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ティベリウス・ネロの虜囚  作者: 東道安利
第二章 家族
12/57

第二章 ‐4

 


 4



「おやおや?」

 ルキリウスは手を水平にして額に当て、遠くを眺めるしぐさをした。見る対象は、もう目と鼻の先にあったのだが。

「あれに見えるは都のオアシス、カエサル庭園。そこでひときわ輝くは、神君カエサルの愛人御殿!」

「ほかの言い方はないのか?」

「ぼくはなにも間違ったことを言ってないと思うけど」

 眉をひそめるティベリウスに、ルキリウスはからりと一笑した。

「ぼくたちはあそこへ向かってるみたいだね」

 そのとおりだった。

 夕日はもう沈む寸前だった。冬のこの時間、いつもならば庭園に人はいなくなる。ただ今夜はその奥に、幾多の灯火に飾られて、真珠を散りばめたように輝く邸宅が浮かび上がっていた。

 その邸宅について、ルキリウスのあけすけな言い方はまったくの事実である。神君カエサルはそこに愛人を住まわせていた。正々堂々。川の対岸には妻カルプルニアがいたというのに。

 愛人とは、女王クレオパトラその人である。

 十四年前、女王はローマに来た。エジプトで愛人関係になった、神君カエサルを訪ねてだった。腕の中には、神君カエサルとのあいだにもうけたという赤ん坊を抱いていた。

 女王は、神君カエサルが暗殺されるまでローマに滞在し続けた。

 ルキリウスはのんびり天を仰ぎながら歩いていた。星が見えはじめていた。

「それにしても、我が愛人ここにありってローマじゅうに知らせてた神君カエサルもスゴイけど、女王も女王だよね。二年近くあそこの御殿にいたんでしょ? 自分の国をほっぽり出しといて、大丈夫だったのかな?」

 どうでもよかったので、ティベリウスはなにも言わなかった。

「おまけに帰り際に、弟王を殺しちゃったらしいね。やめてほしいよね、よその国に来てまで血なまぐさい姉弟喧嘩は。まったく王族ってのは、肉親みんなが消えてくれるまで安心できないのかな。おー怖い怖い」

 女王には姉が二人、弟が二人、妹が一人いたのだが、ほとんどが王位継承争いの渦中で命を落としていた。残る弟一人は、プトレマイオス十四世として、名目上、姉クレオパトラとエジプトの共同統治者になっていた。ところが、女王がエジプトへの帰途に着くころには、亡き人になっていたという。事故か病気か、あるいは女王が殺したのかははっきりしない。

「でもまぁ、世界の支配者になりたいなら、たしかに弟王は邪魔か。なにしろ息子のほうは神君カエサルの子どもで、エジプトのファラオで、さらにはアレクサンドロス大王につながる王子だもんね。 …うわぁ、確かに血筋的には世界最強じゃん!」

「神君カエサルの息子か、確かなわけじゃない」

 ティベリウスは固い口調で言った。ルキリウスはちらりと横目を送ってきた。

「でも、認知したんじゃなかった?」

「それは神君の死後、アントニウスが勝手に言ってただけ、らしい」

「うん、よくぞ自分の子と言わなかったね。今のカエサルに対抗するには、そっちのほうが百万倍効果的だ。まったく英雄色を好むとはよく言ったもんだね。神君カエサルは、子どもはユリア一人かと思いきや、ローマはもちろん、ガリアやあちこちに星の数ほど落とし子がいるって噂だね。アントニウスだって、認知してるのだけで七人だよ。はてさて、あのプトレマイオス十五世くんはどっちの子なのやら。カエサリオンくんで正しいのか、実はアントニオンくんなのか、どっちでもおかしくないよね。君も将来は英雄を目指すだろうから、あの二人を見習って、一生懸命励まないと。あのちっちゃな未来の奥さんに、なん人ティベリオンくんを生ませる予定?」

「なんの話だ!」

 ルキリウス・ロングスに余計なものの第一は、軽口だった。

 たわごとはともかく、プトレマイオス十五世である女王の息子は、カエサリオンと呼ばれていた。神君カエサルの子どもであることを、世界じゅうに知らせる名前だ。

 カエサリオンは、二歳で父親とされる人物を失った。

 暗殺後、女王がローマをあとにしたのは、ローマの政情不安ももちろんあったが、公開された恋人の遺言状に衝撃を受けたためであるという。神君カエサルは、遺言状で女王とカエサリオンに一言も触れていなかった。

 女王は大いに傷ついた。あまりにも残酷な裏切りに思えたのだろう。長く過ごした睦まじい時間、あのいつくしみはすべてまやかしだったのか、と。

 この時点までは、息子を後継者にとまでは思っていなかったのかもしれない。ただ一言、妻と子を思いやる言葉が欲しかった、愛情の証を遺してほしかった、それだけだったのかもしれない。

 神君カエサルにしてみれば、暗殺されるなど予定外であったから、二人に愛の証を遺す暇など無かったのだろう。だが、遺言状でなに一つ触れなかったことは事実だった。彼がすべてを遺し、後継者と定めたのはオクタヴィアヌス。実の息子ではなかった。

 遺言状の日付は、それが女王とカエサリオンのローマ滞在中に書かれたことを示していた。

 愛する男を失った悲しみは、たちまち怒りと屈辱に変わった。女王は裏切り者の葬式を待つことなく、息子とエジプトに帰っていった。

 ルキリウスの言うとおり、血筋だけを考慮すれば、カエサリオンほど支配者にふさわしい男はいない。そして神君カエサルの息子であることが、東方のみならずローマ以西も支配する正当性とも見なされうる。

 神君カエサルの姉の息子というだけのオクタヴィアヌスでは、この血筋にはとても太刀打ちできない。

 これほどたいそうな息子を持てば、どんな母親でも一度は世界征服を夢見てしまうものなのかもしれない。だが女王の場合、夢見るだけでは終わらなかった。エジプト女王の自尊心に加えて復讐心が、その夢を実現させんと燃え上がった。

 今や夢は大詰めを迎えつつある。立ちはだかる敵は、もはやただ一人。オクタヴィアヌスさえ倒せばローマはアントニウスのもの、そして彼女のものである。

 それが果たされれば、エジプトは世界最大の国家となるだろう。女王と息子は名実ともに「王の中の王」となり、晴れて遺言状に示されなかった「証」を手に入れる。神君カエサルが決して与えなかった、女王にしてみれば当然の権利である。

 女王の野心は、そのようなものであるのだろう。

 ティベリウスはどこか空しい気持ちになる。

 もしオクタヴィアヌスが敗北してしまえば、本当にそんな世界が訪れるのか。

 ルキリウスと二人、庭園の入り口まで来た。奥にたたずむ邸宅以外、今は暗い森だった。一本の細道にのみ、たいまつが一定の間隔を置いて立てられている。

「やだな、夜の森なんて。追はぎとかが出たらどうするの?」

 ルキリウスはぶるぶる震え上がったが、わざとらしかった。

「なにかあってもぼくは先に逃げるからね。恨まないでくれよ。人殺しにあっても、神君カエサルがブルートゥスにしたみたいに化けて出ないでくれよ。人さらいだったら、ぼくのお小遣いを身代金の足しにしてあげるから。一〇〇アスくらいしかないけど」

「なにわけのわからないことをぶつくさと」

 ティベリウスは冷淡な細目を向けた。

「心配しなくても、今夜はちゃんと警備されてる」

「あそこで宴会でもやってるから?」

 ルキリウスは光り輝く邸宅を顎で示した。

「君の家の行事ってのは、もしかしてあれかい?」

「宴会ってわけじゃない」

 ティベリウスは最初の質問に答えた。

「子どもの集まりだから、お酒はふるまわれない」

「子どもの集まり?」

 ルキリウス目をぱちくりさせた。

「お別れ会だ」

 そっけない口調で言うと、ティベリウスはずんずん庭園内に踏み込んだ。

 見張りの者たちが、ぽかんと見つめてきていた。ティベリウスがいつのまに抜け出していたのだろうと不思議がっているに違いない。もちろん、顔に覚えのない子どもを一人従えていようと、主人の継子を引き止めはしない。

