13.来たる当日
アーノルドから王族主催のパーティーについて聞かされた日を境に、聖花の生活は、表面上だけを見れば驚くほど穏やかなものへ戻っていった。
街で倒れた翌日は一日を療養へ充てたものの、身体の回復は思っていたよりも早く、さらに一日が過ぎる頃には、寝台から起き上がって部屋の中を歩く程度なら何の問題もなくできるようになっていた。医師からは当分無理をしないよう言い渡されていたが、もともと屋敷の中で激しく身体を動かす予定などなく、聖花自身も再び倒れて周囲へ余計な心配を掛けるつもりはなかったため、その点に関しては大人しく従うことにしていた。
それからの日々は、ほとんど一日置きに訪れる教師2人から授業を受け、予定のない時間には書庫へ籠もるという、一定の形へ落ち着いていった。
座学を担当するのは、相変わらずフェルナンである。
見舞いへ訪れた際に聖花から面会を断られたことについて、彼は後日の授業でも一切触れなかった。
機嫌を損ねた様子も、気まずそうな素振りもない。
いつもどおり穏やかな笑みを浮かべ、何事もなかったかのように本を開き、聖花が理解している箇所と知識の抜けている箇所を見極めながら授業を進めていく。
それがかえって不気味だった。
普通ならば、見舞いを断られれば多少なりとも理由を尋ねるか、せめて体調を心配する言葉くらい口にしてもよさそうなものである。けれどフェルナンは、授業の初めに「お身体はもうよろしいのですか」と確認しただけで、それ以上は何も聞こうとしなかった。
聖花が街で何をしていたのか。なぜ護衛から離れたのか。何を調べ、誰と会ったのか。本当に関心がないのか、それとも、尋ねずとも何かを掴んでいるのか。
聖花には判断できなかった。
そのため授業中は、普段以上に言葉を選び、余計な情報を与えないよう気をつけていたのだが、フェルナンはそんな警戒さえ楽しんでいるように見える時があり、彼の授業が終わる頃には、座って話を聞いていただけにもかかわらず妙な疲労を覚えることが少なくなかった。
一方、礼儀作法や立ち居振る舞いを教えるために訪れるバラーレ夫人は、フェルナンとは全く異なる種類の厳しさを持つ女性だった。
感情を読ませず、何かを企んでいるようなところはない。
その代わり、姿勢や指先の角度、歩幅、視線の置き方、挨拶の際に身体を傾ける深さに至るまで、一切の妥協を許さなかった。
ほんの僅かに背筋が緩めば、細い杖の先で椅子の背を叩かれ、歩く際に足音が大きければ、最初からやり直しを命じられる。茶器を扱う授業では、受け皿と器が触れて小さな音を立てただけでも、聖花が自分で原因へ気づくまで無言で見つめ続けた。
怒鳴ることはほとんどない。
むしろ淡々としているからこそ、一度指摘された失敗を繰り返した時の視線が恐ろしく、聖花はフェルナンの授業とは別の意味で気を抜くことができなかった。
もっとも、聖花は以前までマリアンナとして貴族令嬢の教育を受けていたため、礼儀作法そのものを知らないわけではない。
問題は、今の身体が以前とはあまりにも異なることだった。
身長も、手足の長さも、重心の位置も違う。
マリアンナの身体で自然にできていた動きを同じ感覚で再現しようとすると、足が想定よりも前へ出なかったり、腕を伸ばす角度が僅かにずれたりする。長年身につけてきた動作が、身体の違いによってかえって不自然になるため、知識があるだけに自分の失敗へ苛立つことも多かった。
初めのうちは、椅子から立ち上がるだけで足元へ余計な力が入り、裾を踏みそうになった。
挨拶をすれば、以前の身体で染みついた深さまで身体を傾けようとして均衡を崩し、片足を動かして立て直す羽目になる。
歩き方を直されている途中には、何度も同じ場所を往復させられ、終わった頃には屋敷の外へ出てもいないのに足が痛くなっていた。
