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ティベリウス・ネロの虜囚  作者: 東道安利
第二章 家族
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第二章 ‐2

 


 2



 ルキリウスの大きなくしゃみに、ティベリウスは眉根を寄せて振り返った。

「ぐす…あれ、鼻水がかかったかい?」

 ティベリウスはなにも言わずにまた歩き出した。

「どこに行くんだい? きみのおうちはあっちじゃないの?」

 ルキリウスはパラティーノの丘を指差しているのかもしれないが、ティベリウスはずんずん歩き続けた。

「くしゅんっ…ねえ、ぼくはついに君がぼくをおうちに招待してくれる気になったのかと、期待したんだけど」

「家になら来ただろ」

 ティベリウスはそっけなく言った。

「去年、父上の葬式のときに」

「そうだったね」ルキリウスの声には笑いがまじっていた。「葬式ってのは、有名人のお宅拝見ができる絶好の機会だからね」

 ティベリウスは今さら怒りを再燃させる気にもなれず、むっつり顔のまま足を進めた。

「あのさぁ、君は違うんだろうけど、ぼくは今日も汗水たらして言語に絶する過酷な鍛錬を終えたところなんだよ」

 ルキリウスは嘆いてみせた。

「疲れ果てておなかが空いてるし、そのうえせっかくお風呂に入ってあったまった体が、この寒空の下でまた冷めきっちゃったし。ああ、おいしいものが食べたい。温泉に入りたい…」

 ティベリウスは足を止め、半眼で振り返った。

 ルキリウスはなおも笑っていた。彼は両腕を広げた。

「ぼくが風邪を引いて寝込んだら、君は看病してくれるかい? ぼくの手を握って『ルキリウス、死ぬな! 死んじゃ嫌だ!』って泣いてくれるかい?」

「馬鹿なこと言ってないで、寒くて空腹ならそのへんの露店で肉でも買え」

「だって、君が待ってくれないからじゃないか」

 文句を言いながらルキリウスは従者の奴隷を手招きし、橋の手前に立つ露店を指し示した。

「君はいいの、ティベリウス? きみは生まれてこのかた風邪さえ引いたことがないくらい丈夫らしいけど、そろそろおなかが空く時間じゃない?」

「向こうに着いたら料理がある。お前にもふるまう」

「それを早く言ってよ!」

 ルキリウスはわたわたと従者の奴隷を追いかけた。

 ティベリウスはため息をついた。彼は従者も連れず一人で来ていた。良いことではないが、家の用事から抜け出すところをだれにも見られたくなかったのだ。

 あらゆるところがいまいましいやつだが、それでもルキリウスには悪いとは思っている。夜が近づくにつれてますます冷え込むなかを、ティベリス川の向こう岸まで連れて行くつもりなのである。

 夏ならば空にはまだまだ白い太陽が座す頃だろう。でも今はもはや夕日の赤帯が広がっていた。

 その夕空の方向へ、ティベリウスは進む。スブリキウス橋の上を大股で、うつむき加減に歩く。ルキリウスと奴隷があとからついてきた。当然二人とも手ぶらだった。

「きれいだね」

 斜め後ろのあたりで、ルキリウスがつぶやいた。たぶん夕焼けのことを言っているのだろう。

「空気が澄んでるからかな、いつもより光が強く見える。まるで向こう岸が燃えてるみたいだよ」

 それからティベリウスに目をやった。

「あれ、見ないの?」

「まぶしいんだよ」





 二月、元老院が非常などよめきで満ちた。オクタヴィアヌスがアントニウスの遺言状を公開したのである。

 もちろん、当のアントニウスは健勝でいる。遺言状はヴェスタの巫女に預けられていたのだが、オクタヴィアヌスは無理を言って、祭祀長から件の物を手に入れた。

 不平不満が議場を飛び交った。怒り出す者もいた。不敬が過ぎるのではないかと、オクタヴィアヌスの支持者でさえ眉をひそめた。

 ところがそんな彼らも、遺言状の内容を知らされるや、不快の念など忘れてしまった。

 自分が死んだらアレクサンドリアに埋葬してほしい。どこで死んだにせよ、クレオパトラの下へ送ってほしい。アントニウスはそう書いていたのである。

 信頼も同情も完全に裏切る言葉だった。ローマ人は、自分が永遠に眠る場所にことのほかこだわる。そんな彼らの代表たる地位にいる男が、埋葬場所に異国を選んだ。異国の愛人の傍らを望んだ。これは祖国ローマを捨てることと同義とされて当然だった。

 遺言状の内容は、瞬く間に市民に知れわたった。裏切りに傷ついたのは、彼らも同様だった。彼らは広場で叫んでまわった。

 ――アントニウスは我らを捨てた!

