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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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少女と十三人の従者たち

異端者と十三人の従者たち

作者: 甘いぞ甘えび

 クレア・テアナトというのは、十三の魔物と一度に契約した稀代の魔術師の名前だ。

 元々テアナト一族は魔力が高く、多くの優秀な魔術師を輩出した名門の一族だ。特に魔物の使役に長けており、幼い頃より魔物との契約を行うのがテアナト一族の常識といえる。

 そんなテアナト一族の中でもクレアは魔術センスのない、出来損ないの子供だった。母親も父親もテアナト一族の血を引く純粋なテアナト一族だったのにも関わらず不出来な子に、両親は早々にクレアを見放した。

 逆に見放されたことで、クレアは一族の規則や常識に縛られることなくのびのびと自由に育った。一般人と大差ない扱いを受けたクレアは、家族の住む家を出てすぐに術師ではなく一般職に就き、働き始めた。

 テアナト一族は幼少の頃より魔物と交流し、その生涯を魔術に捧げるが故に、その寿命が短い。長く生きた者でも最長で六十年弱。その寿命を平均すれば約四十数年がいいところだ。

 クレアがテアナト一族では成人と認められる十三を過ぎた年、元来不安定だった世界に戦争が勃発した。

 十から働きに出ていたクレアは徴兵こそはされなかったものの、己の意思に反して戦争に参加する羽目になった。

 戦争勃発当時、主な戦地は大陸でも北東側。テアナト一族の土地は西部に位置し、それも魔物の住まう山のふもとに位置していた為、戦争が始まってもすぐには戦火が飛び火することはなかった。しかし、争いを始めた二国は己の力を感情を留めることを知らず、隣国から隣国へとその被害を広めていった。そして、歴史上最大の世界戦争へと発展する。

 戦が大陸全土を覆うようになると、各々が自分の味方以外すべてを虐殺することに熱を上げ、その結果その土地が穢れ、使い物にならなくなったとしても構わないというスタイルで戦い始めた。

 呪術によって穢された土地は大陸の二割を占め、殺戮による被害者は大よそ大陸に住まう人口の三割を超えた。武器を持たぬ人々さえも武器を取り、大人も子供も、男も女もなく、すべての人々に平等に戦火が降りかかった。人の営みは崩され、人々は他国の兵によってではなく、飢餓や疫病からも多くの者が死に絶えた。

 クレアはテアナト一族でありながら魔術師として未熟で、彼の住まう土地が戦火に晒されたとき、彼は自分の無力さをこれほどまでに実感したことはなかった。弱くても何かしら魔物と契約をしていれさえすれば、家を出てから世話になった人々の多くが無為に殺されるのを指を咥えて見ていなくても済んだだろう。

 しかし実際は、彼は何もすることが出来なかった。人々が傷つき、無力にも死んでいく様を涙して見ている他に、彼には何の手段も持ってはいなかった。

 数年とはいえ暮らした土地を焼かれたクレアは、結局実家へ、テアナト一族の土地へ戻ることにした。両親に見放されたとはいえ、彼の二親であることには変わりはない。多くの人が反撃も出来ないままに殺されていく姿を見ていた彼も、人並みに家族のことが心配になった。

 しかし、多くの戦場をまたぎ、たどり着いたその先は、彼の記憶にある土地ではなくなっていた。

 焼け落ちた枝葉。焼かれた土地。一族の者たちに残されたのは、たった一軒の館だけだった。生き残った一族がその館に立て篭もり、どんな腕利きの術師でも崩せないほどの遮蔽を張ってそこへ閉じこもっていた。

 館の周囲には多くの攻撃を加えた跡と、数国の見張りが隠れている様子が窺えた。流石にこの遮蔽を破ることは出来ないと判断したのか、今度は兵糧攻めにしようという魂胆だったのだろう。

 クレアがその惨状を目の当たりにしたときには既に一族がその館に引き篭もって数週間が過ぎていた。生き残った一族の者がどれほどいるかにもよるが、このままでは一族は死に絶えてしまうだろうということが容易に想像がついた。

 そのことは見張りを立てていた国々にも予想がついていたのだろう。クレアが影ながら様子を窺っていた数日の間にも、見張りの数は一つ二つと消えていっていた。

 そしてある日、クレアはテアナト一族の最強を誇る遮蔽が崩される現場を目撃する。

 ただでさえ弱ってきていたテアナト一族を攻撃したのは、戦争の始端部に位置する国に所属する遊撃部隊だった。残虐な殺し方を好み、彼らが通った後にはただ死臭と血の匂いが充満しているという。

 遮蔽が揺らいでいる様子に気付いたクレアが館へと駆けつけたとき、彼の目の前でその遮蔽が崩御した。部隊の指揮を執っていた男がクレアの存在に気付く前に、クレアは館へと駆け込んでいた。


 ほんの少し前までは遮蔽に閉ざされていたテアナト一族に残された唯一のその館内は、ひんやりとして肌寒かった。外は魔術の発動による熱気によって暖かかっただけに、そのギャップにクレアは身を震わせた。

 静かな館内にひと気はなく、既に全員が死んでいる可能性を想像し、クレアは震える己の身体を抱きしめるようにして前へと進む。音もなく、明かりもない。一切の生活臭のしないそこは、朽ちていないのが不思議なほど静かな館だった。

「……!」

 彼が一番最初に出会ったのは、階段で息絶えた男の姿だった。いつ死んだのかは分からなかったが、その死体は朽ちることなくその場にあり、パッと見では死んでいるのか倒れているのかの判断をつけることは出来ないほどの状態だった。しかし、その男は確かに息をしていなかった。

 仰向けで倒れていた所為でそれが誰なのか判断することは出来なかったが、両親ではないことだけを確認し、クレアは先を急ぐ。

 この外部からの干渉と共に時間さえも遮ってしまったかのような空間は、安全だと言われたとしても決して長いしたいとは思えなかった。

 一階の目に付くところをすべて見て周り、発見したのは最初の男を含めて七人。その全員が最初の男と同じように息を止め、その場にばったりと倒れていた。まるで突然心臓がその動きを止めたかのような形で倒れる彼らの姿は、どこか異様だった。

 二階に上がり、一つ一つ客室の扉を開き始めてから、クレアには段々とこの異様な屋敷の状態がどんな状態かを理解し始めていた。

 こんな不自然な状況を説明できるのは唯一つ。これがすべて魔術による影響だということだ。

 不自然な格好で倒れこんでいた人々は確かに息を止めていた。しかし、実際は死んでいない可能性。魔術によって仮死状態に置かれているのではないかという予測。

 しかし、そう結論付けるにはあと一つ足りないものがあった。館中を走り回るクレアは、探している矛先を、生き残りを探すことから、術者を探すことへと変更した。こんな術は今までに聞いたことも見たこともなかった。しかし、これが魔の影響であることは、魔術に対して未熟なクレアでも分かることだった。

「あぁ厭だ、クレアじゃないか」

 主賓の寝室に当たる扉を開いた直後、掠れてはいるものの、清んだ高い声が聞こえた。その声はまるで老人のような掠れ具合だったが、その声は少女のように美しい。聞く者を魅了するが、同時に嫌悪感を抱かせる声色だった。

「厭だ厭だ。テアナトの血にかけた術が利かないなんて、この子は本当に一族の子供かしら」

 声に戦慄を覚えながら声のする方へと進んでいくと、そこには巨大な天蓋つきのベッドがあり、そしてその真ん中に一人の女性が横たわっていた。

「こんなところをあの人に見られなくて良かったわ。わたしが間違いを犯したと思われる」

 くすくすと幼い少女のような笑い声が女性の喉から漏れる。美しい声なのに、その笑い声はクレアの全身を粟立たせる。同時に、その言葉の内容がクレアの思考を止めた。

「あぁ、厭だ。こっちにこないでおくれ。顔を見せないでくれ」

 天蓋にかかる薄手の布地をそっと手で持ち上げると、そのベッドに横たわる女性の姿が視界に開ける。女性は長いウェーブした毛髪をいくつも積み上げた枕に広げ、座るようにして横になっている。胸から下は見事な刺繍のされている上掛けによって隠され、両腕は上掛けの上から身体の上に重ねるようにして置かれている。

「厭だ……、いやだ……。……見たくない……」

 ぶつぶつと呟く声は限りなく小さかったが、不思議と耳に届く。

 女性の目は虚ろでどこを見ているというわけでもなくどこか一点を見つめ、口はぶつぶつと呟く声とほんの少しずれてパクパクと動いているように見える。

 どう考えても彼女は正常ではない。顔色は真っ白を通り越して水色に近い上に、見えている腕は骨のように細い。しかし顔だけはこけていることもなくふっくらとしているそのギャップが奇妙で恐ろしい。