それでも、バラーレ夫人の指導は厳しいだけで理不尽ではない。
聖花が一度できるようになったことについては、それ以上細かく責めることもなく、身体へ合った新しい動きを身につけるまで根気よく繰り返してくれた。
おかげで、数日が経つ頃には今の身体での立ち居振る舞いにも少しずつ慣れ、少なくとも何も知らない者から見て、急に貴族となった元平民の少女として不自然ではない程度には振る舞えるようになっていた。
授業のない日には、書庫でカナデについて調べることもあれば、ヴィンセントの許可を得て再び街へ出ることもあった。
ただし、街で倒れた一件以降、護衛の体制は目に見えて厳しくなっている。
以前はアデルと護衛騎士一人だけだったものが、その後は必ず複数の護衛が同行し、聖花が店へ入る時も、一人は入口に立ち、もう一人は少し離れた場所から店内を見張るようになった。
大きな荷物を渡そうとしても、誰か一人へ偏らないよう分担され、アデルへ何かを選んでほしいと頼んだところで、他の護衛が聖花から目を離すことはない。
彼らは聖花が何を言おうと、決して全員同時には視界を逸らさなかった。
他にも、露店の人混みへ近づこうとすれば、さりげなく進路を変えられ、細い路地の近くへ立ち止まれば、何を見るつもりなのか尋ねられる。店の奥に気になる扉を見つけた時には、その先が使用人用の通路だと確認されるまで、近づくことさえ許されなかった。
表面上は自由に買い物を楽しんでいるように見えても、実際には逃げる機会など一切与えられていない。
聖花も初めのうちは、何とか隙が生まれないか探していた。
けれど、わざと歩調を変えても、店を何軒も移動しても、護衛たちは必ず一定の距離を保ってついてくる。
無理に逃げようとすれば、その時点で取り押さえられるだけだろう。
街へ出られること自体を禁止されては困るため、聖花はひとまず大人しく買い物へ付き合い、情報を得る機会が訪れるのを待つしかなかった。
思うように動けないことへ焦りがないわけではない。それでも、王族主催のパーティーが、一日また一日と近づいていたから、不思議と以前ほど追い詰められた気持ちにはならなかった。
その場には、ヴェルディーレ家の者たちも参加する。今のマリアンナとして暮らしているカナデも、おそらく姿を見せる。
家族へ会えることを喜んでよいのかは分からなかった。声を掛けることも、正体を明かすこともできない。
自分の身体が別人として振る舞っている様子を、近くで見なければならない可能性もある。
それでも、何も見えない場所で想像だけを膨らませるよりは、実際の様子を確かめられる方がよかった。
カナデが家族へどのように接しているのか。両親やギルガルドが、その変化へ気づいているのか。そして何より、今のマリアンナがどのようになっているのか。
得られるものが僅かであっても、それは聖花にとって大きな一歩となる。
その日を待っている間だけは、動けない時間さえ、準備のために必要なものだと思うことができた。
屋敷での生活にも、少しずつ変化が生まれていた。
最も大きかったのは、アデルと聖花が、時折一緒に食事を取るようになったことである。
本来、主人と使用人が同じ卓で食事をすることは、貴族社会の常識から大きく外れている。ましてや聖花は、平民から伯爵家の養女となったばかりであり、ただでさえ周囲から礼儀や身分への理解を疑われやすい立場にいる。
使用人と親しげに食事をしていると知られれば、屋敷内で余計な噂が広がるだけではなく、社交の場で侮られる原因にもなりかねなかった。
それでも聖花は、広い食堂や自室で一人きりの食事を続けることに、どうしても慣れることができなかった。
