23.祟り神
「え?」
パッと顔を上げる。ザァザァとまるで漣のような幾つもの小さな音が重なったそれは、常識的に考えれば葉っぱが擦れて立てる音だ。
ここは山間部だ。近くに川はあるが当然漣が立つはずもない。神社の周りには深い林もある。風が吹いて揺れていると思ったんだが……。
「風は、吹いてない?」
現在時刻はもう三時を回ったくらいか。そろそろ日も陰り出す頃合いだし、十二月のこの時期の風は冷たく肌を刺してくる。吹けば体感で感じ取れるはず。何より木々をこれほど揺らす強風なら髪だって服だってはためく。
「……葉擦り、の音?」
「そう聞こえるよな? でも風なんて吹いてない。どこからするんだ?」
不思議そうな朝日と共に周囲を窺う。神社の周りに立つ木々を確認するが、どれもピタリと静止していて葉っぱの一枚だって揺れちゃいない。
なんだこれ? 変わらず葉擦れの音は境内に響き渡っている。生い茂る葉っぱが立てているかのように大きな音で、まるで大きく葉を茂らせた巨木が立てるような……。
そこまで考えてはっと思い至るものがあった。視線がそっちに向かう前に、また別の異変が俺たちを襲う。
「え!? せ、先輩、絵馬が!?」
悲鳴のような声に振り向けばみっちりと並ぶ絵馬がカタカタと小さく震えていた。今度は地震か?と足元を確認してもやっぱり地面が揺れていることもない。風でも地震でもなく、勝手に震え続ける絵馬だが、異変は更に続いた。
震える絵馬に書かれた文字、雑多な願いの文章が連なってるその黒い文字が唐突に動いた。絵馬の中でまるでシャッフルされるように、誰かに付け足されたように文字が組み替えられて内容が変わっていく。
「え……」
間の抜けた声しか出せない。俺たちが見ている前で、絵馬の文章が次々に書き換えられていく。それは紙に書かれたものも同様だ。『テストで良い点が取れますように』は『テストで悪い点が取れますように』。『愛しのあの子が振り向いてくれますように!』は『愛しのあの子が振り向いてくれませんように』。他にも良い結果を求める願いは全て悪い方向へと向かう内容に変わっていく。
そして、それは誰かの不幸を願うものでも一緒だ。多数並ぶ絵馬の、その黒い文字だけが冗談のように蠢いて配列が変わる。書かれた不幸がより酷く、重くなるようにと文言が書き換えられていく。
俺にと向けられた呪詛も同じだ。『美形グループの中に混じっている永野真人が邪魔です。グループからいなくなりますように』。これもまたその歪な五角形の中で文字が蠢いて文章も変じていった。
黒い文字が白い紙面に現れ、また元あった文字も這い出るようにして紙面を蠢いてどこかに消える。あとには改変のなされた一文、それだけが残った。
『美形グループの中に混じっている永野真人が邪魔です。“学校”からいなくなりますように』。
微妙に意味合いの変わったそれ。元の願いでは、言えばただ美樹本たちとの仲違いを乞われているに過ぎない願いが、こっちだと学校という大きな所属から離れるようにと内容がより酷いものになっている。
“学校からいなくなる”。それは休学あるいは登校拒否、または退学という結果が脳裏に浮かぶが、俺の身に起こったのはほぼ全校生徒から嫌われるという排斥の動き……。
変わった文面を眺めて唐突に思い至る。そうだ。元の願いからしてもどうして俺が学校中から嫌われたのか、その理由付けには少々合致しなかった。願いはあくまで美樹本たちと俺が離れることだ。美樹本たち以外との仲まで拗れるのは、いくらなんでもあの女子の願いから逸脱していた。
思い出すのは先輩の言葉だ。『幸を不幸に。不幸を厄に』。ここの祭神は人に不幸を与える祟り神、こうして願いの言葉そのものを変質させてより酷い不幸が訪れるようにと仕向けた……?
