12.きっかけは些細なことで
(色々と、面倒なことになったわね)
ティーカップをソーサーの上に置き直す。その中身は初めの半分にも満たない。
僅かな振動でゆらゆらと揺れていた水面はやがて糸を張り、聖花の姿をうっすらと映し出した。一見すると、痛く落ち着いているように見える。
いや、実際、今の彼女はやけに冷静だった。身体の力を抜いて一息つくと、わざわざ探し出す必要がないことに今更ながら気が付いたのだ。だって、探さずとも自ずと怪しい行動を見せてくれることだろうし、聖花に敵意を持つ者がたった一人な訳がない。
"悪意"も言い換えれば"敵意"のようなものなのだ。
が、一つだけ言えることは、敵意を剥き出しにされようが、コソコソと尾行されようが、危害を加えられない限りは"未遂"であり、証拠を集めて脅すことは出来てもそれ以上のことは出来ない。
ただし、聖花としては表立って何もされていないのに脅すような行為はしたくないことも確かだった。それこそ反感を買うし、厄介事が増える恐れがある。
あくまで脅しを使うのは、相手が先に手を出して、尚且つ余りに危険だと彼女が判断した場合だ。
兎に角、聖花がこんなに神経質になっていたのは、今日だけで様々なことが起こった為に他ならない。環境が再びガラッと変わっただけでも落ち着かないのに、初日から大勢の女子生徒に認知され、衝撃的な光景を目の当たりにし、早速危険な目に遭った。おまけに、やけに近しい侯爵令息ときた。
それこそ、過度なストレスを感じない訳がない。
けれども、アデルの気遣いによってか、はたまた漸く休むことが出来たからか、幾分気が楽になったのも確かである。
当然、日々悪意にされされるのは煩わしいことだ。が、それをいちいち気にして、時間を無駄にしている暇はない。そう思い直すことで、風が凪ぐかの如く冷静になれたのだ。
少なくとも落ち着いていて物事を考えられるくらいには。
(今は、他のことを整理しましょう。
‥‥‥そう、例えばフェルナン。特に彼は野放しに出来ない。早々に対処しないと、何をしでかすか―――)
先の事件を思い起こす。思い返すことさえ悍しい、教師という立場を悪用したあの事件だ。
結果的に未遂に終わったものの、今後は上手く躱せるとは限らない。それこそ、リリスの助けがなければ危うかったのかも知れない。
聖花が最後の抵抗に出た時。あの時、確かに彼は硬直した。何とも滑稽な話であるが、無鉄砲に、無様に鞄を振るって抵抗したことを彼女は覚えている。
思い出せば出すほど、自身の迂闊さが思い知らされた。
が、その策は見事成功した。あの、余裕ぶっていたフェルナンが明らかに動揺したのだ。
余りにあからさま過ぎて気が付かない筈がない。
鞄から零れ落ちた荷物のうち、最も怪しかったのが『本』だった。それも、アデルに貸してもらった本。というのも、他に散らばったものといえば、筆記具や護身用品など簡単に代替のきくものばかりであり、怪しさだけで言えば圧倒的だった。
思い違いという可能性も抜けきれないが、何も分からない以上、調べる他に方法はない。様子を見る限り、恐らくリリスも教えてくれない。
聖花の憶測が正しいのだとしたら、内容か著者、あるいは本自体に何らかの関わりがあるのだろう。
「アデル。聞きたいことがあるの」
「何でしょう?」
聖花は、背後で控えていたアデルに話し掛けた。余りに唐突だったので、彼女もキョトンとした表情を浮かべている。
「この間貸してくれた本。あれは何処で買ったのかしら」
「あぁ、あれは過去に母が買ってきたものなんですよ。
この国の書店では見ないので、もう廃盤になっているか、この国のものではないかと思います」
「‥‥‥‥‥そうなの」
なるほど、と頷く。国を自由に散歩する機会などそうそう無いから知らなかったが、あの本はそんなに珍しいものであったようだ。
アデルの母が何処から本を入手したのかなど知る由もないが、聖花の中でますます胡散臭さが深まった。
その中の一つの可能性。それは、フェルナンがアルバ国出身でないことを示唆しているのかもしれない。
パース家の歴史は浅い。それは初めに家紋のこと調べた時から知っていた。しかし、余りに不可解なことが多すぎるのだ。