ヴェルディーレ家にいた頃は、どれほど家族との関係へ悩んでいた時でも、食卓には誰かがいた。母がその日の出来事を尋ね、父が仕事の話を途中まで口へして母に止められ、ギルガルドは面倒そうな顔をしながらも同じ席へ座っていた。
今では、それらがどれほど貴重な時間だったのか嫌でも分かる。
ダンドール伯爵家へ来てからは、ヴィンセントが多忙を理由に食事の席へほとんど姿を見せず、聖花は用意された料理を一人で口へ運ぶことが多かった。
料理は豪華で、味にも不満はない。
けれど、音の少ない部屋で食器を使うたび、以前の食卓が思い出され、食欲まで失われる日があった。
そこで聖花は、ある日の夕食前、ヴィンセントへ思い切って尋ねたのである。
「たまには、伯爵と一緒に食事をすることはできませんか」
ヴィンセントは書類へ目を通したまま、すぐには答えなかった。
聖花も、家族のように食卓を囲みたいなどと期待していたわけではない。ただ、一人で食べるよりは、会話の相手がいるだけでもましだと考えたのだ。
しかし、暫くして返された答えは、予想していたものとは少し違っていた。
「私には、そのために時間を空ける余裕がない」
断られること自体は想定していたため、聖花はそれほど落胆しなかった。
ところが、ヴィンセントはそこで話を終わらせず、机の端へ置かれていた呼び鈴へ手を伸ばした。
「一人で取るのが嫌なら、アデルを同席させろ。ただし、お前の部屋で、人目につかないようにしろ」
聖花は思わず聞き返しそうになった。ヴィンセントがそのような提案をするとは思わなかったからである。
アデルは監視役でもある。聖花と同じ時間を過ごさせることは、彼にとっても都合がよいのかもしれない。
それでも、使用人との食事を頭ごなしに否定せず、条件つきとはいえ認めたことは意外だった。
こうして、時折ではあるものの、アデルが聖花の部屋へ自分の食事を運び、二人で同じ卓を囲むようになった。
初めて許可された日、アデルは何度も遠慮した。
「本当に、私がお嬢様と同じ卓へ着いてよろしいのでしょうか」
「伯爵の許可は取ってあるわ」
「ですが、私は侍女ですし……」
「だから、誰にも見られないように部屋でするのでしょう。立ったまま食べられても落ち着かないから、早く座って」
聖花が椅子を示しても、アデルは暫く卓と主人の顔を交互に見つめていた。
それでも最後には、恐る恐る向かいへ腰を下ろす。
食事が始まってからも、初めのうちは背筋を伸ばし、聖花が食器へ手を伸ばすたびに自分も何かをするべきなのではないかと落ち着かない様子だった。
しかし、聖花が街で見た店の話や、授業でバラーレ夫人から何度も歩き直しを命じられた話をすると、次第にいつもの表情を取り戻していった。
アデルは自分から多くを語る性格ではない。
それでも、聖花が尋ねれば、屋敷で働き始めた頃の失敗や、料理人からこっそり菓子の切れ端を分けてもらった話などを、少しずつ聞かせてくれた。
二人だけの食事は、聖花にとって久しぶりに、食べることそのものを楽しめる時間となった。
もちろん、そのことは他のメイドたちへ知られないよう細心の注意が払われている。食事は聖花の分とアデルの分を別々の時間に運び、アデルが部屋へ入る際には、衣類の整理や給仕のためだと見えるようにしていた。
幸か不幸か、アデルは以前から他のメイドたちに距離を置かれている。新しく養女となった聖花の専属侍女へ選ばれ、主人から衣服まで贈られたことが知られたせいで、彼女を快く思っていない者も少なくなかった。
そのため、アデルが長く聖花の部屋へ留まっていても、親しく話しているとは考えられず、監視や身の回りの世話を押しつけられているのだろうと受け取られているらしい。
皮肉なことではあるが、その誤解のおかげで、二人の食事は誰にも気づかれずに続けられていた。