「あっちへお行き。あんたはもうわたしの子じゃないわ」

 その言葉がとどめだった。クレアの全身から血の気が失せる。

 どこか見覚えのある面影に、声。それはクレアの記憶の中でも最下層に根付く、両親の記憶。

 そこに横たわる異常な姿の女性はクレアの母親だ。彼女自身の言葉からもそれは証明されている。

「一体……、何が……」

 無意識に声が漏れ、ハッとなって母親の様子を見遣るが、彼女はぶつぶつと呟き続けており、クレアの声など聞こえていないようだ。クレアはそっと息を吐き、部屋を出ようとベッドに背を向け、ビクッと身体を震わせてその動きを止めた。

 主賓ベッドを見守るような位置に一つぽつんと椅子が置かれていた。その椅子はクレアがここへ入ってきたときはただそこにあるだけで、使用された形跡はなかった。だが、今その椅子には、一人の男が座っていた。

 黒よりも暗い色をした両の瞳に、血のような暗い赤の髪。薄暗く冷たい部屋の中で違和感なくそこに存在している。整っている顔に表情はなく、ただその漆黒の瞳がじっとクレアに向けられている。

「誰……?」

 男の迫力に気圧されながらも問いかける。しかし、男はじっと微動だにせずクレアを見たまま動こうともしない。ここまで動かないとなると死んでいるのではないかという疑いを抱くほどだ。だが、この男はクレアがここへ来たときには確かに存在していなかった。つまりは彼が動けるという証拠に他ならないはずだ。

「……違う。あれはわたしの子じゃないわ……」

 静かな部屋に母親の声が響く。少女の声と老人の声が重なったその声は、決して耳に慣れるということがないようだ。どんなに小さな声でも、どんなにくだらない内容を繰り返していようとも、それが確実に耳に届く。

「……あなたはだれ。わたしは知らない。テアナトの血が流れているのかい?」

 同じことを繰り返していたはずの声が唐突に会話するような調子に戻り、クレアは驚いてベッドを振り返る。母親は先ほどと同じようにベッドに横になりながらぶつぶつと呟いている。先ほどと何か変わったところがないかと探すが、何も見つからない。

「訊いておいて答えない気かい? あなたはだれ」

 背筋をゾッと寒気が走る。母親の言葉は明らかに彼女の意志を持って発せられたものではない。この声は、後ろに座る男の言葉だ。どういうことなのか咄嗟に理解できなくとも、それに何らかの魔術的要素が絡んでいることは想像するまでもなかった。

「わたしはクレア……、クレア・テアナト。一体、どうなってるんだ……?」

「クレア、クレア、クレア……。あぁ、そう。厭だ……、わたしの子じゃない……。見捨てられた子ね」

 母親の呟く声と、男の言葉とか混じって何がなんだか分からない。しかし、理由を説明できないが、どっちが何を言っているのか冷静に判断することが出来る。

「あぁ、どうしてここに戻って来たの。どうして入れたの。どうして術が利かないの。どうして……、生きているの」

 まだ男や母親の異常な状態に対して恐怖心を拭いきれていなかったが、クレアは半ば自棄気味に男の方を振り返って数歩そちらへ近付く。男は微動だにせずじっとクレアを見つめているままだ。

「母の……、彼女の口を使うのは止めろ。わたしはここにいる。時間がない。事情を話せ」

 恐怖に震える身体に鞭打ってわざと強めの口調で出る。すると、男の頭がピクリと動き、続いてその顔がゆっくりと動かされる。ギョロリと目玉が蠢き、ゆっくりと首が傾げられる。

「何故時間がないと言う」

 まるで慣れない言語を使用しているかのように、単調で平坦な声。その声は男とも女とも似つかない、声というよりは音という表現の似合う声だった。

「遮蔽は破られた。すぐにでも兵が侵入してくる」

「ここには入れない。ここはあの世界じゃない」

「……どういう意味だ?」

 男の顔が機械的にぐるりと回り、寝室に唯一ある大きな窓へと向けられる。その窓には厚手の遮光カーテンがかけられており、ここからでは外を見ることは出来ない。こうして閉め切っているから暗いし、寒いのだと気付くも、それだけが原因ではないことは言われずとも理解していた。

「魔に属する生き物か、テアナトの血を引く者以外は入れない空間だ」

「え……?」

 反射的に窓に駆け寄り、カーテンを開け放つ。だが、そこから見えるはずの焼かれた大地や魔の森の姿はなかった。そこにはただ、背後にいる謎の男の両の瞳のような漆黒の闇が広がるばかり。

「ここは静の世界であり止の世界。彼女が一族の存命を要求した」

 たとえ本人が魔物と契約をしたことがなくとも、クレアには魔物がどういう生き物かということは詳細に知っていた。両親と共に過ごしたときも、一族は皆大小異なるものの、魔物と契約を交わしていたからだ。

 しかし、この闇の瞳に血の髪の男は見たことがなかった。母親が契約していた魔物がどんな姿をしていたのか詳細に覚えていないものの、こんな危険な魔物ではなかったはずだ。

 現存する生物の姿に完全擬態することが出来る魔物は、高位の魔物だ。一族の中には高位の魔物と契約している者も少なからず存在していた。しかし、高位の魔物はハイリスクハイリターンだ。平和な時期には不要なほど強力であるが故に、こうした異常事態にならない限りは進んで契約をしようとする者はいない。

「代償は。……彼女は代償に何を差し出した?」

 魔物に大きな仕事をやらせようとすると、契約している魔物でも契約主に代償を求めるケースが多い。魔物自身の命に関わる場合や、契約主以外にもその影響が及ぶ場合などがそのパターンに当てはまり、その代償は魔物や、ケースによって異なる。些細なものですむ場合もあるが、大抵は契約主の命と同等のものを要求される。

 男はまたしても機械的に、窓へ向けていた顔を、今度はベッドの方へと向ける。

「あの人が死んで、わたしに残されたものは何一つない。一族を守ると約束して。その代償に、わたしを喰らって構わないから」

 凛とすんだ少女の声。まるで録音されていた音声を再生したかのようだ。クレアは両腕の粟立った肌をそっと摩る。その鳥肌は声だけじゃなく、その声の語る内容による影響も大きい。

「彼女を……、喰らったのか……?」

「いいや。喰らっている」

「え……?」

 魔物は人間やそのほかの生命体を「喰らう」ことは一般的によく知られている。しかし、その方法がどういうものかというのはあまり知られていない。その方法を見た者は等しく「喰われ」てしまっているのだから、伝聞しないのは当然だ。

 しかし、一言で「喰らう」といっても幾つか種類が存在する。一つは魔力を吸収するという意味。そしてもう一つは文字通り、物理的に食べるという意味。そして、その両方をする場合も存在する。

 クレアは緊張した顔でじっと母親の横たわるベッドを見遣り、ゆっくりとつばを飲み込んでから一歩一歩ゆっくりとそのベッドへと近付いた。

「厭だ、来ないで頂戴……。一族を守る……。厭だ、厭だ……」

 母親の年齢はもうそろそろ亡くなってもおかしくない年頃だ。しかし、そこに横たわる彼女の青白い顔はまだ二十代にも見えなくないほど若々しい。だが髪の毛に埋もれている首筋は筋張って骨っぽく、まるで皮が骨に張り付いているだけのような有様だ。

「だれ……。来ないで頂戴。あぁ、あなた……。わたしを許して……」

 魔力を喰われたとしたら、その者はその者としての意思を持つことは出来ない。魔物にとって魔力が存在そのものであると同じとはいかないが、人間にとっても魔力はなくてはならないものだ。力がなくなると、生気が失せ、意志はなくなり、自ら身体を動かすことも出来なくなる。つまり、永遠に眠り続ける状態になるのだ。

 しかし魔力は放っておけば多少は自然に回復する。眠り続け、運が良ければ魔力が自然回復して目を覚ますこともある。しかし、すべての魔力を喰われた人間で、今まで生還した者はただ一人も存在しないのが現状だ。

「やめて……。厭だ……」

 うわ言とはいえ喋っている状況から鑑み、彼女の魔力をすべて喰われたということではないようだ。しかし、男は現在進行形で喰っていると言った。つまり、徐々にじわじわと魔力を喰われていっていると考えるのが妥当だろう。

