9.奏にとっての入学式 前半
奏視点での入学式のお話です。
早朝。窓から差し込んだ柔らかな朝日が部屋の中を照らし出し、奏に一日の始まりを告げた。
(‥‥‥‥‥‥眠っていたのね)
瞼を上げて気怠げに起き上がる。不思議と思考はクリアなままで、奏はまるで眠った気がしなかった。
そこでふと、昨夜のことを思い出す。彼女は、何時ものように夕食を摂り、何時ものように風呂を済ませて、何時もより早く寝床についた。それから、寝具の上で瞼を閉じて―――全く寝付けなかったことまでは覚えている。
正直、眠れる気がしなかった。入学式前日の興奮の為か、奏の頭はやけに冴えきってしまっていて眠りようがなかったのだ。
気が付けば眠ってしまっていたものの、それでも目覚めるのが早すぎたようだった。辺りから聞こえてくる物音がまるで小鳥の囀りのようで、日中とは大違いの静けさだ。
ここ最近、奏の一日はマリアンナの専属侍女に起こされることで始まっていた。毎日毎日、決まった時間にメイが部屋へとやって来て、懲りずに彼女に声を掛けてくるのだ。
そもそも奏が起きられないのは、ここ数週間のストレスが原因だった。身体を入れ替えることに成功したは良いものの、これまで経験したことのないような窮屈な日常に彼女は疲弊していたのだ。
まだ過保護なくらいだったら安いものだ。が、奏の想像以上にマリアンナの親は彼女を溺愛していた。いや、溺愛とは少し違うくらいの歪んだ愛だ。
自身が蒔いた種とはいえ、流石に半監禁状態になるとは想定していなかった。お陰様で自由は制限され、気晴らしに庭に出ることすら許されない。そんな状況に、ストレスが溜まらない筈がない。
幸いにも、王族主催のパーティーにだけは何とか出席できたものの、それもこれも、招待状の文中に『いつも顔を出さぬ最年少の娘も出席させよ』と明記されてあったからである。恐らく、マリアンナの年齢的に第一王子の婚約者になり得る存在だからであろう。
そんなことは置いておいて、今日はやけに気分が良かった。いつもは、毎朝溜息をつきたくなるのだが、今の奏の心は晴れやかだ。
(あぁ、やっと。やっとこの日が‥‥‥!)
令嬢らしからぬ意地悪い笑みを浮かべて、彼女は両手を上げ、そのまま再び寝具へと勢い良く倒れ込んだ。小気味良い音が鳴る。
妄想を膨らます。これから起こるであろう数々のイベントが楽しみで楽しみで、奏は寝具の上をゴロゴロと転がり回った。こんなに気分が良いのは久し振りだ。
そこに不安やら心配やら暗い気持ちは微塵もない。あるのは、明るい未来への安心と自信―――ただそれだけだ。
こんなに入学式が楽しみなのは奏にとって中学以来のことだった。小学生の時は、他人と自分を比較したり、自身を卑下したりすることなどなかった。けれども、いつしかそれを気にしだすようになり、入学式や学校生活が億劫になっていったのだ。だからこそ、乙女ゲームに魅了されたのかもしれない。
乙女ゲームの世界は魅力的で、いつでも自身が主役だった。美男子たちにチヤホヤされ、やり直しが効く世界。これ程魅力的で素晴らしいものは他にない。
現実世界のストレスから開放されて、その時だけは心から楽しむことが出来る。腹の立つ友人も、口煩い親もいない。
そんな世界に転移することができたのだ。ヒロインの座を奪おうと思うに至るのも瞬時のことだった。
努力が報われたのだろう。彼女は、望み通りヒロインにまで上り詰めることができた。端からマリアンナに転生出来ていれば苦労することはなかったものの、それは結果論だ。今はその座を手にすることが出来た訳で、それが彼女の自信に繋がっていた。
資金を増やしたり物資を入手するために奔走する日々はもうお仕舞い。後は、流れに沿って突き進むだけだ。
唯一問題があるとすれば彼女の属性だが、それを隠し通す為に準備も入念に進めてきた。属性の入れ替わりも期待していたが、ゲームの設定通り、魂に刻み込まれた属性は決して変わらないらしい。奏の属性は未だ"闇"のままである。