 そのように反アントニウスの気運がますます高まるなか、季節は春を迎えた。

 東方から船にゆられ、アッピア街道を馬で駆け、アントニウスからの手紙がまた一通、ローマに届いた。宛は元老院や友人やオクタヴィアヌスではなかった。それはもう何年も帰っていない、カエリウスの丘のアントニウス邸に運ばれた。

 アントニウスは家族をも捨てた。





 カエサル邸の庭に、オクタヴィアと六人の子どもたちがたたずんでいた。出迎えたオクタヴィアヌスは姉の肩を抱き、必死に怒りを抑えた様子でなぐさめの言葉を口にしていた。

 マルケルスはティベリウスに、気恥ずかしげな笑みを向けていた。かすかに引きつっているのは、傷ついた色を押し隠そうとしているからか。

 遅かれ早かれ、こうなることがわかっていたかのようだった。

 ――大丈夫。

 一緒に暮らせてうれしいよ。

 母上のために、怒ったり悲しんだりすべきなのはわかるけど…。

 ゆれる目がそう言っていた。

 ティベリウスは彼を抱きしめた。





 マルクス・アントニウスは妻オクタヴィアに離婚を言い渡した。のみならず、自邸から追い出した。

 どうせ帰って来ないのにひどいと、ティベリウスも思う。

 というのも、オクタヴィアは子ども六人全員を連れて家を出たのである。アントニウスの子ではないマルケルスとマルケッラ姉妹は当然としても、アントニア姉妹は彼の娘で、ユルスにいたっては、アントニウスと前妻フルヴィアの息子である。したがって家父長権はアントニウスにあるのだ。

 ティベリウスだって腹立たしい気持ちになる。アントニウスは妻を離縁しておいて、我が子三人にはなんの配慮もしないのか。

「…冷遇しているわけではない。たぶん、彼はなにも考えていないんだろう」

 そう言って額を押さえたのは、メッサラだった。

「今ごろになって離縁を言い渡したということは、いよいよ女王も本腰を入れてきたわけだな。今こそきっぱりカエサルと縁を切れと、尻を叩いたわけだな」

 結婚生活はおよそ八年続いたが、夫婦はもう四年も互いの顔を見ていなかった。

 最初、オクタヴィアはすぐに出ていくと言った。息子マルケルスが父親から相続した家があるから、と。しかし弟夫婦が熱心に説得した。

「あなたを一人にしてはおけません」

 リヴィアは熱心な口調で言った。ティベリウスには少し意外だったが、母にとって女主人の地位は、義姉の存在でゆらぐものではないのだろう。

「それに子どもたちにとっても、こちらで暮らすほうが良いに決まっています。私の息子のティベリウスとドルーススも、あなたのマルクスや可愛い娘たちを大切に思っています。今までと同じように睦まじく、これからは一つ屋根の下で暮らすのですよ」

「どうか私に、子ども六人を抱えた姉を独り捨て置いたなどという、情けない弟の汚名を着させないでください」

 弟オクタヴィアヌスも言った。そして六人の子どもたちを見まわし、最後に甥マルケルスの肩に手を置いた。

「家族が増えるのは良いことだ。私はこの甥や姪たちを我が子と思って育てることを約束します。姉上も、今はお辛いでしょうが、あなたたちを加えたカエサル家が、今後ますます栄えることになると私は確信しています」

 こうして、カエサル家は一気ににぎやかになった。

 子どもの歓声が絶えなくなった中庭で、今日もマルケルスが妹たちに囲まれていた。

「お兄さま、マルケッラと一緒にお絵かきしましょ」

「だめよ、お兄さまはマルケッラとおままごとするのよ」 

 姉と妹のマルケッラが、それぞれ兄の左右の腕を引っぱってもめていた。

「お兄さまはアントニアにご本を読んでくださるのよ」

 そのうえ姉のアントニアが後ろから服の裾を引き、さらには妹のアントニアが腰にしがみついて足をばたつかせていた。

「おにいさまはアントニアとむしとりにいくのよ、ねっ?」

「ティベリウス」マルケルスは苦笑した。「助けて」

 それでもうれしそうではあった。ティベリウスは黙って笑い返し、もうしばらく静観することにした。

 四人の妹はそろって兄のマルケルスに参っているのだ。「優しくてかっこいい、世界一のお兄さま」と四対の目をきらめかせては、ことあるごとに取り合いをしていた。

 そんな魅力的な兄の代わりを、ティベリウスには務められそうにない。

 あるときなど、メッサラ家のマルクスがつぶやいたものだ。目の前では、今と同じ光景が繰り広げられていた。

「後宮にお出ましの王様ってあんな感じかな。うらやましいなぁ…」

 それから目線をティベリウスに移し、しみじみと肩を叩いてきた。

「うんうん、君にもいつか春が来るよ」

 余計なお世話だとど突いてやったが、妹たちがマルケルスを好く理由はわかる。マルケルスはいつも優しく、快活で、面倒見が良い。妹たち一人ひとりの話に熱心に耳を傾ける。

 一方、これはマルクスの弁だが、ティベリウスはなんというか、とっつきにくい。いつもむっつりとして怒っているように見えるという。ティベリウスにはそんなつもりはないのだが、実際、妹マルケッラには一度、「ティベリウスはこわい」と言われたことがあった。

