13.判子屋
どれくらい走り続けていたか。気付けば青白い影の通行妨害も復活し、無意識に避けようと脇に抜けてからはっと我に返った。後ろを振り返るも黒い影の姿はない。どうやら振り切れたらしい。
「いない。撒けたみたいだ」
「え? ああ、本当だね。なんとかお婆さんに迷惑を掛けずにすんだか」
「……ゼヒー、ゼヒー」
一人変な呼吸音上げてるけど全員無事だ。こちらも上がった息を整えつつ起こった出来事について考えてみる。あの黒い奴は一体なんだったのか。
「あの黒いの、なんで追ってきたんだと思う?」
「さあ? いろいろ不明過ぎて推測の立てようもないよ。恐らくはこの青白いこちらの世界の人たちと同じなんじゃないかとは思うけど、なんであれだけが敵対してきたのかは分からない」
黒いのの外見を思い出す。周りの全く無反応な青白い影と酷似はしていた。この世界にある以上は同じく死者ではないかと思うけど。
「追ってきたのは敵対していたからって思うか?」
「そうじゃないかな? 上げた声には敵意が籠もっているように俺は感じたね。真人も危機感を抱いたから逃げろ、なんて言ったんじゃないの?」
それは。確かに俺もあの時、総毛立つような切迫感を感じはした。元々良くない印象もあって直ぐに逃げるという選択を取った訳だが、でもだとしたらなんで俺たちはいきなり敵意なんて持たれたりしたんだ。
「なんであの黒いのはいきなり敵対してきたんだ。他の青白いのは敵意向ける処かガン無視だぞ。青白いのと黒いのの違いはなんだ?」
「そこ気になるよね。基本この世界にいるものって俺たちに友好的か不干渉のどっちかだった。事情を知ってそうなお店の人たちも親切に導いてくれることはあっても俺たちを追い出すようなことはしなかった。あの黒い影だけが明確に対立していると言える」
「対立か」
そう言えば青白いのは黒いのを避けていたな。こちらの世界の住人である青白いのが避けるってことは、黒いのは住人じゃない? でも、見た目は完全に一緒だしな。
どうして襲われたりしたのか、その理由をはっきりさせたいんだが情報不足だ。黒いのの正体も分からないし目的もはっきりしないから判断の付けようがない。直前に敵対云々などと口にしたのがいけなかったんだろうか。こちらを見て急に襲い掛かってきた……。
まさか? ひやりと背に冷たい汗が流れる。有り得て欲しくない想像が頭の中をグルグル巡っていく。むくむくと胸の内に迫り上がる形容し辛い感情を唾と一緒に飲み下した。まだ、そうと決まった訳じゃない。必死に言い聞かせて平静を保つ。優先すべきは桧山だ。こんな所で立ち止まる訳にはいかない。
「? 真人?」
嵩原に察知された。訝しんだ様子でこちらを見てくる奴になんでもないと言い返す。どうか襲われた直ぐあとだからと誤魔化されてはくれないだろうか。一瞬で上がった動悸と呼吸をどうにか抑え付ける。
祈りは通じたのか、それとも珍しく空気を読んだのか、嵩原はそれ以上突っ込んでくることはなかった。じっと観察するような目を向けられても、その間に調子を整えられるからむしろ都合がいい。
「はぁ、はぁ……。ひ、桧山は……?」
そうしていると必死に呼吸を整えていた美樹本が汗を額に浮かべながら訊ねてきた。その質問にはちょっと答えようがない。
「弱ったよね。あとを追おうにも途中に黒い影がいる。さっきの様子からしても何事もなく通り抜けられるとは思えない」
「……また距離が開いたからさっさと追跡は始めたい所だが、このまま元の道を戻るというのも出来れば避けたい。あの黒いのが何を思って俺たちを追い掛けているのか分からない以上、下手に近付くのも危ないだろうし」
「……」
二人揃って否定的な意見を口にせざるを得ない。美樹本の顔色が分かり易く悪くなる。まさかの妨害者の登場で、また桧山との距離が開けられた。
「どうにか、先に行けないかな?」
「黒い影を避けてか? 逃げる時にも分かっただろうけど、この路地は隠れる所がほぼほぼない。建物の中に避難出来ればワンチャンあるだろうが……」
「現段階じゃ入れた建物って駄菓子屋だけなんだよね。他の建物はどういう訳か皆施錠されていて入ることは出来ない。駄菓子屋まで黒いのを引っ張ってきて、それで逃げ込むって作戦は出来そうだけど、よくよく考えれば向こうも侵入してきたら限りなく詰みになるよね」
