9.もしゾンビと相対し、立ち向かわないといけない場合
六日目 午前八時三十分。
現在、俺は外にある体育倉庫を目指し、南に屋根伝いを歩いていた。
そこには予備の野球部のバットや、グラウンドで使う様な障害走用のハードル、白線等が収納されている。
また、体育館の裏手にあり、校舎から死角なので休み時間には山田の様な不良生徒がよくタバコを吸いに来る様だ。
そして、目的は倉庫の中にある“本来”の非常食の回収。
そもそも、何故避難先の第一候補である体育館には、全校生徒約五百人の非常食がたった一日分しか無かったのか。
それは館内の物はあくまで予備であり、本来の保管庫は外にあるからだ。
何で知ってるかって?
それはこの学校のホームページにある『災害時の対応』に“全校生徒と職員が一ヶ月は避難所に滞在出来る備蓄を用意している”と書かれていたからだ。
校内は広いが、倉庫は数が限られている。
それに昨夜に会長が言っていた“ちゃんとした食べ物”という言葉。
そして避難場所である体育館にもっとも近い場所ということもあり、ほぼ間違いなく倉庫には食料があるだろう。
それにしても学校には非常食を備蓄する義務は無い※1 にも関わらず、それほどの量があるとすれば、用意させた理事長は俺に似たタイプなのかもしれないな。
そんな事を考えているうちに、目的地付近に到着した。
念のため体育館の屋根から下を見下ろしたが、ゾンビは見当たらない。
屋根から直接飛び降りるには高すぎるので、一旦西側へ向かう。
体育館は学校の敷地の西側に位置し、端まで行けば塀がすぐ隣にある。
塀にはボールが学校を飛び出さないよう防球ネットが張られているので、それを伝って下に降りる予定だ。
しかし……
「もう少しなんだが……」
クイッ クイッ
屋根の端に立ち、バランスを崩さないように慎重に手を伸ばす。
だが、その手は緑色の網を掴む事はなく、空を切るばかりだった。
面倒な事に、体育館とネットの間が少し開いていて僅かに手が届かなかったのだ。
隙間がある事は知っていたが、記憶していたよりも距離があった。
仕方ない。
少し危険だが、ジャンプして掴むしかないな。
少しでも軽量化するために背負っていたリュックを地面に落とす。
手を離してからほんの僅かなタイムラグの後、地面にぶつかる音が聞こえた。
さて、やるか。
足と指先のストレッチを終え、一メートル程度後ろへ下がった所で一気に走り出す。そして跳躍!
大地から身体が離れ、空を飛んだのは一瞬。次の瞬間にはネットを掴んでいた。
荒い縄が指に食い込んで痛いが、そんな事は些細な問題だ。
四センチ程度の網目に十本の指を差し入れ、慎重に降りる。
三十秒程掛けて地面に到着した俺は、再度辺りを見渡す。
ジャンプ前にも確認したとはいえ、屋根の下は死角となっていてあまり見えなかった。
リュックの落下音で反応しなかったのでゾンビがいないのは把握していたが……
――血。
死角だった屋根の下。つまり体育館の壁の方を見ると、そこには黒く変色した血溜まりと、頭部が大きく陥没した男の死体があった。
遠目から観察すると、死体は最初に校内に侵入したゾンビと服装が酷似していた。
よく見ると頭部だけではなく、腕や足がへし折れており、両足に至ってはほとんど原型をとどめていないほどに潰されていた。
これは間違いなく人間がつけた損傷だ。
おそらくは金属バットか何かで行われたものだろうが、例えゾンビだとしてもここまで容赦なく、執拗に人だったモノを殴れるだろうか?