「女の子にしてみればちょっと近寄りがたいんだよ。イイ男ではあるんだから、もっとこう陽気にふるまってみたら? こんなふうに、にっこり、ニカッ、キラッと……」

 それからマルクスは黙り込み、なにを想像したのか、目を泳がせはじめた。

「…ごめん、ぼくが悪かった」

 それで、もう一度ど突いてやった。

 ともかくそういうわけだから、ティベリウスにできることはない。残念ながら、マルケルスのために助け船を出すことはできない。

 しかしそこへ、もう一人の兄が現れた。

「マルケッラ、お母様が呼んでいるぞ。今日はお裁縫を習う日じゃなかったのか?」

 義兄ユルスに、マルケッラ姉妹はむくれた顔を見せた。

「もうちょっといいでしょ?」

「だめだ」ユルスはにべもなかった。「お母様をお待たせする気か? それにマルケルスだって、これからネストル先生の授業があるんだ。これ以上困らせるな」

 マルケッラ姉妹は兄の腕を下ろし、沈んだ顔を見合わせた。

「大きいアントニアもだ」ユルスはたたみかけた。「お前は字を習うんだったな」

 姉アントニアもしょんぼりとなった。女児三人ともそろって悲しげに沈黙した。

 そこへ、いきなりドルーススが割り込んだ。

「ちびのアントニアには、ぼくが字を教えてやるぞ。ぼくはお前よりいっぱい言葉を知ってるから、教えられるんだぞ」

 四人のうち、妹のアントニアだけはドルーススより年下だった。それで、ドルーススは兄貴風を吹かせていた。

「いやあよ」

 しかし妹アントニアは言った。

「ドルーススよりマルケルスおにいさまのほうがやさしいし、じがきれいなんだもの。アントニアはマルケルスおにいさまじゃなきゃいや」

「アントニアはわがままだぞ」ドルーススは教えた。「いつもマルケルスにばっかくっついて、甘えん坊だぞ」

「ドルーススのほうがわがままよ」アントニアは引かなかった。「ドルーススだって、ティベリウスにあまえんぼうよ」

「な、なにおう!」ドルーススは飛び跳ねた。「ぼくは甘えん坊じゃないぞ。お前は生意気なんだぞ」

「ドルーススのほうがなまいきよ」

「なんだよ、生意気の意味も知らないくせに! お前はぼくより年下なんだぞ」

「とししたでも、アントニアのほうがオトナのオンナなのよ」

 これを聞いたマルケルスがぷっと吹き出した。しかしアントニアはつんとすまして、かまわない様子だった。

「だからアントニアは、ほんとはドルーススよりしっかりしてて、おねえさんみたいなのよ」

「大人の女ってなんだよ?」たまらずドルーススが迫った。「ちびのお前のどこがお姉さんだよ? いちばん子どもじゃんか!」

「ドルーススだってこどもよ。ダダッコちゃんなのよ」

 ティベリウスも思わず吹き出した。

「なんだよ!」今やドルーススはかんかんだった。「見てろよ! 今に子どものお前をびっくりさせてやるからな! ぼくの強いところを見せてやるからな!」

 そう言うと、ドルーススはどこかへ駆けていった。

 ティベリウスはにやにやしながらその後ろ姿を見送った。

 ドルーススも相手が悪い。なにしろこのアントニアは五人の兄と姉にもまれて育ったのだ。まだ四歳とはいえ、口喧嘩でかなうはずがない。

「まったく…」

 ユルスは呆れたように首を振っていた。それからもう一度妹たちをせかした。

「早くしろ。でないと鞭を持ってくるぞ」

 マルケッラ姉妹と姉のアントニアは、悲しげな目でマルケルスを見上げた。その一人ひとりの頭を、マルケルスはなでてやった。

「お昼になったら、遊んであげるからね」

 それで妹たちはしぶしぶ兄を離した。

 ところが、そこへドルーススが戻ってきた。にたにた笑みを浮かべ、いかにもなにかを企んでいる様子だ。

「ほらっ、受けてみろ!」

 その手から、黒いものが跳び出した。

 たちまちいくつもの悲鳴が上がった。それは大人の手のひらほどもある蛙だった。姉妹は逃げ出した。マルケルスまでが仰天して退いた。

「でかいな…」

 ユルスは目を丸くして、地面に居座るそれを見た。

「ぼくの子分なんだぞ」

 ドルーススは得意げに言った。

「こんなにおっきいのを手なずけたぼくは強いんだぞ。ぜんぜんこわくないんだぞ」

「ドルースス――」大人げないとティベリウスは言おうとしたが、ドルーススは子どもなのだ。それに、年上の男たる意地もあるだろう。

 だが、逃げなかった妹が一人だけいた。妹のアントニアは目をらんらんと輝かせ、ためらうそぶりもなく巨大蛙を抱き上げた。そしていそいそとドルーススのほうに駆けてきた。

 あんぐり口を開けるドルースス。

