いかにして人狼先生は誕生したか?
夜空にぽっかりと浮かぶ満月を、アレクシスは恨みがましく見上げた。
天井総ガラス張りのホールには容赦なく月光が降りそそぎ、体中がかゆくてたまらない。
「ほらっ、アレク兄様もさっさと構えて! 特訓を始めますよ!」
その上、目の前には木剣を構える妹ときた。
「……妹と本気で打ち合える訳ないだろ。学校のレポートがあるし、鍛錬はまた今度ね」
薬草学の授業で提出したレポートが好成績だったので、次の課題では珍しい薬草の一つでも採取してこようと思っていた矢先である。
「いけません! 満月の夜に変身を我慢できるまで逃がすなと、父様に頼まれました。兄様は私に甘いから、断らないだろうって」
くそ、分かってるじゃないか――アレクはこっそり毒づいた。
九歳の妹に通せんぼされては、無理やり部屋に戻るわけにもいかない。
「エルゼ、お願いだ。そこを通してくれよ」
皮膚の下でミミズがうごめくような感触が、だんだんと熱を帯びてくる。
欠けた月でもかゆみは生ずるが、満月のそれは格別におぞましい。
「だーめーでーす! 人狼ならば、避けては通れない道なのです!」
「お前まで父さんみたいなことを……」
言葉の途中で、かっ、と体中が熱くなった。
顔を押さえた手の下で、骨がゆがみ、鼻面が突き出す。
口が大きく裂けて牙が生え伸び、黒い体毛が全身を覆う。
両手の鋭い爪で空をひっかき--腹の底から何かがこみ上げる。
「に、兄様! しっかり!」
自分の遠吠えをひとごとのように聞きながら――アレクは意識を失った。
「うっ……? いっつつ」
目覚めの頭は、まるで内側から煮えたぎっているような痛みを訴えた。
気絶した後運ばれたようで、身を起こしたのは自室のベッドだった。
「はー、今日が学校休みでよかっ……あれ?」
頭にやった手に、柔らかいでっぱりが触れる。鏡を見ると、碧眼の黒い人狼の姿があった。
満月の夜に変身するのはいつもの事だが、朝になっても人の姿に戻らないのは初めてだ。
「……まいったなぁ」
アレクの生まれたボルツ家は、この国に名だたる医術の大家であり、増え続ける人間に棲家を追われた人狼の一族が始まりだ。
人里で暮すには、変身を操る術が必要不可欠であったため、何代にも渡って医学を始めとする様々な人体研究を重ねてきたのである。
一族の者は全て、この変身制御と桁違いの身体能力を隠す武術を教わる――のだが。
アレクはこれが二つとも大の苦手だった。
その上、十六年やっても出来なかったことを妹に先にやられてしまっては、兄の立つ瀬などどこにもない。
「まず背筋を伸ばして両手を広げ、上から順番に力を抜いていく……」
昔は毎日していた変身制御の訓練を思い出してみるも、体は人狼のままだ。
「もしもし、アレク兄様、お目覚めですか?」
「あ、あぁ! 入っていいよ!」
ノックの後で聞こえた妹の声に、びくっと飛び上がる。
「……昨日はごめんなさい。あんな事になってしまって」
「謝ることはないさ。僕が変身を制御できないのは昔からだし」
しょんぼりした妹を抱き上げてやると、笑顔になってくれて一安心。
「よ、よかったぁ。あ、兄様、私朝食をお持ちしましたの。よろしかったらどうぞ」
「本当? 嬉しいな、お腹すいてたんだ」
バスケットに入ったサンドイッチとお茶を受け取り、アレクはこっそりと嘆息した。
(気を使わせちゃったなぁ……)
半年前にエルゼが変身制御を習得した時、妹に先を越されるとは何事だ、という父の叱責を聞かれたのは痛すぎる失敗だった。
「美味しいね。エルゼが作ってくれたの?」
「はい。料理人にみっちり教わりました」
幼い頃のエルゼは何かと体調を崩すことが多く、仕事の忙しい両親に代わって、つきっきりで看病するのはアレクの役目だった。
だが、彼女の成長につれてそんな機会は減り、今では逆に世話を焼かれる始末である。
「アレク兄様のフカフカ、気持ちいいです」
腹だけ白い毛にほお擦りするエルゼの頭を撫でながら、ため息をのみこんだ。
(これからどうすればいいんだろう)
