7.拭えぬ不安、消えぬ思い
程なくして扉が開き、ひとりの男子生徒が部屋へと入室した。何の躊躇いもなく、どこか堂々とした様子である。
通行人に見聞きされたくなかったのか扉を再度閉ざした彼は、漸くフェルナンと聖花に視線をやり、心底不思議そうに首を傾げた。予想していた光景と違っていたのだろうか。それから暫くの間まじまじと二人を見つめていた。
何故そんなに不思議そうにするのかは誰にも分からない。けれども、そもそもこの状況自体が異質なのは確かだ。
だって地面にモノが散乱している上に、まともに会話ができるような空気ではないから。フェルナンと聖花との一連のやり取りを聞いていたクラスメイトにとっては可笑しな話なのだ。
じっと、聖花は静かに彼の動向を伺っていた。突然介入してきた第三者の存在から、今朝話したばかりのリリスの存在から、目を離すことなどできる筈がなかった。
それはフェルナンも同様だった。先程まで俯いていた彼は、扉が開く音に反応して漸く顔を上げた。
ただただ呆然とリリスの方へと視線を向ける彼の瞳は、何処か錯乱した様子だった。
「どうやって鍵を‥‥‥‥‥」
リリスが一言発する前に、フェルナンは限りなく小さな声で呟いた。愕然と、しかし呆然と。
きっと無意識のうちに飛び出した言葉なのだろう。
鍵をどうやって開けたかなんて、聖花にとって然程重要ではなかった。知ったところで、どうせ何の役にも立たない。そう彼女は思っていたからだ。
唯一気がかりだったのは、リリスの目的である。何故、二人の跡を付けてきていたのか。何故、鍵で封鎖された扉をわざわざ開けたのか。‥‥‥これに尽きる。
聖花が様子を伺う中、リリスが漸くその口を開いた。彼女には見向きもせず、フェルナンの方に視線を向けている。
「ねえセンセ。一体これはどういう状況?とても話をするようには見えないけど亅
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
「黙り?‥‥‥ねぇ、何か話したら?」
リリスが彼を誹るように言い放った。心なしか言葉に棘があって、どうやら黙秘を貫き通すフェルナンに苛立ちを覚えているようだった。
とても先生に対する態度ではない。
けれどもフェルナンは返事をしなかった。視線だけを向け、リリスを凝視している。その瞳はゆらゆらと揺れ動いていて、まるで蝋燭のようだった。
先程の様子と言い、フェルナンの様子が何処か可笑しい。初めの堂々とした態度はそこにはなく、今はすっかり魂の抜けたように突っ立っている。
彼女がこんな彼の姿を見たのは初めてのことだった。とはいえ、驚きはするも同情はしないし、不思議に思えど声を掛けようとは思わない。
それもこれも、フェルナンのしたことを考えたら当然のことだった。
「‥‥‥‥‥そんな目を向けられてもね」
ハァと溜息を付き、リリスが呟く。それから、足を一歩踏み出した。このまま続けても堂々巡りだと感じたのか、一歩一歩、フェルナンとの距離を詰めて行く。
どうやら、先程と立場が逆転した。弱ったフェルナンに対抗する術がある筈はなく、最早始まる前から勝負は決まっていたようなものだ。
まさかこんなことになろうとは、誰が想像できただろうか。
リリスが扉の傍から離れたことは、聖花にとって部屋から逃げ出す又とない機会だった。幸いにも、二人の意識は彼女には向いていない。
けれども、彼女は動かなかった。どうしてかその場から動く気になれなかった。
好機の念を抱いたからか、それとも思いも依らぬ救援を無視することが出来なかったのか、聖花はその場に立ち尽くし、二人の行末を見届けていた。
どうせ何時でも抜け出せることができる。そう自身に言い聞かせて。
フェルナンの肩が強張る。合わなかった焦点はリリスに向けられて、狼狽しきった様子で身構えていた。
そんな彼のすぐ傍まで難なく辿り着いたリリスは、足元に落ちている"何か"を見てクスリと笑った。フェルナンが僅かに反応する。
「ふぅん、成る程ね。どういうことか良く分かったよ」
リリスは意味深な台詞を呟くと、見透かすような目をフェルナンに向けた。見られた方はきっと心中穏やかでないことだろう。
この中で唯一、聖花だけが話についていけなかった。会話は聞こえているのに、何の話をしているのかまるで分からない。
そもそも何故、リリスがフェルナンを知った素振りを見せるのかさえ分からなかった。
リリスはふっと息を吐くと、猶も話を続けようと口を開いた。
「‥‥‥にしても、女々しいよね。し――――」
「これ以上は、止めてくれ」
フェルナンの声が部屋中に響き渡った。言及されることを嫌ったのか、考えてしまうことが嫌だったのか、今の彼からは想像できないほど意志の籠もった言葉だった。力強くて、切なげで、聖花を脅した男とはとてもでないが思えない。
既のところで言葉を飲み込んだリリスは、彼を凝視して「ああ、何だ。喋れるじゃん」と嘲るように笑った。何処までも純粋で、だからこそ悪意が際立って見えた。追撃を繰り返す。
けれどもやがて子供が玩具に飽きたように、リリスはフェルナンから興味を失った。笑顔は消え失せ、何処までも冷たい視線をフェルナンに向ける。重苦しい空気が辺りに漂い、背後から見ているだけだった聖花も背筋が寒くなるのを感じた。
リリスは音もなく彼へと忍び寄った。余りに突然で、余りにタイミングが悪かった。反応が遅れたフェルナンの耳元で何かを囁いて、振り返る。
もう用は済んだようだ。
不意の出来事に呆然としていた聖花は、ハッと我に返って身体を強張らせた。警戒心が剥き出しである。
が、それとは対象的に、リリスは朗らかな笑みを浮かべた。そこに邪悪な気配はない。
「ね、こんな奴放っといて、行こ?」
一言。彼がそう言い放つ。
聖花がちらとフェルナンの方に目をやると、彼はすっかり崩れ落ち、最早手の付けようがなかった。何を吹き込まれたのか、彼は深刻げに顔を落としていた。
明日以降どうするのか気になるところである。
「え、ええ。分かったわ」
聖花はぎこちない笑みを浮かべつつ、静かに頷いた。元々逃げ出すつもりであったし、この場で断れる訳がなかった。きっとそれも、リリスは分かっている筈だ。
「ほら、早く」
いつの間に移動したのだろうか。扉の前でリリスが手招きする。出る準備は万端なようだ。
部屋に散乱した荷物と、その場に蹲るフェルナンの様子を再度確認して、聖花は躊躇いつつも扉の元に駆け寄った。結局、いくつかの荷物を回収することはできなかったけれども、今はそれを考えている暇はない。
聖花は、リリスに続いて部屋から脱出した。すっかり静かになったフェルナンは顔を上げて、立ち去ろうとする聖花の姿を見つめていた。まるで彼女が遥か遠くにでもいるかのようだ。
「待って、行かないで‥‥‥‥‥‥シンシア」
扉を閉めようとする中、フェルナンが今にも泣きそうな声で手を伸ばした‥‥‥気がした。余りの切なさにギョッとして動きを止めるも、リリスの「行こう」という声で目が覚めた。
どんなに取り繕おうとも、フェルナンが彼女にしようとしたことがなくなる訳ではない。
扉が閉まる。妙に耳障りで、居心地の悪い音だ。二人は彼独りを部屋に取り残して、その場を後にした。
次回は、主にリリスとの話です。
その次が、奏視点の入学式での話になります。