 その顔面に、べたりと蛙が跳びついた。

「うわあっ!」

 たまらず尻もちをつく。

 ティベリウスはまた吹き出した。ユルスでさえ笑みらしきものをこぼした。

「あ、アントニア~!」

 ドルーススは顔を真っ赤にした。アントニアは不思議そうに首をかしげたが、すぐにただならぬ気配を感じ取ったらしい。くるりと踵を返して逃げ出した。

「待てえーー!」

 カエサル家の子どもたちはそのように日々を過ごしていたが、一方大人の世界では、一刻一刻と決定的事態が近づきつつあった。





 ティベリウスとマルケルスは並んでフォロ・ロマーノを横切った。今日もフラミニア競技場で肉体鍛錬を終えた帰りだった。

 世界の中心の混雑も収まりつつある時間だった。人々が浴場へ足を向けるからだ。

 ふと、マルケルスが足を止めた。

 少し進んでからティベリウスが振り返ると、彼は神君カエサルの銅像を見上げていた。

 像は、その当人を祭る神殿の前に立っていた。暗殺の年、マルクス・アントニウスによって置かれたのだという。石碑にはこう刻まれていた。

『祖国の貢献者、父に』

「父様……アントニウスがこの言葉を彫らせたのは、父親殺しにするためだったんだろうね。神君カエサルを殺めた人たちを」

 マルケルスがつぶやくように言った。父親殺しとは、ローマで最悪の罪になる。

「それでも、ぼくはなんだかあったかい気持ちを感じるんだ。きっと尊敬してたんじゃないかな、神君カエサルを、父親みたいに…」

 ティベリウスは黙ってマルケルスの横顔を見ていた。これまで彼の口から継父の話をほとんど聞いたことがなかった。一緒に過ごしたのは五歳までである。それでもマルケルスは、血のつながりのないアントニウスを「父様」と呼んでいた。

 実父を覚えていない彼の目に、当代きっての勇将と謳われた継父がどのように映ったか、想像に難くない。

 しかし、もうその親子の縁は切られてしまった。今マルケルスにとってかつての継父は、叔父オクタヴィアヌスの敵だ。

 マルケルスはゆっくりとティベリウスに顔を向けた。

「きっともうすぐ、アントニウスと叔父上は戦うんだろうね。どっちかが勝って負けないと、終わらないんだよね」

 まだ和平の可能性もないわけじゃないよ、とティベリウスは言えなかった。きっと気休めに過ぎないから。

 マルケルスは泣き笑いのような顔になった。歪んだ目をまた像に戻した。

「叔父上はぼくや妹たちにとっても良くしてくださる。正直、これまでは君とドルーススがちょっとうらやましかったんだ。いつでも叔父上がそばにいてくださるんだもの」

 ティベリウスはかすかに顔を曇らせた。ほんの半年前まで、彼には実の父親がいた。だがマルケルスにはそのように見えたのだろうし、実際否定もできなかった。

「カエサルは、君を実の息子同然に思っているよ」

 ティベリウスは教えた。

「辛いだろうけど、心細く思う必要はないんだ。これからはカエサルがいるんだから」

「わかってる」マルケルスはうなずいた。「ぼくは大丈夫だよ。それに、いちばん辛いのはユルスだもの…」

「…そうだね」

 ユルスは今日の肉体鍛錬を休んでいた。体調が悪いと言って、朝から部屋にこもっていた。

 二人はしばらく黙り込んだまま、神君カエサル像の前に立ちつくしていた。

 やがて、マルケルスがぽつりと言った。

「叔父上は…アントニウスに勝てるのかな」

「勝つに決まってる」

 ティベリウスはすぐに言った。

「アグリッパがいる。アグリッパに任せればカエサルにかなう敵なんていない。それにメッサラやほかにも有能な将軍がたくさんいるんだから――」

 そう勢い込んで言ってから、マルケルスの凝視に気づき、はたと口をつぐんだ。

「い…いや、もちろん…、カエサルあってこそだけど……」

 きまり悪げに目線を泳がすその様子が、いつもの彼らしくなかった。ティベリウスはマルケルスの目がしだいに三日月形になっていくのに気づいた。

 二人は同時に笑い出した。

「あーあ、早く大人になりたいなぁ」

 マルケルスはうんと伸びをして言った。そうすれば体が大きくなると信じているように。

「今すぐ大人になれたら、ぼくも叔父上をお守りして戦えるのに。母上を泣かせたアントニウスを、懲らしめてやれるのに」

「それはぼくも同じ気持ちだよ」

 ティベリウスが言うと、マルケルスはにっこりしてうなずいた。

「あと十年!」彼は天へ叫んだ。「そしたらぼくも、きっと一人前の男になる! 神君カエサルやご先祖様にはまだまだおよばないだろうけど、叔父上を助けて、いっぱいいっぱいがんばれるようになる!」