「ちょっと待ってよ、お別れ会だって?」

 ルキリウスはわたわたとあとを追ってきた。

「主催はマルケルスとぼくだ」

 ティベリウスが教えると、ルキリウスははたと足を止めた。そのままいつまでも動かない気配だったので、ティベリウスもしかたなく足を止めた。

 振り返ると、ルキリウスは無表情でたたずんでいた。

「……なるほど」

 ルキリウスはぽつりとつぶやいた。

「そっか…君も、行くんだね、やっぱり……」

 それからゆっくりと、口の端をつり上げていく。

「そっか……そっかそっか、そっか………」

 ルキリウスは両腕を広げた。見つめてくる顔が泣き笑いのように見えたのは気のせいだろうか。

「お別れ会なんて言わないでくれよ。そんな辛気臭い言葉は嫌いだ。今日は君たちの出陣式じゃないか!」





 空の青が色濃くなる季節が、再びめぐってきた。

 夏のなごり日のまぶしい朝、ティベリウスとマルケルスはオクタヴィアヌスに呼ばれた。二人は肩を並べて応接間に向かった。マルケルスは沈んだ顔をしていた。

 昨日、ついに決定的公布が出された。ローマ元老院と市民は、カエサル・オクタヴィアヌスをエジプト攻めの最高司令官に任命した。

 ただし、敵とされたのはマルクス・アントニウスではない。かつてのローマ最高司令官について、市民は無視を決め込んだ。エジプトの毒薬で正気を失っていると見なしたのである。敵はあくまでエジプト、つまりローマ征服を企む女王クレオパトラだった。

 これでオクタヴィアヌスも公然と軍備を進めることができるようになった。すでに税金の徴収も終え、兵士や漕ぎ手も十分な訓練を積んでいた。彼はさっそく命令を発し、陸海の軍勢をターラントとブリンディジに集結させはじめた。

 敵エジプト側は、五百の軍船と三百の補給船を従えてアテネまで来ているという。そしてギリシアの全海域に散らばり、北から南へ拠点を築いているところだった。東方の豊かな富を惜しみなく届ける補給路を確保し、そのうえでイオニア海を隔てて本国ローマと対峙せんとしているのである。国家の防衛は、オクタヴィアヌスの肩に託された。

 まもなく航海に不適な季節が訪れる。年明けの春の訪れを待つのが通例だ。

 だが、戦争は確実となった。

「お兄様!」

 四人の妹たち駆け寄ってきた。するとマルケルスの顔からたちまち翳りが消えた。

「やあ、おはよう」

 だが妹たちの顔は明るくなかった。まず口を開いたのは姉妹のマルケッラだった。

「お兄様、もうすぐ戦争がはじまるの?」

「叔父様はまた戦争に行っちゃうの?」

「大丈夫だよ」

 マルケルスは二人の頭を優しくなでた。

「戦争はもうちょっと先だし、叔父上はすぐ帰ってくる。きっとね」

「でも、敵はもうすぐ海の向こうにいるって、みんなが言ってるわ。明日攻めてくるかもしれないのよ」

「そんなことはないよ」

 姉のマルケッラに、マルケルスは明るく言った。

「敵はまだ準備を整えていないよ。元老院議員の人も言ってた。毎日贅沢な宴会に明け暮れてるんだって。だから当分は来ないよ」

「でも、いつかは来るんでしょ?」

 妹のマルケッラが言った。

「戦争はどこでするの? ギリシア? イオニアの海? それともローマ? ここで戦争がはじまるの?」

「まさか」

 マルケルスは一笑した。

「敵は首都まで来るわけない。その前に叔父上にやっつけられる。戦争はここからずっと離れたところでやるはずだよ」

「でも、敵はお父様なんでしょ?」

 目を潤ませているのは姉のアントニアだった。

「お友だちが言ってた。アントニアのお父様がローマに攻めてくるんだって」

「違う。その子はわかってないんだ」

 マルケルスは断固とした口調で言った。

「聞いてないのかい? アントニアのお父様は悪くない。祖国を攻めようなんて思ってない。お父様は、エジプトの薬でおかしくされちゃったんだよ」

 マルケルスは姉のアントニアを抱いた。

「だから悪いのは女王なんだ。敵は女王で、お父様じゃないんだよ」

「でも、お父様がやっつけられちゃうのよね。そうでなければ叔父様がやっつけられちゃうのよね」

 姉のアントニアは兄の肩に顔をうずめた。

「アントニアは叔父様に勝ってほしいけど、お父様にもう一度会いたい。もうお顔を思い出せないの…」

「悲しまないで、アントニア」

 マルケルスは腕に力を込めた。

「お部屋にお父様の絵があるだろう? 公園には石像もあるだろう? 大丈夫。お父様はいつでもアントニアのそばにいるよ。優しかった昔のままだよ」

 姉妹のマルケッラは、妹にうらやましそうな目を向けていた。妹のマルケッラが唇をとがらせた。

「アントニアはいいわよ。もし戦争で叔父様が負けっちゃっても、きっとアントニウス様が守ってくれるもの。私たちが鎖で縛られて引きまわされても、へっちゃらでしょ?」

「マルケッラ! いったいなにを考えてるんだ? めっそうもないことを口にするな!」

 兄に叱られ、妹のマルケッラも涙目になった。

「絶対負けないって言えるの、お兄様? アントニウス様はとっても強い将軍なんでしょ。これまで世界じゅうで戦って勝ってきたんでしょ?」

 マルケルスは言葉に詰まった。妹のマルケッラはさらにたたみかけた。

「もし叔父様が負けっちゃったらどうするの? アントニアたちは大丈夫でも、私たちは守ってくれる人がいなくなっちゃうのよ?」

「クレオパトラはお母様が嫌いだから、きっと私たちにいじわるするわ」

 消え入るような声で姉のマルケッラが言った。

「私たちはきっと見世物にされて、それから女王の奴隷にされちゃう」

「もしくはどこか遠くへ売られるんだわ」

 妹のマルケッラの声は甲高くなった。

「ガリアとかアフリカとかで、下品なお金持ちに死ぬまで働かされるか、もっとひどいことされるのね。でなければ毒を飲まされて、殺されちゃうんだわ!」

「馬鹿なこというんじゃない!」

 マルケルスは怒鳴り、妹二人をかき抱いた。

「そんなことがあるもんか! いいかい、首都ローマはガリア人を追い出してから三百六十年間、一度も敵の侵入を許してないんだ。あのハンニバルを相手にしたときだってそうだった。だからそんなことはありえない。そんな恐ろしい考えは、ローマを守ってくれる神々に無礼になる。だからもう、絶対に考えるな」

 四人の妹一人ひとりの顔を見つめ、マルケルスは力強く言った。

「叔父上は必ず勝つ。そしてなにがあっても、お前たちはぼくが守るから!」

 この痛切な空気を、妹のアントニアだけは気にしていないようだった。きょろきょろと兄と姉たちに首をまわし、不思議そうにしていた。その横に、いつのまにやらドルーススがいた。

「ちびのアントニアはぼくが守ってやるぞ」

 アントニアは目をぱちくりさせた。それから言った。

「アントニアはおっきなおふねがみたいわ。もうすぐくるの?」

 ドルーススは肩をこけさせた。

 ティベリウスは声をかけた。

「マルケルス、そろそろ――」

「うん」 

 妹たちを見たまま、マルケルスはうなずいた。

「なにも心配しなくていいからね。仲良くしてるんだよ」

 再び肩を並べて歩き出す。マルケルスは沈んだ顔に戻っていった。

「大丈夫か?」

 ティベリウスは横目で見た。

「…うん」

 マルケルスは答えたが、顔つきは暗くなる一方だった。

「やっぱりアントニウスはひどいよ。子どもたちにこんな怖い思いをさせてるんだもの…。家族だったのに」

 声が少し歪んでいた。

「マルケッラもアントニアもかわいそうだよ。家族がアントニウスのために引き裂かれようとしてる。ううん、もう引き裂かれてるんだ、アンテュルスが……」

 マルケルスは唇を噛んだ。

 ティベリウスは無言のまま歩いた。

 あまり仲の良い義兄弟には見えなかったが、マルケルスにとってアンテュルスはあくまで家族なのだろう。マルケルスの言うとおり、家族は引き裂かれた。

 けれど、とティベリウスは思う。

 そもそも、どういういきさつで生まれた家族だったか。アントニウスとオクタヴィアヌスが、仲良くしていたかったからだ。なんのために。アントニウスはパルティア遠征のため、オクタヴィアヌスはセクトゥス・ポンペイウスのためにである。前者は失敗に終わったが、いずれも結果は出た。だからもう、仲良しは終わり。

 では、なぜ仲良しでいなければならなかったか。対立していたからだ。なんのために。

 欲しいものがあったのだ。両者とも、十二年前、神君カエサルが亡き人になってから、ずっと。

 それはただ一つの、後継の座。

 こうなることがわかっていたのではないか。両者とも、こうなることを待ってさえいたのではないか。

 つまり、こうなることがはじめから決められていた家族だった。

 恐ろしい考えに、ティベリウスは思わず首を振った。そんなことを考える自分が、だれより残酷でいまわしいと思った。

 家族、子どもたち、新しい命。彼らの心を顧みるつもりがなかったというのか。それが政略なのか。

 傷つけることがわかっていながら、愛する者を利用するなんて――。

 !

