03-1.獣人の侍女は警戒している
翌日、ヴァージニアは一人で目を覚ました。
ローザと長い時間離れ離れになったのは初めてだった。
……あの黒い狼さんも、もういないのね。
昨夜、急に現れた黒い毛並みの整った狼と少しだけ遊んだことを思い出す。狼は自慢の毛並みを触らせてヴァージニアの不安を慰めるかのように、ヴァージニアが寝付くまで傍にいてくれたのだが、いつの間にか持ち場に帰っていたようだ。
それが寂しいと感じる。
……朝も遊びに来ないかな。
名前を聞き損ねてしまった。
獣人帝国の城を自由に行き来しているのならば、野生の狼ではなく、人狼族だろう。
「ヴァージニア様。起きていますか?」
「は、はい。起きました」
「では着替えの手伝いに入らせていただきます」
聞いたことのない女性の声だった。
ヴァージニアは慌ててベッドから降りて、いつ、蹴り飛ばされてもいいように床に座り込んだ。
立っているよりも座っている方が蹴りやすいから、そうするようにと長年言われ続けてきた習性だった。
扉が開けられ、猫の獣人の侍女が顔を出す。
灰色の耳と長い灰色の尻尾が特徴的な侍女は、ヴァージニアの朝の姿勢と言わんばかりに床に座っている姿を見て鼻で笑った。
「なにをしているのですか」
「……蹴らないのですか?」
「それ、人間の挨拶の仕方ですか? ――はじめまして。ヴァージニア様。わたしはヴァージニア様の侍女長に任命しましたダリアです」
侍女、ダリアはヴァージニアに視線を合わせるように床に座った。
目の前に座られたヴァージニアは戸惑っていた。
「ダリアと呼んでください」
「……ダリア?」
「はい。ダリアです。ヴァージニア様の世話は、このダリアが責任をもってに行います」
ダリアはにこりともしない。
それがヴァージニアには怖かった。
「ローザは、こないの?」
ヴァージニアは問いかける。
それに対し、ダリアは目を細めた。
「来ません」
ダリアは即答した。
ダリアもリロと同じようにヴァージニアの世話係に名乗り上げた一人だった。そして、一目見た瞬間に仕えるべき主を得たと認識していた。
「ヴァージニア様は、人間は信用できないのでしょう。ヴァージニア様の成長にも人間は不要だと判断いたしました」
「ローザは他の人と違うわ!」
「同じです。少なくとも獣人を怖がっている状態では悪影響を与えかねません」
ダリアの言葉に対し、ヴァージニアは困ってしまった。
……たしかに。獣人を怖がっていたわ。
獣人になにかをされたわけではないだろう。
しかし、ローザはヴァージニアを連れて城の外に出るべきだと進言していたのをメイナードに聞かれてしまっていた。その為、ヴァージニアを連れ去る危険性がある危険人物として認識されてしまったのだ。
「でも、私には、ローザがいないと……」
ヴァージニアは不安だった。
仕事をしている時は不安に思いつつも、動くことで必死だった。蹴り飛ばされても仕事に食らいついていかなければ、仕事を取り上げられてしまうと知っていたからだ。
ここではそれがない。
昨日、案内された食堂でも大歓迎を受けた。
しかし、ヴァージニアは食が細すぎた。それを心配したメイナードが医者の判断を仰ぎ、しばらくは落ち着いた個室での胃に優しい食事から始めることになった。急に大勢に囲まれてしまえば、緊張で意識を失いかねないという医者の判断だ。
「ご安心ください。ヴァージニア様」
ダリアはヴァージニアに笑いかけた。
「ローザ殿が獣人に慣れていただければ、すぐにヴァージニア様の侍女になります。それまでは互いの成長の為に距離を取るのです」
「お互いの為?」
「はい。成長されたヴァージニア様の姿を見ればローザ殿も喜ばれることでしょう」
ダリアの言葉は魅力的だった。
……喜んでほしい。
ヴァージニアの気持ちの変化に目敏く気づいたダリアは、そっと、手を差し出した。
「ダリアが傍におります。リロ卿も陛下も、ロイ卿も、昨日お会いした多くの兵士たちも、みんな、ヴァージニア様の味方です」
ダリアはそう言い、笑いかけた。
笑顔で言われると不思議とそんな気がしてきた。
「そうですか」
ヴァージニアは乗り気になっていた。
ローザに依存しているわけではない。ただ二人で生きていく為にはヴァージニアはローザがいなければ、なにもできないかのように振る舞う必要があった。それはローザの為だった。
「喜んでくれるなら、そうしてみます」
「ええ。そうしましょう。さあ、ヴァージニア様。いつまでも床に座っておしゃべりでは格好がつきません。お着替えをしましょう」
「これではいけないのですか?」
ヴァージニアは問いかける。
肌触りのいい簡易なドレスは寝るのに快適だった。動くのも楽である。これから、侍女の仕事をしようと考えていたヴァージニアにとって、動きやすさはなによりも重要だ。
「いけません。それは寝る時に着る為のものです」
ダリアはすぐに返事をする。
「それから丁寧な言葉も必要ありません。わたしはヴァージニア様の侍女です。ヴァージニア様が丁寧な言葉を使うことを強要する相手がいたのならば、この私が皇帝陛下でも殴って見せます」
「陛下は殴らないでほしいです」
「ヴァージニア様。言葉遣いが違います」
ダリアは拳を掲げた。
女性でありながら護衛騎士となったリロと同じようにダリアも逞しい。獣人族は身体能力に優れている為、皆、護身術を身に付けているのだろう。
「ひっ」
ヴァージニアは身を屈めた。
ダリアはヴァージニアに安心してもらおうと拳を掲げて見せたのだが、殴られると勘違いしたのだろう。
「申し訳ございません! ヴァージニア様! これは強さを誇るポーズです! ヴァージニア様を何者からも守って見せるという誓いの姿勢なのです!」
ダリアは慌てて拳を下げた。
それからなにもするつもりはないのだと主張するように、両腕を後ろに組む。
……そうよね。
ここは祖国ではない。
ヴァージニアを殴る人などいないのだ。
「……大丈夫よ」
ヴァージニアは深呼吸をした後に答えた。
少し怯えてしまっただけなのだ。