13.早朝。廊下にて
「では、私はここで失礼いたします」
主に一時の別れを告げると、アデルが軽くお辞儀した。混乱や犯罪を避けるためか、基本的にメイドが校舎の中に立入ることは許されていないのだ。入っていいのは正面玄関まで。廊下に足を踏み入れることは規則違反だ。
当然、それはアデルも例に漏れず、破れば校則に則った処置が下されることだろう。
それ即ち、実質的な解雇。収穫もないまま帰還したとして、ヴィンセントがみすみす見逃すとも思えない。
アデルと別れて暫くが経過した。敢えて早くに登校したからか殆ど人の気配はなく、昨日の朝とは大違いなほど静かである。
だからか、微かな音すらもはっきりと聞こえる。誰かの足音や、ほんの小さな物音、それから、心地よい小鳥の囀り声だ。
きっと聖花の他にも早く登校している人がいるのだろう。それとも、単に教師のものかもしれない。
兎に角そんなことはどうでも良くて、聖花が朝早くに登校したのには訳があった。確かに、性悪な貴族たちの相手をする手間を省きたかったからもある。しかし、彼女の狙いは別にあった。人知れず、こっそりと、試したいことがあったのだ。
教師たちは遅くまで校舎に残っていることだろうから、例え生徒が校舎を離れても放課後には出来っこなかった。だから、彼らもまだ活発でない早朝でなければならないのだ。
幸いにも校舎内には入れたし、早すぎて怒られることはない。そもそも、校則を破っていないのだからこれと言って問題はないだろう。
聖花が何気なく廊下を曲がると、偶然、ひとりの男が目に入った。距離はさして遠くなく、その内すれ違うことになるだろう。
と、そんなことはどうでも良い。問題なのは、その人間が今の彼女にとってイレギュラーな存在であることに他ならない。
しかし、折角周囲の目がない場所でばったり会えたのだ。彼女の目当てとは異なるが、ここでの彼との邂逅は今しかないかもしれないのだ。それに、当分起こらないかさえ分からない。
だからこそ、無視する訳にはいかなかった。
一瞬、あの時の光景が蘇る。マリアンナと彼が内緒話をする様を。
二人が何をしていたのか詳しくは分からないし、いちいち気にしている場合でない。そんなこと、聖花もよく分かっている。
けれども、それがほんの僅かに彼女を逡巡させたのだ。
少しの躊躇がいけなかったのか、アーノルドが聖花の真横を通り過ぎようとした。話しかける素振りはまるでなく、それどころか見向きさえしていない。聖花にとって、それはどうしようもなく恐ろしかった。
恐怖の根底にあるものは上手く言い表せない。というよりも、未だに捨てられる恐怖に怯えているなど到底認めたくなかった。
放置されるのは良い。けれども捨てられるとなるとまるで訳が違うのだ。それこそ、恰もゴミの如く、ただ淡々と排除されることだろう。
所詮駒一つ、そこに感情などある訳がない。
「待ってください‥‥‥‥!」
やや声を荒げる。頭の隅に ”話しかけられるだろう” という甘ったるい考えがあったのだろう。だからこそ、聖花は余計に焦りを感じていたのだ。
クックっと、耳元で笑うような声が聞こえる。それから、「こんな所で声を荒らげて大丈夫か?」と聞こえて来た。
彼女を誂っているかのようなその声は、他でもないアーノルドのものだ。
ハッとして聖花がゆっくりと振り返る。豆鉄砲を食らったような、振り回されたような心地がして堪らない。でもやはり、そんな彼に ”まだ大丈夫だ” という妙な安心感を覚えるのは、認め難いが彼女の気の所為ではないのだろう。
想定通り、アーノルドはその場に佇んでいた。彼女と向き直り、心底この状況を楽しんでいるように見える。
にしても、幾分距離が近い。傍で声が聞こえたからある程度そんな気はしていたが、パーソナルスペースぎりぎりのラインだ。
耐えきれず、彼から少しばかり距離をとる。それから息を深く吐き、場を仕切り直すように聖花が口を開いた。
「‥‥‥仰る通り、どうやら配慮が欠けていたようです。
では、折角ですので歩きながら話しませんか?」
「ふむ。良いだろう。だが、行く宛はあるのか?
