。お金持ち。頭が良くて運動神経も抜群。性格はちょっとというか、かなり内向きで誇り高すぎだけど、容姿はまず文句なし。そのうえ今やローマを牛耳るカエサル・オクタヴィアヌスの継子とくれば、間違いなく、将来執政官は確実。それどころか上手くいけば国家の有能な第二位の男ぐらいにはなりそうだから、これは是が非でも友だちになって、ぼくの一族の悲願をかなえるために助力願おう。そう思ってさ」

 ティベリウスは頭を抱えた。これほどあけっぴろげな相手への対処法を図りかねた。

 このような目的で近づいてくる子どもは、初めてではなかった。自分にも、マルケルスにも、友人の地位を得て良い思いをしようと企む輩が掃いて捨てるほどいた。親の影響であるのか、まだ子どもであるのに、吐き気がするほどこびへつらってくる。マルケルスはそのような子どもにも親切に応対したが、ティベリウスは片っ端から邪険にして寄せつけなかった。目に余るときは、マルケルスのおべっか使いどもまで追い払った。

 だが、このように近づかれたことはかつてなかった。堂々、我がために利用すると宣言されたのだ。

 ルキリウスは開き直っているわけではない。その目は無邪気そうで、未だにティベリウスに期待を寄せているように見える。すでに激声とともに追い払われて当然のことを語ったにもかかわらず。

 呆れて怒る気にもなれないティベリウスだった。

「…なんでぼくをつけまわした?」

「君だけを見てたわけじゃないよ。友だち候補の絞り込みを行ってたんだよ」

「こんなに長いあいだ?」

「それに、君の友だちになるための最高のお近づき法も考えてたんだ」

 最悪のお近づき法を繰り返しておきながら、ルキリウスはあっさりと言った。

「なにしろきみはど貴族(’’’)。友だちは家族に元老院議員がいる名門出の少年ばっか。だからぼくみたいな田舎者を友だち名簿に加えてもらうためには、それなりに考えなきゃね」

 そこでルキリウスはぐいっと顔を近づけてきた。

「ねえ、ティベリウス。君はもっと自分の階級以外の友だちも持つべきだよ。名門出のお坊ちゃまとばっかりつき合ってたら、視野が狭くなっちゃうよ」

「余計なお世話だ」

 言ってやったが、確かにティベリウスの友人は、元老院階級の家に生まれた少年ばかりだった。ルキリウスは名門の出でもなければ、そのクリエンテスに属してもいないらしい。流暢な語り口から察するに、それなりの教育は受けているようだが。

「それで、その最高のお近づき法が、わざわざぼくが危なくなるのを待ってすかさず助けに入ることだったのか?」

 苦りきって訊く。

「とんでもない」

 ルキリウスはぶんぶん首を振った。

「ぼくは君がユルスを助けに行かないように、行かないように願ってたんだよ。行くなら、だれか手助けでも呼んでからにしてほしかった。あのね、いくら腕っぷしに自信があるからって、六対一なんてどうかしてるよ。それもあいつら全員君よりでかかった。ぼくは死ぬほど怖かったんだよ。それでも、君にもしものことがあったらぼくの壮大な出世計画がすべておじゃんになっちゃうから、たいして役に立たないのはわかってたけど、いざ決死の覚悟を固めたふりして一世一代の勇気を奮ったわけだよ。結果はやっぱり、どっちがどっちを助けたのかわからなくなっちゃった」

 ティベリウスはため息をついた。こちらが一言言うたび、なんて多くの奔放な言葉を返してくるのだろう。

 ルキリウスは少しだけ眉根を寄せた。

「ほんとはもっと運命的な出会い方を考えてたんだよ。結局上手いこと思いつかなかったけど、君みたいに鋭くていかめしくておべっかが大嫌いで、心が殻に籠りっぱなしみたいな子の愛を得るにはどうしたらいいのか。マルケルスだったらもっと楽だったんだけど…」

「だったら、なんでマルケルスにしなかったんだ?」

 ティベリウスはうなった。こんな子どもがマルケルスに近づいたら、自分が問答無用で叩き出しただろうと確信しながら。

「お前の目的なら、マルケルスの友だちになるほうが簡単だろう」

「競争が激しすぎる」

 ルキリウスはそう言って親指をしゃくった。ティベリウスが見やると、ユルスを抱きしめるマルケルスと、それを囲む多くの友人たちの姿があった。マルケルスはただユルスのために涙しているのだが、友人たちはユルスを気遣うというよりは、マルケルスをなぐさめることに力を注いでいるように見えた。ティベリウスは思わず顔をしかめた。