「うん」

 マルケルスはティベリウスに向き直った。

「ティベリウス、そのときは――」

「そばにいるよ」ティベリウスはうなずいた。

「カエサルとアグリッパのように。ぼくが君を守るから」

 ティベリウスは、その未来を信じた。

 並んで家路につきながら、ティベリウスはこの義理の従兄弟と初めて会った日を思い出した。



 


 オクタヴィアヌスとリヴィアが結婚式を挙げたとき、すでにアントニウス一家はギリシアに赴いていた。

 だからティベリウスは、その当時のマルケルスを覚えていない。会っていたのかもしれないが、一緒に遊んだという記憶がない。

 幼いマルケルスはアテネで育った。そのころ、一家は結婚以来の幸福な生活を続けていたらしい。エジプト女王のことなどすっかり忘れ、アントニウスは貞淑なローマ人の妻と、絵に描いたような理想の家庭を築いている。そんな評判ばかり聞こえてきたそうだ。

 しかしその一年後、アントニウスはパルティア遠征に乗り出す(前三七年)。ようやく東方にいる最大の理由である任務に取りかかろうと奮起した――かと思いきや、それ以上に重要な目的は女王クレオパトラとの再会であったらしい。別れてから三年、友人たちは忘れたと信じていたのに、実のところ彼は想いをつのらせる一方であったのか。

 遠征を前に、アントニウスは妻と子どもたちをローマに帰した。そして自らは、女王クレオパトラの腕の中に飛び込んだのだった。挙句、女王と結婚契約を結び、ローマ属州や同盟諸国を独断で女王に分け与えた。

 全ローマ人が仰天した。怒るよりも笑いがこみあげてきたほどだった。だがこの言語道断な契約も贈り物も、パルティア遠征にさえ成功すれば皆が認めてくれると、アントニウスは考えていたらしい。妻子を裏切り、国民を無視し、アントニウスは意気揚々とパルティア遠征に出発した。

 そのころである。

「お前に会ってほしい子がいる」

 継父に手を引かれ、五歳のティベリウスはカエリウス丘のアントニウス邸を訪ねた。





 マルケルスがしがみついていた木の枝は、邸宅の屋根より高い位置にあった。

 恐る恐るというように、枝から体を離そうとする。だがそこで下の地面が目に入ったらしく、またすぐに枝を抱え込んだ。目をぎゅっと閉じて動かなくなる。

「どうした? 怖いのか?」

 幹の横に立ち、彼を見上げていたのは義兄のアンテュルスだった。

「大好きな母上からもらったブッラを取ってくるんじゃなかったのか?」

 マルケルスがつかまっている枝の先に、首飾りが引っかかっていた。ブッラというローマの子どもが身に着けるお守りで、名門の子息であるマルケルスのそれは黄金でできていた。