(大丈夫よ、そんな些細なこと。攻略してしまえばこちらのものなのだから。
そう言えば、身代わりはどうしているのかしら。まぁ、もう会うこともないだろうし、過ぎたことはどうでも良いのだけれど)
抜かりない筈だと自身に言い聞かせて、奏は思考を張り巡らせた。どうせすることもないのだから、メイが起こしに来るまで大人しく部屋で待つことにした訳である。
「お嬢様、起きておられますか?」
そうしている間に、部屋の扉がゆっくりと開き、メイが顔を出した。奏は、身を起こして返事をした。
◆◇◆
支度を終えると、奏は食卓へと向かった。いつもより早く身支度を終えた筈なのに、食卓には既に皆が揃っていて、残るマリアンナだけを待っていた。
いつからいたのだろうと思いつつ、彼らと挨拶を交わして奏は席に着いた。相変わらずギルガルドには無視されたものの、顔が良いのが何とも憎めない。
朝食を開始して、数刻が経過した。ダンドールがぼやきだして、ルアンナがそれを宥める。いくら娘が当分帰ってこないとはいえ、余りに大袈裟な反応だ。
そんな中、不意に視線を感じた奏は、チラリとフィリーネに目を向けた。
どうやら彼女を凝視しているようだ。
「‥‥‥‥‥フィー姉様?そんなに見つめてどうしたのですか?」
「いえ。何でもないのよ」
ふいと視線を反らして誤魔化すフィリーネに、奏は何かを察し始めた。少し早い気がするが、この反応も予想通りだと。
この余所余所しい態度は、フィリーネがマリアンナのことを疑い出した証である。妹の異変を察知して何かを疑っているのだ。
ただ、次の展開は予想外である。
「伯爵様、後ほどお話がございます」
「どうした、ギルガルド。今話してみなさい」
突然、ギルガルドが言葉を発したのだ。
辛うじて食事の席に着いてくれはするものの、彼はいつも無言で食事をして、食事を終えると颯爽と立ち去る。そんな彼が何か言おうとしているのだから、一瞬、辺りが静まり返った。
先程までのダンドールの様子が嘘のようだ。表情が真剣そのものになり、鋭い視線をギルガルドに向ける。親としてではなく当主として、自身の息子に接しているのだ。
最早食事の席とはとてもでないが思えない。
ギルガルドはそれ以上話さなかった。ダンドールへと訴えるような視線を向け、何かの意志を彼に伝えていた。
どうやら伝わったようだ。
「‥‥‥‥分かった。後ほど執務室に来なさい」
「ご配慮感謝いたします」
珍しく礼を言ったギルガルドは、今度こそ席から立ち上がった。いつの間にか食事を終えていたようで、机の皿は綺麗さっぱり下げられている。
もうここに用はないらしい。ギルガルドはマリアンナに視線を少しだけやると、部屋からひとり静かに出て行ってしまった。
彼の後ろ姿を不思議そうに眺める。あのギルガルドがわざわざ親に話しかけるなど、一体何の用なのだろうか、と。
それが何なのか、そう遠くない未来知ることになろうとは、今の奏は知らなかった。
それから先は早かった。食事を終えてから暫くして、奏はメイと共に馬車の中へと乗り込んだ。マリアンナひとりでは不安だからとダンドールが用意した訳である。
学園の規則に、『出来るだけ世話係は連れて行かないこと』とあるが、そんなもの所詮は見かけ上で、蓋を開けてみれば殆ど機能していないことは奏自身よく知っている。
とはいえ、馬車への同席は面倒なので止めて欲しい所だ。気が抜ききれず、下手な動きが取れない。
奏は正面に座るメイから目を逸らして、気紛れに窓の外の景色を眺めた。マリアンナと入れ替わるまでに、幾度となく通り過ぎた道だ。入れ替わってからは、見下ろすことが多くなったが、やはり深夜とは違い活気がある。
(こそこそするのはもうお仕舞い。これからは私が主役なのよ!)