聖花がヴィンセントと食卓を囲む機会は、結局ほとんどなかった。
彼は朝早くから屋敷を空けることもあれば、夜遅くまで執務室へ籠もっていることもあり、食事さえ仕事の合間に短く済ませているらしい。
表向きは伯爵家の当主として領地や王都の仕事を行っているのだろう。けれど、その忙しさには、それだけでは説明しきれないものがあるように聖花は感じていた。
アーノルドと繋がりを持ち、王宮から逃げ出した聖花を養女として匿い、闇属性の罪人が脱走したにもかかわらず世間へ大きな騒ぎが広がらないよう動いている。
当然、彼が普通の伯爵としての業務だけを行っているはずがない。
詳しく聞いても教えてもらえないだろうし、今のところ聖花が知ったところで役に立てることもないため、尋ねることはしなかった。
ただ、その多忙さの一部が自分に関係しているのだとすれば、食事の時間まで削らせていることへ、僅かな申し訳なさを覚えることはあった。
ギルドで聞いた終身刑の噂についても、何度も考えた。
本来、カナデと呼ばれている罪人は、今ここにいる聖花である。
それにもかかわらず、王都ではすでに処遇が決まり、どこかへ収監されているかのような話が広まっていた。王宮から逃げ出した事実さえ、人々の間では大きな話題になっていない。
地下牢から闇属性の罪人が脱走したとなれば、本来ならば王都中へ触れが出され、城門や街道で厳しい検問が行われてもおかしくない。聖花が街を歩いている間にも、衛兵たちは通常どおり仕事をしており、青い髪の少女を血眼になって探している様子などなかった。
アーノルドへ尋ねても明確な答えは得られなかったが、彼が何らかの手回しをしていると考えるのが最も自然だった。
偽の囚人を用意したのか。実際には誰も収監せず、記録だけを作ったのか。あるいは、王宮内の限られた者へ別の説明をしているのか。
方法までは分からない。けれど、聖花が脱獄者として追われずに済んでいるのは、アーノルドやヴィンセントの働きによるものだろう。
目的があるから助けているのだとしても、聖花が今こうして自由に眠り、食事をし、パーティーへ出席する準備までできているのは二人のおかげである。
感謝してもしきれない。
ただし、それを本人たちの前で素直に口へすれば、どのような顔をされるか分からないため、当面は胸の中へ留めておくつもりだった。
そうして授業と準備を繰り返すうちに、王族主催のパーティー当日が訪れた。
その朝、聖花はアデルが起こしに来るよりも少し早く目を覚ました。まだ夜の名残を残す薄い光が、閉じられたカーテンの隙間から細く差し込んでいる。
普段ならば、すぐに起き上がることなく、アデルが扉を叩くまで寝具の中で身体を温めていることもある。
けれど、その日ばかりは、目が覚めた瞬間から思考が冴えていた。
聖花は寝台の上へゆっくり身体を起こし、膝を抱えるようにして掛布の上へ手を置いた。
(とうとう、今日なのね)
胸の奥が僅かに速く脈打っている。
(家族に会える。カナデにも)
楽しみだとは、とても言えなかった。けれど、恐ろしいだけでもない。
長い間、離れた場所から想像することしかできなかったヴェルディーレ家の現状を、自分の目で確かめられる。
参加者名簿を覚えるよう渡された際、聖花は何度もページを捲り、ヴェルディーレ家の名を探した。
当主である父。母。ギルガルド。フィリーネ。そして、マリアンナ・ヴェルディーレ。当然のように並ぶその名を見つけた時、指先が動かなくなった。
書かれているのは、自分が前まで使っていた名前である。
けれど、その名前で会場へ現れるのは聖花ではない。聖花の身体を持つカナデだ。
姿を見れば、怒りが込み上げるのかもしれない。家族と親しく話している様子を見れば、嫉妬や悲しみに耐えられなくなる可能性もある。