 ちょっと待て。

 わかっていながら、利用した?

 だれが、だれを――?

「ティベリウス?」

 声をかけられ、はっと我に返った。

 マルケルスが心配そうに顔を覗き込んできていた。

「大丈夫?」

「ああ、うん…ごめん」

 マルケルスはティベリウスが自分と同じ気持ちでいると考えたようだ。また暗い顔をして、うつむき加減になった。

 応接間の天幕が近づいていた。

「やっぱり避けられないんだよね、戦争…」

 自分の足先を見たまま、マルケルスはつぶやいた。

「もう覚悟はできてたつもりなんだけどな。もう女王を倒すしか、アントニウスをまともに戻す方法はないんだって。もちろん、叔父上が勝てば、アントニウスはどうなるかわからないけど…」

 少しだけ、目線を上げた。

「もしかしたら、どこかの田舎で引退するくらいで済むかもしれないよね。ユルスやアントニアたちのためにも、そうなればいいのに」

 ティベリウスはなにも言わなかった。その望みがかなわない場合の結末を、マルケルスはわかっているはずだと思った。

 だがマルケルスは、別の場合の結末も考えているようだった。沈痛な顔で、再びうつむいた。

「でもマルケッラの言うとおり、もし叔父上にもしものことがあったら、ぼくがみんなを守らなくっちゃ。母上のことも」

「そんなこと、考えるな」

 ティベリウスは言った。

「一人で背負い込んじゃだめだ」

 マルケルスはティベリウスを見た。

「マルケッラたちにはああ言ったけど、敵はもうギリシアにいる。どうしてここへやって来ないんだろう?」

「それは――」

 ティベリウス言葉を続けるのに苦労した。

「…君のいうとおり、自堕落な宴会に忙しいんじゃないのかな。それに、冬も近い」

 結局、ほか大勢のローマ人と同じように答えた。なにかにもっと適切な説明ができるようにも思えたのだが。

 しかしマルケルスは、敵がやって来ない理由を本当に知りたいわけではないのだろう。

「ティベリウスは怖くないの?」

 ティベリウスは足を止めた。応接間の前だった。

「ぼくは、本当は怖いよ」

 ゆれる双眸を見返しながら、ティベリウスは無言でいた。

 すると、マルケルスは控えめに笑ったのだった。

「ティベリウスは強いから」

 彼は言った。

「前も言ってたけど、アグリッパがいれば負けっこないと思ってるの?」

 ティベリウスは、それでも無言のままでいた。

 そのとき、天幕がめくれた。

「来たか」

 その蔭から、オクタヴィアヌスが顔を出した。二人はあわててかしこまった。

「ごめんなさい! 遅くなってしまって…」

「かまわない。さあ、入りなさい」

 オクタヴィアヌスは笑顔で二人を招き入れた。

 勧められるまま、二人は長椅子に並んで腰かけた。オクタヴィアヌスは机を挟んで正面の椅子に身を沈めた。カエサル家家父長の椅子だ。

「外がなにやら騒がしかったが、どうかしたのか?」

 そう訊かれ、ティベリウスとマルケルスは顔を見合わせた。答えたのは、マルケルスだった。

「はい…。妹たちが心配しています。戦争のことで」

「そうか」

 オクタヴィアヌスは軽くうなずいた。

「無理もないな。エジプトと戦うことが正式に決まったのだから。相手はこれまでのどの敵よりも強大な兵力だ。もちろん、それでも私は勝つつもりだが――」

 オクタヴィアヌスは二人を交互に見つめた。

「私にとって、これは生涯で最も重要な戦となるだろう。そう確信している」

 二人の背筋に、自然と力がこもった。オクタヴィアヌスのまとう静謐な威厳がひときわ澄みわたり、空気を凛と引き締めていくようだった。

 それでも、彼の微笑みは柔らかだった。

「ところで、お前たち自身はどう思っている? まもなく始まる戦を」 

 彼はティベリウスに顔を向けた。

「ティベリウス、どう思う?」

 ティベリウスは数度まばたきをした。少しのあいだ、沈黙した。

 カエサルは子どもの意見を聞くために、ぼくたちをここに呼び出したのだろうか。

「女王とアントニウスをほうっておいては、国家のためにならないと思います」

 それだけ答えると、口を閉じた。

「そうか」

 オクタヴィアヌスはうなずき、視線をマルケルスに移した。

「お前はどうだ、マルケルス?」

 マルケルスは叔父を見つめ、それから自分の膝に目を落とした。両拳がそこで震えていた。

「どうした?」

 叔父が問いかけると、マルケルスは唇を噛み締めた。歪む目をぎゅっと閉じ、細く開き、それから意を決したように、顔を上げた。

「ぼくは怖いです。戦争が怖いです」

 ティベリウスは内心で息を呑んだ。しかしマルケルスは続けた。

「叔父上が死ぬのが怖いです。アントニウスが死ぬのが怖いです。母上や妹やユルスが悲しむのが怖いです。ぼくの家族を女王に奪われるのが怖いです。ローマで大勢の人が死ぬのが怖いです」

 涙が、両眼からあふれた。

「ぼくは臆病者です」

 マルケルスは体を折った。横ですすり泣く彼を眺めたまま、ティベリウスはまったく動けなかった。

 マルケルスは、戦争のあらゆることを恐れていた。

 押し殺した声だけが、しばし応接間に響いた。

「マルケルス」

 オクタヴィアヌスの声は穏やかだった。

「落ち着きなさい。お前は、少し感情的になっているようだ」

「ごめんなさい…」

 マルケルスはしきりに拳で顔をぬぐった。だが肩が小刻みに震え続けていた。

「情けないのは…わかっています…」

「お前は情けなくなどない」

 オクタヴィアヌスはきっぱりと言った。

「臆病者でもない。お前は優しいのだ。だれより優しくて、責任感が強い。それで思い詰めてしまう。お前は強いよ、マルケルス。お前は恐怖を直視できる。少し行き過ぎるきらいもあるが…」

 オクタヴィアヌスはそっと微笑んだ。

「心細いか? 私ではお前の守護者におぼつかないか?」

「とんでもない!」

 マルケルスは叫んだ。涙が飛び散った。

「ぼくは叔父上を信じています!」

「でも、お前はアントニウスのことも想っている」

 オクタヴィアヌスの言葉に、マルケルスは固まった。それから身を縮めるようにしてうなだれた。

「お前はアントニウスが好きだったんだね?」

 雫が、マルケルスの膝にしたたり落ちた。

「…優しい人でした。強くて、たくましくて、豪快で……ぼくはあこがれてました。ぼくはあの人の継子だったけど…本当によくしてくれました。短いあいだだったけど…実の子と同じくらいに……」

「お前の辛い気持ちはわかる。私も正直、彼が嫌いではないよ」

 真剣そのもの口調で言いながらも、オクタヴィアヌスが含み笑いしているのをティベリウスは見た。アントニウスを思い浮かべているのか。

「だが、我々は好き嫌いで戦をするのではない。お前だってわかっているはずだ。ローマはアントニウスを憎み、彼のために戦をするのではない。我々はエジプトのために――彼をあそこまで堕落せしめた、女王ただ一人のために戦わねばならないのだ」