アレクの脳裏に真っ先に浮かんだのがレポートのことだ。人の姿に戻れなければ学校になど行けないし、課題を仕上げても無意味である。もしかして一生このままかも――
「考えても仕方ない、か」
ぶるぶると頭を振ると、独り言にきょとんとしている妹にこう頼んだ。
「バスケットを戻してきてくれるかな? 僕は父さんと母さんに話があるんだ」
「はぁ……ここに来るのも久しぶりだな」
アレクは質素な番小屋に荷物を放り込み、コートの雪を払った。
三日前のこと。
人の姿に戻れない、と両親にうち明けると、事態は思ったより大きくなってしまった。
一族の医者と古老が呼ばれ、書庫の古文書が紐解かれても、原因は分からない。
無論アレクも何もしなかった訳ではないのだが、結果が出なくてはどうしようもなかった。
母は『私がちゃんと産んであげていれば』と涙するし、父は無言で目すら合わせない。
気がつけば、家を飛び出していた。
ここはボルツ家が夏を過ごす別荘の猟場で、冬は閉鎖されて人目がなくなるため、逃亡先としてはうってつけなのだ。
白い息を吐きながら暖炉に火を入れ、ベッドに座って荷物をほどく。
寝言で兄を呼ぶ妹を残してゆくとか、家出――いや逃亡先が自分ちの別荘ってどうなんだとか、思うところは数あれど、他にいいやり方が思いつかなかったのだ。
「……レポート用具一式? 何でこんなの入れたんだろう」
特注の眼鏡をかけたアレクは、紙と筆記用具、いくつかの本を見つけて首を傾げた。
近眼ぎみで爪も長い人狼の姿では、とたんに読み書きがやりづらくなるし――今さらレポートなんて書いても仕方ないのに。
翌朝から一人暮らしを始めたアレクだが、食事を終えて番小屋を出ると、顔をしかめるものが待っていた。
「誰だよ勝手に入っているのは……」
昨夜は足元に注意を払っていなかったので気づかなかったが、番小屋の周りにはそこら中に子供の足跡がついている。しかも、重なり具合からして、足しげく通っているらしい。
「降った雪で消えてないって事は、まだ近くにいるってことかな……はぁ」
番小屋に戻り、人狼の正体がばれないよう防寒具で身を固める。家から持ち出した猟銃を使えるよう準備し、肩にかけた。
狩り好きの父は一年に数回、猟場を地元領民に開放しているが、その時以外は立ち入り禁止になっている。
特に、獲物の減る冬はいつにも増して空腹の獣がうろついている。近隣の住民なら、子供でも知っている筈なのだが。
地面に四つんばいになって、足跡の臭いを嗅いで追跡すると、程なくして子供と狼の足跡が重なっている箇所につきあたった。
小さな群れが子供の後をつけだしたのが目と鼻の両方で分かる。
「やっぱりな。この様子だと近くに……」
「うわっ、こっち来るなーっ!」
辺りを見回したまさにその時、子供の悲鳴が耳に刺さった。
「あーもう、無事でいてくれよ!」
声の聞こえた方へ走ると、木立の向こうに群れに囲まれた男の子がいる。小枝を振り回す腕に、灰色の一頭が噛みついた。
「そこまでだ!」
即座に構え、群れに威嚇射撃。
「っつぁ……っ!」
驚いた狼たちは逃げていったが、とどろく銃声はアレクの耳にも大ダメージである。
「うっ、ぐ、君、大丈夫か?」
それでも、丸腰で挑むよりはマシだ。
「う、うぇぇ……ご、ごわがっ、たよぉぉ」
エルゼと同じ年くらいかな、と思いつつ、男の子の頭を撫でてやる。
「よしよし、もう怖くないよ。向こうの番小屋で傷の手当てをしよう。立てるかい?」
「う、うん」
男の子はしりもちから立ち上がろうと地に腕をついたが、怪我のせいかよろめいた。
小さな手は支えを求め、アレクの顔を覆っているマフラーにかかる。
黒い鼻先が、刺すような冷気に晒された。
「え、お……狼だーっ! 食われるーっ!」
「ちょ、ちょっとま」
背を向けて駆け出すは電光石火のごとし。
「だから待てって! その先には」
アレクは男の子の背に手を伸ばし――
ばちゃん、という水音に顔を覆った。
「小川があるから、走ると危ないよって言おうとしたのに……」
真冬の川から男の子を拾い上げ、急いで番小屋に戻る。
気を失ってはいるが、脈拍も呼吸も正常だ。
「ごめんね」
