8.掴みどころのない彼は
「僕はもう行くね」
部屋を出て早々、何を要求されるのかと身構えていた聖花に飛んで来たのはその台詞だった。余りに拍子抜けで、余りに予想外だ。どうせまたろくなことがないと警戒していたことが恥ずかしくなるレベルである。
(落ちるところまで落ちたな)
改めて、聖花はそんなことを考えた。せめてソレを隠すことが出来たのなら違ったのだろうが、焦っていたとはいえ恩人にさえ警戒心を剥き出しにするのだから救えない、と。そう深く思った。
それに、リリスはこれまで聖花と殆ど関わりがない。関わりと言えば、街で手を貸して貰ったことと、入学式前に話したことくらいだ。
二度も助けて貰っておいて自身はどんな態度を取ったのか。そう考えれば考えるほどに、何とも言えぬ罪悪感が聖花の中で湧き上がった。
リリスは踵を返すと、宣言通りその場から立ち去ろうとした。よく見ると身一つでその場にやって来ていたようで、何も持っていない。
尾行していたにせよ、そのくらい持ってくる余裕はありそうなものだ。
彼の後ろ姿を暫くの間見つめながら、聖花は必死に理由を探した。何のために二人の跡をつけて、何のために扉をこじ開けたのか。その意義を。
どうしてそうしようとしたのかは分からない。けれども、とうしてか気になって仕方がなかったのだ。
そうしている内に、一つのことに思い至った。
彼の人柄は未だに掴めないけれども、結果的には二度助けられた。そして、その何方も、見返りを求められなかったのだ。
それが何とも認められなかった訳である。本当に見返りなくして、彼がこんなことをするのか、と。
けれどもやはり、何かを求められなかったのは紛れもない事実である。それに不遜な態度を示したことも。
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ」
気が付いたら、聖花は声を上げていた。焦っていたのかもしれない。慌てていたのかもしれない。
正直、この時の彼女は周りが見えていなかった。気持ちが先走ってしまって、彼の配慮に気付けなかったのだ。
そう、廊下の隅で話に花を咲かせていた令嬢たちの存在に。
彼女たちは声のする方へと視線を向けた。初めは単なる興味本位。何やら揉めているようだから、つい気になって視線を向けただけ。それに深い意味などはなかった。
けれども、二人の存在を認識するなり、令嬢たちは目の色を変えた。だって、眼中に映るのは侯爵令息と誰かの痴話喧嘩に近き光景。気にならない筈がない。
これから何が起こるのだろうかと、令嬢たちは好奇心で胸がいっぱいいっぱいになった。二人を凝視して、様子を静かに伺っている。
彼女たちに妙な野心はなかったけれども、このことが噂になってしまうことは必然だった。それも、聖花自身のせいで。
「うん?どうしたの?」
そこで無視をすれば良かったのに、何を思ったのかリリスは足の動きを止めて振り返った。その顔は何やら楽しそうで、何処か可笑しげだ。
けれども未だに、聖花は自身の失態に気が付かない。訝しげに眉をひそめて、リリスを見つめるばかりだ。が、
「二人でいるところを見られたら不味いんじゃなかったっけ?」
煽るようなリリスの台詞によって、漸く聖花は我に返った。彼はケラケラと無邪気に笑っている。
周囲を見回すも既に遅く、聖花の瞳の中に令嬢たちの姿が映り込んだ。敵意を向けている訳ではないけれど、好奇心に目を光り輝かせている。その後の展開を今か今かと待ち侘びている。
不意打ちを食らった気分だった。聖花は、今朝自身がリリスに言ったことを思い出した。頭を壁に打ち付けたい気分だ。
いきなり黙り込んだ聖花をじっと見て、リリスは不満げな表情を浮かべた。やはり気が付いていたのか、令嬢たちに視線を向けて、にっこりと微笑んだ。懇願するように。