 マルケルスはうなずいた。目頭をぬぐい、何度も何度も。

「アントニウスはお前たちを捨てた」オクタヴィアヌスは淡々と言った。「女王のせいで」

 マルケルスは歯をくいしばった。

「もう彼はお前の知るアントニウスではない。女王の野心に利用されるばかりの人形と成り果てた。そんな彼を見るのを、ローマはこれ以上耐えられない。わかるな? ほかに手はないのだ」

 マルケルスは目を閉じた。記憶の中のアントニウスを葬り去ろうとしているかのようだった。

「戻ってきてくれると信じてたのに…。でもぼくの気持ちなんてかなわなかったんだ。継子だもの」

 鼓動が、ティベリウスの胸を突いた。

 マルケルスは目を開いた。頬を一筋、涙が伝い落ちたが、もうぬぐわなかった。

「ぼくはもう継子じゃない」

 姿勢を正し、決然と言った。

 オクタヴィアヌスはうなずいた。

「お前は私の甥だ、マルケルス。私の血を分けた、大切な。なにがあろうと、それは変わらない」

 マルケルスはかすかに唇を歪めた。叔父に抱きつきたい衝動を必死でこらえているように見えた。

「去年、お前がトロイヤ競技祭で立派に組長の務めを果たしたとき、私は本当にうれしかったのだよ。九歳の若さで、お前はだれより勇敢に演技を引っ張った」

「それは――」マルケルスは横に目をやった。「ティベリウスがいてくれたから」

「本番に、ティベリウスはいなかった」

 オクタヴィアヌスは思い出させた。

「それでもお前は見事にやり通した。臆病者にできることではない。お前には勇気があるのだ、マルケルス。なぜならお前は『ローマの剣』マルケルスの子孫、そして女神ヴェヌスに連なる我らユリウス一門の子孫だ。お前には、私や先代カエサルと同じ血が流れているのだよ」

 マルケルスの目が輝いた。歓喜と誇らしさに、全身が震えていた。

「覚悟を決めてくれるな? アントニウスへの想いも、家族への愛も、すべて背負ったうえで立ち向かうことができるな? 私の甥として、大きな試練に。国家ローマのために」

「はい」

 マルケルスは大きくうなずいた。叔父をまっすぐ見据える目に、もう迷いはなかった。

「ぼくは覚悟を決めます。ぼくは叔父上の甥です。だからもうなにものも恐れません」

 ティベリウスは目をしばたたいていた。オクタヴィアヌスに目を向けると、彼は微笑を返してきた。

「ティベリウス、お前はマルケルスを助けてくれるな?」

「はい」

 ティベリウスはうなずいた。

「ですがカエサル、それはどういう意味ですか? 大きな試練に『立ち向かう』とは?」

「ああ」

 オクタヴィアヌスの目が深い色を帯びてきた。いよいよ二人をここに呼びつけた、その本題に入るつもりだ。

「マルケルス、ティベリウス」

 彼は告げた。

「お前たちを決戦の地へ連れて行く」





 その日、二人は興奮のあまり眠れない夜を過ごした。





 十月の真昼、カエサル家の中庭で、ティベリウスとマルケルスはじっと動かずにいた。堅苦しい顔つきで真正面を向いて立ち、ときおり横目で視線を交わし、照れくさがって微笑み合う。

 二人の前には、男が一人ずつついていた。休みなく手を動かす彼らは彫師で、ティベリウスとマルケルスの石像を制作しているところだった。初めての体験に、なんだかこそばゆい感じがしてならない二人だった。

 マルケルスの像は家族のためだった。おそらく年明けには、叔父について戦争に向かう。そのとき残された家族が、彼を生き写しにした作品を見て、心の慰めとするわけである。兄が留守のあいだ、マルケッラ・アントニア姉妹は石像のそばを離れないに違いない。毎日何度も話しかけて過ごすのだろう。

 母オクタヴィアは、制作途中のそれを見てすでに涙ぐんでいた。マルケルスは彼女の生きがいだ。その最愛の息子が戦争に従軍する。ましてや敵は元夫アントニウスとなれば、すでに胸は張り裂けきっているだろう。だが母は、息子の固い決意を聞いていた。

「叔父上に従って、アントニウスの運命をこの目で見届けます」

 彼は母にそう誓っていた。もちろん、母にとっては無事帰還することこそ、なにより大切な願いである。オクタヴィアは涙ながらに息子を抱き、それだけ何度も約束させていた。

 一方、ティベリウスの像は二体制作されることになっていた。一体はマルケルスのと並べて、カエサル家の中庭に置かれることになる。だがもう一体は、アグリッパの家に安住することが決まっていた。

 ティベリウスはつい途方に暮れて空を仰いでしまった。これはアグリッパたっての願いだった。坊ちゃん、我が愛娘ヴィプサーニアのために、ぜひとも未来の婿殿の像を頂戴したい、と。

 自分とヴィプサーニアとの婚約を知らされたのは、年が明けてすぐのことだった。「知らされた」のではあるが、一応アグリッパはティベリウスに承諾を願うという形をとってはくれた。すでに両家のあいだで、間違いなく合意は成立していたのだが。両家とは、ネロ家とアグリッパ家ではない。父ネロはすでに亡く、家父長は九歳でしかない。そういうわけで婚約は、カエサル家とアグリッパ家の合意の下で成立した。

 当然、ティベリウスは困惑した。結婚相手を親が決めること自体に文句を言うつもりはない。ローマの貴族に生まれた身分はわきまえている。高い身分であればあるほど、色々な意図で親が子の縁談をまとめる。オクタヴィアヌスのように、なんの政治的理由もなく好んだ相手を妻にするほうが、めずらしいのである。だから、できれば自分で決めたいと思いつつも、受け入れるべきものだとは思う。思うのだが……

「早すぎるのではないですか?」

 ティベリウスはアグリッパに直接言った。

「ぼくはまだ九歳です。ヴィプサーニアはまだ一歳です。なにも今すぐ婚約だなんて言わなくても――」

「早くなどありません」

 アグリッパは大真面目に言い張った。

「もたもたしている間に、メッサラ・コルヴィヌスあたりが娘でも授かろうものならどうしますか。私の大事な坊ちゃんを、メッサラなどに取られてなるものですか」

 このように言われてば、ありがたく受け入れる以外になかった。

 ティベリウスはアグリッパが大好きだ。未来の義父が、アグリッパでうれしい。だが娘を連れて現れるたび、ティベリウスを「婿殿! 婿殿!」と呼んではばからないのは、正直困り果てる。

 娘のヴィプサーニアも、可愛いとは思う。思うのだが、それはようやくよちよち歩きはじめたばかりの赤ん坊を見ての感想であって、その子が婚約者だとか、未来の花嫁だとか言われても、まったく実感がわかない。ヴィプサーニアのほうはもちろん、なにを実感するのかをまずもって認識していない。

 だがこの婚約は、よほどのことがないかぎり成就することになりそうだ。なぜならこれはオクタヴィアヌスとアグリッパによる取り決めだからである。

 婚約ならば、マルケルスもしていた。四歳のときに、セクトゥス・ポンペイウスの娘とである。だがこの婚約は、オクタヴィアヌスとセクトゥスの関係が悪化するや否やなかったことにされた。アントニウスの長男アンテュルスも、オクタヴィアヌスの一人娘ユリアと婚約関係にあるが、これも事実上破綻していた。

 要するにこれらの婚姻契約は、対立関係にある者同士が当面の和平を保つために結んだものである。剣を抜く用意が整うや、長く保たれることはなかった。

 ところがオクタヴィアヌスとアグリッパはそうではない。二人は元から親友である。今後もオクタヴィアヌスにとって、アグリッパが無二の協力者であり続けることは疑いもない。ティベリウスも、この世に未来永劫不変のものがあるとしたら、それはオクタヴィアヌスとアグリッパの関係であると思う。だから、この二人が望んでまとめた契約が破綻するとは考えにくいのである。

 今から十二年後、ヴィプサーニアが十四歳になったとき、二人は結婚式を挙げるのだろう。

 ティベリウスは途方に暮れた目を庭の花壇に向けた。そこをちょうど今、件の未来の花嫁がとことこ駆けていた。ドルーススに先導され、妹のアントニアに手を引かれて。もちろんのこと、二歳年下のヴィプサーニアが遊びに来るたび、今度はアントニアが「姉貴風」を吹かせるのである。