「戦車競走なら、彼が優勝候補の一番手だからね」

 ルキリウスはさらりと言った。

「慎み深いぼくは、優勝は厳しくとも上位は確実な君のほうに賭けてみることにしたんだ。だから今後ともぜひぜひよろしく頼むよ、ティベリウス・ネロ。このルキリウス・ロングスが元老院議員になれるよう、厚くごひいきのほどを」

 この時点で殴りつけて立ち去り、二度と相手にしなければよかったのだが、なぜかティベリウスはそうしなかった。自分が不思議でしかたないが、ただ驚き呆れ、疲れ果てていたのだと思う。これ以後も、ルキリウス・ロングスはティベリウスにつきまとい続けた。ただし以前と違っておおっぴらに、うんざりするほど雄弁に。

 今日この日だけは、ティベリウスのほうから彼を探しにいく羽目になってしまったが。

 悔しさを噛みしめながら、ティベリウスは言葉を続けなければならなかった。

「ぼくとマルケルスが従軍しているあいだ、まただれかがユルスに手を出すかもしれない。そのときは、お前が――」

「ちょっと待った、待った!」

 ルキリウスはあわてて叫んだ。

「もう一度、ぼくと君との出会いを思い返してくれるかな? あのときぼくはまるで役に立たなかった。君が助けてくれなければボコボコにされてた。そんなぼくなのに、ユルスのいじめっ子どもにたった一人で立ち向かえっての?」

「そうは言わない。だれか助けを呼んで、追い払ってくれればいい」

 いささかしかめた顔で、ルキリウスを見つめた。

「ぼくがいないあいだ、お前お得意のつけまわしで、ユルスから目を離さないでほしい。彼を守ってほしい」

 若干皮肉を込めたが、心から頼んだつもりだった。ルキリウスは頭を抱え込んだ。

「…まいったな。ぼくの腕前(’’)を買って頼むことにしたわけ?」

「それだけじゃない」

 ティベリウスは淡々と言った。

「ぼくとお前が友だちだと、ユルスは思っていない。だからぼくが頼んだとは思わない」

「そうかな? …あれ、今さりげなく友だち宣言してくれた?」

「この前、お前はぼくじゃなくてユルスを助けに入ったんだ」

 ティベリウスは無視して続けた。

「同じことがまた起こったって、不自然じゃないだろう」

「今度は二人まとめてボコられるかもしれないけど」

 ルキリウスはうめいた。

「助けの当てはあるの? ぼくが大声を上げてもだれも助けに来てくれないとか、さらにいじめっ子が増えちゃうとか、そんな目も当てられない事態にならない?」

「信頼できる友だちを教えておく」

 そう言うと、ティベリウスは立ち上がり、階段を上がって来た道を戻りはじめた。ルキリウスに話すまで、だれにも邪魔をされないという目的は達していた。ルキリウスの声が追いかけてきた。

「その役目だったら、マルケルスも友だちに頼んでるんじゃないの? きっとなん人にもさ。泣きながら兄さんを気遣っていたじゃないか」

「ぼくはぼくで、自分が最適だと思う男に頼む」

 ティベリウスは振り向かずに言った。

「……まいったなぁ」

 今度は足音が追いかけてきた。

 そろそろと中庭に戻った二人は、柱廊の片隅に落ち着く。頭上には満点の星空が広がり、子どもたちの動きはだいぶ緩慢になっていた。あちこちの灯火を囲んで、のんびり語り合う様子が見える。マルケルスの周囲だけは、相変わらずにぎわっていたが。

 柱に寄りかかり、ルキリウスは頭をかいた。

「…それで、君の頼れる友だちって?」

 ティベリウスはうなずき、それから目を皿にして子どもたちの中を探した。そして戸惑った。そういえば、いちばん頼りになる男を今夜は見かけていなかった。

「ルキウス・カルプルニウス・ピソ。今日はなぜだか見当たらないけど…」

「知ってるよ」

 ルキリウスはうなずいた。

「トロイヤ競技祭、年長組組長。平民貴族の雄カルプルニウス一門の嫡男にして、神君カエサルの義弟。今日はきっとカエサルたちと一緒に、上の階で飲んでるんじゃない? 彼はもうとっくに成人してるんでしょ?」