ベッドに寝かせ、一言謝ってから服を脱がせる。濡れて冷えきった体を拭いてごしごしこすると、顔に赤みが差してきた。
「お、そうだ」
エルゼが腹の毛を喜んでいた事を思い出し、上半身の服を脱ぎ、抱っこして暖める。
もう顔を見られてしまったのだし、今さら隠してもしかたないだろう。
「うー、モコモコ……かあちゃん」
男の子の目がうすく開く。意識が戻ったなら、と傷を確認すると、思ったより軽傷だ。
「よかった、冬の厚着で助かったんだな」
アレクは胸をなでおろした。傷を洗い流してからベッドに戻し、毛布をかける。
「えーと、獣に噛まれた時は……」
荷物の中から咬傷用の膏薬を出し、つんと匂うそれを傷口に塗る。包帯を巻いて患部を保護すれば、応急処置はおしまいだ。
「うぅ……お、おれは」
「目が覚めたかい? スープがあるけど、食べられるかな」
口をぱくぱくさせる男の子に、努めて冷静に話しかける。火にかけておいた鍋から、朝食の残りをよそって差し出した。
「お、お、狼がしゃべってるぅぅ!」
「……君の気持ちは分かる。驚くのも仕方ないけど、普段の僕は人間なんだ。今はちょっと事情があって、こんな姿になっているけど」
彼の腹が鳴ったのを幸いに、アレクは器を押し付けた。濡れた服を暖炉の前に干しつつ、スープを飲む姿をちらりと見やる
(昔は僕も、あのベッドで飲んだっけな)
男の子が使っている食器や毛布などの備品は、アレクが幼い頃、父が用意したものだ。
虫眼鏡片手に猟場を走る息子のために、野外生活の技術を教え、数日間は暮らせるような観察拠点を設えてくれたのだ。
「ちゃんと温まらないと風邪を引くよ」
ずり落ちた毛布を、彼の肩にかけなおした。
「ご、ごちそうさまでした」
スープを食べ終わった男の子は、目をそらしつつ食器を返してくる。彼の視線はそのまま、包帯と干された服を行き来した。
「あの、ありがとう……あんたが助けてくれたのか?」
「そうだよ。怪我が軽くてよかった」
しゃがんで、訝しげな目と視線を合わせる。
「狼なのに二本足で、言葉も話せるの?」
「だから、僕は人間だと言っているだろ」
確かに姿は似ているが、狼と人狼は全く別種の生き物である。叫ばれるよりはましだけど、とアレクはげんなりした。
「こんなフサフサしといて人間とかいわれてもなぁ……僕ってことは、雄なのか?」
最初のおどおどした様子はどこへやら。尻尾を触ろうとした男の子の手を掴み、ゆっくりと言い聞かせる。
「あのなぁ、君。冬の猟場は立ち入り禁止だぞ。今日はたまたま助かったが、次があるようじゃ命の保障はできないな」
「ご、ごめんなさい」
ちょっと牙をむき出して見せると、途端におとなしくなったのだが――
「でも俺、どうしても母ちゃんに……」
続きを言おうとした彼がくしゃみをしたので、アレクは慌てて自分の服を着せた。
「発熱、さむけ、頭痛か。それならヘイレンだな。お腹の弱い人ならクラウレがいい」
アレクはベッドの上で図鑑を広げ、聞いた症状にあう薬草の絵を指した。
トーマと名乗る男の子は近在の村リンデの住人で、猟場に入り込んだのは、病気の母親に薬草を持ち帰るためだという。
「あ、これだ! 見たことある!」
なんでも、昔たまたま村を訪れたボルツ家の治療を受けた経験があるのだとか。
「クラウレか。分かった、すぐに作ろう」
彼の問題を解決しないまま家に帰しても、また同じ事をするだろう。
なら、薬を作ってやる方がてっとり早い。
幸い、クラウレを使った調合は何度もしたし、自分の体で効果を試したことだってある。
「薬草を採りに行ってくるけど、君はちゃんとベッドで寝ているんだぞ」
「行くって、服はどうするんだよ。外は雪だし、あんたの服は俺が着てるのに」
アレクの腕を引っ張ったトーマが窓を開け、一面の銀世界を指差した。
「あぁ、僕はいいんだ。服を着ていたのは寒いからじゃなくて、姿を隠すためだからね」
「そっか、自前のモフモフ毛皮があるから!」
「毛皮って言うな!」
アレクは毛並みを逆立てて怒鳴った。
猟場の知識と人狼の嗅覚で、薬草を見つけること自体は難しくなかったのだが。