 ベッドの真横まで来た時点で、クレアは自分の考えが非常に甘かったことを思い知らされる。母親のこんな異常な姿など見たくないと思って目を伏せていたのが仇となった。

「……う、そ……。まさか……」

 ベッドの上掛けの上に置かれた枯れ木のような彼女の手はピクリとも動かずそこにあった。そしてその顔も、上掛けからでた部分に置かれて動かない。しかし、その上掛けの下が近付かないとそうであると分からない程度にごそごそと蠢いている。

 クレアはあまりの恐怖に震える歯を、奥歯を噛み締めて押し留める。

 腐敗臭も然ることながら死臭はしないし、暗くて冷えているという以外にこの館に異常な点は見受けられない。ただ、あまりにも生活臭がなさ過ぎるのが変と言えば変だろう。

「っ……、ッ!」

 大きなベッドに掛けられている、大きな上掛けに手をかけ、無意識の内に息を止めてそれを捲り上げる。母親はぶつぶつと呟き続けていたが、クレアが何をしようとしているのかには全く気付いていない様子だ。というより、見えていないという表現がこの場合は当てはまる。

「ヒッ!」

 捲りあげた一瞬だけ視界に飛び込んできた光景に驚愕し、クレアは上掛けを落として後ろによろめく。自然と両目に涙が浮かび、足から力が抜けて地面に力なくへたり込む。しかし、無意識の内にベッドから離れようとしたのか、ずりずりと身体を引きずる。

 ベッドの上掛けは元通りに被さってしまっていたが、その中を見たクレアの脳裏には、その光景がしっかりと焼きついて離れない。

 横たわる母親の姿。腕と顔は外に出されていたままと変化はない。しかし、その隠された部分には、なにか蠢くものによって真っ黒に覆われていた。上掛けの上からでも分かるほど活発に蠢くそれらは、一瞬だけしか見えなくともそれが何と言えるほど単純明快な姿をしていた。

「厭……、ぁ、厭だ……」

 生きたまま、魔力と同時に喰われる肉体。それも、無数に蠢く蟲によって身体の様々な場所を少しづつ喰われていく。それがどれほどの苦痛で、どれほどの恐怖をその者に与えるのか想像を絶する。

「代償は確かに受け取った。わたしは一族を守ると約束した」

 彼女も、一族を助ける代価がこんなにも残忍でおぞましいことだと知っていれば、こんなことをこの男に頼んだりはしなかったかも知れない。しかし、彼女は己を犠牲にして一族を守ることを選んだ。

「一族を人間から隔離した。そうすれば安全だ」

 設定された台詞をなんの感情も込めずにただ読み上げるかのような声。それを声として、話しとして耳が認識するようにするには、聞こうという意志を持ってしなくては、単なる音として処理されかねない。

 クレアはショック状態にありながらも自分を保とうと必死になる。気付けば涙がこぼれ、頬を伝い落ちていた。滴る涙が服を濡らしている。

「遮蔽は……、どうして遮蔽なんかを……、張ってたんだ?」

「わたしはやっていない。わたしは切り離した」

 相変わらず力の抜けた足には力を入れることは出来なかったが、会話をすることで思考が正常に起動し始める。ちらりとしか見なかったあの残酷な光景はチラチラと脳裏を過ぎるが、別のことを考えることによってなんとかそれを思い出さないように努める。

「他の術者がいるのか?」

 その問いに答えはなかった。男もその問いの答えを知らないのかもしれないし、答える気がないだけなのかも知れない。そのどっちにしろ、クレアには回答がないという答えとして認識される。

「一族は、テアナトの血を引く者たちは全員ここにいるんだな?」

「あなただけが例外だ。外にいた者もすべて連れてきたはずなのに」

 感情の伴わない声ではなんと言おうとも無責任に聞こえる。クレアは自分の足をポンと叩いてから、手や身体全体を支えにして何とか立ち上がる。立ち上がれはしたものの、ふらつく身体を安定させる。

「一族で生きているのは何人?」

「六十七人。内、生命を維持できるだけの魔力を所持している者は三十六人」

 小規模とはいえ国ほどに栄えたテアナト一族が、まさかそこまで死に絶えているとは予想外の出来事だった。武力に長けている国であっても数週間で滅ぶ現在においてはそれほど不思議ではなかったが、テアナト一族は皆が皆魔物を使役する。滅亡寸前まで追いやれれるだろうと誰が予想しただろうか。

「例外は除く」

 忘れていたかのように付け足された言葉に、クレアは男を振り返った。男はその漆黒の双眸にクレアだけを写してそこに佇んでいる。視界にクレアを留めておくためだけに首が動くが、それ以外はピクリとも動かない。

「ではこの館に今何人の魔物がいる?」

 答えを待ってじっと男を見遣ったが、男は沈黙を保ったままで何も答えない。知らないわけはないだろうから、この沈黙は教える気がないという意志の表れだろう。クレアは毒づきたくなる気持ちを抑えてかぶりを振った。

 今この状況でクレアがしなくてはならないのは、このままこの館と一族を放置して一人生き延びるか、それとも一族を助けるか。後者を選んだ場合、それは恐らく母親と同じ結末を辿る結果となるだろう。もしそうならなかったとしても、無事でいられるとは考えにくい。

 そもそも魔術を使うことに慣れていないクレアが、ここまで魔物の影響をモロに受けている空間内で無事でいられることすら奇跡に近い。母親もこの男も、クレアを例外だと呼んだ。本来なら、テアナトの血を引く者は仮死状態になり、この館内で倒れていなくてはいけないはずなのだ。それが通常だ。

 しかし、クレアは自分の意志を持って歩き回り、考えることが出来る。しかも、母親がこの男と契約してこの術を使い始めてどれくらいの時が流れたのか知らないが、術の発動中ずっとだ。一度もこの術の影響を受けた覚えはない。

 ふと生きながらにして喰われ続けている自分の母親の姿を見遣る。彼女は一族の存続を願ってこの男にその運命を託した。しかし、そこで疑問が生まれる。

 彼女が魔力も肉体も完璧に喰われ、その存在がなくなってしまった場合、彼女がこの男と交わした契約はどうなるのだろうか。

 通常に考えれば無効となるだろう。契約の主従のどちらが欠けても契約は無効となるのが常だし、それに例外はない。そのことを彼女も分かっていただろうが、こうして喰われるという選択肢を受け入れたことになる。ということは、彼女が死んだら、テアナト一族も同じようにして死に絶えるということだ。

 本当にそれでいいのだろうか。彼女が死ぬ前に契約を誰かが引き継げば一族は生き続けることができるだろう。しかし、この館にはテアナト一族しかおらず、しかも彼らは動くことも出来ず仮死状態になって伏している。これでは皆死ぬのを黙って待っているだけだ。というよりは、もう死んでいるのと大差はない。

 生きてこの館に入れて、魔物との契約を更新することの出来る者がいない限り、テアナト一族は滅びる。

 まるで唐突に啓示のように真実がクレアの思考を埋め尽くす。まさか自分が、魔術との相性が悪いが為に両親に見放され、テアナト一族と離反して生きてきた自分が、まさか一族を救う唯一の人物だとは。

 このまま逃げてしまったとしても、誰も責める者はいない。元はと言えば、こんな諸刃の刃的な方法を選んだ母親が悪いのだ。滅び去ってしまったとしても仕方ないとしか言いようのない契約を高位の魔物と結び、己が喰われることを了承した彼女の責任だ。

 しかし、クレアはそのすべてを見知ってしまった今、すべての責任を放り出して一人逃げ出してしまうことだけは出来なかった。一族に決していい思い出があるわけではなかったが、それでも同じ血の繋がった人々の命だ。みすみす見捨てていいものではない。

「厭だ……。あぁ、ぁ……」

 彼女の無意識下の声が響く。既に正気ではない彼女に今尚痛覚と意識があるのか。それだけが気がかりだった。だが彼女に痛覚が残っていて苦しんでいたとしても、今彼女をその苦しみから解放する術をクレアは持たなかった。

 恐怖とショックで流れた涙の後を拭い、クレアは寝室の出入り口の扉へと向かう。その顔には未だに恐怖が残っていたものの、決意によって彩られ、先ほどまでの頼りない雰囲気はなかった。

「何をする気だ」

 男の平坦な音のような声がクレアの背中にかかる。闇しかない男の目にもクレアの決意の色が映ったのか、その声はどこか警戒しているようにも取れなくはない。

「名前を教えてくれないか。わたしは彼女の契約の代替になるつもりだ」

 男が黙る。その沈黙は興味が失せたというものでも、答える気がないというものとも違い、どちらかと言えば驚いているかのような雰囲気を帯びていた。感情のない男がここまで如実に語るのは初めてだ。