「いいこと、ヴィプサーニア。ティベリウスはちょっとむすっとしてみえるけど、ほんとはとってもやさしくて、たよれるオトコなのよ。こわがらずにおはなしするのよ」

「ぼくの二人目の妹だな」

 胸を張るドルーススだが、アントニアは言った。

「ちがうのよ。ティベリウスとケッコンしたら、ヴィプサーニアはドルーススのおねえさんになるのよ」

「なんだって?」

 ドルーススはのけぞった。

「じゃあ、ぼくとお前がケッコンしたらどうなるんだ?」

 ところで、この婚約の意図とはなにか。オクタヴィアヌスとアグリッパの関係をさらに固めることがある。だがティベリウスにオクタヴィアヌスの血は一滴も流れていない。つまり、アグリッパ家に貴族クラウディウス氏の血という威光を与えることも狙いなのである。

 ティベリウスは詳しく知らないのだが、アグリッパの生まれは低いという。神君カエサルにその軍事的才能を見いだされなければ、今の活躍はなかった。

 実のところ、ネロ家の奴隷やクリエンテスたちは、若家父長の婚約に少なからず不満をもらしたのである。高貴なるクラウディウス・ネロ家の嫡男が、父親がなにをしていたかもわからない男の娘と結婚など嘆かわしい、後見人カエサルの横暴である、と。

 これを聞いたティベリウスは、プロレウスになだめられるまで 彼らに憤懣のかぎりをぶちまけた。

 いったいなにが問題なのか。父ネロも一時は新入り元老院議員であったキケロの娘を妻に望んだ。アグリッパはキケロに負けず劣らず国家に貢献している人物だ。無礼もはなはだしいじゃないか!

 あとで冷静になってから、ティベリウスは一人赤面した。オクタヴィアヌスやドルーススには実際冷やかされもした。それほどまでこの婚約を大歓迎しているとは知らなかった、と。

 クラウディウス氏関係者の不満にかかわらず、母リヴィアは息子の婚約に反対しなかった。貴族の娘らしく、ひときわ誇り高い性格ではあるのだが、夫オクタヴィアヌスのやることに口を挟むつもりはないのだろう。夫の右腕の婿になることが、息子の将来の保証になると考えたのかもしれない。

 結局この婚約に不満をもらしたのは、クラウディウス氏関係者を除けば、マルケルスただ一人だった。

「ティベリウスは、マルケッラかアントニアと結婚すると思ってたのに~」

 と、悲しげに頬をふくらませたのである。将来はティベリウスと義兄弟になると信じて疑わなかったらしい。ティベリウスには、マルケルスが早くもそこまで考えていたことが驚きだった。

 今、この婚約が明白にしている事実は一つ、ティベリウスの立ち位置である。

 ティベリウスはこの意図をしっかり認識しているつもりだ。オクタヴィアヌスはマルケッラでもアントニアでもなく、ヴィプサーニアを自分の婚約者にした。それは継父が自分にアグリッパの役目を期待しているからにほかならない。アグリッパが彼にとってかけがえのない友であるように、ティベリウスもマルケルスにとってそうであれと望んでいる。将来は傍らでマルケルスを引き立て、彼に欠けたところを補い、いつでも頼れる相談相手となる。剣となり盾となり、彼を守る。継父はそう望み、アグリッパもそれに同感した。

 ティベリウスは考える。このような生き方は父ネロの遺志に反するだろうか。クラウディウス・ネロ家の男としてふさわしいだろうか。

 それが国益にかなうならば、反しないはず、ふさわしいはずと考えている。マルケルスを助けて国家に貢献する。彼のそばで切磋琢磨し、いずれは執政官になり将軍になり、ローマを担っていく。

 それで十分、クラウディウス・ネロに生まれた役目を果たせるのではないか……。

 ドルーススとアントニアがなにやら熱心に議論を続けているので、ヴィプサーニアは一人で歩きはじめた。興味深げに輝く目が、きょろきょろと辺りのあらゆるものに向けられていた。

 ふと、ティベリウスと目が合った。婚約者としてはともかく、ヴィプサーニアはティベリウスを見覚えていたようだ。にこっと笑いかけてきた。そうかと思うと、すぐさま向きを変えて駆け出し、彫師の背後に隠れた。

 ティベリウスが見ていると、ひょいと小さな頭が覗いてきた。両目をにんまり三日月型にして、すぐにまた消えた。

 ティベリウスは目をしばたたいた。するとヴィプサーニアがまた顔を出した。そしてふと上を見、今度は両目をまんまるにした。見つめる先では、石像のティベリウスが出来上がりつつあった。

 ヴィプサーニアはくるりと反転した。両腕をぶんぶん振りながら、家の中へ駆け込んでいった。

 ティベリウスはあっけにとられてその後ろ姿を見送った。

 …まさか照れているのだろうか、二歳にもならない赤ん坊が。

 いや、たぶん、やっぱり怖がられているのだろう。





「え?」

「ユバも行くの?」

「そうとも!」

 あ然とする二人に、ユバはどんっと胸を叩いてみせた。

「だから心配無用だよ、ティベリウス、マルケルス。二人ともこの私が守ってあげるからね!」

 ティベリウスとマルケルスは無言で顔を見合わせた。

 聞けば、まもなく始まるエジプトとの決戦に、ユバは騎兵隊副官の一人として加わるという。

 言われてみれば、ユバは今年で十八歳だった。ローマでは十七歳から軍役に志願できるのだから、あり得ることではある。

 だが、ユバはローマ人ではなかった。アフリカの亡国ヌミディアの王子である。父王がローマ軍相手に戦い、敗死し、四歳で凱旋式の見世物にされて早十四年、彼が仇であるローマ軍に参戦するという。

 だが、ティベリウスとマルケルスが意味深長に見つめ合うのは、ユバが異国から来た人質だからではない。そんなことは忘れて暮らしている。ローマに連れてこられたユバは、ローマ人と同様に育てられた。ローマ人のように教育を受け、ローマ人のように肉体鍛錬に出かけ、ローマ人のように友人たちと交流した。とくにアシニウス・ポリオが建てた図書館には足しげく通い、今では若いながらその学識と教養の深さで名が知られつつある。ティベリウスとマルケルスには良き兄のような存在であり、家庭教師が帰ったあとで勉学を続けたいなら、必ず頼りになった。

 だから、ユバの身の上が問題なのではない。問題は、ユバがまったくもって戦闘に向いていないことが、二人の目にも明らかなことである。

「なんだい、その心もとなげな顔は?」

 ユバは鷹揚に言った。誇らしげに胸を張っていた。

「心配はいらないよ。これでも私は世界屈指の勇猛な騎兵隊で知られたヌミディアの元王子、それすなわち、かのスキピオ・アフリカヌスの親友であった、勇王マシニッサに連なる男なのだからね」

 その話を聞くと、祖先の資質は必ずしも子孫に継がれるわけではないという残酷な事実を実感せざるをえない。

 ティベリウスが思うに、ユバはオクタヴィアヌスと同じくらい、戦場に出してはいけない男の一人である。

 ティベリウスもマルケルスも、ときどき競技場でユバを見かける。だいたい隅で倒れているか、へたばっている。肉体鍛錬中は常にぜいぜいと心配になるほど息を喘がせ、槍を投げればあさっての方向に飛んでいき、ボールを受ければ自打球でひっくり返る。故国の意地か、乗馬はそこそここなすが、武具を身に着けたとたん、馬上で身動きできなくなる。ティベリウスとマルケルスが両腕をうんうん引っ張って疲労困憊のユバを家まで連れ帰ったのは、一度や二度ではなかった。

 最近、ティベリウスとマルケルスは剣術の練習を始めたのだが、早くもユバでは相手にならなくなっていた。痛いっ、やめてくれっ、とたちまち悲鳴を上げてうずくまってしまうのである。

 そんな彼が、参戦。

 ティベリウスとマルケルスは参戦するのではない。二人は十歳でしかない。最高司令官オクタヴィアヌスについて従軍するのみである。名門の子弟は年長の身内の監督下で軍生活を初めて経験する伝統があるが、それにしても異例の若さだ。オクタヴィアヌスはそれほどまでして、二人を自分にとって生涯最重要の戦に立ち会わせたいのである。「お前たちのことは必ず守る」、オクタヴィアヌスはそう約束した。