「ごめん、取り込み中なんだ。何処かへ行ってくれるかな?」
「あぁっ、申し訳ございませんっ!ええ、ええ。今すぐに去りますとも。どうかごゆっくり!」
そう言うなり、その令嬢たちは一目散に何処かへと去って行ってしまった。何か勘違いしている気がするが、引き止めた所で何も変わらないだろう。思わず伸ばそうとした手を引っ込めた。
訂正することを諦めて、聖花はちらりとリリスを見た。だだっ広い廊下で二人きりで、何処か遠くから貴族たちの騒ぎ声が聞こえてくる。教室に残った人々が話をしているのだろう。
きっとこの寂しげな空間も一時的なもので、暫くしたら再び誰かが通り抜けることだろう。
話すのならば、早く話を済まさねばならない。
「それで、僕に何か用かな?」
先にリリスが口を開く。それはもう、淡々と。彼は今朝の調子で話をしている筈なのに、その場の空気の為なのか、何処か不思議な感じがする。
「‥‥‥‥‥お礼が言いたくて。先程、助けてくださったでしょう?」
「あぁ、そんなこと」
リリスがポツリと呟く。期待外れだったのか、声のトーンがほんの僅か下がった。気がした。目立つかもしれないのに、声を上げて彼を引き止めた理由が礼を言うためだったとしたら呆れもするだろう。
そんなことも意に返さずに聖花が続ける。
「改めて、先程はありがとうございました。お陰様で事なきを得ることが出来ました。二度も助けて頂いて、‥‥‥‥‥」
「良いよいいよ、僕が勝手にやったことだし」
早くこの話を終わらしたかったのだろう。聖花が全てを言い切る前に、リリスが話を遮った。隠すのが上手なことで、表情には一寸たりとも出ていないけれども、流石の聖花も瞬時にそれを把握した。
本人が拒否しているのに無理に感謝の気持を伝え続ける必要などないし、ここで食い下がるのもおかしな話である。
一言、「‥‥左様ですか」と小さく受け流すと、聖花は話を切り替えることにした。
「ところで、何故鍵を‥‥‥‥?」
「えぇ。開けない方が良かった?」
どうやら聞き方が悪かったようだ。意味を捉え違えたのか、リリスはその目を大きく見開いた。驚いた様子で、若干引いているようにも見える。
いや、誂われているのかもしれない。そんな風に考えても可笑しくない状況だった。
「いえ。むしろ感謝しています。ですが、未だに侯爵令息様の目的が掴めないのです。何を思ってこのような行動を取られたのか、私にはこれといって理解できません」
「目的、ね。特にないって言ったら?」
おちゃらけたようにリリスが笑う。その目は聖花を射るように見つめていて、隙がまるで見えない。彼はまるで獲物をハンターのように、虎視眈々と彼女の様子を伺っていた。
先程とは違い、今の彼は街で出会ったときのような雰囲気である。
こんな時に茶化している場合ではないのにと、聖花は無言でリリスを見つめ返した。
「ごめん、冗談冗談。僕はね、初めからセンセを疑っていたんだ」
ほんの数刻で、元の調子に戻った彼は、観念したようにそう言い放った。
「疑って‥‥‥?」
「そう。ずっと様子が可笑しかったから」
リリスが頷く。どうやらフェルナンの行動に気がついていたのは当事者本人だけではないようだ。その理由が嘘か真かは知らないが、今は彼を信じるしかない。
「そういうことでしたか。けれども一つ、腑に落ちないことがございます」
「何?」
「侯爵令息様は、先生のことについて何か知っていますね?」
確信を突く質問。これは、聖花がずっと疑問に思っていることだった。
家の事情ならまだしも、個人のことまで知っているものなのか。ましてや、フェルナンは彼女の所持品のナニカを見て動きを止めたことだけは確かである。