「代償は」

「まだ考え中。……というか、もうちょっと待って。今はまだ代替しないから」

 魔の属性のものと相性の悪い自分なんかで果たして母親の契約を代替できるのか。その疑問は思ったところで決して口に出すことは出来なかった。男は魔物だ。魔物からしてみれば相手が契約に値するかどうかなどパッと見で分かることだ。その魔物自身が拒否しなかったということは、クレアには契約の価値があるという評価を得たと思っても間違いはないだろう。

「ではクレア・テアナト。契約を代替するという約束をするか」

 魔物の言う「約束」は契約と同じ拘束を持つ。しかし、約束には代償を求めない場合がある。「契約」は必ず代償が必須となるのに対し、どちらかといえば「約束」は奉仕に近い意味合いだ。

「する」

「ルーブ・スーラ。約束を違えるな」

「分かってる」

 力強く頷き、クレアは寝室を出た。

 クレアはここへは何も考えずにやって来た。両親や一族がこの戦争の中で無事でいるかどうかを確認する為だけだったはずが、なにやら大規模な事態に巻き込まれた。

 戦争が始まってからこの方、戦ったと言えるほどの戦績を上げたわけでもなく、ただ混乱して逃げ惑っていた。クレアには迫り来る敵を撃退するだけの術を使いこなすことは出来なかったし、武術が得意なわけでもなかった。ただ出来るのは、周囲の人々と同じように形だけでも武器を取り、防御する姿勢を保ちながら逃げることだけだった。

 テアナト一族の血を引く者はどんなに魔属のものと相性が悪くとも、最後まで切り離すことなど不可能なのだ。それにしても、一族の最後の綱がこんなにも情けない人物で良いものなのかという疑問は未だ拭えない。クレアが今計画し、実行しているこの作戦に敗れた場合、クレア自身は元より、一族は誰一人として助かることはないだろう。クレアに圧し掛かる責任は大きい。

 迷うことなくたどり着いたその部屋は、こんな状況になる以前から薄暗くひんやりとした部屋、書斎だった。テアナト一族の家には必ずといっていいほど魔術関連書籍を集めた書斎が存在する。そこには新旧、地域を問わず魔属関連の書籍が集められ、一族の者なら誰でも使用することが出来る。

 クレアも両親の元へいた時は自分が魔術との相性が悪いことを悩み、どうすればその相性を改善することができるのかと足げよく書斎へと通ったものだった。

 久しぶりに訪れた書斎は、クレアの記憶にあるそのままの状態で残されていた。クレアは大きく息を吸い込んでから、迷うことなく書斎の中央にある本棚へと向かう。中央の本棚には魔物との契約関連の書籍が集められ、一番使用される頻度が高い。

 クレアが魔物との契約を試みたのは五年以上前のことで、文献なしでもやれることはやれるだろうが、今回の状況下では何一つミスは許されない。詳細に渡って再確認をしておく必要があるだろう。

「あぁ、ちょっとそこのあなた」

「えッ?」

 高位魔物との契約に関する書籍を手に取った瞬間に声をかけられ、予想外の出現に驚き、その本を取り落としそうになる。かろうじて落とさずにすんだものの、本を両手で掲げるような形になりながら、クレアはゆっくりと後ろを振り返る。

「そんな警戒しなくてもいいですよ。別に危害を加える気はありませんから」

 いつの間にそこにいたのか、本棚の間に一人の男が佇んでいた。黒い絹糸のような美しい髪に、褐色の肌。白い長衣を纏ったその姿はどう考えても異人だ。しかし、この館内にいて自由に動けまわれるということは、この男の正体はハッキリしている。魔物だ。

「聞きたいことがあるんですが、いいですか?」

「な……、何を……?」

 こんなにも完璧に人間に擬態し、かつ違和感のない魔物は今まで見たことがなかった。人間だといわれれば信じるだろうし、それを否定する根拠も見当たらない。相手の実力を想像し、クレアは緊張に身体を強張らせた。

「まぁそう固くならずに。ただわたしが知りたいのは、あなたがここへどうやって入ってきたのかということと、何をするつもりなのか、ということです」

 にこにこと愛想よく笑われたところでどう対処してよいものか分からず、クレアは本を胸に抱きこむようにして持ち直し、体勢をしっかりと男のほうへ身体を向けるように正す。

「あなたはテアナト一族でしょう? でも、異例だ」

 再三指摘されているお陰で自分が異端であるということがプラス要素だったのかマイナス要素だったのか分からなくなってくる。幼い頃はマイナスな要素であると思っていたのに、今では一族を救えるのは自分が異端だからだということに他ならない。クレアが異質であることを良かったと思えるのは、恐らくことがすべて無事に終えた後だろう。

「そんなに純粋な魔力を持っていながら、何故誰とも契約していないんですか? テアナト一族は魔物と契約するのが決まりでしょう?」

「え……?」

 先ほどのルーブと比べて驚くほどぺらぺら喋る魔物だ。だが、それよりもクレアには男が喋った内容に思考を中断される。

「まさか気付いていなかったとか言うわけではないでしょう?」

 驚愕に目を見開くクレアの反応を受けて、疑わしげな表情で尋ねる異人の男。しかし、クレアはその問いを否定することが出来ず、呆然と男を見つめる。彼には男が言ったことの意味をまだ正確に理解できていなかった。

「人間のような魔力の使い方ではあなたの力は使いこなすことは出来ないでしょう。あなたの持っている力は我々……、魔物に近い純粋なもののようですから」

「まさか……」

 言われている内容のあまりの唐突さに驚いたクレアの指にぐっと力が込められ、その指は持っていた本に爪を立てる。

「今までよく下等の者に襲われませんでしたね。そんな純度の高い魔力を持っていればあなたを喰らおうとする魔物は多かったでしょうに」

 異人の姿をした男は自分でそこまで言い、ふと納得した様子で頷く。

「そうか。だからここへ来れたんですね。では本当にあなたの力は始祖に近いんでしょう」

「ど……、な、何が……」

 よく喋るこの男に訊きたいことは山のようにあるのに、動揺と驚愕によってまともに言葉を出すことが出来ない。クレアは混乱している頭を落ち着かせようと軽くかぶりを振った。

「一族を救う気ですか?」

 しんとした書斎に男の声が響き渡る。男はクレアが今正にしようとしていたことをズバリそのまま言い当てた。だが、クレアはそれを否定も肯定もせず、現状を飲み込もうと頭をフル回転させていた。そうでもしないと突然の展開に脳内の処理が追いつかない。

 コツコツと足音が響き、男がゆっくりとした、しかし大幅な足取りでクレアのほうへと近付いてくる。一瞬警戒したものの、クレアごときが警戒したところでこの男には露ほどの変化もないことを思い出す。

「あなたに出来ますか?」

 ギリギリで手の届かないところで立ち止まる。男の顔は近くで見ても奇妙なほどに整っており、その漆黒の髪はつやつやと輝いている。髪をすべて片側に寄せるというスタイルはどこか違和感があったが、その異人の姿にはぴったりと当てはまっていた。

「今ここで一族のために動いている魔物はわたしを含めて十三。あぁ、一人は遮蔽が破られたと同時に自由の身になりましたね」

「十三……」

 母親の契約の代替をする覚悟は出来ていたクレアだったが、その他に一族の存続に関与している魔物が他に十二人もいるという事実にショックを隠しきれない。

 通常、普通の魔術師一人で魔物と同時に契約できるのは最大でも三人といわれている。それ以上契約することが出来たとしても、契約を維持できなくなってしまい、結局は魔物に喰われてしまう。その上、高位の魔物とは契約を重複するだけで命の危険に繋がるので、通常、高位の魔物との契約は一対一となる。

「確かにあなたの魔力は稀有だ。欲しがる者も多いでしょう。しかし、契約にはそれだけでは足りません」

 クレアの中にじわじわと絶望が広がる。ただでさえ魔術の訓練を触りしか受けていないのに、それ以上のことを要求されている現実。それも、熟練した術師でさえ成し遂げることは出来ないというほどの難問だ。それを誰の手助けもなしに成功させなくてはならないというプレッシャー。

「名は?」

 魔物との取引には名前が重要な要素を帯びる。名はその固体そのものをそこに存在させるための戒めであり、個の証明だ。大げさに言えば、名前がなければそれはそこに存在しないことになる。それだけ名は重要な立場を占める。そのため、魔物と名前の交換をする際は気をつけておかないと悪用される恐れもある。

