琵琶・三条吉永
「玄上を持って参れ」
後伏見院が言うと、侍従は大切そうに琵琶を持って来た。玉は謹んでそれを受け取る。松の前に床几が用意され、玉はそこへ座って調律を整えた。そして調律が済むと、玉は静かに目を閉じた。
その瞬間、庭園は一切の音という音、時間という時間が消失し、静寂な宇宙へと変貌した。
「ボロン」
琵琶の深い音色が広がった。後伏見院や賀茂基久、太田時連は目を閉じ琵琶の音に聞き入る。光厳上皇や足利尊氏、佐々木高氏、その周囲に控える従者は放心したように動かなかった。
ある時は激しく、ある時は悲しげに、玉の琵琶は心の奥底にまで響く何かを物語った。ある者は、先の戦で死んだ仲間を思い出した。ある者は子供のころを思い出した。心に響くさざ波が、聞く人の骨の髄まで押し寄せた。
皆、時間を忘れ、呼吸を忘れ、全てを忘れて、只々琵琶に聴き入った。
玉が琵琶を置いた時、涙を流していない者は、誰一人としていなかった。尊氏と高氏は、我に返ると、慌てて袖で涙を拭いた。
光厳上皇は、「玉は今出川兼季のようじゃ……」と言った。今出川兼季とは、光厳上皇の琵琶の師である。
後伏見院は「ううっ…、さすがじゃ、さすが玉じゃ……」と言った。そして思い出したように、「皆、ここに玄上があるということは秘密じゃぞ」と言った。琵琶の名器、玄上は宮中の至宝である。
その後、歌会の参加者は皆で茶を飲んだが、ふと話題が途切れた時、基久は千種忠顕の名を口にした。
「最近、たいそう派手に暮らしているようですのぉ」
すると尊氏が「ええ、賀茂様も何かお困りではありませんか」と言った。基久は「やはり鎮守府将軍である。何か耳にしているらしい」と思い、今まであったことを、かいつまんで話した。
「大覚寺統の腰巾着め。呆れ果てて何も言えん」後伏見院が不快そうに言った。
「かっかっかっ、一応、帝の功臣でござる」と高氏。
「はっ、無礼講と称し、謀議ですら裸の男女で乱遊しながらする帝の、島流しに同行しただけの、博奕好きの淫乱ではないか」
「父上! もし誰かに聞かれたら……」と光厳上皇。
「今、我らは手出し出来ませんが、大丈夫でしょう」と尊氏は言った。
「と、言いますと……」と基久。
「もうすぐ、万里小路藤房様が朝廷に復帰されるという噂じゃ」と高氏。
藤房は正二位の中納言であり、建武の新政の初期は、恩賞方上卿にいたが、朝廷の不公平なやり方について行けず、病と称して身を退いていた。
「おほう、そうか、そうか、藤房が…、彼ほどの高潔な忠臣は他におらぬからな。帝をしっかり諫めてくれるじゃろうて」
後伏見院は笑顔に戻った。
その後しばらくして、後醍醐天皇の皇子、護良親王が鎌倉に護送された。先日、足利尊氏を殺そうと、乱を企てて捕まったばかりである。
基久は少し驚いた。
護良親王は征夷大将軍になった後、贅沢三昧に暮らし、毎日、淫らな楽しみにふけって、世の非難を顧みなかった。乱を企てたのは許される事ではないが、帝が自分の皇子を処罰し、その身柄を足利家に委ねたのである。
―― 帝は足利家を必要としておる。京の秩序を維持するには尊氏殿の力が不可欠であることを、帝もご存じなのであろう。千種忠顕がその事に気づいておれば良いのじゃが……
基久は、尊氏の言葉を思い出した。
―― 尊氏殿が「今、我らは手出し出来ませんが」と言ったのは、護良親王のことで手一杯じゃったのか……
五月五日には、上賀茂神社(別名、賀茂別雷神社)において神事、競馬がある。基久は、玉をお使いに出す事に決めた。上賀茂神社は、下鴨神社から鴨川沿いに三十分ほど上流に歩いた所にある。遠くはないが、基久は油断せず、護衛を付けようと思った。
一人は警固頭、三条吉永に決めてある。
吉永は刀工の名門、三条家に生まれた。幼いころから刀鍛冶を学んでいたが、性に合わなかったらしい。鎌倉時代は遺産を兄弟で分割するのが習わしだったのだが、吉永はそれを兄にすべて譲り、剣の修行の旅に出た。
諸国を巡り、腕を磨き、剣の腕はみるみる上達した。腕試しにと、相手を求めたが、吉永に太刀打ち出来るものは見つからなかった。挙げ句の果てには、鞍馬山の天狗をも探し回ったと言う。結局、天狗には会えず、京に入る前に下鴨神社に立ち寄った。約十年前のことである。その時に出会ったのが、玉であった。
吉永は剣に命を捧げて生きてきた。しかし、玉に会った瞬間、それは変わった。
――玉に命を捧げるのだ。
吉永は、神社の警固衆に入った。ちなみに、この時、玉は六歳である。数年のうちに頭となると、警固衆が血反吐を吐くほど訓練させ、精鋭に鍛え上げた。辞めるものも多かったが、残ったものは恐ろしく強くなった。
境内では殺生を禁じているので刃物は使えないが、もし槍や刀など普通の武器を持たせたとしたら、武士よりも強いのではないか、と基久は思っていた。
ただ、一つ問題があった。
警固衆の全員が、賀茂家と神社にではなく、玉に忠誠を誓っている節が見え隠れするのだ。聞いても、「そのようなことは断じてありません。はっはっはっ……」と言うのだが。
基久は、もう一人護衛を付けようと思った。
――さて、誰にしようか……
基久は、頭をひねった。