 だが、ユバは従軍ではなく、参戦である。

 ティベリウスはユバの温厚な人柄を愛している。勉学の面では尊敬してやまない。将来はきっと一流の学者になるのだろう。

 だが戦場に出してはいけない、絶対。

 カエサルは、なんでユバを連れて行くことにしたんだろう。

「ぼくたちがユバを守らなくっちゃ」

 マルケルスのささやきに、ティベリウスは深いうなずきを返した。





「今日はここまでにする」

 そう言うとテオドルスは、教材の書物をさっさと巻き戻しはじめた。

 ティベリウスは窓から外を見た。柱廊の影の角度を確認した。

「まだ早いのではないですか?」

「いや、すでに今日の給料分の内容は教えた」

 にべもなく言ってから、テオドルスはつけ加えた。

「心配しなくても、君がローマを出発するまでに私が教えたいと思うことは教えておく」

 手早く机の上を片づける教師を、ティベリウスは黙って見つめた。書板を開いたままだった。

「先生」ティベリウスは尋ねた。「ぼくは冷酷な男でしょうか?」

「ようやく気づいたのか?」

 手を止め、テオドルスは大げさに目を丸くした。

「さよう、君ときたら冷酷で、残忍で、そのうえ執拗な男ときている。君の頬を張ったのは、何ヶ月前だったかね? 未だに君はそのことを根に持って、ことあるごとに私をひねくれた質問でいびる、虐げる、拷問する」

「ぼくはそんなつもりはありません」

「私をやっつけるために、このあとはあのアフリカの若者と恒例の予習に励むのだろう。そして私は君の異様に細かい質問に攻め立てられ、また残業というわけだ。まったく君は『血でこねた粘土』だよ、ティベリウス。世界の二流以下の教師にとって、君は天敵だ。こんな性格に育ってしまったのは決して私の責任ではないと、雇い主がわかってくれるといいのだが」

 テオドルスの皮肉にはもう慣れてしまっていた。ティベリウスは無視して続けることにした。

「ぼくはマルケルスの気持ちを少しもわかっていなかった。これから始まる戦争で、カエサルとアントニウス、どっちが勝っても負けてもマルケルスは傷つく。それでもマルケルスは覚悟を固めたけど、内心すごく辛い気持ちで従軍するに違いない。ぼくは彼になにもしてあげられない」

「うん、君が優しい言葉のかぎりを尽くし、細やかな気配りで他人の心を癒すようになったら、私は学問の道を引退し、故郷に戻って農夫にでもなるしかあるまい。いや、生徒の性格を見誤る目など、つぶしてしまったほうが良いだろうな。盲目のインチキ占い師にでもなるか」

 ティベリウスの家庭教師テオドルスは、出会った当初からこの調子だった。嫌われているのだろうが、少なくとも話を聞いて、反応を返してくれる。

「ぼくの父は、かつてアントニウスを頼りました。カエサルと敵対しました。だから二つに引き裂かれたマルケルスの気持ちを、察してしかるべきだったのに」

「君の父はもう死んだ。それに君が物心ついたときには、すでに君の父とカエサルとの問題は片づいていた。その終わった話を、養子縁組されたことを気に病んだ君が、勝手に色々ほじくり返し、勝手に独りで悩んだのだろう」

 もちろんテオドルスにも、父ネロについて調べるために協力してもらっていた。授業中に質問を浴びせるというやり方で、望むいかんにかかわらず。

「まあ、私は君の父上に感謝しているがね。死んで後も私に高給を払い続けてくれているし、君を大変意欲的に学ぶ生徒にしてくれた。教えがいがあるよ、君は。これもすべて父上が養子に出したおかげだ。養子にされたおかげで、君は自分がなに者なのか必死になって知ろうとした。私らから貪欲に学んだうえで、自分で悩み、考えた。でなければただの小憎たらしい優秀な生徒で終わるところだった」

 テオドルスに師事すれば、学識のほか皮肉の技術も身につけることができそうだ。いや、ひねくれずには褒めない技術か。

「それでなんの話だったか。ああ、そう、君がかわいそうな友人に同情できないから冷酷だという話だったが、まず第一に、君は自分のことを心配すべきであると忠告する。しかし君はなんのことやらわからないだろうから無駄であるし、実のところ君にしかわからない問題だから私にも教えようがない。ただ一つ言うとすれば、君と友人が抱える問題は本質的に違う。君は九歳で実父と死別、友人は五歳で継父から遺棄、そして同じ人物の保護下に置かれたが、君にとってその人物は継父、友人にとっては叔父であった。この意味がわかるかね?」

 ティベリウスがなにか反応する前に、テオドルスは先を続けた。

「君はローマの内乱がらみで引き裂かれた点で、君と友人は同じであると言う。同じ継子だと言う。だが、君と君の友人では、そもそも見ているものが違うのだ。君が同情しなくても、君の友人の涙には多くの人が同情するだろう。ところが、いつか君が独り涙にくれる日が来ても、だれも君を理解し、同情しないだろう。君がそれを拒絶するからだ。君は誇り高すぎる。君は自分が同情されたくないから他人にも同情しない、それだけだ」

「……」

 ティベリウスは頭が混乱する感覚を覚えていた。それでも、次の問題点は口にした。

「ぼくはカエサルが心配です。でもカエサルが敗北した場合のことを考えても、心配にはならないのです。マルケルスはそれも恐れています。ぼくは想像力が欠如しているのでしょうか? それともやっぱり冷酷だから、女王の横暴を恐れる彼を思いやれないのでしょうか?」

「女王の横暴か。なるほど、そのへんの演劇や剣闘士試合よりは面白い見世物になりそうだな」

 テオドルスはぐるりと目玉を上向けた。それから左手を机に突いて教え子を見下ろした。

「女王がローマに入ってきて好き放題をやらかすと、本気で君は思っているのかね?」

 一瞬、言葉につまった。ティベリウスは答えようとした。

「でも、女王は以前ローマに来たことが――」

「そうだったな。だがもし女王が勝者然としてローマに入り、元老院と市民を睥睨して持参した王座にでも腰を下ろす。そんなことが起こりそうかね? 起こったとして、長続きするかね?」

 なにも言えない教え子に、テオドルスは醒めた目を投げた。

「君にとってそんな世界は興味がないのだろう。見る価値もないと思っているのだろう」

 興味がない。女王が征服した世界には。

 では、なにに興味があるのだ。見る価値がある世界とは、なんだ。

「神君カエサルは言いました」

 うめくような声で、ティベリウスは引用した。

「『人は見たいと思うものを、現実と思う』」

「見る必要のないものまで見なければならんのかね? もしかしたらそれは現実ではなくて、夢かもしれない」

「先生は、マルケルスが夢を見ているとおっしゃるのですか?」

「さぁな。だが、言っただろう。君と彼では見ているものが違う。君が血でこねた粘土なら、彼は純粋無垢な大理石だ。周囲も彼をそう思っているだろう。だが赤い粘土は違う景色を見る。敵がギリシアでもたもたしている理由も、なんとなく察しているのではないかね? それで君は危急の恐れを感じない代わりに、自分ののんきさが冷酷の証ではないかと心配になっている」

「なにをですか? ぼくにはわかりません」

 ティベリウスは食いつくように言った。

「先生は、敵がすぐローマにやって来ない理由がおわかりなのですか?」

「いや、戦争のことはわからんよ。ましてや飲んだくれの思考になど、興味もない」

 ひらひらと両手を広げ、テオドルスはかわしてみせた。

「だが感覚とは案外大事なものだよ。君がそれを言葉にできないのは、まだ勉学と成熟が足りないからなのだろうな」

「変な買い被りはやめてください」

 ティベリウスは逃がさなかった。

「先生のご意見をお聞かせください」

 テオドルスはさもうんざりしたような目で教え子を見つめ、重々しくため息をついた。それから口を開いた。

「女王にしろアントニウスにしろ、ローマを攻めたところでなんの得があるというのかね? 本国ローマを手にすれば、必然市民と元老院を相手にしなければならなくなる。飲んだくれどもにとっては煩わしいだけではないのか? ガリアやヒスパニアやアフリカが手に入るが、それらの領土など、東方の富に溺れて暮らす道楽者にはまったく魅力がない。少しばかり税収が増える代わりに、面倒事を余計に抱え込むことになる。彼らにしてみれば、東方でだれにも文句を言われず好き放題していたほうが、間違いなく幸せだ。できることなら、このままいつまでもギリシア以東に居座っていたいだろう。ローマを二分割してな」