「あなたの名前は?」

「ミシャ・ストー。気に入りました。あなたを手伝ってあげましょう」

 一般的な魔物に対する印象とは違い、ミシャは本当に人間のような調子で申し出る。それは約束でも契約でもなく、単なるボランティア、奉仕だ。クレアはミシャの言葉の裏に潜んでいる意味を探ろうと眉を寄せたが、それを受けてミシャはさも面白そうに笑んだ。

「他の者がいない今、一族の当主はあなたですよ」

「……それは違う。違う。わたしはただ、助けたいだけだ。……母を」

 まるで苦虫を噛み潰したかのような苦渋に満ちた顔で吐き出すように答えるクレア。彼は自分の本心をこうして口にすることによって、自分の迷っている部分に蹴りをつけたようだった。先ほどよりは幾分かすっきりとした表情でミシャを見遣った。

「所詮は人の子か。……しかし、そのくらいの方が身の丈に合っていますね。いいでしょう。名前は聞きませんよ」

「……何故、手伝うと?」

 その問いにミシャは答えず、一歩前に踏み出す。そして手を伸ばし、ビクッと反応したクレアの持つ本を掴む。逃げ切れなかったクレアは目を見開いてミシャを見遣り、恐る恐る本を持つ手を離した。

 ミシャはその本をぺらぺらとめくり、あるページを開くと、それをクレアにも見えるように差し出した。

「現状をお教えしましょう」

 魔物との契約の手引きの本のはずが、その開かれたページには何も書かれてはいなかった。真っ白なページをじっと見ていると、黒い点がまるで雫をこぼしたかのように中央に現れる。不思議と目を離せないでいると、その点から黒い細い線がつーっとひとりでに伸びていく。

「ここはある魔物が創造した隔離空間です。テアナトの血を引く者、そしてその契約者を引っ張ってきて閉じ込めています。今でこそ高位の魔物が十三人しか残っていませんが、閉鎖された当初は下等魔物を含め百近い魔物が存在していました」

 ページを移動する黒い線はそのまま右へ左へと動き回り、あっという間に館の見取り図を描いていく。その見取り図は詳細に書かれているものではなく、大まかにどこにどの程度の大きさの部屋があるかだけが表記されている。

「これだけの数になったのは、魔物の一人が下等種をすべて喰らったからです」

 黒い線が館の一階二階分の見取り図を書き終えると、今度はいつの間にか現れた赤い点が部屋の中へバツ印と共に名前を書き加えていく。その名はすべてテアナトの名前を冠していることから、一族の所在位置を記入しているのだろう。

「この印は、生きている人のみ?」

「そうです。残念ながら、死者の亡骸は喰われましたので。生きている者に関しては契約している魔物か、その関係者がそれぞれ保護しているはずです」

 書き込まれていく名前の中にいくつか知り合いの名前を見つけ、そっと安堵の息をつく。しかし同時に、幾人かの名前を見つけることが出来ず、クレアは無意識に眉を寄せた。

「丸がついている者はもう助からない者。そして下線が引かれている者は十三の魔物の契約主です」

 母親の名前に丸と下線が引かれる。分かりきっていたことだが、クレアの顔が悲しみに歪む。彼女のあの状態をこの目で見ておきながらも、心のどこかでは彼女が無事に助かるだろうと思っていた。しかし、現実はそこまで甘くはない。

「全員、意識はないんだな?」

「あなた以外は」

 にこにことした表情で喋るミシャははっきりいって胡散臭い。しかし、現状クレアにはミシャから与えられる情報以外に今現在の状況を把握する術はなく、彼の言を信じるほかになかった。

 それに加え、クレアは幼い頃より両親や一族の者と行動を共にしている魔物を見、暮らしてきた。そのため、魔物が嘘を吐くときは彼らにそうするだけに足る相当な理由がある場合のみに限られることを知っている。魔物にとって嘘は手段や方法ではなく、下手をすれば己の動きを制限する足枷となってしまうのだ。

「では……、すべての契約の代替をするしかないのか……」

 高位魔物の十三の契約。それを一人の身に一身に受けるというのは一体どんなことになるのか、想像もつかない。一度に十三の代替の術を発動した途端に死んでしまう可能性すらある。人間の身体はそれほど多くの契約に耐えられるほど丈夫には出来ていない。

「恐くないのですか?」

「えぇ?」

 真剣な顔をして見取り図を睨みつけていたところを意外そうに尋ねられ、クレアは反射的に眉を歪め、疑うような顔をして顔を上げる。しかし顔を上げたその先に整って美しい褐色の顔を見つけ、クレアの顔がしまったという表情を浮かべる。

「死ぬ確立の方が高いんですよ? それなのに、あなたは逃げることを考えていないように見えます。恐くないのですか?」

 クレアは真剣な表情を取り戻し、今度はしっかりとミシャに視線を合わせる。

「……恐いよ。恐くないわけないだろ。死にたくなんかない。でも、外へ出れば魔物よりも酷い人間が大勢いる。それに比べれば、魔物の方がわたしは信頼できる」

 キッパリと言い放つクレア。今度はミシャが驚く番だった。まさかこんなにビクビクと怯えていた人間が、はっきりとこんなことを言うとは思っても見なかったのだろう。しかし、クレアの言葉にも気持ちにも、偽りはなかった。

「本当にあなたは……、魅力的ですね」

 クスクスと愉快そうに笑んだミシャは、パタンと持っていた本を閉じたかと思うと、その本をそのまま本棚へと戻してしまう。まだ計画を練っている最中だったクレアは一瞬不満そうな表情を浮かべたものの、高位の魔物に反論する勇気もなくそのまま口を閉じる。

「手伝うと言ったからにはとことん手伝わせていただきます。大広間へ移動しましょう」

 大広間は普段あまり使用されないため、今の状態においても大広間には誰の名前も記入されていなかった。どちらかと言えば客室や食堂といったところに集中していたような印象がある。とはいえ、強制的に外部から引っ張られた者たちは廊下に倒れていたりしたのだから、どういうアルゴリズムで人が配置されているかなど分かりようがない。

「何が、あるんだ?」

「落とし穴です」

 それだけ答え、ミシャはさくさくと出口へ向かい歩き始める。一瞬躊躇したものの、クレアもそれに習う。

 ミシャは音を立てず優雅に薄暗く肌寒い廊下を歩いていく。薄手の長衣一枚という姿はあまりにも寒そうだが、本人は至って気にする様子もない。対するクレアは元住んでいた村の伝統工業品である織物の服を重ね着していたが、多くの戦場を通ってきたために襤褸になり、肌寒いのを我慢しているような状況だ。歩き方もどこかおどおどとしており、ミシャとは正反対だ。

「わたしの他に誰か魔物に会いましたか?」

「あ……、うん。母と、その魔物に」

 未だに思い返すだけでも胸を鷲掴みにされたかのようなショックが襲う。ベッドに横たわる彼女の姿と、それを見つめる闇の目。あんなに衝撃的な光景は、どんな残酷な戦争のシーンよりも鮮明にクレアの脳内に焼きついて離れない。

「一人だけ、ですか」

「あと、あなたに」

 前を行っているため顔は見えなかったが、クスクスという笑い声からミシャがさも楽しそうに笑んでいる様子が想像に難くない。それにしてもよく笑い、よく喋る魔物だ。そうと意識していなければ人間だと思い込んでしまうほどだ。

「無責任なことは言えませんが、大丈夫ですよ。あなたなら出来ます」

「な……、何故そうと……?」

 こんな魔術師としても中途半端でしかないクレアがこんな大それた計画に成功する理由を問いただそうとした直後にミシャが立ち止まり、クレアは尻切れに言葉を飲み込んだ。だが、言葉が消えたのはそれだけではない。

 ミシャの背中の向こうに大広間の扉が見える。しかし、そこが妙に暗く、そして何故か歪んで見える。まるで蜃気楼のようにも見えるその光景は、明らかに魔術の支配を受けているのが分かる。それだけに、通常の感性を持っている者なら誰しもが避けて通るだろう。

 一瞬扉の方から風が吹き抜けるような感覚がしたと思うと、全身の毛が逆立つ。足場が不安定な感覚がして、奥歯がカチカチと音を鳴らした。本能に語りかけるような恐怖に足が竦む。

「落ち着いて下さい。わたしがついています。大丈夫」

 動けずにカタカタと身体を震わせていると、本当に軽く、ふんわりとミシャに肩に触れられる。過剰反応するかと思いきや、不思議と温かな心地よい感覚がその手を伝わってくる。クレアがそっと息を吐き出すと、ミシャは手を離した。すると、先ほどまでの心臓を凍らせるかのような恐怖はなんだったのかと思うほどに取り払われていた。

