表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

13/90

1.忍び寄る影 前半

 そうして、試験の日がやって来た。

 まだ朝靄の名残が街を包む中、王都ザッカーはいつも以上の活気に満ちていた。


 アルバ王国で唯一、公的に設けられた学び舎――王立学園。首都に暮らす貴族はもちろん、王国の端にある辺境地からも毎年多くの若者が集い、この日だけは街全体がどこか張り詰めた空気に包まれる。

 受験者の数は多く、それだけ学園の敷地も広大だった。貴族の屋敷など比べものにならないほどの広さを誇り、長い歴史を刻んできた建物は、今なお威厳を失っていない。


 聖花もまた、その場所を目指す一人だった。

 けれど彼女には、『記憶喪失』という、他の受験生にはない不安があった。マリアンナが本来持っていた知識のうち、とりわけ歴史に関する記憶だけが驚くほど抜け落ちていたのである。

 だからこそ、この一か月近く、彼女は必死だった。午前中は書庫へ通い、積み上げられた歴史書を片っ端から読み漁る。午後になれば、現役の学園生であるフィリーネが教師役となり、試験に必要な知識を一つずつ丁寧に教えてくれた。

 厳しいところは厳しく、それでいて理解できるまで決して見放さない。そんな教え方は、いかにもフィリーネらしかった。


 聖花も必死に食らいついた。

 ここで落ちるわけにはいかない。フィリーネと交わした約束も、友人たちと過ごすはずの学園生活も、まだ始まってすらいないのだから。


 書庫へ通う日々の中では、何度もギルガルドと顔を合わせた。彼はいつも先に書庫へ来て本を読んでおり、聖花の姿を見かけると一瞬だけ視線を向け、静かに本を閉じる。そのまま数冊の書物を抱え、何も言わず書庫を後にしてしまうのが常だった。


 そんなことが何度も続いていたが、最近になってようやく、同じ部屋に留まってくれるようにはなった。しかしそれでも会釈に応じてくれることはなく横目で一瞥するだけで、まるでそこに誰もいないかのように、黙々と本へ視線を落とし続けていた。

 冷たい態度は相変わらずだったが、それでも聖花は気にしなかった。今の自分に必要なのは、一つでも多く知識を身につけることだったからだ。


 フィリーネが茶会で屋敷を空ける日には、事前に過去問や勉強用のノートを貸してくれた。どれほど忙しくても、妹の試験だけは気に掛けてくれている。その優しさが、聖花には何より嬉しかった。



―――あとは、結果を出すだけ。


 そう自分へ言い聞かせながら迎えた当日の朝。夜明けの冷たい空気に目を覚ました聖花は、いつもより早く寝台を抜け出した。まだメイが迎えに来るには早い。


 静かな部屋で最後の確認をしようと、フィリーネから借りた過去問を膝の上へ広げる。一問ずつ読み返しながら、小さく息を吐いた。緊張していないと言えば嘘になる。けれど、不思議と恐怖はなかった。

 やれるだけのことはやってきた。その積み重ねだけは、自分自身が一番よく知っているから。


 メイが部屋に来てからは身支度を整え、門の前で待つ馬車へと乗り込んだ。聖花は大きく息を吸って心を落ち着かせる。胸の奥には、ここまで積み重ねてきた努力への自信と、それでも拭い切れない一抹の不安が静かに同居していた。


 馬車の中では、向かい側に腰掛けたフィリーネが優しく微笑んでいる。試験会場まで付き添うと言ってくれた姉の存在は、それだけで心強かった。

 ダンドールは執務があり、ルアンナも以前から約束していた茶会へ向かうため同行はできない。当然、ギルガルドも屋敷に残っている。



「マリー、そんなに緊張なさらなくても大丈夫ですわ」


 揺れる馬車の中で、フィリーネは穏やかな声を掛けた。



「これまで貴女が誰よりも努力してきたことを、私は知っていますもの。書庫へ通って毎日のように勉強していたことも聞いておりますし、過去問にも真剣に取り組んでいましたでしょう。どうか、自分を信じてくださいまし」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で張り詰めていたものが少しだけほどけた。誰かが見ていてくれた。ただそれだけのことが、これほどまでに心を軽くしてくれるのだと、聖花は改めて知る。



「……はい」


 小さく返事をしながら力強く頷くと、フィリーネも満足そうに笑みを浮かべた。


 それからは自然と学園の話になった。

 学食は評判が良いこと。年に一度の学園祭は町中から人が集まるほど賑わうこと。魔術の実習は厳しいけれど、その分やりがいも大きいこと。

 初めて聞く話ばかりだったが、フィリーネは楽しそうに語り、聖花も耳を傾けながら少しずつ胸を躍らせていった。



―――早く通いたい。


 気付けばその思いは不安よりもずっと大きくなっていた。


 やがて馬車がゆっくりと速度を落とし、静かに停車する。



「着きましたわ」


 フィリーネに促され、聖花は馬車を降りた。



「頑張ってください、マリー。心から応援しておりますわ」


「はい、フィー姉様。全力を尽くしてきますね」


 互いに笑顔を交わすと、聖花は学園の門へと向き直る。


 丁寧な装飾が施された門をくぐった瞬間、目の前にはどこまでも広がる敷地と、その奥に堂々とそびえ立つ校舎が姿を現した。長い年月を経てもなお威厳を失わない建物は、この国で学び続けてきた幾多の貴族たちの歴史を静かに見守ってきたのだろう。


 建物にはすでに多くの受験生が集まり、案内を待っていた。緊張から身体を強張らせている者もいれば、静かに目を閉じて精神を落ち着かせている者もいる。それでも誰もが真っ直ぐ前を見据え、自分の力を信じようとしていた。


 列に並び受付を済ませると、聖花も校舎の中へ足を踏み入れた。

 まずは筆記試験。その後に魔術属性の適性検査が行われるらしい。属性検査が入試にどんな意味を持つのかは分からなかったが、今は余計なことを考えている余裕はない。聖花は指定された教室へ向かおうと歩き出した。


 そんな時、不意に背筋へ冷たいものが走った。聖花のすぐ横を一人の少女が通り過ぎていった時だった。

 少女は濃い青色の髪をしていて、その姿を目にした瞬間、何故かあの夜の記憶が胸の奥から蘇って、身体の熱がすっと引いていった。


 聖花は思わず振り返った。少女は何事もなかったかのように歩き続けていたが、ちょうど吹き抜けた風がその長い髪をふわりと揺らした。その拍子に、髪の内側から黒がわずかに覗く。

 ほんの一瞬だった。次の瞬間には鮮やかな青がすべてを覆い隠し、まるで見間違いだったかのように消えてしまった。


 胸の奥に、小さな違和感だけが残る。しかし、聖花は考えるのをすぐにやめた。今は試験に集中しなければならないと、心に芽生えた不安を無理やり押し込め、教室へ向かって歩き出した。


 この先、彼女に待ち受ける運命など今の聖花には知る由もない。

第二章に突入しました。

⚠二章は、『暗い・怖い』成分強めです

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新作短編作品 百番目の死神
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