呆然と見つめる先で中身の変じた絵馬はじわりと黒に染まる。中心から墨でも染み込ませたように、文字を飲み込んでどんどんと面が黒くなっていく。
やがて黒は絵馬全体を覆った。書かれた文字も見えなくなった絵馬から黒が溢れる。いや、これは溢れたのとは違う。正確には宙にと飛び出したんだ。黒い文字の列。恐らく、絵馬に書かれた願いの文章、それが押し出されるようにして空中に浮かび上がった。
声さえ出なかった。呆然と見上げるだけの俺たちを睥睨するように、宙に浮かんだ文字はシュルシュルと列を作って周辺を漂う。
絵馬からは次々に文字が飛び立っていった。見つめている間にも黒い文字は幾つもの線となり、俺たちの周りを飛び交ってはシュルシュルと円の動きで囲んで行く。
正気に返った時には遅く、気付けば朝日と一緒に宙を舞う文字の列の只中に取り残されてしまっていた。
「せ、先輩……!」
朝日が怯えた様子で俺の腕にしがみつく。こんな異常現象目の当たりにしたらそれは恐ろしくもなるだろ。まだ鈍い頭でそんな結論も弾き出すが、でも朝日の様子は少し違った。
「あ、あれ……!」
震える指先を必死に伸ばして何かを訴えてくる。なんだとぎこちなく首を巡らせれば、どうやら神木を示していたようで。
黒い文字が飛び交うその隙間から神木の姿は覗けた。見え難いが巨大さは健在なまま、特にこれといった変化もない……。
いや、なんだあれ。
神木は多くの枝を失い今は突き立つ棒のようなシルエットをしていたはず。それが、黒い列の隙間から見える木は大きく枝葉を広げた立派な巨木のそれとなっていた。
横にも縦にも両手を広げたように枝は雄々しく伸び切り、その枝には無数の黒い葉を茂らせている。それらがゆっくりとざわめく度に漣にも似た葉擦れの音が轟いて境内の空気が振動した。
境内に響く葉擦れの音の出所はこれかと、そう冷静に判断する意識もどこか遠い。御神体として崇められるに相応しい、雄大な梶の木が確かに目の前に顕現したことに、意識の大半は持ってかれていた。
なんで。あれはもう焼失していたはず。
信じ切れずに何度も瞬きを繰り返すも見える光景に変わりはない。目の前にそびえる巨木は真っ黒な木肌に同じく真っ黒な葉っぱをざわつかせてこちらを見下ろしている。
異様な威容。冗談ではなく、巨木はただ見ているだけでも全身が振るえるような圧倒的な存在感を放っていた。それは最早重圧にも似ている。有り得ないものに触れて、有り得ないものを目撃してしまったという危機感。
頭のどこかで警鐘が鳴っている。早くここから離れろと、逃げ出せと訴えている。でも足は動かない。目の前にそびえ立つ巨木の枝にでも絡め取られたように体に自由は利かなかった。
多分錯覚ではないだろう。巨木からは滲むようにして黒い霞のようなものまで噴き上がっている。
明らかにヤバい。周囲を満たす重い気配に思考も散漫となる中、不意に周囲を回っていた文章の内から幾つかの文字が飛び出してきて目の前の空中に止まった。
宙に浮いた文字はまるで紙面から切り取って適当に並べたようにばらばらな書体で、でもそれは確かに意味のある言葉を形作っていた。
《来た きタ》 《願いをイえ》 《叶えル》 《頼れ》
それは誰かの意思だ。こちらに語り掛ける何者かの言葉。この場でこんな意思疎通を図ってくるような存在は一つしかないだろう。文字の列の向こうで枝葉を伸ばす神木。察してゾッと全身に鳥肌が立った。
ここにいたら駄目だ。逃げ出したい。でも周りは文字列が囲んでいて一分の隙もない。ザァザァと神経を逆撫でるような葉擦れの音に、より焦りを誘発される。じりじりと宙に浮いた文字が応えを求めるように近付いてくるのに息が詰まった。
そこでぐっと片腕に強い圧力が掛けられる。握り潰されそうな強さに、恐れから反射的に顔を向ければそこでは朝日が必死に俺の腕にしがみついていて。
「……!」
朝日もいたんだ。恐れに凝っていた思考にさっと水を掛けられた心地だった。そうだ、朝日だけは絶対に帰さないといけない。恐怖に呑まれ掛けていた意識を必死に手繰り寄せて隣の朝日へと目を向ける。
「朝日! どうにか隙を見付けるから、お前だけでも逃げてくれ!」
葉擦れの音にも負けないように声を張り上げて朝日に叫んだ。恐怖で固まっていた朝日はそれでも俺の声は届いたか、パッと顔を上げて見開いた目を向けてくる。
