第1章(プロローグ) 時間は燃える
Hazama仮説――時間はエネルギーである。
この定理が受理された日から、物理学は「流れ」を扱う学問になった。時計は針ではなく流束計で表され、温度は熱の密度ではなく時間密度の勾配として測り直された。時間の流れを止めれば、エネルギーの流れも消える。光子は進行をやめ、熱は拡散をやめ、化学反応は未反応のまま凍りつく。逆に時間流速を上げれば、エネルギー密度は跳ね上がり、物質は臨界へと押し出される。
地上には、流速がゼロへ落ち込む“穴”が点在する。
「事象核断片」――ブラックホールの核に由来するとされる微小片が落下した場所は、周囲から時間エネルギーを吸い上げ、停止領域を育てる。そこでは呼吸も脈拍も、音も熱も成立しない。侵入者が持ち込む僅かな時間エネルギーだけが、その表面で“局所解凍”の閃きを起こし、すぐに吸い尽くされる。
宇宙にはその極限形がある。
ブラックホールは究極の時間停止装置だ。その地平面近傍では、空間と時間の歪みに応じて“時結晶”が自然成長する。時結晶は圧縮された時間エネルギーの固相――都市ひとつの「今日」を数年分、束ねてしまえる燃料である。
クロノポリスは、その燃料に生かされてきた。
中心広場の巨大時間炉〈タイムボイラー〉は、時結晶を脈動させ、都市全域へ“今”を配給する。供給が途絶えれば、街は均一に凍りつき、住民の寿命すら自家燃焼で失われる――理論ではなく、幾度か経験された現実として。
以上は教科書の冒頭であり、新聞の一面であり、行政の避難指針だ。
そしてその現実の路面を、ひとりの郵便屋が駆けている。
真鍮の舗道は昼でも薄暗い。頭上を走るガラスの回廊が陽を割り、通りには蒸気と歯車の影が格子を落とす。リイナは軽装のクロノスーツを締め直し、胸元の流束計に視線を落とした。針は安定、都市配給の“今”は十分。呼気が肺へ入り、また出ていく――それが“燃焼”であると、彼女は講習で叩き込まれている。
鞄の底には、一本の封筒。
湾曲した封蝋には細かな干渉縞が埋め込まれ、手袋越しでも触れればわずかに冷たい。時間エネルギーの流れが封内で固定されている時の、特徴的な冷たさだ。検閲免除の赤い刻印――時間封書。郵便局の局長から無言で手渡され、宛先は「クロノポリス理論機構 設計室」。差出人欄は空白。封筒は、あり得ないほど重い。紙の重さではない。流れを受け入れない物体に触れたときの、わずかな手応え。
「通行注意。先の三叉路に停止域、半径一・二メートル。立入禁止柵を展開中」
頭上の拡声器が、乾いた声で告げる。
リイナは速度を落とし、路地の角から覗き込む。石畳の真ん中が、色を失っている。輪郭は曖昧、中心に行くほど沈黙が濃く、音が吸い込まれていく。柵の設置域が真鍮の杭を打ち込むたび、杭は音を置き去りにしたまま見かけ上の反発で跳ね、すぐに作業員の持ち込む“今”に追いついて金属音を返す。局所解凍――Hazama仮説の実演のような、刹那のずれ。
「講習の通り、だね」
リイナは喉の奥でつぶやく。
止まったものに触れるな。止まったものの近くで立ち止まるな。止まったものの境界は動く。三つの危険ルールを頭の端で反芻しながら、彼女は迂回路を選ぶ。鞄の重みが、足取りに規則正しいリズムを刻んだ。
角を曲がると、広場に人だかり。
時間炉の外殻に備え付けられた公報板が、活字を切り替えている。
《本日、時結晶の入荷遅延により、都市配給“今”の節約運転に移行。各区の流束は一二%低下。不要不急の外出は控えること》
ざわめきが広がるたび、広場の空気がわずかに薄くなる気がした。誰もが、呼吸の速度と会話の速度を同期させようとする。節約とは、つまり燃える速度を落とすことだ。
リイナの流束計が一瞬だけ脈を落とし、すぐに規定値へ戻った。
彼女は息を吐き、封書に指を添える。封蝋の冷たさは変わらない。時空位相差を固定化する術式――講義で聞いたことのある言葉が、脳裏に浮かぶ。もしそれが実在し、もし封内に式と設計図があるのなら、都市の“今”は設計可能になる。配給の上下ではなく、編成。局長があえて言葉を足さなかった理由が、薄い恐怖とともに理解できる。
ふと、視界の端で動きが止まった。
止まった――ように見えた。
群衆の一人、黒衣の人物がこちらを見ている。流束計の針が震え、リイナは反射で人混みへ身を滑り込ませた。尾行か? それとも不安の幻影か? 答えはどちらでもよかった。郵便屋の原則はひとつ――届ける。たとえ世界が遅くなろうと、速くなろうと、配達のベクトルは変えない。
理論機構の塔は、広場のはずれで陽を鈍く反射している。
ガラスの回廊に差し込む光が、封書の封蝋の干渉縞に微細な虹を作った。
リイナは塔の扉に手をかけ、ふと胸ポケットの小さな写真に触れる。写っているのは、停電の日のクロノポリス。止まりかけた時計台、蒸気の途切れた空、子どもの泣き顔。あの日、街は確かに燃え尽きかけた。彼女が郵便局の赤い襟章を選んだ理由は、その一枚に折り畳まれている。
扉が開き、冷たい空気が頬を撫でた。
階段の先に、理論の人々がいる。式を書き、検証し、世界の流れを言葉にする者たち。
彼らは知らない。配達鞄の底で、その言葉の次の一行が、封蝋の下に眠っていることを。
リイナは一歩を踏み出す。
もし封が切られれば、時間は再び設計可能な物理量になる――そう教科書は言う。
だが誰も書かなかった。設計図を書き換える権利が、時にただの郵便屋の手に落ちることを。
外では公報板が新しい文言へ切り替わった。
《停止領域、中心街へ向け微小拡大。安全半径を再設定中》
風が回廊を鳴らし、広場のざわめきが薄れる。
時間は、今日も燃えている。
そして、彼女の鞄の中で、別の燃え方を始めようとしていた。