黒い影をやり過ごす方法。隠れる場所さえあれば正面から乗り込んだってどうにかはなるかもしれない。でもこの世界は建物はガードレールのように連立しているのにそのどれもが開かないというよく分からない仕様だ。ハリボテ以下の箱であるから逃走にも利用出来ない。
住宅ともなれば塀もあるが、それだって入り口が施錠されていて内部にも容易に入れない。乗り越えればいけるかもしれないが、逃走するとなれば変にもたつく策なんか危うくて実行なんて出来やしない。
どう躱すか。うーんと唸りを上げていれば美樹本がはっと顔を上げた。
「そうだ。お店だ。ね、道を一本戻って、それで先の方にあるお店を経由してこっちの道に戻れないかな? それが出来たら黒い人を迂回して先に進めるんじゃない?」
言われて脳内でシミュレートして理解する。なるほど、敢えて道を戻って遠回りすることで先に進むと。それが出来たなら比較的安全に先を行けそうだが。
「いい案ではあるよね。でも問題はそんな都合良く開いてるお店があるかなって点かな? これまで俺たちが訪ねられた店はたったの二件だ。これだけ建物が並んでいる中、二件しか開いてないって割合が低過ぎるよね。聖の望むように道を渡れるかは賭けになる」
「う……」
嵩原の指摘に美樹本も言葉が詰まった。いい案なんだけど、そんなネックもあるんだよな。更に言えば開いている店があったとして通らせてもらえる保障もないんだ。実際、駄菓子屋のばあさんにも最初は渋られた訳だし。
「駄目かなぁ……」
「いい案ではあるよ。迂遠だけど安全ではある。でもここからまた探すのもね。駄菓子屋は上手いこと早めに当たりを付けられたけど、今回もそんな上手くいくかな? せめて営業しているか否かくらい見た目で判別出来たら手間が減るんだけど」
「やってるかどうかなぁ」
ぐるりと周囲を見回すも、パッと見てそうだと分かる目印も何もない。普通なら扉が開いてたり看板に電気が通っていたり、そんな感じに営業しているという自己主張なりが商店にはあるものだが、この世界の店はどういった訳かそんな素振りが一切見られない。全て閉店しているように明かりは落とされ扉も閉められている。
そんなだから一々訪ね回って確認を取るしかなかったし、嵩原の妙案で青白い影が出入りする店を見付けるといった方策で駄菓子屋を引き当てた時などはかなりの時間短縮にもなったものだが、それでも面倒は面倒だ。
せめて目安になりそうなものくらい……。そう胸の内で溢した時だ、何か意識に引っ掛かるものがあった。
「……あ。ああ、そう言えば。なぁ、ひょっとしたら判子屋が当たりかもしれない」
「判子屋?」
「タバコ屋のじいさんが言ってただろ。俺たちには駄菓子も判子も要らないかって。これ、こっちで店やってるってことじゃないか?」
「……あ!」
思い出したのかぱっと目を見開く美樹本。嵩原もあー……と、声を吐き出す。
「言ってた、言ってたね! そうだよ、タバコも駄菓子も判子もって並べてた! 駄菓子屋さんはさっき通ってきたし……!」
「なるほどねぇ。ありえそうだね」
どうやら賛同してもらえた。情報共有するとか考えてたのにすっかり忘れてたな。
「だとしたら判子屋さんを目指せばいい?」
「一回駄菓子屋に戻って、それから道を変えてそのどこかにあるか、だね。とは言え都合良く黒い影を越えた先にあるかは分からないけど」
「そうだな。ひょっとすれば直ぐ近くにあるかもしれな」
同意しながらふと顔を向けたそこに『判子屋』と書かれた看板があった。瓦屋根の年代を感じさせる二階建ての建物。前面が引き戸となっていて、ガラス窓の向こうに判子を納めているらしい棚が透けて見える。
嘘だぁ。そう思いながら見つめ返すもどう見たって直ぐそこに『判子屋』と屋号を掲げる店はある。二人も遅れながら気付き呆気に取られた様子で目の前の光景に見入っていた。
「……こんな所に判子屋さんってあった?」
「俺は見てないね。真人は?」
「……俺も見掛けてなかったぞ」
ちょっと前に確認した時にはこんな店はなかった、と思う。古めかしくも堂々とした佇まいは、周囲のコンクリ製の民家やベージュの塗装のされた店舗と比べても確実にこの場で浮いてしまっていた。見掛けたなら絶対になんだあれと、意識には残っていたはずだ。
なのに何これ。生えた? いきなり生えたのか?