まず、彼の立ち位置。いくら彼が優秀にせよ勝手が過ぎるように感じるのだ。入学式前の行動も然り、優秀だからと片付けるにしては度が過ぎる。
次に、リリスとの繋がり。普通に考えて、侯爵子息と振興貴族の間に関わりがあること自体可笑しいのに、リリスはフェルナンの過去を知っているようだった。
彼のことを不審に思って調べるにしても、余りに詳細を把握している気がするのだ。わざわざ警告されたのも気がかりだ。
これは聖花の妄想に他ならないけれども、これまでのことを纏めるとパース家自体が偽物であるように感じられるのだ。あるいは、彼の隠れ蓑であるのかもしれない。
(‥‥‥‥‥考え過ぎか)
聖花は自嘲するようにクスリと嗤った。
「‥‥‥‥‥お嬢様?」
アデルが彼女をじっと見る。見られていたのか、いないのか分からないが、不意に黙り込んだ聖花を見て怪訝に思ったのだろう。
「ごめんなさい。ぼぅっとしていたわ。
教えてくれてありがとう」
「いいえ、私に出来ることなら喜んで」
アデルは理由も聞かずに微笑んだ。それから、何気なく言葉を続けた。
「読み終わったら是非感想をお聞かせ下さいね。
楽しみにお待ちしております」
瞬間、聖花はハッとした。読み終わったら、それ即ち、アデルに本を返すということだ。
だがしかし、その本は手元にない。状況が状況とはいえ、フェルナンの部屋に置き去りにしてしまったのだ。
失くした。そう言ってしまえば楽だろう。だが、それはアデルの信頼を裏切る行為に他ならない。
彼女がヴィンセントに選ばれたメイドである以上、真実を話す訳にもいかない。一度伝わってしまえば、ヴィンセントがどんな行動をするか予測できないからだ。それも一種の裏切りと言えるだろうが、何もかもをペラペラ話してしまうのは危険なのだ。
たかが本。されど本。けれども、アデルにとっては大切なものであるのかもしれない。
過去に、アデルから母の状況が芳しくないと聞いた。あるいは、既に亡くなっているのかもしれない。
それでも、わさわざ聖花を信用して貸してくれた本。そう考えると、言うことができなかった。喉の奥まで出掛かった言葉は既のところで遥か遠くへと消えていった。
(絶対に取り返さないと)
そう心に決めたのは瞬時のことだった。
感情で動くのは道理でない。そんなことは分かっていても、聖花はアデルを裏切りたくなかった。
恐らく、そう簡単に返してくれる筈がない。それが彼にとって重要なものであるのなら、余計に話し合いで解決出来る訳がないだろう。
だから、フェルナンの弱みを握り返す必要があった。
これは些細なきっかけ。けれども、聖花が決意するのに十分な理由だった。
(『シンシア』、彼はそう言っていた。‥‥‥‥人の名前かしら)
そうすると、ふと、彼の発言が頭に浮かんだ。苦しげに悶えて、滑稽な姿を晒していた彼の姿だ。
間違いなくその原因はリリス。彼のせいでフェルナンの様子が目に見えて分かるほど悪化した。
つまり、リリスのことを知り、フェルナンのことを知り、本を取り返した上で彼を抑え込む必要があるということだ。
することがまた一つ増えた気がするけれども、カナデと邂逅する上で必要なことのように思えた。勿論、アーノルドと彼女の関係についても明らかにする必要がある。
それまでは、彼にも相談することが出来ない。フェルナンに正体がバレている、と。切り捨てられたら、あるいは自由がなくなれば、それこそ"終わり"なのだ。
リリスの警告を忘れた訳ではないが、今更引き返すことは出来ない。そもそも、する気さえ起こらなかった。
どの道、彼のことももっと知らなければならないのだ。リリスが聖花に近付く理由もある筈なのだから、彼のことを避けている場合ではない。
むしろ、目的を知るためには話をしなければならないのだ。
聖花の思っていた以上に事態は複雑に絡み合っている。それも、今のままでは何も解決しないことだろう。
些細なことに足元を掬われているようじゃ後がない。自身の考えの甘さを改めて痛感した瞬間だった。
聖花は、早急にカナデと決着を着けるのは無理だと結論付けた。だからこそ、彼女がしたように念入りに準備する必要があった。
(どうして私は、マリアンナに―――)
聖花はその疑問を考えるのを途中で止めてしまった。いや、考えないようにしたのだ。




