表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/26

琵琶・三条吉永





玄上げんじょうを持って参れ」


 後伏見院が言うと、侍従は大切そうに琵琶を持って来た。玉は謹んでそれを受け取る。松の前に床几が用意され、玉はそこへ座って調律を整えた。そして調律が済むと、玉は静かに目を閉じた。


 その瞬間、庭園は一切の音という音、時間という時間が消失し、静寂な宇宙へと変貌した。


「ボロン」


 琵琶の深い音色が広がった。後伏見院や賀茂基久、太田時連ときつらは目を閉じ琵琶の音に聞き入る。光厳こうごん上皇や足利尊氏、佐々木高氏、その周囲に控える従者は放心したように動かなかった。


 ある時は激しく、ある時は悲しげに、玉の琵琶は心の奥底にまで響く何かを物語った。ある者は、先の戦で死んだ仲間を思い出した。ある者は子供のころを思い出した。心に響くさざ波が、聞く人の骨の髄まで押し寄せた。


 皆、時間を忘れ、呼吸を忘れ、全てを忘れて、只々琵琶に聴き入った。


 玉が琵琶を置いた時、涙を流していない者は、誰一人としていなかった。尊氏と高氏は、我に返ると、慌てて袖で涙を拭いた。


 光厳上皇は、「玉は今出川いまでがわ兼季かねすえのようじゃ……」と言った。今出川兼季とは、光厳上皇の琵琶の師である。


 後伏見院は「ううっ…、さすがじゃ、さすが玉じゃ……」と言った。そして思い出したように、「皆、ここに玄上があるということは秘密じゃぞ」と言った。琵琶の名器、玄上は宮中の至宝である。




 その後、歌会の参加者は皆で茶を飲んだが、ふと話題が途切れた時、基久は千種ちぐさ忠顕ただあきの名を口にした。


「最近、たいそう派手に暮らしているようですのぉ」


 すると尊氏が「ええ、賀茂様も何かお困りではありませんか」と言った。基久は「やはり鎮守府将軍である。何か耳にしているらしい」と思い、今まであったことを、かいつまんで話した。


「大覚寺統の腰巾着め。呆れ果てて何も言えん」後伏見院が不快そうに言った。

「かっかっかっ、一応、帝の功臣でござる」と高氏。


「はっ、無礼講と称し、謀議ですら裸の男女で乱遊しながらする帝の、島流しに同行しただけの、博奕ばくえき好きの淫乱ではないか」

「父上! もし誰かに聞かれたら……」と光厳上皇。


「今、我らは手出し出来ませんが、大丈夫でしょう」と尊氏は言った。

「と、言いますと……」と基久。


「もうすぐ、万里小路までのこうじ藤房ふじふさ様が朝廷に復帰されるという噂じゃ」と高氏。


 藤房は正二位の中納言であり、建武の新政の初期は、恩賞方上卿にいたが、朝廷の不公平なやり方について行けず、病と称して身を退いていた。


「おほう、そうか、そうか、藤房が…、彼ほどの高潔な忠臣は他におらぬからな。帝をしっかり諫めてくれるじゃろうて」


 後伏見院は笑顔に戻った。





 その後しばらくして、後醍醐天皇の皇子、護良もりよし親王が鎌倉に護送された。先日、足利尊氏を殺そうと、乱を企てて捕まったばかりである。


 基久は少し驚いた。


 護良親王は征夷大将軍になった後、贅沢三昧に暮らし、毎日、淫らな楽しみにふけって、世の非難を顧みなかった。乱を企てたのは許される事ではないが、帝が自分の皇子を処罰し、その身柄を足利家に委ねたのである。


―― 帝は足利家を必要としておる。京の秩序を維持するには尊氏殿の力が不可欠であることを、帝もご存じなのであろう。千種忠顕がその事に気づいておれば良いのじゃが……


 基久は、尊氏の言葉を思い出した。


―― 尊氏殿が「今、我らは手出し出来ませんが」と言ったのは、護良親王のことで手一杯じゃったのか……



 五月五日には、上賀茂神社(別名、賀茂別雷かもわけいかずち神社)において神事、競馬くらべうまがある。基久は、玉をお使いに出す事に決めた。上賀茂神社は、下鴨神社から鴨川沿いに三十分ほど上流に歩いた所にある。遠くはないが、基久は油断せず、護衛を付けようと思った。


 一人は警固頭、三条吉永よしながに決めてある。




 吉永よしながは刀工の名門、三条家に生まれた。幼いころから刀鍛冶を学んでいたが、性に合わなかったらしい。鎌倉時代は遺産を兄弟で分割するのが習わしだったのだが、吉永よしながはそれを兄にすべて譲り、剣の修行の旅に出た。


 諸国を巡り、腕を磨き、剣の腕はみるみる上達した。腕試しにと、相手を求めたが、吉永に太刀打ち出来るものは見つからなかった。挙げ句の果てには、鞍馬山の天狗をも探し回ったと言う。結局、天狗には会えず、京に入る前に下鴨神社に立ち寄った。約十年前のことである。その時に出会ったのが、玉であった。


 吉永よしながは剣に命を捧げて生きてきた。しかし、玉に会った瞬間、それは変わった。


――玉に命を捧げるのだ。


 吉永よしながは、神社の警固衆に入った。ちなみに、この時、玉は六歳である。数年のうちにかしらとなると、警固衆が血反吐を吐くほど訓練させ、精鋭に鍛え上げた。辞めるものも多かったが、残ったものは恐ろしく強くなった。


 境内では殺生を禁じているので刃物は使えないが、もし槍や刀など普通の武器を持たせたとしたら、武士よりも強いのではないか、と基久は思っていた。


 ただ、一つ問題があった。


 警固衆の全員が、賀茂家と神社にではなく、玉に忠誠を誓っている節が見え隠れするのだ。聞いても、「そのようなことは断じてありません。はっはっはっ……」と言うのだが。




 基久は、もう一人護衛を付けようと思った。


――さて、誰にしようか……


 基久は、頭をひねった。





護良親王が謀反の嫌疑で拘束されたのは、『梅松論』だと十月二日、『保暦間記』だと十月三十日。

ここでは『太平記』の記述を採用しました。


挿絵(By みてみん)


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