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 葉摘はつみは軽トラックを路肩に止め、運転席の窓から用心深く顔を出し、周囲を見回した。

 サルスベリの上をヒラヒラと飛ぶキアゲハを目で追っていた彼女は、茫々と伸びた雑草の中に何か不審なモノを見えた気がしていたのだ。

 日に焼けた額の下の眉を微かにしかめ、黒目がちな瞳を雑草に埋まりかけた街路樹脇の消火栓へと向ける。

 そこに人型のモノ(・・・・・)が動いているのは陽炎のいたずらか、それとも、いまだしぶとく動ける『ゾンビ』がいるのかを確認するためだ。

 もし動けるゾンビが残っていたところでゾンビ化してから2年も経過している。

 ソレ(・・)は既にかなり乾燥や腐敗が進んでいるはずで、恐らくもうまともに動けやしないないだろうが、それでも叔父の秋也や響也は充分に気をつけるよう耳にタコが出来そうな程繰り返し彼女に注意を促している。

 ゾンビに少しでも齧られたら、その人間は確実にゾンビ化してしまうのだから、二人がうるさく言うのも当然だろう。


 少女は助手席に置いた護身用のバールを掴むと素早く運転席から飛び降り、ユラユラ揺れて見える人型のモノの元へと歩いて行った。


 ……動いていないといいな。

 動いていても、もう『壊した後』のゾンビならいいんだけれど……。


 ソレ(・・)に近づきながら、葉摘は思う。


 願い虚しく彼女の視線の先、雨風にさらされ日に照らされて劣化した衣服に身を包んだ人型のモノが、瀕死のコガネ虫のように緩やかに手足を動かしていた。

 元は葉摘と同年代の少年だったのだろうそのゾンビは、膝から下の関節が折れ、視力も失ってしまっているようだ。

 だけど残念なことにまだしっかりと歯と顎がある。

 葉摘は少年のゾンビに向けて両手で持った重いバールを振り上げ、一息にそれを振りおろした。

 乾いた音をたてて脆くなった顎の骨が砕け落ちる。


「……ごめんね、危ないから壊させてもらうよ」


 呟きながら更に肩と骨盤を数度思い切り叩き、二度とソレが動き回り……誰かに噛みつかないよう、乾いて朽ちかけた身体を壊す。


 目も見えなくてこんなに動きの鈍いゾンビ、絶対につかまらないし齧られないけど、叔父さんも響也お兄ちゃんも心配するんだよ……。


 関節を砕かれた少年のゾンビは、移動の手段と顎とを失い、完全に無力化した。

 このまま完全に朽ちて、やがてはこの場で土に還ってゆくだろう。

 顔立ちは既に元の面影を残さないほど枯れていたけれど、着ている服の雰囲気から察するに、島外から来た少年と思われる。

 葉摘同様、夏をこの島で楽しく過ごす筈だったに違いない。


 じんわりと目に滲みそうになる涙は、歯を食いしばって飲み込んだ。

 何があってもどんな事をしてでも自分は生きていかなければいけないと、彼女は決心していた。

 そうじゃなければ、自分を助けてくれた秋也あきや叔父さんにも響也きょうやお兄ちゃんにも申し訳が立たないではないか。


 バールの頭の部分に挟まったゾンビの欠片を汚れた靴でグイっとはがし、軽トラへと踵を返しかけた葉摘は、消火栓の横に落ちていたモノに気づき、立ち止まる。

 緑に茂る雑草の中、鮮やかなメテオブルーのスマートフォン。

 拾い上げて表面についた泥をシャツで拭う。バッテリーがダメになり使えなくなった葉摘の携帯と同じ機種だ。

 電波が弱くて屋敷では殆ど役に立たないが町に降りれば使えるから……と、この島に来る時葉摘は同機種のスマホを持って来ていた。

 島がゾンビに襲われる数日前からずっとどことも連絡は取れなくなっていたけれど、バッテリーがダメになってしまうまではメールやラインの着信を確認するのが彼女の毎日の習慣になっていた。