それをリリスが瞬時に理解した事自体違和感がある。一介の貴族が知るようなことではない。
「‥‥‥知らないよ?何も、知らない」
「では、何故」
知らない振りを貫き通すリリスに、詰め寄るように聖花が語気を強めた。絶対に何か知っている、と。
ここだけはハッキリとさせておきたかった。それで、フェルナンのことを知って、彼の不可思議な行動を明らかにしたかったのだ。
暫くリリスは黙りを決め込んでいたけれども、漸くその重い口を開いた。何処か恐ろしい雰囲気を身に纏い、何時ものトーンで言葉を紡ぐ。
「‥‥‥‥良い?この世には踏み込みすぎるといけないものがある。過去のことも未来のことも、誰にだって立知られたくないことがあるんだ。
好奇心が強いのはまだ良い。けれども、過ぎた好奇心は身を滅ぼすよ?」
図星だった。聖花にも秘密があって、それは当然露呈する訳にはいかない。少なくとも、元の身体に戻るまで。
思いも依らぬ正論に何かを言い返すことは出来ず、今度は彼女は押し黙った。
「さて、もうこの話はおしまいにしよっか。ごめんね、空気を悪くするつもりはなかったんだけど‥‥‥」
その様子を見兼ねたのか、リリスが明るげな声を出す。そこに先程の恐ろしい雰囲気は感じられず、平時の気の抜けるような調子である。
聖花も落とした顔をパッと上げた。
「いえ、私こそ踏み込みすぎました。‥‥‥‥申し訳ございません」
本当に調子が狂う男だと、聖花は心からそう思った。慌てて謝罪を口にして、深々と礼をする。
以後気をつけます、とは言わない。いや、言えなかった。何があろうとも、人の過去に首を突っ込んでいることは確かだったから。もう抜け出せないことも。
それをじっと見ていたリリスはふっと息を吐いた。ポツリと何かを呟いて。
不思議に思って、聖花が彼を見つめる。何か言った気がしたが、上手く聞き取れなかった。と。
「ああいや、何でもないよ。それよりも、名前」
「はい?」
何を言い出すのかと思えば、余りに突拍子のない言葉である。把握しきれず、聖花が小首を傾げて声を上げた。
先程からずっと彼には振り回されてばかりだ。
「僕のこと、"侯爵令息様"って言ったでしょ。堅苦しいから止めてよね」
「ではどう呼べば‥‥‥」
「リリスでいいよ。他の人もそう呼んでる」
余り話したことのない者を、それも侯爵令息を呼び捨てにしろというのか。余りに唐突な発言に困惑しつつも、聖花はポツリと呟いた。
「ええと、‥‥‥‥‥リリス、様?」
「リリス」
問答無用で彼が言い直す。そもそも周囲の目があるから名前で呼ぶことすら抵抗があるのに、敬称まで取っ払ってしまえば大事である。
そう考えていると、漸くある事に気が付いた。廊下で、ないしは教室で、情報収集のために聞き耳を立てていたが、どの人も"リリス様"と言っていた、と。
ハッとしてリリスを凝視する。尋問するような視線だ。
「ちょっと待って下さい。他の方は敬称を付けてましたよね?」
「気の所為だよ」
「気の所為ではないです。きちんと会話を聞いてましたので」
惚けるリリスに、詰め寄るように言い聞かす。そうしていると、彼は再び目を丸くした。
「それ無意識で言ってる?」
そう言われて、聖花はまたもや不思議そうに首を傾げた。一体何を言っているのか理解しきれず、暫くの間考え込む。
「いや、やっぱり良いや。何も聞かなかったことにするね。それじゃあ、またね。セイカ」
何かを察したリリスは、とんでも無い爆弾発言を残して、その場から立ち去って行った。颯爽と、聖花に言い直す機会も与えずに。
ひとりその場に立ち尽くす彼女を、遠くからじっと見つめる人物がいた。その人物は小さく舌打ちをして、聖花の姿を見つめ続けていた。




