第3章 静止世界の影
村の中央広場は、時間の息吹を奪われたまま、氷の彫刻のように沈黙していた。
噴水の水は空中で糸のように絡まり、陽光を浴びながら、二度と落ちることのない雫となって宙に浮かぶ。
紙片が一枚、彼女の目の高さに漂っている。風は吹かず、熱も音もない。自分の呼吸音だけが、密閉されたクロノスーツの内部でかすかに響く。
その異様な静止の只中で——何かが、動いた。
リイナは反射的に腰の計器に視線を落とす。
外部時間流はゼロのまま。あり得ない。
だが視界の端で、影が滑るように広場を横切っていく。
ゆっくりと、確かな意思を持って。
クロノスーツの時間炉出力を最大に上げる。周囲の空間がかすかに揺らぎ、足元の石畳が一瞬だけ解凍されて水滴を落とす。
その波紋の向こうから、フード付きの防護服を着た人物が、迷いなくこちらへ向かってきた。
「……K-42は、君が持っているのか?」
低く、くぐもった声がヘルメットの内部に響く。
彼女は答えず、わずかに右手を封筒の位置へずらし、警戒を滲ませた視線を返す。
相手の動きは滑らかで、この停止域では異常なほど自然だった。
「……あなたは?」
「最後の配達員だ。あるいは、この第七停止域の記録者と呼んでもいい。」
相手はそう言い、ゆっくりとフードを下げた。顔の半分は古びた呼吸マスクに覆われ、瞳だけが露わになる。
その色は、時間結晶のような深い蒼。光を失った世界で、その色だけがかすかな生命を宿していた。
「ここは事象核断片の落下で、時間が完全に停止した。だが——」
彼は足元の石を軽く蹴る。硬直していた砂粒が、半径数十センチだけふわりと浮き、再び止まる。
「核の周囲には、まれに“局所解凍”の波紋が発生する。俺はそれを利用して、生き延びてきた。」
リイナは眉をひそめる。
「それで、あなたは動ける。でも、なぜK-42を?」
男は視線を彼女の胸元——封筒の位置に固定する。
「それは、波紋を制御する鍵だ。この地を封じた者たちが最後に残した、唯一の“時間の種”だ。」
村の奥へ続く道を指し示しながら、彼は言う。
「事象核は広場の向こうにある。案内しよう。」
二人は、無音の街路を進む。止まった鳥が空中に浮かび、振りかけられた水滴が石畳の上に小さな球体となって散らばる。
その光景を切り裂くように——リイナの胸元で、K-42が脈動を始めた。
淡い蒼光が封筒の縁から漏れる。
瞬間、周囲の静止物が一斉に“動き”を取り戻す。
噴水が水を吐き、風が髪を揺らし、遠くで犬が吠える。
すべてが一瞬だけ、正常な世界の鼓動を取り戻す。
だが次の瞬間——。
地面が低く唸り、奥から押し寄せるような衝撃波が二人を包み込む。
クロノスーツの計器が真紅に染まり、警告音が耳を刺す。
「……これは、核の覚醒だ!」
男が叫び、リイナの腕を強く引く。
視界の端で、村の奥の闇が蒼白い閃光に裂ける。
K-42の封が勝手に開き、そこから純白に近い光が溢れ出した。
視界が反転し、音が遠ざかる。
——リイナは闇に飲まれ、意識を手放した。