「そうだな…」

 すでにつきまとい相手の友人に関しても、詳細な情報を仕入れているらしい。ティベリウスのじっとり目に気づかないふりをしつつ、ルキリウスは続けた。

「泰然自若って感じだよね、彼」

「全幅の信頼を置ける」

 ティベリウスは断言した。

「のんびりして見えるが、押さえどころは心得ている。果断で、公平で、抜かりない。指導力があり、腕も立つから、いじめを見つけたら的確に対処してくれる」

 ルキリウスはティベリウスを見て、なにやら言いたそうにしていたが、結局あきらめたように首をすくめた。

「なんだよ?」

「いや」ルキリウスは頬をかいた。「たまに君が同い年だってことを忘れそうになるよ。ぼくのことはなんて評すんだろう」

「聞きたいか?」

「いや、やめて」

 ルキリウスは視線を中庭に戻した。

「それから?」

「パウルス・ファビウス・マクシムス」

 ティベリウスは向かい側の柱廊を指差した。ファビウスが子どもを背負ってきょろきょろしていた。

「彼も頼りになる。ユルスとも友だちだ」

「あれ、ドルーススじゃないの?」

 ルキリウスは笑みをこぼした。

「義理堅い、人情家みたいだね。ちょっと損な役まわりをもらいそうだけど、トロイヤ競技祭を見たところ有能そうだし、バランスの良い安定型だね」

「それからグネウス・コルネリウス・レントゥルス」

 指先を下げ、眉をひそめる。当該の人物が、階段に横たわったまま眠り込んでいるらしく、今にも転がり落ちそうだった。

「だいぶぼんやりしてるが、決して人を悪く言わないんだ。喧嘩向きじゃないけど、人柄はすばらしい」

「うん、将来、詐欺師のカモにされそうな人だよね。気をつけてあげないと」

 好き勝手な分析を加える、ルキリウスだった。

「メッサラ・コルヴィヌスの息子マルクス」

 次にティベリウスが指を向けた先は、マルケルスを囲む集団だった。ただしマルクス・メッサラは主催者ではなく、その妹二人と語らうほうに情熱を傾けている様子だった。

「調子がいいのが玉にきずだけどな。信頼できないわけじゃない」

 ティベリウスはため息まじりに言った。

「たぶん父親の雄弁を、口八丁と勘違いして生まれてきたんだろう」

「反面教師にしよう。口は禍の門だって、大人になるまでに学ぶといいけど」

 ルキリウスは苦笑した。ティベリウスは横目でにらんでやった。

「お前も人のことは言えないからな」

 今やマルクスは、なにやらマルケッラ姉妹に詰め寄られていた。どちらが好きなのか明言せよとでも言われたのか。彼は近くに座る友人ネルヴァに助けを求めたようだが、ネルヴァはちらりと目線を流しただけで放置した。傍らで妹アントニアを膝に抱いたユルスと、熱心な会話を再開させた。

「マルクス・コッケイウス・ネルヴァ」

 ティベリウスは紹介を続けた。

「見てのとおり、ユルスとも仲が良いんだ。体を動かすのは苦手だけど、それ以外のところでなら、友だちのために必ず力になってくれる」

「ガリ勉と思いきや、君に負けず劣らず、皮肉のセンスもありそうだよね」

 ルキリウスは苦笑を浮かべたまま評した。

「乱闘になったらぼくと同じで役に立たなそうだから、一緒にわめいて助けを呼んでもらおっか」

 ルキリウスはやる気になっているようだった。それをあえて指摘せず、ティベリウスは最後の一人を見つけて示した。

「グネウス・カルプルニウス・ピソ」

「いや、それはちょっと…」

 とたんに、ルキリウスはおろおろした。

「彼は四六時中、君以上にいかめしい顔をしていて、怖いんだけど。ちょっと挨拶しただけで、雷みたいに怒鳴り散らしてきそうだよ」

「彼は厳格だ」

 ティベリウスはそれだけ認めた。

「他人にも、もちろん自分にも厳しい。でも、だからこそいっそう、曲がったことを憎むんだ。罪もない子どもをいじめるような卑怯者は、絶対許さない。頼りにしていい」

 グネウスは弟と並んで長椅子に腰を下ろし、この宴になにか文句でもあるかのように、むっつり辺りを睥睨していた。

「これで十分だと思う」ティベリウスは紹介を終えた。「助けが必要なら彼らを頼れ」

「君が信頼する公けの友だちってわけだね」

 ルキリウスは片目を閉じてみせた。ティベリウスがピソたちに直接頼まない理由は、ルキリウスと違って彼らと自分が友人であることを、ユルスが知っているからにほかならない。