「大広間には、この空間にいるほとんどの魔物がいます。中へ入ったら他の者もすべて集めますから、手っ取り早く契約を切り出して下さい」

 こんな急展開になるとは予想もしていなかったクレアは言葉を失って扉とミシャとを交互に見遣った。しかし、ニコニコとして喰えない黒髪の魔物からはどんな意志も読み取ることが出来ない。

 だが同時に、魔物との契約代替は避けられないことであり、後回しにしたところで成功の確率が大きく変動するわけでもない。それに、今は戦時中だ。たとえこの館が異空間に存在しているからといって、時間が無限にあるということでもない。すべてのことにけりがつくのは早ければ早いほどいい。

「落ち着いて、冷静にしていれば大丈夫です。一番良くないのが何か分かってますね? 自分を卑下にすることです」

 クレアが頷くと、ミシャは一歩前へ進む。どこか心配そうな様子でクレアを振り返るミシャに、クレアは覚悟を決めて頷き、今度は自分の意志で、正面にある大広間へと向かった。

 何メートルもないような短い距離だったのにも関わらず、ぼやけて見えるその空間内では、いやに長い時間が流れたようにも、一瞬の出来事であったかのようにも思える。最初のような心臓を掴まれるような恐怖はなかったものの、全身を誰かに見られているような感覚と、いたるところを締め付けるような圧迫感は健在だった。

 扉を開こうと手を伸ばすと、ふとそこに本来あるべき取っ手がないことに気がつく。外見は何の問題もない木製の観音開きの扉なのに、そこにはそれを開く為の道具が一切備え付けられていない。これではどうやって開けるのだろうと思案する。

 名案が思いつかずにとりあえず押せば開くだろうと扉に手を伸ばすと、その扉はまるで伸ばした手から逃げるかのようにすうっと内側へと開いていった。

「……!」

 扉が開かれた先は大広間だったが、いくつかクレアの記憶と違う点が見受けられた。しかし、それ以上に目立つのは、そこにいる人々の顔ぶれだった。

 双子のように似た外見の男が二人。そして茶髪の男に、黒に近い青緑の髪の男、そして目が痛くなるようなオレンジ色の髪の男。どれをとっても人間とは思えないほど顔の造作が整っている。彼らがそれぞれソファや椅子に座ったりしている様はまるで一枚の絵のように映る。

「誰かな?」

 ソファに半ば横になるように座っている茶髪の男が一番に口を開いた。クレアはその声にハッと我に返った様子でその男を直視する。しかし、その男は惜しみなく素肌を晒し、辛うじて下半身に布のかかっているだけという際どい格好に、クレアは目のやり場に困ってさり気無く視線を彷徨わせる。

「テアナトの者です。あなた方にご相談があります」

「はて……。テアナトの一族は皆眠りについていると思ったが、気の所為だったのかな?」

 濃い青緑のまるで海草のような髪をした男が意地悪をいうかのようにニヤニヤと笑みながら問いかける。クレアはキリッとした表情を保ったままでそちらに顔を向け、無礼にならない程度に慇懃にそれを肯定する。

「正真正銘、わたしはテアナト一族です。一族の者と契約をしているのなら、分かるでしょう?」

 青緑の髪の男はクレアの返答を気に入ったのか、クスリと笑んで彼の言葉を肯定する。

「そうさの。だが、一族の誰とも似つかぬ力を持っているようだ」

「清んでいて、透明だ」

 獅子の鬣のような髪をした男が感心した様子で呟く。男は腰掛けていた机から降りると、そのまま真っ直ぐクレアのほうへ近付いてくる。

 虚勢だけでそこに立って高位魔物と対峙しているクレアは、全身で威嚇するような姿の魔物に気軽に近寄られ、手にかいた汗を握った。

「美しい。何故今まで見つからなかったんだ?」

「誰と契約しているのだね、テアナト」

「誰とも」

 オレンジの髪の男がクレアへと手を伸ばそうとした瞬間、顔をしかめて手を引く。何が起きたのか分からなかったクレアはほんの少しだけ目を見開いてその男を見遣る。

「ストーとスーラだ。契約まではしていないが……」

「手はつけている。そういうことだな? ミシャ」

 獅子の髪の男のあとを継いで裸の男がニヤニヤと続ける。その言葉は明らかにクレアではなく、その背後にいる者に向けられていた。その言葉を受けてほぼ全員がクレアの背後へと注目する。

 今までそこに存在していなかったのが、名前を呼ばれることでそこに現れたかのように、ふっとミシャの姿がそこにあった。クレアにも分かっていないが、恐らく彼はクレアと共にこの部屋に入ってきていた。しかし、何らかの方法でその姿を消していたのだろう。

「そうですね。そうとも言うかも知れませんね」

 ミシャが発言した途端、露骨にクレアに触れようとしていた男がクレアとミシャから距離をとる。その顔にはどこか警戒した色を含み、クレアではなくミシャをじっと見ている。

「何を企んでるんだ? ここへ来るからには何かあるんだろう?」

「ええ。それにはまず、服を着ていただけませんか」

「問題ないだろう? 別にこれくらい」

「全員ここへ呼びますよ」

 双子のように似ている二人は無表情で先ほどから動かずに裸の男と同じソファに左右対称に座っている。その中央に横になるようにして座っている男は、だるそうにその上半身を起こした。彼はまるで寝起きの人間ように頭をかるく掻き、軽く手を振った。

 すると、瞬きする間に、惜しげもなく晒されていた素肌が布に覆われ、気がつけばきちんと服を着た姿でソファに座っていた。

「何をやらかす気だ? まさかとは思うが、ここを出る気か?」

 ミシャとはまた違った異国風の服に身を包んだその男は、疑うような口調で尋ねる。その分他の者たちが静かになっていた。雰囲気的に見て、この茶髪の男はミシャと同等程度の力を有するのだろう。となれば他の者は彼ら二人が喋っているときに口を挟むことなど出来ないだろう。

 ミシャは完璧に人間に擬態しているし、それは茶髪の男も同じだ。しかし、獅子のような髪の男や青緑の髪の男はどこか人間とは雰囲気が異なる。分かるものが見れば魔物だと気付かれるだろう。こうした点で彼らの実力の差が見えてくる。

「ええ。そのまさかです。そろそろ彼らも空腹に耐えかねてるのではないですか?」

 魔物には人間のように食事を摂るという概念はない。彼らの存在はすべて力の上に成り立っており、食物を摂ることでエネルギーに変換する人間とはその原理からして異なる。そのため、空腹という言葉は正確には魔物には当てはまらない。しかし、その意味するところは部外者のクレアにも理解することが出来た。

 ここにいる魔物は現状では十三名。しかし、元は百近い魔物が存在していたという。では九十近い魔物たちは一体どこへ消えてしまったのか。その答えは既にミシャが口にしていた。十三の魔物の内一人がそのほかの魔物を「喰らった」のだ。「空腹」とはそのあたりのことを比喩しているのだろう。

「さぁな。俺はここにいる奴ら以外のことは知らないんだ」

「こんなところに穴を掘って閉じこもって楽しいですか」

 力の差が絶対的な階級となる魔物社会において、表立って相手を非難できるのは、実力が上の者が下の者に対してのみだ。仮にそうでない場合は、その相手がよほど仲の良い場合か、あるいは馬鹿か死にたがりだけだ。階級の上の者の不況を買ったら最後、喰われてしまうのが目に見えているからだ。

「人間の相手をしなくてもいいのが久しぶりでね。邪魔をされたくないんだが」

「それはそれは。廃頽的な享楽に耽ることになんの意義が見出せるのかご教授頂きたいくらいですね」

 高位魔物同士の嫌味の応酬というものの真ん中に挟まれ、ものすごい居心地の悪さだ。しかし、彼らの周囲で沈黙を保っている魔物同様、クレアにもこの場における発言権は一切ない。

 だがしかし、クレアはこの応酬の嵐の中にいることによって、ある種の境地に達しつつあった。

「なんでもお前の言う通りになるという状況は気に食わない。何を企んでるのか吐け。言えば考えてやらなくはない」

「随分と偉そうな態度ですね。そんなこと言える立場ですか」

 タイミングを窺っていたクレアは、風が吹いたわけでもなく髪の毛がふわりと動く気配に驚き、ミシャを振り返る。しかし、ミシャの洋服はおろか、髪の毛一本も動いてはいない。キョロキョロと他の者の様子も窺うが、同様に動いている様子は見えない。目に見えない何かの影響を受けたのはどうやらクレアだけだったらしい。