「なぁなぁ、これどこに生えてたんだ? 俺が探しても見つからなかったのに」
クラウレを始めとした数種類の薬草を計量して乳鉢に入れ、ゴリゴリとすり潰す。
「すぐ戻ってきたって事は、どこに生えてるか知ってたんだろ? 教えてくれよ」
トーマの質問にうんざりし、アレクは耳をパタンと閉じた。
薬草の生息域はボルツ家の秘密だし、身元を勘ぐられても面倒だ。
「じゃあさ、どうしてそんなにいくつも混ぜるんだ? クラウレ一つじゃダメなのか?」
「薬草にはそれぞれ得意なことと苦手なことがあるから、混ぜて使うと便利なんだよ。季節や場所で効果が違う場合もあるしね」
「へぇ、あんた詳しいんだな! 狼なのに、お医者さんみたいだ」
もう『人間だ』と訂正するのも面倒になり、トーマにお湯を沸かすように頼む。
「鍋が煮立ったら薬草を入れて、匂いが消えるまでかき混ぜるんだ。そうしたら漉して、お母さんに飲ませてあげるといい」
「いいのか? ありがとう!」
鍋に薬草を入れて大きなスプーンを渡すと、トーマは熱心にかき回した。
「もし、この薬で治らなかったら、ちゃんと医者に見てもらうんだぞ」
「そんなこと言ったって……こんな田舎にはいないんだから仕方ねぇだろ」
彼のむすっとした顔に、アレクは失言を恥じた。
実入りの少ない田舎に腰を据えようなどと考える医者はゼロに近いし、そもそも教育の機会からして限られているのに。
「俺だって、昔母ちゃんを助けてくれたお医者さんみたいになりたいんだ。だけど」
やり方がわからないんだ――消え入りそうな呟きを、アレクは聞き逃さなかった。
「そうか……だから薬草のことを聞きたがったんだな」
こくりと頷くトーマ。
「はっきり言うぞ。医者になるには金と、学校に入るつてが必要だ。君はどちらも無さそうだし、僕のように見た目が狼でも苦しいな」
「わ、分かってるよそんな事!」
固くなるトーマの腕を押さえてスプーンをとり、鍋をゆっくりとかき混ぜる。
「ただし、田舎の住人が勝手に薬草に詳しくなるのは自由だ――そろそろだな」
青臭さの消えた鍋を火からおろし、中身を布の上にあけて、絞って濾す。
残った液体を小瓶に入れれば、薬の完成だ。
「日没前には村に送るよ。瓶と一緒に薬草図鑑も持っていくといい」
「えっ? なんでそんな事になるんだよ。大体俺は、本なんてもらっても」
読めない、という言葉を無視し、机の上を片付けて図鑑を広げる。
「なら、薬草について知りたいというのは嘘か? まだ日没まで時間があるし、読み方は教えるから。必死になれば覚えられるだろう」
椅子を引き、抱き上げたトーマを膝の上に乗せて座る。
「なぁ、どうしてここまでしてくれるんだ? 今日会ったばかりの他人なのに」
不思議そうに首を傾げるトーマ。しばし考えて、アレクはこう答えることにした。
「僕達は、医者になるのが難しい者同士だから、かな。同病相哀れむってやつさ」
言葉を話す狼と会ったなんて内緒にしてくれよ、と口止めするのも忘れなかった。
トーマは最初こそ気乗りしない風だったが、文字の読み方を一つ一つ教え、薬草の効能と副作用をていねいに説明してやると、あっという間に夢中になった。
「やれやれ、喜んでもらえてよかった」
トーマを送って帰った番小屋で、アレクはぐぐっと背筋を伸ばした。机の上には彼が文字を練習したメモが散らばっている。
「あんなにはしゃいじゃって」
つたない字――とも呼びづらいものを眺めれば、トーマの笑顔を思い出すのは簡単だ。
一教えれば、十の質問が返ってくるというのは実に小気味よく、爽快ですらあった。
そうなると、ただのメモが宝物のように思えてきて、大切に鞄にしまう。
「……僕も帰ろうかな」
するり、と。
そんな呟きが何の抵抗もなく出てしまったことには驚いたが、当然のような気もした。
帰って、両親と妹に謝って。変身制御の訓練を最初からやり直そう。
それが、このメモ達を無駄にしない唯一の方法なのだから。
そうして迎えた翌朝。
アレクは鳥の声ではなく、人の足音に起こされた。
「な、なんだ? ずいぶん沢山、人が……」