 マルケルスは薄目を開けてそれを見つめた。

「お前の先祖は確か『ローマの剣』だったよな?」

 アンテュルスの声は低く、冷たかった。

「子孫がそんなザマじゃ、今ごろ恥ずかしくて軍神マルスのおそばから逃げ出してるかもな」

 それを聞くと、マルケルスは唇を引き結んだ。震える手を伸ばし、じりじり前進をはじめる。

 当然、先に行くほど枝は細くなる。少しの動きで敏感に震える。

 アンテュルスが幹を蹴とばした。

 悲鳴を上げて、マルケルスはまた枝にしがみついた。

「やめてよ!」

「情けない声を出すな!」

 声はアンテュルスほうが鋭かった。

「めそめそしてないで、さっさと進め!」

 枝はしばらく上下に振れ続けた。

 マルケルスは両目いっぱいに涙をためていた。一瞬でも枝から手を離すことなどできなくて、トゥニカの袖で顔をぬぐった。

 それからまた進もうとした。枝はますます細くなり、下で蹴とばされなくても、彼の重みでかしぐ。歯ぎしりのような音を出す。いちいち、だんだん大きく――。

 マルケルスはまたうずくまってしまった。

「まったく…」

 アンテュルスは苛立たしげに顔を歪めた。

「兄さん」

 そこへ弟のユルスが現れた。背丈の二倍は長さのある棒を携えていた。

「持ってきたよ」

「貸せ」

 アンテュルスは弟から棒を受け取り、マルケルスめがけて突き出した。

「ほら、動け弱虫」

「いたいっ、いたいよ、やめて!」

 小突かれたマルケルスは、やむをえずまた前進をはじめた。

 アンテュルスは棒を弟に返し、枝の先を見て顎をしゃくった。ユルスは兄の意図を理解したらしく、棒を抱えて動いた。アンテュルスは木の幹に背中を預けた。

 申し訳程度に葉が生えた枝先に、黄金がきらめいていた。マルケルスは必死の形相で手を伸ばした。

 あと少しで届くというところで、ブッラが宙に浮いた。それから棒の先を伝い、あっという間に下に滑り落ちていった。

 愕然とするマルケルス。下ではユルスが黄金のブッラを手に収めたところだった。

「お前があんまりもたもたしてるから、ユルスが取ってくれたぞ」

 アンテュルスが教えた。

「もういいからとっとと下りてこい」

 マルケルスは言葉を失い、なにもなくなった枝先を見つめていた。

「どうした? また動けなくて、助けてほしいのか?」

 アンテュルスがユルスに目線をやる。今度は顎までしゃくる必要はなかった。ユルスが棒を構えると、マルケルスはたまらず叫んだ。

「やめて!」

「ああ、まずはそんな女みたいな泣き声を上げるんじゃなくて、ユルスにお礼を言わないとな。弱虫なお前の代わりにブッラを取ってくれたんだから」

「ぼくのブッラを引っかけたのは兄さまたちじゃないか!」

 涙をあふれさせ、マルケルスは怒っていた。

「ぼくは返してって言ったのに、兄さまたちが二人で、ぼくのブッラを投げ合って――」

「兄さまなんて呼ぶな!」

 アンテュルスが怒鳴りつけた。マルケルスも、下にいたユルスもたちまちひるんだ。雷撃さながらだ。

「お前なんか弟じゃない! お前の親父ガイウス・マルケルスは、ぼくらの父上の敵だった。神君カエサルを逆賊呼ばわりして、ポンペイウスに剣を預けたんだ。内戦を引き起こした張本人だぞ」