 中学受験が終わったらキッズスマホじゃなくママと同じ機種のを買ってもらう約束してたんだけどな……。


 果たされなかった約束を思い出し、葉摘は唇を噛む。

 スマートフォンを掴んだまま運転席に乗り込み、馴れた仕草でギアを「R」に入れる。

 ……初めて車の運転を覚えた頃は足を一杯に伸ばさなければ届かなかったアクセルも、二年のうちに10㎝も伸びた身長のお陰で楽に踏み込めるようになっていた。

 もし今の姿を母が見たらどう思うのか……と、時の流れとこの状況が少し可笑しくて、切なくて。

 胸にせり上がる感情に唇は歪むけれど、葉摘の瞳にもう涙は浮かばなかった。

 さんざん泣いて……喚いて……絶望して、泣いても『どうにもならない』と言う事を悟った。

 もともと母親のリカコに似て負けん気の強い性格だ。

 葉摘はメソメソすることを止めると、がぜん生きる為の努力を始めた。


 屋敷の裏庭にあった家庭菜園を拡大して何種類も野菜を作り始めたし、野菜を干したり塩蔵して保存する事も覚えた。

 やり方がわからず困っていると、秋也がふらりと現れては知恵を貸してくれる。

 今日町に降りてきたのも、屋敷での生活に必要な品物を運び出す為だ。


 軽トラの荷台から軽油の入ったタンクや生活に必要な品々を下ろす作業を終えた葉摘は、オイルに汚れた手を拭いながら大きく息をつく。

 軽油は島唯一のガソリンスタンドから貰って来た。島内の小さな発電所は現在稼働しておらず、ガソリンスタンドの給油装置も電力がなければ地下タンクの中からオイルを汲み出してはくれない。

 だが、幸いにもこのスタンドには非常災害用に自家発電の設備がある。

 本土から離れた孤島でガソリンスタンドが使い物にならない状況になれば、島の漁師は船も出せない事態に陥る。

 災害時用にとこの装置を導入した人物に、葉摘は感謝したい気持ちだった。

 燃料が手に入らなければ、島の奥地にある小野塚家の自家発電装置も稼働させる事が出来ないのだ。


 もしも電力が手に入らなければ……と、その事を考えると葉摘は恐ろしくなる。

 自分のための食糧は自分で作るからどうにでもなった。

 島周辺は魚影も濃く、釣り糸を垂らせば誰だって魚は釣れる。


 だけどこの暑熱のさなか冷房装置が動かなかったら、響也お兄ちゃんはどうなってしまうんだろう?


 睨みつけた視線の先、葉摘をあざ笑うかのように太陽は容赦無く焼けつく熱を放出して輝いている。

 負けるもんかと心に呟きながら重いタンクを運び、稼働を続ける発電機に給油した。


 これで暫くは響也の部屋の冷房を使う事が出来る。少しでも部屋を冷やし、ゾンビになった響也の身体の腐敗を防がなければ……。


 葉摘は自室として使っている部屋に戻ると、古臭く過剰なほど装飾的な金縁の鏡に自分の顔を映し、髪を櫛けずった。

 日に焼けて茶色い髪をポニーテールにきゅっと結いなおし、身形を整える。

 人口の少ない篠ノ目島にはユニクロどころかシマムラさえ存在しない。

 いま葉摘が身につけているのは、商店街の倒壊しかけた衣料品店から持って来たノーブランドのノースリーブと、色だけは可愛いターコイズブルーのキャミソールだ。

 島に持って来ていた洋服は殆どがサイズアウトしてしまい、お気に入りのジディも、小さな頃から好きだったロニィも、リカコのお気に入りのメゾピアノも、もう着ることは出来ない。

 リカコと同じ美容院でカットしてもらっていた髪の毛だって、今はその辺にあるハサミを使って自分で切っている。

 お洒落を気に掛けるような環境じゃない事は百も承知していたが、響也に会う時くらいは出来る限り小奇麗にしていたかった。


「……そうじゃないと、あっと言う間に猿だよ。猿人だよワタシ」


 日焼に焼けて爪よりも黒い手の甲を眺め、葉摘は眉間に皺を寄せて呟いた。こまめに爪は切っていても農作業や細々した仕事をする爪先はキレイとは言い難い。手のひらには、固いタコがいくつも出来ている。