反対に、カナデがマリアンナとして上手く振る舞えていなければ、それを喜ぶより先に、家族が傷ついていることへ胸を痛めるだろう。
何が起こっても、平静でいられる自信はなかった。それでも、今の段階でカナデ本人へ何かを仕掛けるつもりはない。
ヒイラギカナデという本名を知ったとはいえ、彼女が元日本人である可能性が生まれただけで、なぜ聖花を狙い、どのように身体を入れ替えたのかまでは何も分かっていない。
入れ替わりについて知っているのは、恐らく聖花とカナデだけである。家族が真実へ辿り着いているとは限らないし、アーノルドもヴィンセントも、聖花が元のマリアンナであることを知らない。
この状況で感情のままカナデへ近づけば、相手を警戒させるだけではなく、聖花自身が不審者として扱われる可能性の方が高かった。
だから今日は、見る。話せる相手がいれば話し、情報を集める。カナデがどのように振る舞っているのかを確かめ、家族の様子を観察し、今後へ繋がる手掛かりを探す。
それ以上は望まない。
聖花は自分へそう言い聞かせた。
それでも、ギルガルドへ会えたなら、何かを試してみたいという思いまでは捨てきれなかった。
今のマリアンナに違和感を抱いているなら、聖花の言葉にも耳を傾けてくれるかもしれない。もちろん、彼が今関心を向けているのが、カナデの入ったマリアンナではなく、かつてのマリアンナでもなく、聖花本人だということも知る由がない。
聖花にとっては、あくまで味方になってくれる可能性がある人物の一人に過ぎず、その期待さえ、自分に都合のよい願望であることは理解していた。
けれど、家族の中で誰か一人に希望を抱くとすれば、それはやはりギルガルドだった。
両親はマリアンナを愛しているからこそ、目の前にいる娘を偽物だとは簡単に認められないだろうし、フィリーネも同様である。
対するギルガルドは冷たく見えることも多かったが、家族の中では最も物事を冷静に観察する人間だった。カナデの言動が以前のマリアンナと異なっていれば、何らかの疑問を抱いている可能性がある。
聖花は、その僅かな可能性へ縋ろうとしていた。
扉が叩かれたのは、聖花が寝台の上で考えを整理し、どうにか心を落ち着かせようとしていた時だった。
「お嬢様、失礼いたします」
アデルの声が聞こえる。
「どうぞ」
返事をすると、扉が静かに開いた。
入ってきたのはアデル一人ではない。その後ろには複数のメイドたちが並び、それぞれ布や箱、化粧道具と思われる品を抱えている。
聖花は寝台脇に置かれた時計へ視線を向けた。
パーティーが始まるのはまだかなり先である。王宮までの移動時間を含めても、ここまで早く準備を始める必要があるのか疑問に思うほどだった。
しかし、アデルたちが運び込んだ道具の量を見れば、髪や化粧、衣装の全てを整えるには、それだけの時間が必要なのだろうと理解できた。
今日だけは、朝食をゆっくり取ることすら難しいかもしれない。
部屋へ入ってきたメイドたちの表情は、見事なほど統一されていなかった。
早朝から駆り出されたことを面倒に思っているのか、僅かに眠そうな顔を隠さない者。怯えているのか、必要以上に身体を強張らせている者。感情を表へ出すことなく、仕事として淡々と準備を進めようとしている者。
好意的な表情を浮かべているのは、アデルくらいだった。
以前ならば、一斉に向けられる警戒や嫌悪の視線に傷ついていたかもしれない。しかし、今ではそれにもある程度慣れてしまっている。
嫌われていることを喜ぶつもりはないものの、全員へ好かれようと努力する余裕もなかった。
何より今日は、メイドたちの感情へ気を配るよりも、自分がパーティーの場で失敗しないことの方が重要だった。
聖花は素直に寝台から降り、アデルの指示へ従って準備を始めた。