 一体何なのかと怪しまれない程度に辺りを窺っていると、唐突に背後に人の気配が生まれる。

「ぇ……ッ?」

 驚く間もなく、首になにやら髪の毛のような糸のようなものが大量に巻きつき、腰に腕が回り、身体を抱きしめられるような形で背後に引っ張られる。いきなりのことで首が絞まり、息が詰まる。抵抗しようにも、抱き込まれてしまっていては何も出来ない。

「ちょっ……!」

「テアナトの匂いがする」

 耳元でくんくんと匂いを嗅ぐような音がして、クレアは反射的に首を竦める。しかし、首には白っぽい透明の大量の糸が巻きつき、竦めるにしても大した挙動にならない。

「ラレー! なにやってる!」

 茶髪の男が軽く怒った様子で怒鳴りつける。全員の注目がクレアとその背後の男に集まっていた。ミシャも少し怒った様子でこちらを見ている。

「テアナトは皆寝ている。これは何だ」

 背後から抱きこまれている所為で、後ろにいる人物がどんな姿をしているのか想像もつかなかったが、首に巻きついているそれが糸ではなく髪の毛ではないかという疑いが頭をもたげる。それにしても透明に近い白という髪の毛はクレアには見たことがなかった。

「異例ですよ。分かるでしょう? 彼は始祖に近い力を有しているんです」

「ルーブ・スーラの干渉を受けない? 欲しいな」

 首に巻きつく透明の糸がぐっときつく絞まる。会話の最中だと油断していたところにいきなりの攻撃に、クレアは一瞬息が止まって目を見開く。

「そいつを放せ、ラレー」

「人間の力などお前には必要ない。寄越せ」

 背後の男の言葉に、茶髪の男が怒った様子を保ったままでソファを立つ。

「消されたいか、ラレー・ケケ」

 脅しかけるように吐かれた台詞と共に、全身を舐めるような悪寒。毛髪が風もなくふわりと浮き上がり、鳥肌が立つ。それが魔力の余波であることをほぼ本能的に悟る。

「出来るか」

「出来ますよ。わたしならね」

 突然真後ろに身体を思いっきり引っ張られる。抱き込まれているとはいえ、その衝撃はあまりにも強く、胴体にまわされている腕が腹部に食い込み、首に巻きつく白髪は容赦なくクレアの首を絞めた。息が出来ず目と口を見開いてもがくも、ろくに動くこともままならない。

「ミシャ・ストー。お前もか」

「ええ。わたしはテアナト一族に奉仕する身ですからね。危害を加えようというのを黙って見てはいませんよ」

 気がつくとミシャからだいぶ距離をとったところに先ほどとなんら変わらない格好で立っていた。首を絞められている所為で思考が鈍くなってきているらしく、ぼんやりとしてしまってまともに物事を思考することが出来ない。

「放しなさい、ラレー・ケケ」

「……ちっ」

 ミシャの威圧するような声に諦めた様子で舌打ちをした背後の男は、パッといきなりクレアの身体から手を離す。その動きが出てきたときと同様にあまりにも急激だった所為で、クレアは変なリズムで呼吸をしながら前のめりに地面に倒れ込む。

「生意気だなぁ。ミシャの言うことは聞くってか」

 不満そうな態度も顕わに茶髪の男が言うのが聞こえたが、クレアはそれどころではなかった。

 軽くとはいえ絞められていた首が痛かったし、浅くなった呼吸を整える為に全身を使って息を吸い込む。このことによって無駄な緊張はほぐれたものの、今度は変な恐怖と警戒心が生まれてしまった。こうも唐突に攻撃にあうとは思いもしていなかったのだから仕方ないといえば仕方ないことなのだろうが、どうも納得がいかない。

「わたしには実績がありますから。ラレーの遮蔽を打ち砕いた実績が」

「あーそーですか。ハイハイ。で? 何を企んでるんだか知らんが、全員呼ぶなら呼べばいい。ここもお前が入ってきたときから開放状態になってるからな」

 なんとか呼吸を元のリズムへと戻しながら立ち上がったクレアは、そっと自分の首を絞めた張本人を振り返る。

 クレアの首に巻きついていたのはやはり男の頭髪だった。遠目から見れば白髪に見えるが、その色が透明に近いことは目の前に見せられただけあってクレア自身が一番よく分かっていることだ。

 しかし、それだけじゃなかった。白髪の次に目をひくのが、男の両目を覆うような大判の布。それでは前が見えないだろうが、それが目的のように顔半分を黒い布が覆っている。

 両目が見えないのだろうかと考えていると、くるりとその顔がこちらを向く。両目があるわけではないのに、目が合う。ドキッとして動けないでいると、男の髪の毛がふわりと重力に反して動く。

「ラレー。何してるんですか」

「いいや」

 ミシャの声に反応して、浮かんでいた髪の毛がバサリと肩に凭れ落ちる。自分の意志で髪の毛を手足のように動かすその様は正に魔物といった様子だ。クレアは無意識に男から少し距離をとる。

「ええと、ここにいないのは……、ブルート、トレッジ、シプネ、キーヌ、ペヅ、ルーブ」

 ミシャの声に続くように、シャンッと鈴の鳴るような音が響く。何の音かとクレアが振り返ると、ミシャがその声に続くようにして手を叩いていた。普通ならパンッと音がするだろうが、何故か鈴の鳴る音が響く。

「嫌な音だ」

 ボソッと心から嫌がっているような声が聞こえ、クレアが振り返ると、そこには壮齢の白髪と金髪の混じった男が腕を組んで立っていた。一瞬前にはそこには誰もいなかったはずなのに、突如としてそこに存在していた。

 相手が魔物だと分かっていながらも、その姿があまりにも人間に類似しているために、驚愕を隠し切れずにいると、男がふとした様子でクレアを振り返る。目が合い、そこで初めて男の片目が白く濁って潰れていることに気がつく。

「何の用だ、ミシャ」

 隻眼の男を充分観察する間を持たず、今度はミシャの方から明るいが面倒くさそうな響きの感じられる声が聞こえてくる。慌てて振り返ると、そこには見事な金髪を惜しげもなく垂らした男がそこにいた。

 男はだるそうに髪をかき上げながら部屋の中をぐるりと見回す。そしてそこに集まった顔ぶれを認識すると、更にだるそうにため息をつく。

「ルーブ。食事は終わったのか?」

 ざわっと無数の羽虫がそこに現れたかのような不快な音が聞こえ、同時に背筋がゾッとして反射的に両腕を抱きしめる。振り返ると、そこに虚ろな顔をしたルーブが佇んでいた。その目は部屋のどこも見てはいなく、ただ自分を呼ぶ声に反応してそちらへと機械的に顔を向ける。

「まだだ」

「あっそ。随分ゆっくりなことで」

 彼らの言う「食事」というものがどういう行為で、一体どういうものを「食べて」いるのかを見て知っているクレアは、なるべく表情に出さないように、己の悲しみを精一杯飲み込んだ。

 しかし、ルーブの言葉をプラスにとれば、食事がまだクレアの母親は生きているということになる。それにしたって彼女が死ぬのも時間の問題に過ぎない。今現在生きていたとしても、彼女が正気である可能性はないに等しい。

 シャンッと最後に強く音が鳴り響き、クレアはハッと我に返ってミシャを見遣る。気がつけば数人姿が増えていて、ザッと数を数えたところこれで十三人全員が揃っている。

 完璧に人間に擬態できる高位の魔物が十三人。それも、皆一様に顔の造形が整っていて、それぞれが個性ある姿をしている。彼らがこうして一同に会するという場面は、普通に暮らしていれば決して見ることなどないだろう。彼らを人間ではないと知っているクレアにとってはそれは恐怖の対象としか映らなかったが、知らない者からしてみれば、美形ばかり集まって、何の集まりかと疑いたくなるだろう。

「さて、ミシャ。何を始めるつもりだ?」

 ミシャを除く十二人を代表したように茶髪の男が絶妙なタイミングで切り出した。ミシャはその言葉を待っていたかのような調子でクレアを振り返る。完全に部外者、傍観者のような気分でいたクレアは、ミシャの黒い双眸に見つめられ、反射的に何事かと眉を寄せ、ハッと我に返る。

「彼がテアナトの異例であり、当主であることは分かりますね?」

 かなり端折った説明だ。クレアは内心で色々と文句を並べ立てたものの、こんな重圧の空間の中では軽口など叩けるはずもなく、大人しく沈黙を保つ。しかし、彼の心を代弁したかのように金髪の男が眉を寄せる。