 葉摘は屋敷の一番北側、薄暗い廊下の突き当たりの部屋の扉をコンコン叩くと頑丈な堅木のドアに額をつけ、中にいる『響也お兄ちゃんのゾンビ』に声を掛ける。


「お兄ちゃん、戻ったよ。中……入ってもいい?」


 張り付いた扉の向こうからは、微かにエアコンの稼働音が聞こえる。

 耳を澄まし、葉摘は室内からの返答を待ちながらポケットの中の鍵を握り締めた。


『返事がない時には絶対にドアを開けてはいけない』


 それは葉摘と響也が交わした約束だった。

 それを破ったら二度と会わないと言われて以来、一度もその約束を破ったことは無かったが、最近は室内から返答が返ってくる回数もめっきり減ってしまっていた。


 きゅっと唇を噛み鼻から大きく息を吸い込むと、もう一度さっきよりも大きな声で葉摘は響也に呼びかける。


「お兄ちゃん、大丈夫? ねえ開けてもいいでしょう? ワタシ、もう一週間は響也お兄ちゃんに会ってないよ? ちょっとだけ顔を見るだけだから、部屋にいれてよ……お願い」


 祈る様な気持で鍵を握り締めた手に力を込める葉摘の耳に、室内からカツカツと合図の音が聞こえてきた。

 はじかれた様に顔を上げ、葉摘は手早くポケットから鍵を取り出して汗ばんだ手でドアを開けた。

 逃げ場のない夏の熱気に満たされていた廊下に扉の隙間から冷気が流れ出し、サッと葉摘の顔をなでた。

 凍りそうなほど冷たくエアコンで冷やされた空気には、胸を悪くするような刺激臭と花の香りが含まれている。

 ホルマリンと埃、それに、薔薇の香りだ。

 薄く開けたドアの隙間から素早く部屋の中に滑り込み、葉摘は後ろ手に扉を閉めた。


 部屋の中は殆ど真っ暗と言っていいほど暗い。

 建具の横の壁に手を伸ばして室内灯のスイッチをオンにすると、古い蛍光灯が青みがかった光を部屋の中にちらつかせる。

 人が住む居住空間としての室内を想定して入り込んだ人間は、ここを異様だと思うかも知れない。


 白い光に浮かび上がったのはまるで学校の理科室を思い起こさせるような空間だった。

 葉摘の目の前には巨大なテーブルが部屋の向こうとこちらを隔てるように、どんと鎮座している。大きさは殆どビリアード台と同じか、それよりも大きいくらいの物だ。

 これは孝造が特注で作らせたギャラリーテーブルで、中には彼が厳選した美しい鉱石標本が展示されている。


 オリーブ色のカンラン石は小さな粒の集合で、透明な方解石は美しいひし形。藍銅鉱は深い純粋な藍色に輝き、孔雀石は美々しい緑。

 茶色がかった粒が密集するザクロ石は、一月の誕生石であるガーネットと同じ物と聞いた。

 黒っぽい蛇紋岩の内側におびただしい針状の結晶を作る水苔土石を初めて見た時、葉摘はこれを霜柱と勘違いしたものだ。


 この他、辰砂、透石膏、黒曜岩に包まれた方珪石、蛍石、薔薇色の菱マンガン、燐灰石、スピネル……。

 孝造の集めた鉱石達は、カットされ磨かれた宝石よりも力強く美しい姿で見る者の心を打つ。

 ギャラリーテーブルの特等席から外れた多くの鉱石達は、壁際に置かれた展示用キャビネットに所せましと並べられている。


 部屋の漆喰の壁はもとは真っ白だった物が、経年とともにくすんで重い色になっていた。

 そこには姿の美しい虫達が硝子の額の向こうに往時と変わらぬ色を残して展示されている。

 大きな緑色のナナフシ、ハナムグリ、カミキリムシ、立派な角の巨大なカブトムシ達……。

 一匹ずつ樹脂に封入されたタイプの標本は、近年になって叔父の秋也が買い足したものだろう。甲虫類が多い。

 北に面して大きく切り取られていた窓は今は内側と外側から板を打ち付け塞がれ陽の光も入らず、誰も出入り出来ないようになっていた。

 その壁面が最も色鮮やかで美しい展示物で埋められている。

 蝶だ。

 世界中から集められた蝶達が羽を広げ、死してなおそのけんを競っているのだ。


 何重にも板を打ち付けた窓の前に置かれた肘付き椅子の上、響也きょうやは秀麗な顔をこちらに向け、壁に掛けられたドイツ箱の中の色とりどりの蝶に囲まれるようにして坐していた。