「引き受けるか?」

 ティベリウスは確認した。ルキリウスは小首をかしげた。

「ぼくの利益はなんだろうって考えてたんだ。家訓に反するわけにいかないからね」

 口の端をつり上げる。

「君のほかにも名門出の友だちを作れそうだよね。うん、もちろん、君から浮気するつもりはないけど、ユルスを見守る傍ら、ときどき人脈作りを副業にしちゃってもいいよね?」

「好きにしろ」

「じゃ、ほどほどにがんばってみるよ」

 動機はどうあれ、ルキリウスは頼みを引き受けてくれた。にっこり笑ったその顔が、どういうわけか少しだけ胸を締めつけた。ティベリウスはなにかを言うべきだと思った。ところがルキリウスは、それを制するかのようによどみなく言葉をつないだ。

「人の心配はさておき、君のほうはどうなのさ? 血なまぐさい殺し合いの場に行くんだよ? わかってる?」

 ついぞ見忘れていた無表情に、彼は戻った。

「怖くないの?」

 それで、ティベリウスは別の言葉を探さなければならなくなった。うつむき加減になりながら、思考の中をさまよう。

 以前、マルケルスに同じ質問をされていたのを思い出した。あのときは、自分が従軍することになるとは知らなかった。

「怖くない…わけじゃない」

 思いが、外へ出てきた。どうしてこのいけ好かない少年には話してしまうのか、わからなかった。

「でもぼくは、行きたい。見ておきたいものがたくさんあるんだ」

「血みどろの殺し合いを?」

「それが見ておかなきゃならないものなら、それも」

 ティベリウスはうなずいた。

「不謹慎なのかもしれない。戦争の恐ろしさをわかってないのかもしれない。でもぼくは、まだ見たことのない、あらゆるものが見たい」

「今じゃなくたっていいのに」

 ルキリウスはぽつりと、つまらなさそうに言った。

「君ならこれからいくらでも見る機会を得ると思うよ。戦争だろうと、まだ見ぬ広い世界だろうと」

「今がいい」

 言いながら、ティベリウスはふと思い出した。ルキリウスはエーゲ海でイルカを見たことがあると話していた。この少年は自分よりも広い世界を知っているのだろう。

「なにより、ぼくはうれしいんだ。カエサルを近くで見ていられる。そばにいられる。まだ力にはなれないだろうけれど、きっとたくさんのことを学べる。大変なこともあるだろうけれど、マルケルスを支えて、期待に応えたい。足手まといにだけはならないように、がんばらなくちゃ」

 ルキリウスはティベリウスの横顔をじっと見つめていた。ティベリウスは続けた。

「それにぼくは見守りたいんだ、カエサルとアントニウスの決着を。これはぼくにとって、すごく大事なことだと思う」

 目を閉じると、父ネロの顔が浮かんでくる。

 ルキリウスはしばらく黙り込んでいたが、やがてうんっと声を上げて上体を反らし、星空を仰いだ。

「順調にいけばいいけどね。でもぼくだったら真っ平御免だな、陣営生活は不便だし、男ばかりでむさくるしいし、おまけに矢の雨なんかが降るんだろうし」

 その言葉で、ティベリウスははたと気づいた。ルキリウスは少しだけテオドルスに似てやしないか。どこがかははっきりつかめないが。

「きっと君とマルケルスは陣営の中央で大事に守られるんだろうけど、戦地では安全なところなんてどこにもないって、以前祖父さんが言ってたよ。従軍商人をやってたことがあってさ、炎上する船から海に飛び込んで間一髪助かったって話が十八番なんだ。こんなこと言ったら怒るかもしれないけど、もし万が一カエサルが負けたらどうするの? 味方の軍が総崩れになって、陣営が叩きつぶされたら? 君は巻き添えで殺されるかもしれない。もしくはマルケルスと一緒に捕虜にされるかもしれない」

 それから見慣れた調子に戻り、大げさに身震いしてみせた。

「アントニウスは両刀使いだって噂だよ。君やマルケルスみたいなうら若い美少年が捕まったらどんな目に遭わされるか、ああ恐ろしや…」

「馬鹿言え。そんなことが起こるか」

「わからないよ。そっち方面のアントニウスの悪名は、キケロの弁論集で有名じゃん。それにマルケルスのご先祖様といえば、『ローマの剣』の息子がいる。父親の造営官同僚に二度も襲われて裁判沙汰になった、あの」