闇雲に歩き回る訳にもいくまい」
口を噤む。そもそも、この会話自体がイレギュラーなのだ。こんな時間にこんな場所で出会うなど、流石の彼女も想像すらしていなかった。
つまり、行く宛など深く考えている訳がない。その場に留まることもそうだが、行く宛もなく彷徨うことも同じくらいリスクが高い。むしろ、目的地がない分、一点にとどまらず目撃者を増やすだけだ。そうなると、最早自ら吹聴して回っているようにしか思えない。
今はまだ少ないとはいえ、時間が経てばやがて生徒の数が増えてくる。どのくらい会話するかも決めていないし、往来が激しくなる前に何処か人目に付かぬ場所に移動しておくべきであろう。
アーノルドは第二王子。この国の最高位の貴族なのだ。長時間二人きりでいて、不思議に思わない者は先ずいない。それこそ、彼の顔を知らなければ別であるが、貴族の多いこの学園でそれはごく少数だ。
普通に考えて、目につかない筈がないのだ。
「‥‥考えが及んでいなかったようだな」
アーノルドがポツリと呟く。眉をピクリとも動かさずに淡々と。けれども、聖花には彼が何処か面白がっているように見えた。決して呆れている訳ではないが、馬鹿にされている気もする。
以前よりもアーノルドの感情が薄っすらと分かるようになった気がするのは、単なる彼女の思い込みなのだろうか。
兎に角、何か言わないといけないような気がした。簡単に思いついた場所をいくつか挙げることにして、聖花は彼の様子を伺うことにした。
「――では、空き教室付近や、屋上といった人気のない場所はいかがでしょうか。ここなら先ず、朝から訪れる者はいないでしょう」
「…………人が来ないとは限らない」
「それは何処でも同じでは?」
思わず突っ込んでしまった。駄々を捏ねるかのような、幼い子供の言い訳のような発言を無視することなど出来る筈がない。
きっと思うところがあったのだろうが、それならばそうとはっきり言って欲しい。あるいは、別の思惑あってのことだろうが、余りに発言が馬鹿げている。
「いや、悪かった。それも有りだ。
‥‥‥‥‥が、もっと良い場所があるだろう?」
聖花の思考を読んだのだろう。面白おかしげにアーノルドが言葉を紡ぐ。恐らく、完全に誂われていた。彼女の反応を見るために、敢えて回りくどい真似をしているのだろう。
けれどもやはり腹は立つ。こんな時にふざけているのか、と思いつつ、聖花が小首を傾げた。
余りに説明不足だ。これだけで分かると思っているのなら見当違いも甚だしい。まだ聖花はそこまで、彼の思考を読める訳では無い。
訝しげな様子でアーノルドを凝視して、回りくどいことをするなと訴える。依然として、彼は何処か面白げだ。
彼が視線を窓へとやった。それに釣られて、聖花も外へと視線をやる。目下に映るは木々のせせらぎ。僅かに生じたそよ風が辺りの草木を揺らし、自然全体が穏やかに揺れ動いていた。
あの時と場所は違えど、彼が指し示す場所が何処であるのか、聖花は瞬時に理解した。流石の彼女もここまでされて分からないほど愚かではない。
というよりも、薄々気が付いてはいたものの敢えて気付かない振りをしていたのかもしれなかった。
(‥‥‥‥バレていたのね。
目が合ったのは偶然ではなかった、か―――)
アーノルドの指す場所は『庭園』。それも、たった昨日カナデと二人きりで話していた所に違いない。そんな確証が彼女の中で湧き上がった。
知らぬ存ぜぬを貫くべきか否か、唐突な二択に迫られる。分かった素振りを見せれば様子を伺っていたことを認めてしまうようなものだし、だからといって知らぬ振りをした所で既にバレていることだろう。
思い悩んでいる暇もなく、聖花は即座に結論を下した。その間数秒、一刻の猶予もない。
「申し訳ございませんが、私には存じかねます。ですが、誰か来てしまいますし、折角ですのでそちらに移動することにしましょう」
「…………まあ良い。後ろに控えておけ」
「分かりました。万が一の為に距離を空けておいても宜しいでしょうか?」
「好きにしろ」
同意を得たので、不自然に見えないくらい距離を空ける。流石に移動中、誰かとすれ違わない訳がない。そろそろ生徒が増え始めることだろうし、”念のため” は大事なのだ。
「それで、何故こんなに早く登校してきた?」
前方から疑問が飛んでくる。振り返りこそしないものの、きっと相変わらず眉一つ動かしていないことだろう。
これは聖花の予想に過ぎないが、彼はまた周囲に音が聞こえないよう魔術を使っている。でなければ、さっきから何も音が聞こえないことなど有り得ないのだ。
詰まる所、口をパクつかせて変には思われるかもしれないが、とても会話しているとは思えない筈なのだ。
「早く登校してはいけないのでしょうか」
「‥‥‥そういう訳ではない。純粋な疑問だ」
疑問に疑問で返すと、アーノルドはきっぱりと否定した。本当に不思議に思っていたのだろう。言葉が少しばかりぎこち無くて、聖花は思わず目を丸くした。
朝だからか、まだ本調子でないのだろうか。
とはいえ、例え探りを入れて来ていたとしてもそうでなくても、そもそも聖花が迂闊に目的を話す訳がない。彼女は静かに口を噤み、アーノルドもそれに合わせて黙りこくった。
そうして不思議な空気に包まれた中、ふたりはコソコソと校舎を出た。