 サラサラと流れる癖の無い黒髪の下のなだらかな額。

 優しい線を描き夢見るような瞼、はっきりとした眉。卵型の輪郭にはしなやかさだけではなく男性的な強さが絶妙に混ざり始めていた。

 その面に命の温もりを感じされる温かみは微塵もなく、固く滑らかな陶器で出来た人形の方がむしろ生命の温かみに溢れて見えるほど、響也は死の支配下にある。


 入念に施した防腐防虫処理のお陰でこうして腐敗もせずいるが、そもそも響也は2年前に一度亡くなった人間なのだ。


「あのね、響也お兄ちゃん。今日は町で久しぶりに動いているゾンビを見たよ。たぶん島の外から来た男の子だったと思うんだけど、葉摘と同じスマホ持っていたから、悪いなって思ったけど貰ってきちゃった。ほら、前に言ったよね? ワタシのは電池パックがダメになっちゃったっぽいから使えないんだよ。ずっと地面に落ちていた物だから、たぶんダメだろうけど……もし使えたらラッキーじゃない?」


 葉摘は椅子の上の冷たく冷え切った響也に語りかけながら、久しぶりに入った部屋の様子を伺った。

 響也の脚元にいくつも置かれた円筒形の硝子瓶の中には、退色しつつある薔薇のポプリが詰まっている。

 これは響也の身体から漂うホルマリン臭を薄めようと、葉摘が作ってそこに置いたものだ。

 ポプリの詰まった分厚い円筒形の硝子瓶が響也の周囲を埋めるように幾つも並び、蛍光灯の白い光に冷たく照り返る。

 もともと瓶の中には葉摘の曽祖父の孝造の収集した小動物のホルマリン漬けが詰められていたのだが、響也をこの部屋に納めた後、中身は全て葉摘が処分していた。

 まるで響也まで孝造のコレクションの一部のように見えるのが、とても嫌だったからだ。


「後でカバーはずして交換してみるつもり。でもいつも充電器しか使ってなかったしやったこと無いからちょっと不安かも。今日はこれからいっぱいやる事もあるし、時間のある天気の悪い日にでもしようかな」


 ポプリの詰まった瓶は本当に足の踏み場もない程にいくつも密集して置かれている。

 だが、うっすらと埃を被ったそれらを移動させた痕跡が見られない。

 ……と言う事は、響也はずっとあの椅子の上から動いていないと言う事だろう。

 響也自体、良く見ればほんのりと埃を被っているようにくすんでいる。一体いつから動いていないんだろうか。


「……」


 葉摘は眠るように目を閉じて動かない響也を見つめたまま、そっと唇を噛んだ。


 ゾンビに噛まれた人間は絶対に助からない。

 一度生命としての死を迎え、蘇って動きだした時点で彼らの心臓は動いていないのだと医師である叔父の秋也は言った。

 生命として活動していないにも関わらず彼らは動き、人間に襲いかかってはその温かな肉を貪り喰らおうとする。

 『温かい肉』への渇望に理性が支配され、ゾンビ化した人々の殆どは生前持っていた記憶や人間性を失った恐ろしい化け物と化した。

 ゾンビは顔貌が以前知っていた誰かと同じだったとしても、もはや全く別のモノに過ぎないのだ。


 この現象の原因を調査しようにも設備も無く、外の世界から何の情報も入って来ない今となってはただの仮説にすぎないけれど、秋也はこのゾンビ化現象を


「ある種の寄生虫が昆虫に対して行っている操作に近いのでは……」


と、葉摘に語った事があった。


 ハリガネムシという水生生物がいる。

 この生物は水中で産卵をし孵化したのち、蚊の幼虫であるボウフラやトンボの幼虫ヤゴなど幼虫期に水の中で過ごす昆虫に寄生する。その後、蚊やトンボへと育ったそれらの虫と共に水中を出るのだが、これら宿主を捕食したカマキリなどの大型昆虫の体内でさらに大きく育ちハリガネムシは成虫になる。