最初に行われたのは湯浴みだった。
香りのよい湯が張られ、髪や肌を整えるための品がいくつも用意されている。
髪を洗い、肌へ香油を馴染ませ、爪の形まで整える。メイドたちは必要以上に聖花へ触れようとはしなかったが、作業そのものを怠ることはなかった。
以前、明らかな悪意を持って湯の温度を不自然に熱くした者たちがいたが、ヴィンセントが厳しい処罰を下して以来、直接的な嫌がらせをする者はいなくなっている。
聖花としては、罰によって従わせるのではなく、いつか普通に接してもらいたいと思っていた。
ただし、今日一日で関係を変えることはできない。ひとまず危害を加えられないだけでも、準備へ集中するには十分だった。
湯浴みを終えると、次は髪を乾かし、形を整える作業へ移った。
今の聖花は、王宮で知られているカナデの髪を隠すため、髪全体を茶色へ染めている。一時的な変装ではなく、日常生活の中でも自然に見えるよう、何度か手を加えられていた。
目の色も茶系の色へ変えており、何も知らない者が見れば、王宮にいた闇属性の少女と同一人物だとはすぐに気づかないだろう。
しかし、今日は王族主催の場である。
王宮の関係者や、入学試験でカナデを見た者が参加している可能性は高い。髪の生え際や、瞳の色が不自然に見えないよう、普段以上に慎重な調整が必要だった。
複数のメイドが鏡越しに色合いを確かめ、光が当たった時の見え方まで確認する。アデルも真剣な顔で聖花の周囲を行き来し、僅かに乱れた髪を見つけるたび、細い櫛で丁寧に整えていた。
次に用意された衣装は、聖花がこれまで着たものの中でも、明らかに高価な一着だった。
大きな箱から取り出されたのは、深い青緑を基調としたドレスである。
光の角度によって色が僅かに変わって見える生地には、銀糸で細かな草花の模様が刺繍され、胸元や袖には透明感のある薄布が重ねられている。派手な宝石を大量に飾るのではなく、仕立てや素材そのものの上質さによって、着る者を美しく見せる作りだった。
おそらくヴィンセントが、王族主催のパーティーへ出ても聖花が侮られないよう用意させたものだろう。
元平民の養女だからといって、安物を身につけさせれば、それだけで周囲へ弱みを見せることになる。
反対に、身分へ不釣り合いなほど華美な衣装を着れば、成り上がりが見栄を張っていると嘲笑われるかもしれない。
その境目を計算し、伯爵家の養女として十分な品格を示しながら、必要以上に目立たないものが選ばれている。
聖花はヴィンセントの顔を思い浮かべた。
本人は何も説明しないし、パーティーのことさえ聖花へは直前まで知らせなかった。それでも、衣装や教師を手配し、社交の場へ出ても困らないよう準備は整えている。
自分の目的のためだとしても、ここまで手を掛ける必要があるのか。
アーノルドから贈り物がないのは当然だった。二人は婚約しているわけでも、恋仲でもない。
そもそも王子から聖花へ衣装や装飾品が贈られれば、関係を疑われるだけではなく、王宮から逃げ出したカナデと聖花を結びつける痕跡になりかねない。
贈り物どころか、今日の会場でも、アーノルドとは初対面に近い振る舞いをしなければならないだろう。
聖花はメイドたちへ手を借りながらドレスへ着替えた。
身体へ合わせて仕立てられているため、窮屈すぎるところも、裾が長すぎるところもない。腰回りを整え、袖の位置を調整し、襟元へ小さな飾りを留める。
それが終わると、今度は化粧へ移った。
メイドたちは聖花の顔立ちと衣装を見比べながら、どの色を使うか小声で相談している。
必要なこと以外ほとんど話さないため、部屋の中には化粧道具を置く音や、衣擦れの音ばかりが響いていた。