奏はふんと鼻を鳴らし、街を行き来する人々を見下すように見つめた。意地の悪い彼女の顔が薄っすらと反射して、窓に浮かび上がっていた。
程なくして、学園の門前に着いた。馬車の揺れがなくなり、先程まで馬を操縦していた御者が馬車の扉をゆっくりと開く。
改めて学園を一望した奏は、画面越しではないゲーム序盤の光景に興奮を抑えきれなかった。入試とは明らかに違う人々の雰囲気。辺りの空気。それらが彼女の心を刺激したのだ。
御者の誘導を待たずして、奏は跳ねるようにして馬車から降りた。後ろでメイが目を見開いているも、気付かない。そんなことより、奏はこれからのことで頭がいっぱいいっぱいだったのだ。
キョロキョロと辺りを見渡す。落ちつきのないその様は貴族として到底褒められるべきものではない。いくつかの令嬢がその様子を見て鼻で笑っていた。
けれども奏はそれすらも気にならなかった。何故ならば、彼女たちは所詮は小物に過ぎず、気に留める必要性がないなからだ。
とはいえ、奏が探しているのは攻略対象ではなくひとりの令嬢。ロザリア・モネストこと悪役令嬢だ。
ここで、主人公がロザリアの目の前を通り過ぎようとしたところ、それを不快に思ったロザリアとその取り巻きに絡まれるのだ。
だからメイと一旦別れたあと、奏はロザリアが現れるまで門の近くで待ち続けた。
「おはようございます。ロザリア様」
「ええ、おはよう」
程なくして、奏の狙い通りロザリアがやって来た。取り巻きたちと合流して、近寄りがたいオーラを振り撒きつつ、堂々と前へと進む。
その畏れ多さはまさに悪女のそれである。
そんな中、奏はゲーム通りに動いた。具体的には、何も気にした様子なく、彼女たちの目の前をただ通り過ぎただけである。
しかし、ロザリアの瞼がピクリと動いた。
「ちょっと貴女。止まりなさい」
「はい?私のことですか?」
「貴女以外に誰がいるというの。‥‥‥‥あら?何処の何方かと思えば、箱入り娘じゃない」
来た、と内心ほくそ笑みつつも、奏は不思議がるような視線を送った。が、直ぐに不安げな表情を見せる。
彼女の記憶によると、"マリアンナ"の初期設定は複雑だった。過去に、パーティーでロザリアたちに誂われ、少しばかり苦手意識を抱いていた‥‥‥筈である。
記憶だけを頼りに、奏は言葉を紡いだ。困惑と、恐怖。それらが入り混じった様子で。
「‥‥‥確か、貴女は‥‥‥‥」
「"貴女"ですって?」
間髪入れずにロザリアが小さく呟く。苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、マリアンナを睨み付けている。
それを見た彼女の取り巻きの一人が真っ先に声を荒らげた。
「何て失礼なのでしょう!ロザリア様に向かって、到底許されざる行為ですわ!!」
「ええ!ええ!無知だからといって何もかも許されると思えば大違いですわ!!」
「も、申し訳ございません‥‥」
今にも消えそうな声で謝罪を口にする。依然として怯えきった様子で、視線をきちりと合わせない。
その様が面白いと感じたのか、僅かに、ロザリアが口角を上げた。それから、何か閃いたように微笑んだ。
「‥‥‥‥‥そうね。許してあげても良いわ」
「ロザリア様!?」
取り巻きがギョッとした様子で彼女を見る。あまりに珍しいことだったのか、予想外の彼女の反応に困惑しているようだった。
が、それ以上口出しすることはない。ロザリアの機嫌を損ねてしまわないように取り巻きたちも必死なのだ。万が一、目を付けられでもしたら大変なことになることは彼女たちが一番理解している。
「ありがとうござ‥‥‥‥」
「代わりに、今すぐに平伏しなさい。今、この場で汚らしい地面に頭を付けて、私に誠意を見せるのよ。そうしたら不問にしてあげるわ」
ロザリアがマリアンナの言葉を遮る。優しげに微笑んでいるものの、その視線は悪意に満ちていてわざとらしい。
当然、この騒ぎに多くの人が視線をやり、しかし巻き込まれたくないが故にわざわざ遠回りをして通り過ぎた。中にはロザリアを支持している者もいて、辺りは混沌としている。
奏はびくりと肩を震わせて静かに俯いた。あたかも恐れを抱いているように。実際は、ゲームの展開を目の当たりにして興奮で胸がいっぱいだった。
込み上げてくる笑いを必死に抑え、怯えた振りを続ける。取り巻きたちの陰湿な笑い声や、ロザリアの煽るような台詞など気にしていなかった。