 ティベリウスはぽかんとなった。

 テオドルスの言うとおりだった。実際のところ、少なくともアントニウスにとっては、現状で不都合などないのだ。神君カエサルが遺した権力と国家を、完全な状態で手にしたいとさえ思わなければ。

 実際、元老院議事録によると、アントニウスは書面でローマを東西に分けることをオクタヴィアヌスに提案し、ただちに一蹴されたという。彼にはこのまま東方に安住するかぎり、本国を攻める理由などなかった。

 だが、女王はどうだろう。野心を遂げたいと思っているのではないか。しかしテオドルスの言うとおり、得があるか。その野心を満足させる以外に。

 つまり、積極的に戦争をしなければならないと、一番思っているのは――。

「まあ、理由はどうあれ、君はまもなくその目で結果を見ることになる。戦争というのが気に食わないが、君にとっては貴重な経験となるだろう。世界を見るのは良いことだ。生きる喜びだ。君の人生がどれくらいになるにしろ、生涯にわたって胸に残る宝となるはずだ。世界の空気を吸い、あらゆるものを目に焼きつけておいで。その体験が、君という人間の血肉を作り上げていくのだから」

 テオドルスはまっすぐにティベリウスを見て言った。自然と胸にしみこんできたのは、その言葉がいつもより皮肉を含んでいなかったためだろうか。

 テオドルスははるか東方、シリアの内陸部に位置するガダラという街の出身であるという。若き日に戦争捕虜となり、ローマに連れてこられたときは奴隷の身分だった。その道中、彼はなにを見たのだろう。ティベリウスもこれから同じものを見るのだろうか。

 テオドルスはすぐに元の調子に戻った。

「おっと、言い忘れていたが、私は君らにはついて行かないよ。火矢の雨降る陣営で授業など、真っ平御免だからな。君のことはネストルに引き継ぐ。彼は私と違って温厚で人好きのする男だ。君とも上手くやってくれるだろう」

 ネストルはマルケルスの家庭教師だ。従軍中も甥が勉学を続けられるように、オクタヴィアヌスが同行させることにしていた。

「帰ってきたら、また先生のところへ戻ります」

 ティベリウスはうなずいたが、テオドルスは無表情で応じた。

「君がいつ帰ってくるのやらわからないが、おそらく君と入れ替わりに私はローマを出ることになる。おかげさまでそろそろ金も貯まったことだしな。東方情勢が落ち着き次第、この薄汚くやかましい世界の中心とはおさらばだ」

 ティベリウスは茫然となった。

「…故郷へ戻られるのですか?」

「いや」テオドルスは首を振った。「学校を開くつもりだ。私の長年の夢でな。君のような小憎たらしい子どもではなく、成熟した大人を相手に教えるのだ。君から解放されるまで、あとふた月というところか」

 唇を引き結び、ティベリウスはうなだれた。このような言い草をされても、テオドルスを尊敬していた。彼は間違いなく第一級の学者だ。嫌われているのはわかっていたが、それでもまだ教えてほしいことが山ほどあった。

「もっと派手に喜んでいいのだよ、君」

 テオドルスは言った。

「だいたいどうせ遠くない将来、カエサルは私を首にしたかもしれない。こうなる運命だった」

「えっ」ティベリウスは顔を上げた。「それはどういう意味ですか? なんでカエサルが――」

「君にあまり難しい詩を読ませないようにと、以前苦情をいただいた。古代文書の解読など、アテネやアレクサンドリアの学者に任せておけと」

「あ、あれは、ぼくが頼んで教えてもらったものです」

「さよう。でも彼に言わせれば、私が君に不要な古語や廃語などへの関心をあおり、実用的知識や技術を教授することを怠っているらしい」

 ティベリウスは驚いていた。オクタヴィアヌスが自分の勉学の中身にそれほど関心を持っていたとは知らなかった。口出しするほど気にかけていたとも思わなかった。

「ぼくは学ぶべきことは学んでいます。だからとやかく言われる筋合いはありません。先生にも責任はありません」

「ほう、言うな。さすがは貴族。いくら保護者でも、生き方にまで口を挟まれたくないか」

「ぼくは勉学が好きです。興味のあることを、どこまでも追究していいはすです」

「だが君は学問のために学問をする型の人間ではない。違うか?」

 穏やかだが、テオドルスの声はわずかに高まっていた。

「君の学ぶ知識は使うためにあるのだろう、国家を担うために。だからこれでいい。粘土とは、あらゆる建造物を固める原料だ。だれにも顧みられないが、当たり前にそこにある。そしてその粘土を赤く染めるのは、君自身の血にほかならない」

 ティベリウスははっと息を呑んだ。なぜテオドルスに魅かれるのか、その理由が今わかった。どうして気づかなかったのだろう。

 テオドルスは、父ネロに似ていた。

 声の調子を下げ、教師はつぶやくように続けた。

「けれども、もし将来、君が学問の道をもっと追究したいと思ったなら、ロードス島に来るといい」

「ロードス島…」

 神君カエサルも留学した、学問を志す若者憧れの地である。

「良いところだ。また訪れたいどころか、二度と離れたくないと思わせる。私はあそこで学校を開く」

 そう言うと、テオドルスは嘆かわしげに首を振った。

「君の家の金で建てる学校だからな、嫌でも迎え入れねばなるまい。やれやれ…」





 四人の子どもが走り去っていく。口汚く呪いの言葉を吐き捨てて逃げていく。

 ティベリウスは肩で息をつき、彼らの背中を見送った。追いかけるだけの体力は残っていなかった。怒りに燃える目でにらみながら、頬と口元をぬぐう。赤黒い血で汚れた拳が、まだ震え続けていた。

 ティベリウスは目を閉じた。激情を抑え込むまでしばらくかかった。呼吸からほとばしるそれが治まると、足の裏を地面に思いきり叩きつけて、踵を返した。

 夕日がマルスの野を真っ赤に染め上げていた。人気のなくなったフラミニア競技場。その端の列柱廊の下に、少年が一人うずくまっていた。

 ティベリウスは彼に近づいた。

「大丈夫、ユルス?」

 ユルスは顔を上げた。いまいましげにティベリウスをねめつけた。

「お前は…なにをやってるんだよ?」

「なにって――」

「気分がいいか、ぼくを助けて?」

 背後の壁に手をついて、ユルスは立ち上がろうとした。そこで苦痛に顔を歪め、がくりと膝をついた。

「ユルス!」

「かまうな!」

 駆け寄るティベリウスを、ユルスは噛みつくように拒絶した。

「ほうっておいてくれ。これはぼくの問題で、お前には関係ない」

「そんなこと、できるわけない」

 ティベリウスは首を振った。ユルスの血だらけの口を見て、また怒りが込み上げてきた。

「こんなこと、ほうっておいていいわけない!」

「黙れよ」

 ユルスはうめいた。

 それでも顔に負った傷は少なかった。体に負った傷に比べれば。連中は、わざと目立たないところを狙って痛めつけたのである。

 ティベリウスはひたすら首を振り続けた。自分がもっと早く気づいていたら――。そんな悔しさが頭を埋めつくした。

「馬鹿だよ、お前は」

 ユルスは吐き捨てた。

「一人で勇者を気取って、無駄に巻き添えを食って、それで今さらどうなるっていうんだよ?」

「いつから?」

 ティベリウスは問いただした。

「いったいいつからこんなひどいこと――」

「いつでもいいだろ。お前には関係ない」

「関係なくない!」

 ティベリウスは怒鳴った。

「君はぼくの家族だ! 君に卑劣な真似をするあいつらを、ぼくは絶対に許さない!」

「家族だって?」

 ユルスは冷笑を浮かべた。

「ああ、お前は一応家族だろうな、カエサルの。でもぼくは違う。あいつらにもそれがよくわかってる」

 ユルスは四人が逃げた方向を顎でしゃくった。

「ぼくがだれなのか、ローマじゅうの人間が知ってる。毎日どこの広場でも宣伝されてる。ぼくは女王の虜の息子。数多くの不名誉な行いを重ねた挙句祖国を攻めようとしている男の息子。それでもなおカエサルのお情けで生きてる、国家の敵の息子なんだよ」