 秋也あきやは子供時代にハリガネムシに寄生されたカマキリを捕まえた事があった。

 カマキリの尻から顔を覗かせる針金のような奇妙な生物の姿は、強烈な印象を彼の心に刻んだ。

 当時はその生物の正体を知らずにいたが、学生になって出来た昆虫に詳しい友人が、この虫について彼に教えてくれたそうだ。


 ハリガネムシは成虫になった後、水の中で交尾・産卵等の生殖活動を行う為に宿主であるカマキリを何らかの方法で操るのだと、その友人は秋也に語った。

 カマキリはハリガネムシに操られ水辺に引き寄せられ、時に自ら水の中へ飛び込んで死を迎える。

 昆虫を操り、水辺に引きこんでハリガネムシは水中へと帰ってゆくと言うのだ……。


 秋也は詳しくこの虫について知っているわけではない。

 だが、ゾンビ化についてハリガネムシに見られるような、宿主を操る寄生虫に近い何らかの現象が人間の体の中で起きているのではないか……との仮説を葉摘に語っている。


 ハリガネムシのように目視できる形の原因は秋也の調べでは発見出来ていない。だけど、もっと小さな生物…例えばウィルスや細菌等のレベルの『何か』が人間を死に至らしめ、生命とともに意志を奪った空白状態の肉体を操っているのではないかと言うのだ。

 しかし秋也の仮説では説明できない点も多い。

 ゾンビと化した人間達の肉体は殆ど死体そのものであり、食んだ肉を消化吸収する消化器官も機能していない。

 なのにゾンビはどこからエネルギーを得て活動をしているのか?

 そもそも生命活動を終えた生物の肉体を操るなどと言うことが可能なのか?

 ゾンビに視覚も聴覚も嗅覚もある事が分かってからは、複雑で繊細な人間の神経細胞やそれらの情報を『音』や『香り』『色、光』として脳内に伝達して理解する働きが、ウイルスや細菌に果たしえるのかとの疑問も抱えることになった。

 しかもごく稀な例ではあるが、響也のようにゾンビ化した後も生前の記憶を持つ事があるというのはどういうわけなのか……。


 秋也は医師らしく事の原因に頭を抱えていたけれど、葉摘はあまり深くその事について考えなかった。

 彼女にとって今の状態がどんな原因で起きているモノなのかを理解する事はさして重要な事柄ではないからだ。

 原因が分かったからと言って、元の世界は帰ってこない。


 泣いても喚いても世界は元へは戻らないし、大好きな……本当に大好きな響也お兄ちゃんは人間には戻らない。

 ……本土からの船がたくさんのゾンビを乗せてきたと言うことは、島の外にもアレは大量に発生していたと言う事だろう。

 篠ノ目島はあっという間にゾンビ化した人間だらけになった。

 こんな離島にすらゾンビはやってきたのならば、外の世界にも同様の事態が起きているに違いないのだ。


 あの……恐ろしい日から2年が経った今も、島の外から誰かが助けに来てくれた事は一度も無く、騒動のさなか使える船は全て出払い……壊され、小さな漁港にまともに動く船は一艘も残されていなかった。


 響也や秋也はこのゾンビ化現象の発端をバイオテロか、何処かの研究機関で秘密裏に研究されていた細菌兵器が外部へと漏れだした事故によるバイオハザードではないかと話していた。