聖花としては、これほど長い時間を共にするのなら、もう少し雑談くらいしてもよいのではないかと思ったが、相手からすれば、闇属性を持つと信じている主人と気軽に話す気にはなれないのだろう。
無理に会話を求めても、かえって気まずくなるだけである。聖花は大人しく目を閉じたり、顔の角度を変えたりしながら、作業が終わるのを待った。
アデルも珍しく口数が少なかった。
ただし、彼女の場合は聖花を恐れているからではなく、少しでも美しく仕上げようと真剣になりすぎているだけだろう。
髪飾りをどの位置へ留めるかについて何度も迷い、左右から見比べたあと、一度付けたものを外して僅かに位置をずらす。
首元へ着ける装飾品を選ぶ時には、用意された箱を順番に開き、ドレスや髪型との釣り合いを確かめていた。街で買った服を贈った時と同じような熱意である。
おそらく準備が終われば、我慢していた言葉を一気に口へし、どれほど似合っているかを大げさなくらい伝えてくるに違いない。
聖花がその光景を想像しているうちに、ようやく最後の髪飾りが留められた。
アデルは一歩下がって全体を確認し、次の瞬間、それまでの静けさが嘘だったかのように顔を輝かせた。
「お嬢様、できました! ようやく完成です!」
予想どおりの反応に、聖花は思わず笑いそうになった。
部屋の中へ置かれた大きな鏡へ視線を向ける。
そこには、以前までの自分とも、王宮で見たカナデとも異なる少女が映っていた。
茶色の髪は緩やかにまとめられ、耳の横には細い髪束が残されている。銀色の髪飾りには小さな青緑の石が嵌め込まれ、ドレスの色とよく馴染んでいた。
化粧は顔立ちを大きく変えるほど濃くない。
瞳の周囲へ柔らかな色を置き、頬や唇へ僅かな血色を加えることで、もともと幼く見えがちな印象を少しだけ大人びたものへ整えている。
華美ではない。けれど、王宮の大広間へ立っても、伯爵家の令嬢として見劣りしない姿にはなっていた。
「あら。思っていたよりも早かったわね」
実際には、朝から随分長い時間を掛けている。始める前に覚悟していたよりは早く終わったという意味である。
聖花は自分を囲むメイドたちへ顔を向け、静かに微笑んだ。
「皆、ありがとう。長い時間を掛けさせてしまったわね」
アデルは嬉しそうに頷いた。
他のメイドたちは相変わらず素っ気ない者が多かったものの、さすがに礼を完全に無視することはなく、それぞれ小さく頭を下げたり、短く返事をしたりした。
以前のような露骨な嫌がらせはない。それだけでも、関係は僅かに変化しているのかもしれない。
アデルだけは周囲の空気に気づかず、鏡に映る聖花を見ながら、どの角度から見ても素晴らしいと興奮した様子で話し続けている。
その熱量に、他のメイドたちの間へ何とも言えない沈黙が広がっていた。
聖花はこれ以上アデルだけを目立たせるのも気の毒に思い、出発まで一人で気持ちを整えたいと告げ、全員を一度下がらせることにした。
メイドたちは片づけるべき道具を持ち、次々と部屋を出ていく。アデルはまだ何かを褒め足りなさそうにしていたが、出発前に再び呼ぶと約束すると、ようやく他の者たちの後へ続いた。
扉が閉じられ、部屋の中へ静けさが戻る。
聖花は鏡の前へ座ったまま、自分の姿を見つめた。
茶色へ染められた髪、同じ色へ変えた瞳。カナデの身体を隠し、セイカ・ダンドールという新しい人間へ見せるために整えられた姿である。
今日のパーティーがあることを、ヴィンセントは直前まで聖花へ知らせなかった。正式に伝えられたのは、つい今日になってからであり、アデルが準備の内容とともに説明したのだ。
何も知らない聖花を突然王族主催の場へ連れ出し、これまでの教育が身についているか試すつもりだったらしい。
目立たずに振る舞えと言いながら、本人へ事前の心構えをさせないなど、人が悪いにもほどがある。