……一般人にはまず無理だろう。その人物にある種の素質を感じる。
そこで俺は死体の近くで血が付着した足跡を見つけた。靴の形状的にゾンビのものでは無かった。
足跡は体育館裏手の小さなドアまで続いていた。
このドアは確か、体育館内奥の倉庫と繋がっていたはずだ。
鍵が開いているか確認するが、案の定閉まっていた。ここが開いていれば帰りが楽だったんだが……
気を取り直し、俺はリュックを回収して体育倉庫の前に行く。
大きな音を立てないよう、ゆっくりと扉を開けて中に入る。埃と倉庫独特の臭いがする。
倉庫は二階建てになっており、一階がスポーツ道具。二階は基本的に生徒は立ち入り禁止とされていた。食料は二階にあるのだろう。
俺は万が一、倉庫内にゾンビがいた場合に備えて少々細工をした後、階段を上がる。
立ち入り禁止の鎖を跨ぎ、二階のドアを開けるとそこには思っていた通り、大量の段ボールが積まれていた。
適当な箱を開封すると中にはカレーライスや羊羹、個包装されたチョコ菓子等々、多種多様な食べ物が入っていた。
思わずほくそ笑んでしまう。俺だって現代人だ。乾パン以外が食べられる状況なら喜んでそっちを選ぶ。
とりあえず、一箱。
これさえ持って帰ればこの状況を変えられる。
帰りは面倒だが、一階に置いてある梯子を使ってまた屋根に登らなければならない。
俺は出来るだけ軽そうな箱を選んで担ぎ、一階に降りて梯子を――
ヴヴァァァ……
すぐ近くでゾンビの呻き声が聞こえ、俺は即座に箱を落とし警戒する。
振り返ると扉のすぐ前にゾンビがいた。
ヤツは俺に喰らい付こうと一直線に開きっぱなしの扉から入ろうとする。
万事休す。
俺は戸締りをしなかった事が原因で喰い殺され……
なんて事は当然なく
ゾンビは確かに俺目指し進もうとするが、一向に扉の中に入る事ができなかった。
その理由は、地面から一メートル程、腹部の辺りの高さで扉に張られたビニール紐が行く手を阻んでいたからだ。
これが先程の細工の正体。ゾンビの知性の欠如と一直線に突っ込んでくる習性を利用して、超簡易的な防壁を作製した。これなら屈むだけで抜ける事ができ、倉庫内外から襲われても即座に逃走が可能となっている。
それにしてもビニール紐がかなり役にたつな。
軽量な材質なのに十分な強度があり、なおかつコンパクト。
本来はリュックに常備していない物だったけど、偶然登校前に買っておいて良かった。
体育館に戻ったら必ずメモを取っておこう。
ヴヴァァァ……
先程から無為無策にこちらに襲い掛かろうと腹に紐を食い込ませるだけのゾンビ。
倉庫には窓が無く、唯一の脱出口はヤツが塞いでいる。
“例えゾンビだとしてもここまで容赦なく、執拗に人だったモノを殴れるだろうか?”
先程見た、頭部を破壊されたゾンビ。
定説通りなら、脳を潰せば死者をもう一度殺せるはずだ。
俺はゾンビに背を向け、倉庫の中を探索する。
すると一番奥側、隅の方に立て掛けられた金属バットを見つけた。
バットは所々錆びていて、持ち手の下には掠れた文字で『野球部』の文字が書かれていた。
“……一般人にはまず無理だろう。その人物にある種の素質を感じる。”
持ち上げてみると、興奮からか想像よりも少し軽く感じた。
振り返りゾンビを見やる。
よくよく見ると、このゾンビは原沢先生だった。正直好きでも嫌いでもない先生だったが、ゾンビの姿になってからは色々な事を教わった。
先生の目の前に立つ。後ほんの数センチも近づけば彼の手が届く所まで。
そして今、俺は先生から最期の教えを学ぼうとしていた。
人は他者の命を奪う事を躊躇する性質がある。それは生まれてから今日まで教え込まれてきた宗教、倫理、道徳、正義の記憶。
世界は、それらを無視する事は自身の死よりも恐ろしいという事だと誤認させる教育を最優先に行ってきた。
それは奪い合うのではなく、取引が原則の現代社会を形成する上で、最も重要なセーフティー。
バットを大げさな程に掲げる。
だが、現代社会という大前提が崩壊して、奪い合う世界に逆行したら?
セーフティーは枷に変わり、それらを最初から持ち合わせていない様なクズ共が地上をのさばるばかりだ。
生き残るためには――
「先生、授業をありがとうございました」
俺は強く握りしめたバットを全身全霊の力を込め、先生の頭目掛けて全力で振り下ろした――!
※1.執筆時に「私立の学校は食料備蓄の義務がない」という資料を見たのですが、URLを紛失してしまいました。探しましたが見つけられず……
記憶違いの可能性もあるので、あくまで「この物語の世界では」という事で