「そ、そんな…」

「そんでいざ戦争がはじまるや、意気地なしにもポンペイウスのところへ行かず、あっさり神君カエサルに降参したんだってな。ははっ、お前とそっくりだ」

「ち、父上を馬鹿にするな!」

 マルケルスが噛みつくように身を乗り出しても、アンテュルスは鼻であしらった。

「お前のその弱虫の血は、ぼくとユルスには一滴も流れてないんだ」

 彼は義弟をねめあげた。

「お前に流れている血は、あのひ弱なオクタヴィアヌスの血――ぼくらの母上を死に追いやった、あの男の血だ!」

 アンテュルスはめったやたらに木を蹴とばした。

「ぼくらがどんな目に遭ったか、少しは思い知れよ!」

「やめて! やめて! やめてよ!」

 激しく上下にゆられ、マルケルスは泣き叫んだ。

「お願い、やめて!――」

 走るティベリウスがアンテュルスに体当たりしたのは、そのときだった。アンテュルスはよろめき、家の壁にぶつかった。

「いったいなにをしてるの?」

 幹の前に立ち、ティベリウスはうなった。継父が紹介したいらしい男児を探しに来たところだった。

「お前――」

 アンテュルスは目を丸くしてティベリウスを凝視した。怒るティベリウスは、その驚きに気を向けようともしなかった。ただ彼を非難して言った。

「こわがっているじゃないか! 落ちたらどうするの。大けがするよ!」

 アンテュルスはまだあっけにとられていた。ユルスはうろたえた様子で、兄とティベリウスを交互に見ていた。

 ティベリウスは息巻いた。

「大きいのに、恥ずかしくないの?」

 アンテュルスの顔つきが見る間に険しくなっていった。彼はしぼりだすような声で言った。

「お前は…マルケルスの味方なのか?」

 その言葉を深くは考えず、ティベリウスは枝を見上げた。やっぱり、あの子がマルケルスなのか。

「味方もなにも、君がいじめてるからじゃないか!」

 ティベリウスは強い口調で言った。

「あの子はオクタヴィアさまの子でしょ? なんでこんなことするの?」

「オクタヴィアの子だからどうした?」

 壁から背を離し、アンテュルスは迫ってきた。

「ぼくらはあの弱虫を鍛えてやってるんだよ。文句あるのか、ネロ家の坊ちゃん?」

 胸倉をつかまれ、幹に押しつけられる。

「あの子は泣いてる」

 ティベリウスは彼をにらみ返した。

「やめてって言ってる」

「ああ、そうだ、弱虫で泣き虫だからな」アンテュルスは鼻で笑った。「あいつは自分であそこに登ったんだぞ。それなのに動けなくなって、あーあ、みっともない」

 ティベリウスは目を上向け、マルケルスに声をかけた。

「ねえ、君はなんでそんなところにいるの?」

「に、兄さまたちが…」マルケルスはゆれる目で二人の義兄を示した。「ぼくのブッラを取って、木に引っかけて、それでまた取って……」

「兄さま?」

 ティベリウスはまた息巻いた。

「君たち、彼の兄上なの? 兄上のくせに、弟をいじめてるの?」

 当時一歳のドルーススが可愛くてしかたなかったティベリウスは、ますます許せなくなった。

 しかしアンテュルスはさらに信じ難い言葉を吐いた。

「フン、あんなやつ、弟なもんか」

 ティベリウスは言葉を失った。激怒のあまり、顔が赤らむのではなく青ざめた。

 木にうずくまったまま、マルケルスはまだ説明を続けていた。

「ぼくのブッラ…母上が作ってくれた……父上の指輪を入れて……」

 ティベリウスはアンテュルスを押しのけた。それから立ちつくしているユルスに近づいた。

「そのブッラを返せ」

 手を突き出した。ユルスはティベリウスを見て、それからアンテュルスを見た。迷っているようだった。

「えらそうに。なんの権利があって、お前は命令するんだよ?」

 後ろからアンテュルスの声が聞こえた。

「ブッラを返さなかったら、オクタヴィアにチクるのか? それともオクタヴィアヌスにか? いい子ぶりやがって」

「返せ」

 ティベリウスは一切無視して、ユルスに詰め寄った。

「そんなに継父にほめられたいのかよ、勇者気取りめ。なにが『兄上のくせに』だ。どこかのだれかだって、兄上にべったりの泣き虫だったんだぞ」

 ティベリウスは迫った。

「返せ」

 アンテュルスが地面を踏み鳴らし、猛然とまわり込んだ。そして弟の手からブッラを取り上げると、それをティベリウスの顔へ力任せに投げつけた。

「っ――」

「泣き虫同士、ずっとめそめそ顔をぬぐい合っていればいい」

 その目に込められていたのは、憎しみだったに違いない。傷ついて、全身の毛が逆立つほどにたぎった、憎しみ。

 アンテュルスはうなった。

「この裏切り者」

 そして弟の腕をつかんで去っていった。

 当時のティベリウスは、その言葉の意味も、憎しみに燃える目の理由もわからなかった。

 事実を知った今も、思い出せないままだ。





 アンテュルスとユルスが立ち去ると、ティベリウスはマルケルスを下ろしにかかった。しかしいくらティベリウスが励ましても、マルケルスは首を振るばかりでどうしても動こうとしなかった。そこでティベリウスは、自分も木に登ることにした。見たところよくしなるが、丈夫な木ではあるようだった。

 マルケルスのいる枝まで幹を登ると、ティベリウスは右手を別の枝にまわし、左手を差し伸べた。

「大丈夫だよ。さあ、ゆっくり、ここまでおいで」

 それでもマルケルスはまだ動けなかった。涙目でしきりに首を振る。しかし枝をゆらしたくなかったので、ティベリウスもこれ以上は進めなかった。

「こわがらなくていいんだよ。がんばって」

「無理だよ」マルケルスは震える声で言った。「ぼくは弱虫だもの。兄さまたちが言ってた。こわいんだもの」

「君は弱虫なんかじゃない」

 ティベリウスはきっぱりと言った。

「君は母上のブッラのために、一人でこんな高いところまで登ったんだ。勇敢だよ。いじわるされてもくじけなかった。えらいよ」

 マルケルスは目をしばたたいた。ティベリウスが本気でそう思っているのか、確かめようとしているようだった。

 ティベリウスはさらに腕を伸ばした。

「さあ、もう一回勇気を出して。ぼくがついてるから」

 しばらくティベリウスを見つめていたマルケルスだが、やがてそろそろと動き出した。ゆっくりゆっくり、後ろ向きに幹へ戻ってくる。

 かすかに枝が震えた。

「下を見ないで!」

 ティベリウスは鋭く言った。

「ぼくを見て…」

 マルケルスは言われたとおりにした。彼にとっては永遠に思える時間だっただろうが、やがて震えながら、ティベリウスの左手をつかんだ。それをしっかと握り返してから、ティベリウスは次の動きを指示した。マルケルスが地面に下り立つまで片手をつなぎ、次々と足場を示した。

 マルケルスはよほど怖かったのか、ティベリウスが幹から地面に飛び下りると、無我夢中の体でしがみついてきた。ティベリウスは彼が落ち着くまで背中をさすってやりながら待った。

「あっ…ありがとう……」

 マルケルスが真っ赤な目をこすりながら言った。

 ティベリウスは彼の義兄弟が去っていた方向をにらんだ。

「あの二人は、いつも君にこんなことするの?」

「いつもってわけじゃっ…ないんだけどっ……」

 マルケルスはひくつく鼻をなんとか抑えようとしていた。

「妹たちには…すっごく優しいんだよ。アントニアのことなんか、いっつも、かわいいかわいいって…」

「つまり、君だけにいじわるするんだ?」

「…いつもじゃ、ないよ……」

 なおも義兄をかばおうとするマルケルスが、ティベリウスは痛ましくてならなかった。

「きっとぼくが、弱虫だからだよ…」

「そうじゃないよ」

 ティベリウスはブッラを差し出した。

「君は母上の誇りを守ったんだよ」

 それを聞いて、マルケルスは控えめに微笑みかけた。ところがティベリウスの顔を見るや、たちまち顔色を変えた。

「君、血が…!」

「え?」

 マルケルスの手が前髪をくぐってそっと額に当てられると、確かに少し痛みを感じた。手の甲でこすると、乾いた血の塊がついてきた。ブッラをぶつけられたときに傷ついたのだろう。

