東京物語
喫茶『カサブランカ』―――――
柱から机、イス、食器の柄に至るまでウォールナット調で統一された店内。窓から差し込む陽の光。
アンティークなタイプライター、柱時計、古びた地球儀、蓄音機。良く分からない英語の分厚い本。
レジ裏で老眼鏡をかけ英字新聞を読んでいる小柄な男性は、この店のマスターだ。伸びた白髪を、大雑把に撫でつけている。
カランカラン・・
古びたドアベルが乾いた音を立て、一組の男女が入ってくる。
「いらっしゃい」
「こんにちは。マスター、アイスコーヒーを二つ」
「アイスコーヒーね」
高校生くらいの少年と、彼より少し年上の社会人と思しき女性。
少年は着崩したオーバーサイズの制服にハイカットのスニーカー。"デビュー"したてなのだろう、顔にあどけなさを残している。
女性の方はうなじの空いた真っ白なシャツに原色の鮮やかなイエローのスカート。少し茶色い髪を片方にまとめ流している。
落ち着いた所作表情は、その整った顔つきよりもう少しだけ大人びた雰囲気を放っていた。
二人はいつも決まって、奥の角の席に座る。
そして決まってすぐそばの小さな映画館でリバイバル上映される、昔の映画について話すのだ――――
「いやさァ。俺だって映画、見てる方だからさァ。別に寝たりはしないよ?最後まで起きてたけどさァ」
「はは………でも要するに、つまらなかったんでしょ?」
「尾道から上京してきた爺さん婆さんが、東京で暮らす子供達を訪ねて上京するけど邪険に扱われ、あげく帰郷後に婆さんがあっけなく死んじゃう話。あらすじなんてコレが全てだろ。『東京物語』ってのは」
「うん………確かにね」
「俺さ、嫌いなんだよね。『昔の有名な監督の映画』ってだけで、過大に評価する風潮。
それ好きって言ったら映画通ぶれるのと、モノクロ映画っていうノスタルジーでいい映画な様な気がしているだけだろって」
「うん……まぁ、そういう映画もあるよね。私もいくつか思い当たる映画、あるかなぁ」
「例えば?」
「……………『ティファニーで朝食を』」
「知らない……見た事ないや」
「主演はオードリーヘップバーン。彼女、とんでもなくキレイよ。今の時代その辺歩いてても、皆振り返ると思う」
「オードリーって、何かひょうきんな響きだよね」
「えっ!? ………そうかなぁ……?」
少年は画面の割れた古い機種のスマホを取り出し、親指を滑らせる。オードリーヘップバーンを検索しているのだろう。
「へぇ………うん、確かに綺麗だわ。今度、この人の出てる映画見てみるよ」
「『ローマの休日』なんてイイかも」
「うん、分かった。そのうち見るよ」
女性は笑って答える。
「はは、見ないな。コレは」
「見るって」
「いいよ、どっちでも。映画なんて強迫観念で見るものじゃないし」
「お待たせ」
そこに、マスターが右手にホットコーヒーのポットを持ってやってくる。左手に持った盆の上には、砂糖と氷が入ったカップが二つ。
興味深い事に、この店のアイスコーヒーは必ず砂糖が入ってくる。少年は初めの頃、子ども扱いされているのではと勘繰ったものだったが、これがこの店の流儀なのだそうだ。
マスターがカップを二人の前に置いてコーヒーを注ぐと、氷がパキパキと子気味良い音を立て、亀裂をブラウンに染めてゆく。
「ありがとうございます」
「ごゆっくり」
「で……『東京物語』だけど。実は、私これで三度目なの。それくらい、すごく好き」
「えぇ!? マジで?」
「うん……なんていうかね、優しさに溢れている感じがして」
「どこがよ?!? 爺さん婆さんの娘なんか、すごい意地悪だぜ?
自分の両親がはるばる東京に出てきたのに、面倒も見ないで熱海に追いやったりさァ」
「"志げ"さん?」
「そんな名前だっけ? とにかく息子や娘は三人もいたのに、最後まで優しいのは"紀子"だけ。
"紀子"なんて、爺さん婆さんの戦死した息子の奥さんでしょ? 要は他人じゃん」
「でもその"紀子"さんが、言うでしょう? 家族ってのは、そういうものなんだって」
「………?」
「あの映画。色んな人の繋がり方を描いていると思う。上京する老夫婦を一見邪険そうにする子供達は、自分達の仕事や家庭が忙しくて、中々両親に構う事が出来ない」
「だろー?」
「でも、それは仲が悪いからじゃないのよ。それを上京した老夫婦も分かっているから、不満なんか感じていない。それどころか、幸せそうに帰っていくわ。」
「でも……」
「子供達は忙しくて両親との時間を中々作れないけど、『早く帰ってほしい』とも決して言わない。"本人たちのいない所でも"ね。そして母親が死ぬと分かった時には、子供みたいに涙を流す。家族って、きっとそういうものなのよ」
「うーん……」
「一方で、最後まで優しかった血縁のない紀子さんは、自分がずっと未亡人のまま年を重ねていく事への不安を最後に吐露する。戦死した夫の事を考えない日もあると。彼女は彼女で血の繋がりのない義父母に尽くす事で、自分が『死んだ夫を未だに愛す悲劇のヒロイン』であろうしたのよ、きっと」
「なんか……悲しい生き方だな」
「そうね………だから、そんな心境を"紀子さん"は映画の最後でお爺さんに、泣きながら懺悔する。
でも彼はそれを赦して、お婆さんの形見の時計を彼女にあげる」
「………」
「ストーリー自体は単純な話だけどね。親への、子への、夫への愛を言葉にはしないけれど、それでも愛に溢れた映画。でも、誰一人それを言葉にはしない。だから……名作なんじゃないかしら」
「………なぁ、次って、いつだっけ?」
「え?」
「『東京物語』だよ!次の上映時間!」
「えっ………30分後だから、もうすぐだけど……」
「もう一回見れば、また少しは理解できるだろうからさァ。そうすりゃ………もうちょっと、対等に話せるだろ?」
そう言うと、少年は500円玉をテーブルに置く。
「あ、俺の分のお代テーブル置いといたんで」
そして、少年は騒がしく出て行ってしまった。映画館はすぐ近くだが、次の上映まであと3分。
きっと彼はチケット売り場のおっとりしたおばさんに"話が通じず"、ヤキモキするのだろう。
そんな少年の姿を想像して、女は堪える様な笑みを浮かべる。
「マスター、お会計を」
「ふふ、お若いですね」
「えぇ。理解できなかったから、もう一度『東京物語』を見るんだって、先に出ちゃって。彼、昔から妙に真っすぐで……おかしくなっちゃう」
「いいえ……お嬢さんの事ですよ」
「!」
女は少し頬を赤らめ、視線を反らしながらお金を渡す。
「また、いらしてください」
「えぇ……また来ますよ。これからも、ずっと」
女はそう言って会釈をすると、小走りで店を出て行った。彼女も、映画館へ行くのだろう。
マスターはその様子を見届けると、嬉しそうな笑みを浮かべてキセルを噛んだ。
『これからも、ずっと』
彼女がわずかに意志を込めたその言葉の語気に、その日の彼はまだ気づく事はできなかった―――――