耳を動かして方角と距離を探ると、どうやら猟場の出入り口らしい。
「人目はないはずなのに……二日連続かよ」
すばやくコートを着込んでマフラーを巻き、荷物を背負う。
足音の他に、金属の音と臭いも流れてきた。
「おいゴロツキ! 中にいるのは分かってるんだ、さっさと出て来い!」
飛び出したアレクが身を隠した後で、番小屋の周りを男たちが取り囲んだ。
「ボルツ様の猟場で悪さをしようったって、そうはいかねぇぞ!」
「そうだ! 俺たちが許さねぇ!」
鎌や干草用フォークなどで武装した男達が気勢をあげる。領民に慕われるのはありがたい事だが、今回は完全に裏目に出てしまった。
「子供を襲う狼もいるって話だ、みんな気をつけろ!」
「おう!」
(あー、リンデの住人か。トーマはだっこして暖めたし、獣毛もついただろうな)
例えトーマが一言も話さずとも、薬を持ち帰ったとなれば、誰かの手を借りたと推測するのは当然の帰結と言える。
誰か、というのは即ち、閉鎖されている猟場に無断で入り込んでいる不届き者なのだ。
「おい、俺たちのとは違う足跡があるぞ」
続きを聞かずに逃げ出したが、すぐに見つかってしまう。
「いたぞ、こっちだ!」
迫る罵声、がしゃがしゃという金属音。
もちろん、人狼の足なら追っ手をまくなどたやすいのだが、単純に逃げるだけでは更なる追求を呼ぶ恐れがある。
トーマはなぜ黙っていたと責められるだろうし、万が一にも自分の身元を知られるような事があってはならないのだ。
「待ちやがれ!」
がっ、と音がして、木に鉈が突き立つ。
「うぉわっ!」
跳ね上がる心臓をなだめて走る。
緊迫した状況だというのに、朝食を入れていない腹は音で訴えてきた。
(エルゼ、君のサンドイッチが食べたいよ)
つばをごくんと飲み込む。
絶対に、追っ手の目前で姿を消すようにしなければ。事をここで終わらせるのだ。
「そうだ……確かこの先は」
背負った荷物をすぐ下ろせるよう準備し、走る方向を猟場の最奥へと変える。
追っ手を引き離しすぎないよう注意しながら走って走って、ようやく目的の場所に到達。
「ど、どうやらここまでのようだな!」
前方には、息を切らした追っ手。
後方には、滝と断崖絶壁。
(さぁ、これでもうやるしかないぞ……)
ごくりと息をのみ、フォークに追い立てられるようにして崖の突端へ。
水の匂いと飛び散るしぶき。足元で落ちた小石は、滝に吸い込まれるように消えてゆく。
「さぁ、おとなしく捕まれ! 悪いようには」
ぶん、と突き出されたフォークを避けた足の下には――何もなかった。
◆
十八歳になった日の夕方も、トーマはいつものように窓を閉めようとしたが、村の子供が走ってくるのを見て手を止めた。
「トーマ先生、大変大変! けが人だよ!」
息せき切る子供をなだめ、ゆっくりと聞く。
「分かった。けが人は誰だ? 状況は?」
「鍛冶屋んとこのユノばぁちゃん。木が倒れてきて、足が挟まっちゃったんだけど、通りかかった人が木を持ち上げてくれたんだ」
「通りがかりって、リンデの人間じゃないのか? 珍しいな、客なんて」
首を傾げつつも、応急手当の道具一式が入った鞄をひっつかんで走り出した。
村の入り口に程近い現場に到着したトーマは、目にした光景に度肝を抜かれた。
「おいおい、あれは村一番の大木だぞ……」
ユノ婆の脇にどけられた倒木は、とても人の手には負えない大きさだった。しかも、それをやったのは見知らぬ青年ときている。
「あなたがこの村のお医者さんですか? 僕はアレクシス・ボルツです。この方を休ませる場所をお借りしたいのですが」
医術の大家の名に驚き、手際よく手当てをするさまに見とれていたので、反応が遅れた。
「え? は、はいっ!」
薬草に詳しいだけで医者を名乗るのは気が引けたが、今は患者を運ぶのが先決だろう。
怪我は幸いにも軽傷だったが、手当てを終えたのは月が出る時間だったため、ユノ婆は家族に付き添われて帰っていった。
「ふぅ、大した事がなくてよかった」
「あなた様のお力がなければ、こうはいきませんでしたよ」
笑顔でユノ婆を見送る青年に、トーマは頭を下げた。