「当主であるという認識は間違っている。現当主はまだ眠っている」

「残念ながら、現当主はもう目覚めることはないでしょう。彼女はルーブが喰らってるんですから」

「えっ?」

 ミシャの言葉にクレアの知らない真実が含まれていることに驚き、口からほぼ無意識に声がこぼれた。

 ルーブに喰われているのはクレアの母親だ。しかし、母親は当主ではない。当主は一族始祖の直系、所謂本家という立場の者の内、一番魔力の強い者が就任する。少なくとも、クレアが一族の中で暮らしていたときはそうなっていたはずだ。

 母親は確かに本家の出ではあるが、分家の父親と結婚したことで籍は分家に移っている。母親よりも力の強い者は何人も存在していたし、彼女よりも適任は大勢いたはずだ。なのに、何故今更彼女が当主になるというのだろうか。

 その理由が思いつかず、クレアは間抜けにも疑問をべったりと貼り付けた顔でミシャを見遣った。

「あなたが知っている当主は戦で殺されました。臨時に当主に任命されたのがあなたの母親ですよ」

 人間同士での争いで、一族の者は一体何人殺されたのか。生き残った者の数を数えたほうが早いというほど人数の減った状況を鑑み、多くの者が犠牲となったのだろう。その犠牲者の多くが、力の弱い者だったに違いない。

 強靭な力を持った者たちは命を賭して高位の魔物と契約し、前進も後進もない今のこの状況を作り出したのだろう。部外者の立場からこの状況を見ると、不毛であると言わざるを得ないが、当事者としては最善を尽くしたことになるのだろう。それほどまでに、状況は切羽詰っていた。

「死にかけの当主の息子。それが当主であると判断して何が悪いのですか?」

 得意満面で問い返すミシャに、金髪の男はどうにでもしろと言わんばかりの態度で首を振り、面倒くさそうにため息を吐く。その態度から同意に達したものと判断したのか、ミシャは反応を楽しむかのようにぐるりとそこに集まった面々を見回す。

「ということですので、ご用件をどうぞ」

 丸投げ状態で話しの棒を振られたクレアは、全員の注目を一身に浴び、背中や掌に緊張で嫌な汗を流し始める。

 掌をきつく握りこんでみるも、緊張で小刻みに震える身体を押さえることは出来ない。ゴクリと口内に溜まっていた生唾を飲み下し、ままよという気持ちで伏せていた顔を上げる。

「……わ、わたしは一族を守りたい。そのためにはあなた方の協力が必要です」

 黒、赤、青、緑と様々な色の瞳がクレアへと向いていたが、その視線は厳しかったり、楽しげであったりと実に様々だ。しかし、そのどれもがクレアがどんな力を持ち、どんな人物なのかを見定めようとしている。失敗は許されない、重大な瞬間だ。

「……わたしは、あなた方十三人の契約をすべて代替する。同時に、わたしの血と同じ血が流れる者すべてを守ることを要請する」

 キッパリと言い放つと、息が詰まるほどの沈黙がその場を支配した。キーンと耳の奥で甲高い音が聞こえるほどの沈黙。まるでその場にはクレアのみが存在し、そのほかには何もないかのような錯覚を覚えるほどだ。生き物はその場にある限り微細でも音を発する。それすらも消えるというのは、そこに存在していないと言っても過言ではない。

 ゴクリと唾を飲み込むと、その音だけがいやに大きく耳につく。

「十三の契約の代替に、我々の束縛か? それは流石に、人の身には余るな」

 ニヤニヤと楽しそうに笑みながら口火を切ったのは、茶髪の男だった。いつの間にやら再びソファに座ったらしく、その隣りには金髪の男がだるそうに座っている。その金髪を指で絡めて遊びながら、男は好奇心旺盛な視線をクレアへと投げかける。

「我に契約はない」

 両目の隠された男が低い声で断りを入れる。それを受けて、遮蔽を張っていた魔物が遮蔽を破られたことで契約が切れたと言っていたことを思い出す。てっきりミシャか、尊大な態度の茶髪の男の契約が切れているものと思っていたクレアは、ついうっかり意外そうな顔を浮かべる。

「代価は? 一族を存続させるその代償に、お前は何を寄越すんだ?」

 壁に両腕を組んで立っている壮齢の男が無愛想に尋ねる。その疑問は誰しもが考えたことだろうし、クレアの悩みの種でもあった。しかし、クレアは気丈に平然を装ってちらりとだけそちらへと視線を流す。

「人間の命を」

 何人かの口から嘲りが、そして何人かの口からは感嘆がこぼれた。そのどれもがまさかクレアがそんなことを言い出すとは思っても見ていなかったという色を含んでいた。狙い通りの反応に、クレアは内心でひとつ荷をおろした。

「どういうことだ?」

「まさかお前一人の命を十三で割れとでもいうつもりか?」

 数人が疑いかかるように言葉を連ねる。しかしその反応も予測済みだったクレアは、本人が思ったよりも冷静に彼らを一瞥する。

「わたしは一族が平和に暮らせればそれでいい。そのために障害となり得る者はすべて殺しても構わない」

 おどおどとしたクレアからでは想像もつかないほど冷徹な声だった。その声、その台詞に魅入られたように笑みを浮かべる者が数人。その中にはミシャも含まれる。

「今は戦争中だ。こうして話しているたった今も、一族の財産を荒らす者が蔓延っていることだろう。それらを一掃する。そのための手段は選ばない」

 くすくすと小さく笑みが聞こえ、クレアはそちらを振り返る。そこには壮齢の男が組んだ腕を解し、口元に手を当て、さも嬉しそうに笑っていた。その笑みは決して可愛らしいものではなかったが、本人は本気で事態を楽しんでいる。

「いいだろう。わたしはその条件に乗る」

 ギロリと片方だけの薄い灰色の瞳がクレアを捉える。同時に一歩二歩と歩み出る。あと一歩でクレアに手が届くところまで来ると、スッと腕をクレアに向かって平行に伸ばし、爪の長い人差し指がクレアの右肩辺りを示す。

「契約を移行する。わたしの名はシプネ・クッス。条件を反した時は、お前の御霊を喰らってやる。覚えておけ」

 それだけ言い残し、シプネはふっとその姿を消した。クレアは指を指されていた右肩がいやに熱を持っていることに気がついて手を当てるが、怪我をした様子はない。恐らくそれが契約の印なのだろうが、服の下、直接身体に何か印を残されていては見ることも叶わず、そのまま気にしないことに決め込む。

「先を越されてしまいましたね。もちろんわたしも契約移行します。ミシャ・ストー。あなたのために尽くしましょう」

 シャンッと音がしたと思うと、今度は左の手の甲がぼんやりと熱を持ち、じっと見つめているとそこになにやら文様が刻まれる。タトゥのようだが、実際に肌に書き込まれているという風には見えない、不思議な絵柄だった。

 幼少の頃より魔術との相性が悪いと言われ続け、今までテアナト一族として生きてきて、ただの一度も魔物と契約を結んだことのなかったクレアが突然にして、しかも高位の魔物と契約を結ぶとなると、彼の身体には自身が想像もし得ないほどの負担が重圧となって圧し掛かってくる。

 クレアは視界がぼやけ、頭がフラフラしてくるのを、高位の魔物を目の前にしているという緊張で何とか堪える。しかし、誰かが何かを言ってもその言葉まではっきりと認識できない。なんとか口を動かし、その返答をするものの、それが本当に正しい返答となっていたのかも怪しかったが、今のこの状態のクレアにはそれ以上のことをすることは叶わなかった。

 まるで拷問のような朦朧とした時間が過ぎ、気が付くとミシャの褐色の手が差し伸べられていた。億劫にそれを見上げたクレアは、ミシャの整いすぎて恐いほどの美貌をその視界に納める前に、前のめりに倒れていった。


 クレアが十三の魔物と契約を果たした後、混沌の一言に尽きていた戦争が一時的にしろ、ぴたりと止んだ。それにはクレアと十三の魔物が関係していた。

 稀代の魔術師とその契約魔物たちは戦争を冗長させる者を皆殺しにするという乱暴な手段によってその場を収め、世界に平穏を与えた。

 彼らは多くの者を殺すことによって他者の反抗心を削ぎ、その上に君臨することによって一時的にしろ世界を治めた。人々は戦争がなくなったことに安堵したものの、魔物に魂を売ったクレアに対して好意的にはならず、クレアもそれに相対するように悪でい続けた。

 その本当の事実関係を知る者は存在せず、クレアは己が絶対悪となることで世界の平和を取り戻し、テアナト一族は変わらずそこに根付き、人々の畏怖の対象となった。

 その以後、テアナト一族は十三の高位魔物によって守られ、彼らに敵対するものを容赦なく排除する。

 かくして、クレア・テアナトの名前は受け継がれ続けることとなった。


〈了〉

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