 医学や科学の信奉者である秋也ではあったが、地球環境を壊し続ける人間に対して神が下した天罰だろうか……などと気弱に呟いたこともある。


 何が事実なのか、葉摘も秋也も響也も知らない。

 本当に何もわかない。

 葉摘の母、リカコの安否も島の外の状況も……。


 考えてみれば、外からの連絡も接触も無いと言うのは外の世界もまともに機能していないということなんだろう。

 葉摘に分かっていることと言えば、ただ外部への連絡方法も無く脱出の術もないこの島で、今はとにかく生きて行くしかないとの現実だけだ。



 響く怒号、悲鳴、苦悶のうめき声……。

 二年前の夏のある日、篠ノ目島はこの世に現出した地獄絵図さながらだった。

 町や集落には今も黒く焼け落ちた家々が片づける者も無くそのまま残されているし、所々には自動車が衝突したまま生い茂る緑の中に沈みかかってもいる。

 港口には沈没した船や自家用車が青く澄んだ水底に覗く。

 今も島にはゾンビが伝播して数日間に起きた悲劇の爪後が散見出来た。


 葉摘にはあの前後の記憶が殆ど残っていなかった。

 あまりに恐ろしく酷い出来事に、心が自己防衛の為に記憶を封じているんだろうと秋也は言った。

 全ての記憶がないわけではない。所々思い出す部分もあるのだけれど、とびとびの場面をつなぎ合わせても今と繋がるモノにはならないような気が葉摘にはするのだ……。


 あやふやに思い出せる中では、この小野塚の家は二度ゾンビ達の襲撃を受けている。

 たぶん一度目は島にゾンビが上陸してさほど日の経たぬうちだった筈だ。

 町や集落を襲いつくし、温かな血肉を持った生きた人間を喰らいつくしたゾンビ達が、ゆらゆらり……生者には無い不自然に緩やかな動きで町から屋敷へと続く一本道上ってくるのを最初に見つけたのは、響也だった。


「響也、お前は葉摘と一緒にこの小屋の中に隠れているんだ。俺が声を掛けるまで絶対でて来るんじゃないぞ」


 屋敷裏の自家菜園の脇にある農作業道具小屋に葉摘を押し込み、弟の響也の腕を掴んで秋也は言った。

 愛車の四駆を使って出来る限りゾンビを轢き潰し、町へ誘導して引き戻すのだと彼は言う。

 秋也の自慢の四輪駆動はグリルに頑丈なカンガルーバーが装備されていた。

 大型の野生動物など生息しないこの島でこんな道楽を……と身内に笑われたカーアクセサリーが、まさかこんな形で活用される日が来るとは、購入した当時には想像だにしなかった。

 数日間、阿鼻叫喚の町の惨状を見てゾンビの考える能力の低さを知った秋也は、一度屋敷から離してしまえば彼らは屋敷まで何をしに来たのか……どころか、屋敷に向かった記憶すら残さないだろうと見ている。

 その間に小野塚邸に至る一本道を何らかの方法で封鎖してしまえれば、次の方策を立てるまでの時間を稼ぐ事が出来るだろうと、この小屋へ二人を導きながら秋也が響也と葉摘に説明した。


「秋兄、僕も……っ!」


 道具小屋からチェーンソーや手斧を出して四駆のハッチバッグに詰め込む秋也に響也が言う。

 響也の秀麗な顔は酷く青ざめていたが、色素の薄い薄茶の目には強い光が宿っている。


「ダメだ。お前が来たら、誰が葉摘を守るんだ!?」


手入れを殆どしないボサボサの頭を一振りして弟を見た秋也の(おもて)は、反駁を許さない強い決意に満ちていた。


「いいか、俺が声を掛けるまでは迂闊に扉を開けるんじゃないぞ。もしも俺が戻らない時は……充分周り気をつけて、明るくなってから出て来い。万一ゾンビがいたとしても慌てるな。あいつらの動きは遅い。だけど人間と違って疲れる事を知らないから、闇雲に逃げ回ってもこっちが体力切れになるだけだ。……知った顔があったとしても、そいつがゾンビになっていたなら容赦なく攻撃するんだ。……出来るな、響也? もう一度言うぞ。例え、『どんなに親しい間柄』だったヤツでも……倒せ。約束するんだ」