「いえいえ、こちらこそ。……それにしても、充実した棚ですね。薬草がご専門で?」
碧眼の青年は、棚にずらりと並べてある薬草の小瓶を眺めている。
「専門といいますか……俺の場合は独学でしてね。子供の頃ある人に助けられたことがきっかけで、ここまで来られたのです」
気まずさから、トーマは話題をそらした。
ボルツの人間に秘密を知られるのはまずい。
今でこそ薬草畑で育てているが、大元の種の出所はボルツ家の猟場――泥棒なのだ。
「倒れた母に薬草を持って帰ろうと猟場に入り込んだ俺は、狼に襲われました。そこを助けてくれた人が、薬草図鑑をくれたんです」
恩人に読み書きを教わり、図鑑を必死で読み解いて、薬草を扱えるようになったと話すと、青年は眉間にしわを寄せて考え込んだ。
「……どうかなさいましたか?」
その時、トーマの目は妙なものを捉えた。
耳――青年の黒髪から見えていた外耳がだんだんと尖り、黒い毛が生えてきたのだ。
時折ぴくぴくと動くさまは、まるで物音を聞きつけた獣さながらで。
思わず手を伸ばしたら、青年とばっちり目が合ってしまった。
「へっ? あ、まず」
耳を押さえて後ずさりした青年は、傍の椅子をひっかけて転び、本棚にぶつかる。
「あぶな……!」
トーマが助ける間もなく、青年の頭に蔵書が降りそそぐ。最後に特大の薬草図鑑の角が突き刺さってトドメだ。
「いっ……! これは、やっぱりあの時の」
涙目の青年がぽろりとこぼした言葉に、トーマは息をのんだ。
この図鑑を見て『やっぱり』などという人物は、一人しか思い当たらない。
「まさかとは思うけど、あんた……九年前の言葉を話す狼か? 耳が獣になっているぞ」
「な、何のことでしょうか」
耳を隠した青年は、露骨に頬を引きつらせながら白を切った。
「俺を送った後のあんたを村の皆が狩り出して、崖から追い落としたって聞いた時は夜も眠れなかったさ。それなのにぴんぴんしやがって、俺の罪悪感をどうしてくれる!」
諦めず問い詰めると、青年の耳がくたっ、としおれる。
「いや、その……申し訳ない。あの時は落ちたフリして、崖の下にしがみついていたんだ。追っ手をまくにはその方がいいと思って」
自分のせいだと思い、食事も喉を通らなかった。せめて貰った図鑑を無駄にはすまい、と努力した毎日が否定された気分だ。
「フン、思ったとおりか。でもまぁ、名家の秘密を握るってのも悪くはないな」
腹いせとばかりに鼻で笑った、のだが。
「そうだね。僕も、棚の薬草の出所を家に報告しておこうかな」
小瓶を手にニヤリと笑われては、黙るしかない――完全にばれている。
「分かったよ! 一生黙っとくよ!」
「そうか、それは良かった。ありがとう」
意地の悪い笑みに、トーマは歯軋りした。本当に九年前と同一人物なのだろうか?
「そうそう、村長の家を教えてくれるかな? 相談したいことがあるんだ」
「いいけど……ボルツの若様がこんな田舎に何の用だよ。まだ狩りの季節じゃないだろ」
問い返すと、彼は首を横に振った。
「僕はここに学校を作ろうと考えているんだ。君みたいに、なりたいものを諦める子を助けられたらいいなと思ってね」
「学校? こんな田舎に? 本気――」
「兄様、どこですか! アレク兄様!」
突然の声に、トーマの疑問はさえぎられた。
「げっ、エルゼか? どうやってここまで」
少女のものらしき声に、アレクシスの顔色が目に見えて変わる。
「この村にいるのは分かっているんですよ! 鍛錬の途中で逃げ出したりして、自分の面倒も見られない人が一人暮らしなんて出来るわけないでしょう! 私は許しませんよ!」
冷や汗をたらす彼の様子に、トーマもやっと事情が分かった。
「ほほぅ……つまり、学校を作るのは、妹から逃げる方便ってわけか。ひどい奴だなぁ」
「ち、違う! 学校の方が主目的だ!」
酷薄な笑みでアレクシスを見やってから、窓に駆け寄って叫ぶ。
「お嬢さーん! お兄さんはここですよ!」
◆◇◆
リンデという村には小さな学校があり、優しい先生がいる。ごくまれに、彼の耳が狼のものになっていたりするのだが――それは子供たちだけの秘密だった。