「寄ってたかって、一体何をしているのですか?」
「ル、ルードルフ殿下‥‥‥‥」
ロザリアたちがゆっくりと振り返り、奏も顔を上げた。視線の先には、ルードルフが立っている。少し呆れたような、そんな表情を浮かべて。
丁度学園に到着したばかりなのだろう。
取り巻きは声を震わせ、逆にロザリアは表情を和らげて、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「いいえ?こちらの方の礼儀がなっていないと、彼女たちがわざわざ指摘して下さっていたのです。
ですが‥‥‥少し言い方がきつかったのかもしれませんね。私からよく言い聞かせておきますわ。
では、また。‥‥‥‥‥行きますわよ」
ロザリアは取り巻きたちに視線をやり、きっぱりと言い切った。先程までの雰囲気が嘘のようだ。
それから、その場から逃れるように髪を振り乱して颯爽と立ち去った。彼女の取り巻きたちは一瞬硬直したものの、去り際に謝罪の言葉を並び立ててからロザリアに慌てて付いていった。
ルードルフと、マリアンナ。二人だけがその場に残される。周囲に人々はいたものの、何とも言えない空気に当てられて、近づき難い雰囲気を醸し出している。
「あの、ありがとうございました!宜しければお名前を教えてくれませんか、?」
一難去ってから、奏はルードルフに深々と礼をした。あたかも初対面のように、白々しく名前を尋ねる。
けれども、ルードルフは少しの間黙り込んで、何かを考えていた。これはゲームと違う展開で、本来ならば軽やかに笑い返して、名前だけを教えてくれた筈だ。
奏は小首を傾げて、彼の返事を静かに待ち続けた。
「私は、ルードルフ。ルードルフ・フィン・アルバと申します」
しかし、ルードルフは粛々と言い放った。義務的な笑顔を彼女に向けて、いつも通りの対応をした。
それでも奏は気付かない。ゲームとは台詞が少しくらい違おうが、展開が同じであれば彼女にとってどうでも良かったのだ。
そういうこともあるだろう、と勝手に納得して、順序通り言葉を続ける。
「そうなのですね。では、親しみを込めてルードルフ様とお呼びしてもよろしいでしょうか」
「‥‥‥‥‥ええ。お好きにどうぞ」
「ありがとうございます!では、同じクラスかは存じませんが、折角のこの機会。途中まで一緒に教室まで向かいませんか?」
ぐいぐいと攻めるようにルードルフに接近する。本来の主人公であればそこに邪念はないのだが、今の奏には下心が見え隠れしていた。
果たしてルードルフは気付いているのだろうか。それは俄には分からない話である。
「随分明るいのですね。先程のことは気にされていないので?」
心底不思議そうな表情を浮かべてルードルフが尋ねると、マリアンナはむっとしたように彼を見た。これも計算通りだ。
「心外です。少しは気にしておりますよ。ですが、そんなことに時間を費やすよりも、他のことを考える方がより有意義だと思ったのです」
「‥‥他のこと?」
ルードルフが尋ね返す。美しい顔立ちの彼に凝視されて頭がクラっときたものの、奏は言葉を紡ぐことに専念した。
こんなことで流れを変えるわけにはいかない。
「はい。私には素敵な友人がおります。彼女たちのことを考えたら、いつまでも落ち込んでいる訳にはいかないなって思えるのです‥‥!」
「強い方ですね。私もそうであれば良かったのですが‥‥‥‥」
必死に言葉を紡いだのが功を奏したようだ。ルードルフは目を見開き、ポツリと小さく呟いた。
すかさず、彼の求めている返事を差し込む。屈託のない、マリアンナらしい笑みを浮かべて。
「ルードルフ様もお強いですよ」
「そうでしょうか?」
彼がそう言った途端、とうとう我慢の限界が来たのか、それとも事情を知らない令嬢たちが登校してきたのか、大勢の令嬢たちがルードルフを取り囲んだ。奏は爪弾きにされて、あっという間にルードルフの姿が見えなくなってしまう。
(頃合いか―――。
確か次はアーノルド様。校舎裏の樹の下だったかしら?)
それを見届けるなり、奏は素早くその場を後にした。
長くなったので分けました。
次回は後半となります。今週中に更新予定です。
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