 ティベリウスはなにか言おうとした。だが口だけが空しく動き、ついに言葉が出てこなかった。夕日に焼かれたユルスの顔は、頬肉を削ぎ落されたかのように、やつれきって見えた。

「…あいつらのやることも当然だよな」

 他人事のように、ユルスはつぶやいた。ティベリウスはきっと顔を上げた。

「そんなことない。あいつらは最低だ。君の父親がだれであれ、君をいじめる権利なんて、だれにもない。本当に、いつからなの? どうしてこれまで、だれにも言わなかったの?」

「言ってどうなる? たいしたことじゃないし、なによりぼくが惨めになるだけだ」

「たいしたことじゃないって――」

 気づかなかった自分を責めながら、ティベリウスは記憶をたどった。ユルスが体調不良を理由に肉体鍛錬を休みがちになったのは、この夏あたりからだった。あまり外出もせず、家にこもりがちだった。それでもオクタヴィアヌスが最高司令官に任命されて後は、普段とまったく変わらない様子で鍛錬に出かけていた。意地を張っていたのか。

 数日前、鍛錬後の浴場で、ティベリウスはユルスの体に不自然なあざがあることに気づいた。もちろん鍛錬中にけがをすることはあり得るので、これまでは目についたとしても、ほかの若者のものと同様、気に留めることはなかった。ユルスもそう言い訳をして、ティベリウスやマルケルスから離れていった。いつも離れたがるのだ、彼は。だがその日見かけたあざは、明らかに異様で、数が多かった。

 今日はマルケルスが熱を出して休んでいた。それで、ティベリウスはひそかに遅くまで残り、ユルスを待っていた。

 最近の情勢が、いじめを激化させたのだろう。

 だがもっと前からだ。ティベリウスは唇を噛む。アントニウスが異国で凱旋式を挙行したときからか、オクタヴィアを離縁したときからか、とにかくもっと前からだったに違いないのに――。

「取り返しのつかないけがになったらどうするの? 骨や内臓が傷ついたら? もし、君の身に万一のことがあったら――」

「だれかが困るのか?」

 かぶせてきた声は、ぞっとするほど抑揚がなかった。

「『ぼくが困る』というほど、お前は偽善者じゃないよな? マルケッラやアントニアたちか? あいつらはマルケルスさえいれば、困りも悲しみもしないよ」

「そんなこと――」

「マルケルスだって、これも昔の報いだとほくそ笑むさ」

「マルケルスはそんなことしない!」

 ティベリウスは再び怒鳴りつけた。

「マルケルスは激怒する。泣いて悲しむ」

「だろうな」

 細く長く、ユルスはため息をついた。

「だから言わないんだ」

 疲れきったユルスの顔には、あきらめにも似た色が表れていた。ティベリウスは口を閉じて、またうなだれた。

 二人はしばらく微動だにせず、沈黙していた。二人の影を長くしながら、夕日がティベリス川の向こうに沈んでいく。その紅焔が雲を挟んで夕闇とせめぎ合い、天空を毒々しいほど鮮烈に染め上げていく。

「お母様には言うなよ」

 ふいにユルスは言った。一瞬でまどろみから覚醒したかのような、鋭い声だった。

「でも――」

「でもじゃない。絶対に言うな。言ったら、ぼくはお前を許さない」

 憎しみさえ込めた目で、ユルスはティベリウスをねめあげた。

「もちろん、マルケルスにも妹たちにもだ。告げ口なんてするな」

「…どうしてそこまで…?」

「お母様はもう十分に苦しんでる」

 額に手を当てて、ユルスはうめいた。

「ぼくの父上とカエサルのこと、マルケルスの従軍のこと。だからこのうえぼくなんかのことで、余計な世話をかけたくない」

「そんな言い方するなよ」

「お前にはわからないのか?」

 苛立たしげに、ユルスは言った。

「ぼくがあの家で暮らせてるのはお情けなんだ、お母様と、カエサルの。知らないのか? お母様がアテネで父上に追い返されたとき、カエサルはお母様に、自分の家に戻るよう強く勧めたんだぞ。アントニウスとフルヴィアの子まで面倒を見る必要はない、そう言ってね」

 ティベリウスは愕然となった。カエサルがユルスの処遇についてそのように言っていたなんて、知らなかった。

 ユルスは引きつった笑みを浮かべた。

「まったくカエサルは正しいよ。お母様にそんな義理なんて、ないんだもの。自分を捨てて異国のあばずれを選んだ男の子どもを、血なんて一滴もつながってない子どもを、どうして引き取らなきゃならない? それでもお母様は、父上の家にとどまり続けた。ぼくのこともこれまでと変わらず、実の子どもと同じように育ててくれた。そしてとうとう家を追い出された時も、ぼくを独りにしておけないって、当然のようにカエサル家に連れていったんだ」

 顔の端から、笑みが崩れていった。

「お母様はカエサルの言うとおりにすべきだった。ぼくのことなんて捨てればよかったんだ」

 ユルスは膝を抱え込み、顔をうずめた。くぐもった声でしゃべり続けた。

「お母様は優しい人だ。優しくって、残酷だ…」

 肩が小刻みに震えだした。

「お母様はマルケルスのために泣いてればいいんだよ。ぼくなんかのために泣いちゃいけない。ぼくを愛する義務なんて、ないんだから…。ぼくは、お母様の子じゃ…ないんだから……」

 長いあいだ、ユルスは顔を上げなかった。身を縮めたまま、体を震わせ続けていた。

 ティベリウスは彼になにもしてやれなかった。言葉もかけてやれなかった。ユルスの苦しみから目を逸らしてはいけない。それだけ自分に課すしかなかった。やるせなくて、はがゆくて、立っていられないほど胸が痛かった。

 ――お母様の子じゃ…ないんだから……。

 腹の中には、得体の知れない暗い重みが居座っていた。

 ユルスの真正面に膝をつき、ティベリウスはじっと動かずにいた。

 空の紅焔が引きはじめた。星が一つ、また一つと灯っていく。すでに夕闇の衣を羽織ったクイリナーレの丘が、黒々とした裾を伸ばしてマルスの野を侵食していく。

 ティベリウスは待ち続けた。ユルスの赤く縁どられた瞳が、肘の上からのぞいた。

「お前も行くんだよな、戦争に」

 ユルスはぽつりと言った。

「マルケルスのついでで」

 ティベリウスは口を開いたが、結局またなにも言えずに閉じた。

「あのときから、お前はいつもマルケルスのお守をしているな」

 あのときとは、五年前のカエリウス丘での出会いのことを言っているのだろう。黙ったままのティベリウスを、ユルスはじっと見つめていた。

「お前はそれでいいのか?」

「…どういう意味?」

「この先もずっと、マルケルスのお守でいいのかって言ってるんだよ。まぁ、選択しようのないことなのかもしれないけど」

 ため息をついて、ユルスは顔を上げた。

「あいつといるかぎり、お前はいつまでもあいつのついでだぞ。一番にはなれないんだよ、お前も」

 ――お前も。

「まぁ、それでもぼくよりはマシか」

 かすかに顔を歪めながら、ユルスは体を解いた。それから壁にもたれつつ、ゆっくりと立ち上がる。手を貸そうと駆け寄りかけたティベリウスを、鋭い目つきで拒絶する。

「ぼくは――」ティベリウスは答えた。「マルケルスが大事だ。彼を守りたい。守るって決めてる」

「そうかい」

 ユルスはそっけなく言った。ふらりと背中を壁から離した。ティベリウスとすれ違い、足を引きずりながら進みはじめる。

「せいぜいがんばってこいよ、みんなの大事なあいつのために。そのあいだ、ぼくが妹たちとドルーススのお守をしていてやるから。まったく面倒だからお前と代わりたいところだけど――」

 夕闇に呑まれ、振り返ったユルスの顔には空虚な笑みが浮かんでいた。目だけが、背後に灯る星のどれよりも光っていた。

「カエサルが…情け深いあの人が、ぼくを連れて行くわけないよな。父親を殺す戦いに」

 立ちつくすティベリウスに、ユルスは背を向けて歩きだした。

「そんなことは起こらないだろうけれど、もしもアンテュルス兄さんに会ったら言っておいてくれよ。ぼくは兄さんがうらやましいって」




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