「たいしたことないよ」

 そう言うと、マルケルスにブッラを返した。

 マルケルスは心配そうにティベリウスを見つめていたが、おもむろにブッラを首にかけ直した。子どもの首飾りとしては、ちょっと重い。

 それから背伸びをすると、ティベリウスの額にチュッと口づけした。

 ティベリウスが目をぱちくりさせると、マルケルスは少し照れ臭そうに、母上がよくやってくれるおまじないだと話した。

「君は強いなぁ」

 マルケルスはしみじみと言った。

「えっと、なん歳なの?」

「五歳だよ」

「ぼくとおんなじだ」

 マルケルスはにっこり笑った。初めて見る笑顔は、太陽のようだった。

「お誕生日はいつ?」

「十一月の十六」

 すると今度は、その顔がたちまちあ然となった。木の根に話しかけるように、そのまま目玉を少し下げた。

「ぼくより半年も遅い。ぼくより年下だ…!」

 口がへの字になった。

「どうしてそんなに落ち着いてるの?」

 その表情の変化が面白くて、ティベリウスは笑ってしまった。

「とくに落ち着いてるわけじゃないよ。たぶん去年、弟ができたからかも」

「ぼくだって、妹が三人もいるよ」

 マルケルスの目がまたうるんだ。

「もうすぐもう一人生まれるよ」

「…あとは父上に教わってるんだ」

 ティベリウスはあわてて言った。

「ネロ家にふさわしい男になれ。いついかなるときも、誇り高きネロ家の男であることを忘れずふるまえって」

 少しだけ苦笑した。

「それで小さいころいっぱい怒られたみたい。母上にも」

「小さいころって…」

 今だって小さいじゃないかと雄弁に語る目で、マルケルスはつくづくとティベリウスを眺めまわした。それからはたと固まった。

「…今、ネロって言った?」

「うん、ぼくはティベリウス・クラウディウス・ネロ」

 ティベリウスはうなずいた。

「カエサルと一緒に来たんだ」

「じゃあ君が叔父上の…えっと――」

「継子」

「そう、継子!」

 マルケルスはぱあっと笑った。それからティベリウスの両手を取ってしきりに飛び跳ねた。舞い上がらんばかりだった。

「ぼくとおんなじ、継子!」

 声も弾ませて、彼は言った。

「今日からぼくのお友だちになってね、ティベリウス! ぼくは君みたいになりたいんだからね。大好きだからね!」

 出会いはそのようであった。

 しかしこのおよそ一年後、マルケルスは母オクタヴィアに連れられて、兄妹とともに再びギリシアへ行ってしまった。パルティア遠征から撤退したアントニウスを助けるためだった。

 東方情勢については当時よくわからなかったが、あのようないきさつがあっただけに、ティベリウスはマルケルスを心配していた。

 半年後、一家はローマに戻ってきた。アントニウスに裏切られ、追い返されてきたのだ。

 そしてオクタヴィアの抱える七人の子どもは、六人に減っていた。

 アンテュルスはただ一人、父親のもとへ去った。





 カエサル邸の前まで来ると、たまたまオクタヴィアヌスが玄関をくぐるところに出会った。奴隷が二人一緒だった。散歩に出ていたのだろう。

「叔父上!」

 うれしそうに声を張り上げ、マルケルスが駆けだした。オクタヴィアヌスはたちまち破顔した。

「おかえり、マルケルス」

 甥がそばに来ると、砂で汚れたその頬をいとおしげに軽く叩いた。

「今日もがんばったみたいだな。日に焼けてまたたくましい顔になった。お前が『ローマの剣』になる日も、そう遠くなさそうだ」

「はいっ」

 マルケルスは誇らしげにうなずいた。

 甥の頭に接吻してから、オクタヴィアヌスはゆっくり歩いてくるティベリウスに気づいたようだ。

「おかえり、ティベリウス」

「はい、カエサル。ただいま帰りました」

 ティベリウスはこっくりとうなずいた。オクタヴィアヌスは微苦笑のようなものを浮かべた。

「叔父上、今日はおうちで夕食を召し上がりますか?」

 マルケルスが期待を込めた目で見上げる。叔父はうなずいた。

「ああ。実はうちで宴会をするんだ」

「そうですか…」

 一瞬輝いたマルケルスの顔が、たちまち沈んだ。家で食事でも宴会ならば、同じ部屋でひとときを過ごすことはできない。基本的に子どもが同席するものではないからだ。

 だがオクタヴィアヌスは、今夜はこの甥の気持ちに応えられることを知っていた。

「プランクスとティティウスを招待している。二人とも、前の家で姉上にもてなされたことが忘れられないと話していてな。お前にも会いたがっているんだ、マルケルス。ちょっと顔を出してくれるか?」

「はいっ」

 マルケルスの顔が輝きを取り戻した。

「よかった。今夜はあの三人に自慢ができる。トロイヤ競技祭の話を聞かせてな」

 オクタヴィアヌスは満足げにうなずいた。それからマルケルスの肩を抱いて、玄関をくぐっていった。

 ティベリウスもあとに続いた。




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