「……え!? な、何を言って……! 先輩は!?」
「俺のことは気にするな! ここから離れることだけを考えてくれ!」
叩き付けるように言い返し周囲の様子を探る。声を張り上げたからか、幸い体の自由は取り戻せていた。
ぐるりと見回すも文字の列は俺たちを閉じ込めていて少しの隙間も見付けられない。列の回転速度自体はそれほど速くもなく、ぶつかったからといって怪我もしなさそうではあるけど果たしてこれは触れてもいいものなのか。
「そんな! 駄目です! 先輩を置いてなんて行けません! 逃げるなら二人で……!」
「それが出来るか分からないんだ! 理由は分からないが、なんでかここの祭神は俺たちに執着しているみたいだからな!」
前方、何もない空間に浮く文字を睨みながら答える。囲う文字群から飛び出してきた端的な訴えの文言は、俺たちがやり合う間にも次第に数を増やしてどんどんと内容もこっちに迫るものとなっていた。
《はヤく》 《願い》 《いえ》 《力を》 《ハやく》 《願いを》……。
文字列の中からはぐれるようにして抜け出て空中にてピタリと止まる。増える黒文字に背を這う寒気は一向に治まらない。
願いをと一方的に請うてくる。願いを叶える神だからか? 神は一説じゃ信仰を得ることによって力が増すとかいうけど、これもそれがための要求なんだろうか。願いを叶える神だからこそ人の願いを叶えることで力が増すとか……。
いや、今はそんな考察をしている場合じゃない。
「多分簡単には逃がしてはくれないだろ! だから朝日! せめてお前は……」
「嫌です! 先輩と一緒じゃないと帰りません! 一人にはしない、そう誓ったんだからっ!!」
葉擦りの音さえ一瞬掻き消すような強烈な叫び。はっとなり文字に向けていた目を朝日に戻した。朝日は泣き出しそうな顔をして俺の方を懸命に見上げている。
「朝日……」
「帰るなら一緒にです。誰かを犠牲にするような方法ではなく、二人で帰る方法を見付けましょう。先輩、諦めないでください!」
力強くそう諫められる。二人で帰る。それは、それが出来るなら最上な結果だろう。でもそう上手い話があるはずもない。
「きっと、きっと何か打開出来る方法はあるはずなんです! それをなんとか見付けましょう!」
また強くなる葉擦りの音に負けじと声を張り上げ朝日は言った。有言実行だと俺から視線も外して周囲に目を向ける。
打開の方法。そんなものあるんだろうか。相手は厄をばらまく祟り神だ。そいつが顕現した今、一介の人間でしかない俺たちではどうすることも……。
「朝日、」
やっぱりお前だけでも。そう続けようとした言葉は何かを思い付いたような朝日の声に紛れて消える。
「先輩! もしかしたら、もしかしたら葉操様の『葉』は『葉』でも、言葉の『葉』だったんじゃないでしょうか!」
力強い、希望に溢れた声がそう告げてくる。なんのことだ? 朝日も葉擦りの音に負けないよう、大きく口を開けて叫んでいるし、ここで意味のない話題など出したりはしないと思うが。
「え?」
「葉操様の『葉』の意味です! 私たちはてっきり葉っぱのことを指していると思っていました! でも多分違うんです! 葉操様は、この神社の祭神の力は、多分願いとして寄せられた言葉を操るものだったんじゃないでしょうか!」
飲み込めないこちらにと朝日は懸命な説明を続けた。葉操の、葉。願いの言葉、言の葉を操る……?
「さっきの絵馬、書かれていた文章が変えられていました! 文字一つ一つを入れ替えるようにして、です! そして目の前の文字! あれは周りに漂ってる文章から抜け出てきました! どちらも願いとして捧げられた絵馬に書かれたものです! 葉操様は自分に捧げられた願いの文章を操って叶える、そういう力を持っているんじゃないでしょうか!?」
恐怖に顔を青冷めさせ、俺の腕も震えるまでに握り締めながら朝日はそれでも気付いた真実を伝えてくれる。言の葉を操る……。だからこその『葉操』。『は』を『あやつる』……。
「それで、それでどう打開に繋げるかは、まだ思い付きもしませんけど、でも言葉を操るならもしかしたら絵馬をどうにかすれば……!」
決死の訴えだ。朝日は本気で俺と一緒に帰るためにどうにか抜け穴を探そうとしている。
異様で絶望的な状況にあるというのに俺を諦めたくないばかりに懸命に抗う朝日を見て、自分の中にあった諦め掛けた意識も僅かにと変化した。




