スタンド・バイ・ミー
喫茶『カサブランカ』―――――
柱から机、イス、食器の柄に至るまでウォールナット調で統一された店内。窓から差し込む陽の光。
アンティークなタイプライター、柱時計、古びた地球儀、蓄音機。良く分からない英語の分厚い本。
レジ裏で老眼鏡をかけ英字新聞を読んでいる小柄な男性は、この店のマスターだ。伸びた白髪を、大雑把に撫でつけている。
カランカラン・・
古びたドアベルが乾いた音を立て、一組の男女が入ってきた。
「いらっしゃい」
「こんにちは。マスター、アイスコーヒーを二つ」
「アイスコーヒーね」
高校生くらいの少年と、彼より少し年上の社会人と思しき女性。
少年は着崩したオーバーサイズの制服にパーカー、ハイカットのスニーカー。"デビュー"したてなのだろう、顔にあどけなさを残している。
女性の方はうなじの空いたリネンの白シャツに、左右で生地を切り替えたロングスカート、ヒールの高い黒のショートブーツ。艶やかな黒髪を後ろで束ね、前髪は切り揃えている。
落ち着いた所作表情は、その整った顔つきよりもう少しだけ大人びた雰囲気を放っていた。
二人はいつも決まって、奥の角の席に座る。
そして決まってすぐそばの小さな映画館でリバイバル上映される、昔の映画について話すのだ――――
「いやぁ……色々思う所はあるよね、あの映画。色々有りすぎてまとまんないや」
「観たのは、今日が初めて?」
「うん」
「私ね、実はもう3回目」
「そんなに!?」
「うーんでも私、ある映画なんて18回見たわ」
「なんだソレ………なんて映画?」
「オペラ座の怪人」
「ミュージカル映画だっけ?」
「そう。冒頭シーンなんて、長い映画史でも5本の指に入ると思う」
「18回も見たなら、その映画が一番好きなの?」
「勿論好きな映画の一つだけれど」
女は、少し嬉しそうに首を振る。
「一番好きな映画はね、私は逆に見れないかな……なんだか、勿体なくて」
「はは、減るもんじゃないし」
「ふふ……そうね。減るもんじゃないのにね」
そう言って彼女は笑う。屈託のないその笑顔が、少年は好きだった。
「じゃあその、一番好きな映画は?」
「お待たせ」
そこに、マスターが右手にホットコーヒーのポットを持ってやってくる。左手に持った盆の上には、砂糖と氷が入った透明なカップが二つ。
興味深い事に、この店のアイスコーヒーは必ず砂糖が入ってくる。少年は初めの頃、子ども扱いされているのではと勘繰ったものだったが、これがこの店の流儀なのだそうだ。
マスターがカップを二人の前に置いてコーヒーを注ぐと、氷がパキパキと子気味良い音を立て、亀裂をブラウンに染めてゆく。
「ありがとうございます」
「ごゆっくり」
女はアイスコーヒーの入った透明なカップに少し口をつけると、少し肩をすくめてみせる。
「話が反れちゃった。折角だから、今日は『スタンド・バイ・ミー』の話をしよう?」
「あぁ………それもそうだね」
少年もコーヒーを一口飲み、続ける。
「『少年4人が線路を歩くだけの映画。何が面白いの?』…………なんて言うつもりはないよ」
「おっ、いいねぇ~」
女はそう言って、嬉しそうに両手で頬杖をつき、少しだけ身を乗り出す。
「小さな世界の話に思えるけどさ、あれは街を出た事も無かった少年達が、初めて街を出て人の生死を目の当たりにする、オトナへの一歩を踏み出す映画だと思うんだよね。彼らの一生懸命な感じに、自分が12.3歳の頃に経験した……」
「あるいは経験してなくても」
「そうそう、経験の有無に関わらず、ある種の青春へのノスタルジーを感じられる映画なんだよ」
女は、満足そうな笑みを浮かべて、少年に手を伸ばす。
「えっ……?」
「握手、しよう?」
少年が言われるがままに手を伸ばすと、女は少年の手をそっと握る。思っていたよりも柔らかくて繊細な手から、彼女のぬくもりが伝わってくる。
「あっ……あの、何で急に握手……」
彼女とは何度も一緒に映画を見ていたが、手を握ったのは初めてだった。
「いや、気が合うなと思ったら、嬉しくてつい」
「・・・・」
「嫌だった?」
少年はその質問には答えず、話を先に進める。どう答えても、声が裏返る未来が見えたからだ。
「でもね、俺、これでも映画は見てる方だからさ。ちょっと"うがった"見方をしちゃうんだよね」
「うんうん」
女は『来た来た……』とほくそ笑みながら、ちゃんと聞こうと椅子に座り直す。
「なんかさ、ガキ大将のクリスは主人公のゴーディが"好き"なんじゃないか……とか」
「おぉっ!」
「スクールカースト的な側面も気になった。4人は学校では、それぞれどんな立ち位置なんだろう……中学校に入った時、彼らがすれ違った時、変わらずに声を掛け合えるのか……とかね」
「うんうん……」
「まぁ俺も高校生ともなるとさ、色々経験してるワケで。そうした側面が気になって、物語を純粋に楽しめなかった……って感じかな」
「………私ね。少年同士の恋愛って、好きなんだ」
「……!?」
「少女同士でもいいし、勿論少年少女でもいい。セックスを知らない時の恋愛感情ってさ、どこまで友情でどこからが恋愛なのか曖昧で、儚くて、素敵だと思わない?」
「えっ、あ……うーん……」
少年は、女があけすけもなく『セックス』という言葉を使った事に驚き、同時に内容が頭に入らなくなっていた。
「スクールカーストの話は本編でも語られてたよね。中学に入ったら会わなくなったって。
でも彼等は旅の途中、荷物を誰か一人に押し付けたりせず、見張りもちゃんと交代でしていた。
あの瞬間、彼等はまぎれもなく友達だった。それが、家庭環境やカーストといったツマラナイ事で、長くは続かなかったとしても」
「………」
「映画の中ですら、あの一瞬でしか成しえなかった物語なんだよ、きっと。
だから……私達はあの映画に刹那的な儚さやノスタルジーを感じるの」
「うーん……もう一回見たら、変わるのかなぁ……」
「もう一回見なよ。きっと、また見方が変わる。私も、いつかはもう一回見たい」
「………」
少年は、アイスコーヒーをぐいと飲み干し、ほんの少しの勇気を出して言う。
「じゃあ、さ。見に行こうよ。これからもう一回」
「うーん……今はまだ、いいかな」
「えぇ!?」
「だって…………何か、勿体なくて」
そう言って、彼女は申し訳なさそうに笑う。
「……減るもんじゃ、ないのに?」
不服そうに聞き返す少年だったが、本当は納得していた。これからの人生色々な事を経験して、今より少しだけ大人になった時。『もう一回』は、その時の方が良いのだ。
「フフ……減るもんじゃないのにね」
きっとこの映画は彼女にとって『本当に好きな映画』の一つなのだろう。