驚く俺たちの前ですーっと青白い影が判子屋の引き戸の前に立つ。黙って見守る中、青白い影はそのまま戸の隙間に吸い込まれるようにして消えていった。びっくりな光景だったが、もしかして影の入店ってあんな感じなのか?
「あれ、今、店に入っていった?」
「う、うん。僕が見掛けた時と一緒だ」
「まぁ、確かにあれは店の中に入っていると言えるかな?」
怖がりなのによくもまぁ冷静に判断出来たなと思いつつ、とりあえずこれで判子屋が営業中であるという確証も得られたことになる。
「でも惜しいね。これで迂回路は利用出来ない。真人の仮説は当たっていたけど……」
「そうだな。どうする? 他の店を探すか?」
「うーん、折角見付けたし話だけでも伺えないかな? あの黒い影についても聞きたいし。これで対処法なんて知れたら迂回しなくても済むよ」
「それもそうだね。じゃ、俺たちも入店と行こうか?」
ここでただ通り過ぎるのも勿体ない。そんな訳で判子屋へと足を進めた。
見れば駄菓子屋同様、判子屋の引き戸もうっすらと開けられている。ガラガラ音を立てて開けていけば、中は想像したような古い造りの判子屋だった。
横に広い店内には、幾つものあの文房具屋なんかで見るクルクル回せる棚みたいなのが立っていてそれら全てにびっしりと判子が納められている。壁にも棚が並んでおり、そこにまで丸かったり四角だったりといった判子が収納されているのだが、判子屋ってここまで判子を取り揃えているものなのだろうか。看板に恥じない判子しかない店内は、集合体恐怖症を患ってる人間からすれば中々鳥肌の立つ光景なのではとそんな他人事みたいな感想が漏れてくる。
店内に入って正面。回る棚も退けられ開けたそこにはカウンターが一つある。細々とレジやら何やら置いてあるそこにじいさんが一人詰めて青白いのを相手にしていた。立派な禿頭に黒縁眼鏡のじいさんで、への字に曲がった口元はなんだか気難しそうな印象を感じる。カウンターの向こうには入り口と同じような引き戸が並び、路地らしきものも窺えた。
「ちょっと待っとれ。こちらのお客さんが先だからな」
こちらを見もせずに、はきはきとした声でじいさんが言う。手元には小さな箱があり、その中にも多数の判子が納められているのが見えた。じいさんは判子を一つ取り出してはじっと眺め、そして戻してはまた次とそればかりを繰り返している。
「待ってろだって」
「従おうか。話が聞ける人は貴重だし」
言われた通りに入り口辺りで待機する。青白い影とじいさんのやり取りを眺めているが、これといって会話が交わされることもなく両者共黙ってカウンターを挟んで突っ立っている。じいさんは終始判子を眺めるばかりで接客も何もしているようには見えないのだが、それでも商談は黙々と詰められている、らしい? これは一体何を見せられているのだろうか。そんな疑問が湧いてきた所でじいさんがピタリと止まる。
「うむ。これがお前さんの名前だ。あとは時が来るまで自由に過ごせばよかろう」
一つ頷いたじいさんは手にしていた判子を青白い影へと差し出した。見た所なんの変哲もないよく見掛ける判子だ。
差し出された影は腕らしき分岐をすっと上に上げて、受け取ったのかなと思った次の瞬間、その姿が一瞬で払われて代わりに一人の男が現れた。セーターらしき毛羽だった群青の服に覆われた上半身に、下半身はスラックスを履いていてと、どこにでもいそうな恰好の後ろ姿。
ぎょっと目を剥いて見つめる中、突然現れた男は出現した時同様ふっといきなり目の前から消えた。移動したとか飛んだとかそんなものじゃない。本当に目の前から忽然と消えてしまったのだ。
なんあれ、と固まる俺たちへとじいさんの目が向けられる。
「待たせたな。さぁ、こっちに来て名を……」
途中で言葉が止まる。こちらを睨み据えるように眇められた目が驚きに丸くなるのが分かった。これまでにない反応だ。タバコ屋も駄菓子屋も、こちらの正体を看破したと思われる発言こそあれこのじいさんほどの分かり易い反応というものはなかった。両者共地に足の着かない感じは、今思えば実に異世界的というのか、浮世離れした雰囲気があったな。だからこそ、生きた人間のように明瞭な反応を返すじいさんにこちらもつい虚を衝かれてしまう。
固まっている間にじいさんは態勢を立て直したようで、見開いていた目がぎっと細まり、こちらを油断ならない様子で見やってきた。
「……なんでお前らのような者がここにおる?」
質問調ながら、その声音は緊張で酷く固く張り詰めていた。