 秋也の言葉に込められた言外の意味を読み取り、響也は慄く。

 だが、彼の服の裾を強く握り縋る葉摘に内心の動揺を悟られまいと強く唇を噛んだ。


「響也……葉摘の事、頼んだぞ」


 秋也は日に焼けた手で年の離れた弟の肩を一つ叩き、響也の後ろで言葉を発することも出来ずに震えながら涙を流す葉摘に、いつもと同じ…唇の片側を歪めるような笑みを見せた。


「葉摘、大丈夫。絶対に何があっても俺と響也がお前の事は守るから。……きっとリカコ姉ちゃんにも無事に会わせる。だから、お前も頑張れ」


 そうしっかりとした言葉で言い残し、背中を向けた秋也を葉摘は覚えている。


 その後の彼女のn記憶はとても曖昧なものだ。


 夏の夜、狭い小屋の中はとても暑かった。

 外界ではまるで何事も起きてはいないように虫の音が響き、野鳥の鳴き声も聞こえた。

 混乱と恐怖のただなかにありながらも、葉摘は眠りに落ちていたらしい。気がつけば日は昇り、いつの間にか一端小屋の外に出ていたと思しき響也がどす黒い返り血にジーンズの裾を染め、山刀を手に青ざめた顔で周囲の安全を告げた。


「周りにはもうゾンビはいないよ。秋兄さんがあいつらを上手い具合に下の町へ連れて行ってくれたみたいだ……」


 恐らく秋也の誘導を外れた何体かのゾンビを響也は処分していたのだろう。葉摘が『壊した』ような朽ちかけのゾンビではない。

 未だに人間らしい面影を残すモノを無力化させるその場面を想像すると、葉摘は今でもあまりのおぞましさに身の震えを禁じえない。


 だけど、響也はその恐ろしい事をすべて自分の手で済ませ、葉摘を守った。

 屋敷の周囲はいつもと変わらず、木々の葉擦れや虫の音や野鳥の声……バロック音楽の通奏低音のように島の生活の根底を流れる海のざわめきが満たし、今までの事は悪い夢か性質の悪い冗談のようにさえ思えた。

 冗談や夢ならばどんなに良かっただろう。

 しかし秋也は未だ帰らず、ゾンビの上陸以来空気に混ざる何かが燃える焦げくさい香りと腐臭とが、今も夏の熱い空気に混ざって鼻腔を刺激する。

 ……遠くでチェーンソーが木を削る音が響いていた。

 たぶん秋也だ。彼がこの屋敷へと続く道を封鎖する為に木を倒しているのかもしれない。……それとも誰かがまだ生きて動いているんだろうか?

 不安に満ちた瞳を向ける葉摘の細い肩に、血の気の薄い青ざめた顔に優しく笑みを浮かべた響也が温かい手を置いた。


「大丈夫」


 そう一言だけ言った彼の普段に無い程の力強い声は、葉摘の耳にいつまでも残っている。

 


「無理に思い出す事なんてない。そのまんま忘れちまえ」


 タバコをふかしながら片唇を曲げるように笑って言う叔父に、葉摘は口に出しかけた疑問を胸にしまい唇を閉ざした。

 暫くの間、秋也は帰ってこなかったと思う。

 道路は封鎖されていたが、いつまたゾンビからの襲撃を受けるとも限らない不安な日々を葉摘と響也は過ごした筈だった。

 秋也が屋敷を出てから一体何日経ったのか、その記憶がない。


 やがて再び小野塚の屋敷が襲われ……葉摘は前と同じ裏庭の小屋の中に避難するように言われた。

怖くて怖くて仕方がなかったけれど、あの時の秋也と同じ決意に満ちた響也の目を見て葉摘は一瞬声を失った。


「葉摘、必ず迎えにくるからここから出ちゃダメだよ。もしも僕が戻らなかったら、どんな方法をとってでも生きるんだ」

「いや……響也お兄ちゃん、ワタシを一人にしないでよ。怖いよ」


喉元まで出かかった言葉は響也の強い目の色の前で音を失い、唇から先に出てくる事が出来ずに消えた。


「大丈夫、僕は絶対に戻ってくるよ」


 ……と、葉摘の両肩に手のひらの温もりを残して響也は出て行ったけれど、彼が生きて葉摘の前に帰ってくることは───無かった。


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