「いい加減にしろ。マルケルスは彼の継子だったんだぞ」

 ティベリウスは吐き捨てた。

「そんなことは起こらない。つまり、カエサルは負けない」

 それから決然とつけ加えた。

「起こったとしても、ぼくはマルケルスだけは守り抜く」

「ふうん」ルキリウスは吐息を漏らした。

「忠義なのもいいけどさ、少しは君に将来を賭けてるぼくのことも気にかけてくれていいんじゃない?」

「なんでだ。知るか、そんなこと」

「冷たいなぁ」ルキリウスは苦笑する。「これでもぼくは君を心配してるのに」

「自分の出世をだろう」

「ははっ。まあ、君は『ローマの盾』ファビウス・マクシムス並みの慎重派だからめったなことは起こらないだろうけど、あんまりはりきりすぎないようにね。たとえば昔、まだ子どもなのに内緒で武装して出陣した挙句、スキピオ・アフリカヌスに取っ捕まったヌミディア人がいたね。そのスキピオの息子からして、シリア王の捕虜になるとかあり得ない事態になったし。ほかにも、カルタゴの捕虜になったあと、ローマに交渉使節として送られたのに、自分の身柄引き渡しを拒否して戻って、象のボールにされた将軍がいたっけ。最近では、『我こそがマルクス・ブルートゥス!』と大ぼらを吹いて、アントニウスに身を投げだした馬鹿野郎もいる。まあ、つまり、ぼくが言いたいのはぼくを見習ってくれってことなんだけど」

「だれが」

「ひどいなぁ」

 ルキリウスはひとしきり笑った。それから真面目くさった顔になると、ティベリウスの肩に手を置いた。茶色の双眸をひたと据える。

「ともかく、無事で帰ってこいよ」

 指に力がこもった。

「なにしろ君にはぼくの元老院議席がかかっている」

「…ぼくは、お前をひいきにするなんて言った覚えはない」

「やれやれ!」

 羽ばたくように両腕を広げ、ルキリウスは天へ嘆いた。

「おべっか使いが大嫌いな君だから、あえて本音で話してみたのに。いったい君の愛を得るにはどうしたらいいんだい?」





 翌日、カピトリーノの丘で、宣戦布告の儀式が行われた。主催は翌年度執政官の二人、カエサル・オクタヴィアヌスとメッサラ・コルヴィヌス。

 宣戦がなされた相手は、エジプトの女王クレオパトラ。そして宰相ポテイノスと侍女のイラス、カルミオン。アントニウスの名前は出なかった。

 ユピデル神殿前に、首都に残った元老院議員全員が整列していた。丘の下では市民たちが、いつもの陽気さをこのときばかりは脇へ押しやり、厳かに祈りを捧げていた。最高神ユピテルに、軍神マルスに、ユリウス家の祖ヴェヌスに。

 最高司令官オクタヴィアヌスが幸運に戦うように。

 異国の女王の手から国家ローマが防衛されるように。

 香が焚かれ、犠牲獣が捧げられた。天へ昇る白煙に、首都ローマすべての民の目が注がれた。

 ティベリウスとマルケルスも儀式に参列していた。それぞれクラウディウス・ネロ家とクラウディウス・マルケルス家の嫡男にふさわしい、凛々しい甲冑姿。傍らには、まだ頼りなげな子ども二人を守るように、ユバが立つ。ローマ軽装騎兵の装備で、故国ヌミディアを思わせるものは、象牙をあしらった胸飾りだけだ。

 ユピテル神殿の門が開いた。

 紅紫色のマントを翻し、カエサル・オクタヴィアヌスが現れる。ただ独り、最高司令官として神と対話していた彼は、今やその加護を一身に授かったがごとくまばゆい。黄金にきらめく髪。陽光を反射する甲冑。肌は内側から白く光を放つよう。一点の穢れもなく、なに者にも穢され得ない、澄みきった美しさ。人ではなく神そのものであるような、堂々たる立ち姿だった。

 すでにアグリッパはブリンディジに入り、軍備を整えていた。最高司令官とその同僚執政官はカピトリーノの丘を下り、手勢を従えて出発した。

 十歳のティベリウスとマルケルスも、馬首を並べて首都をあとにした。







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