もっとも、聖花はすでにアーノルドから聞いていた。そのおかげで参加者名簿へ目を通し、ヴェルディーレ家が来ることも知り、心の準備をする時間まで得られている。
そう考えれば、アーノルドを完全に拒絶せず、話だけでも聞いておいたことは正解だったのかもしれない。
そこで聖花は、ヴィンセントとアーノルドの間で、意外なほど全ての情報が共有されているわけではないことへ思い至った。
アーノルドはパーティーの目的や、第一王子へ近づくよう聖花へ頼んだことを、ヴィンセントへ伝えていないらしい。反対に、ヴィンセントも聖花へいつ何を教えるつもりなのか、アーノルドへ細かく話してはいないのだろう。
二人は協力している。けれど、目的の全てが同じというわけではなく、それぞれが必要だと判断した情報だけを扱っているように見えた。
アーノルドが第一王子へ聖花を近づけたい理由も、ヴィンセントは知らない可能性が高い。それならば、今日その頼みに応じたとして、伯爵へそれを説明する必要はないのだろう。
もちろん、第一王子へ近づくことそのものが聖花の目的へ直接結びつくとは限らないし、アーノルドの事情へ深く関われば余計な問題まで背負うことになるかもしれない。
それでも、王族と関係を持つことが、いつかカナデやヴェルディーレ家について調べるための助けになる可能性はある。最初から拒絶するよりは、相手の様子を見ながら判断した方がよいかもしれなかった。
聖花は鏡の中の自分へ向けるように、ゆっくりと息を吐いた。
今日の目的は一つではない。
ヴェルディーレ家の様子を確かめ、カナデを観察し、可能であればギルガルドと接触して、彼が今のマリアンナへ何を感じているのか探ること。そして、アーノルドに頼まれたとおり、第一王子ルードルフと会話する機会を作る。
どれも簡単ではない。それぞれを意識しすぎれば、反対に不自然な行動を取ってしまうだろう。
何より、今日の聖花は社交界へ初めて姿を見せるダンドール伯爵家の養女であり、周囲から厳しく観察される立場にある。
元平民の、伯爵が突然引き取った身元の曖昧な少女。悪意ある者にとって、噂の材料はいくらでも揃っている。
僅かな失敗でも大げさに広められ、聖花だけでなく、後ろ盾となったヴィンセントまで侮られる可能性があった。
感情に任せて家族を見つめ続けることも、カナデへ近づくことも許されない。ギルガルドを見つけたからといって、以前と同じように兄と呼ぶことなどできるはずもない。
聖花は一度目を閉じ、バラーレ夫人から教えられた立ち方や挨拶、会話の際に相手へ向ける視線の角度を思い出した。
今の身体へ合わせて繰り返し練習した動きは、もう以前ほど不自然ではない。
フェルナンから教わった国内の貴族家についても、必要な範囲は頭へ入っている。
準備が足りないとは言えない。足りないのは、おそらく自分の覚悟だけだった。
鏡へ映る少女は、緊張を隠すように静かな表情を浮かべている。
その姿はマリアンナではなく、カナデでもなく、セイカ・ダンドールとして社交界へ立つために作られたものだった。
聖花は、鏡台の上へ置かれた手袋を取り、指先からゆっくりとはめていった。薄い布が肌を覆い、最後に手首の留め具を整える。
もうすぐ、アデルが出発の時間を知らせに来るだろう。その後はヴィンセントと馬車へ乗り、王宮へ向かう。
一度出発すれば、引き返すことはできない。
不安も、恐怖も、今のうちに消してしまえるものではなかったが、それらを抱えたままでも、何も知らなかった頃のように立ち尽くすつもりはなかった。
聖花は鏡の中の自分から目を逸らさず、王宮で何を見たとしても感情だけで動かず、失ったものを取り戻すために必要な情報を一つずつ拾うのだと改めて心へ刻みながら、ほどなく訪れるであろう呼び出しを静かに待ち続けた。




