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賀茂祭





 灌仏かんぶつ(釈迦の誕生日)が過ぎた頃、四月の中酉の日に、上下賀茂神社において祭が行われる。欽明天皇の御世から始まった伝統あるものであり、この時、奉職員の衣冠ややしろ、車のすだれなどにあおいを付けて飾るので葵祭とも呼ばれ、平安時代から、祭といえばこの賀茂祭のことを言った。


 賀茂神社には斎院さいいんがあった。あった、と言うのは、承久の乱の後、後鳥羽天皇皇女を最後に、斎院は廃絶したからである。この時代は、それから約八十年が経っている。


 斎院とは、伊勢の斎宮さいぐうと同様、選出された皇女が、神社や斎院御所にて奉仕をする制度であった。原則として、斎院は天皇ごとに交代する。その間、一切の不浄が禁じられた。


 斎院は祭祀で大きな役割を担っていたが、斎院が廃止された後も、祭はそのまま継続していた。


 一番の見どころと言えば、路頭の儀である。


 奉幣使ほうへいしは華麗に装飾して行進する。狩衣を五色に染め、烏帽子を被り、あるものは弓を持ち、あるものは鉾をもち、また検非違使けんびいし放免ほうめんたちは、風変わりな紺の布で馬を作る。その尾やたて髪は燈芯を用いた。そして体中に桔梗ききょう杜若かきつばたなどの花を挿して仮装した。馬々には鈴を付け、紅い綱や布で飾り立てる。牛車には華やかな絵が描かれた。


 勅使代を中心に、乗尻のりじり、検非違使、山城使やましろつかい、舞人などが長い行列をつくり、御所から下鴨神社をへて上賀茂神社へ行進した。


 それを一目見ようと、上は上皇女院から、下は百姓にいたるまでが集まった。路上は人で埋め尽くされ、物見車が道をふさぎ、桟敷がところどころに設置され、大いに賑わった。


 見物するものにとっては娯楽だが、行うものにとっては重要な政事まつりごとである。賀茂神社の者は上から下まで全員が休みもなく仕事に追われた。広大な森の中に佇む神社は、塵ひとつ落ちていないように、隅々まで清められた。


 玉は、祭の合い間、後醍醐天皇の輿と、騎乗でそれを警護する足利尊氏を遠くから眺めた。




 祭が無事終わり、後片づけが一段落した頃、玉は基久に付き添い、近所の歌会に出かけた。身分は高いが気さくな人たちの歌会である。主催は後伏見院、さきの後伏見天皇であった。


 鴨川の橋を渡り、関を入った所が今出川いまでがわであり、関のすぐ左には伏見宮がある。そこが会場であった。


 庭園は新緑と池が美しい。大きな松の木陰で、四五人が床几に座り、楽しげにお喋りをしていた。基久は、その中に、赤や金で彩られた派手な狩衣を着た男を見つけて警戒した。


―― 千種忠顕ただあきであろうか? 面倒な事にならぬと良いが……



 千種忠顕は、玉を貰い受けようと、賀茂祭の準備で忙しい中、何度か神社を訪れていた。伝統的な求婚ではない。半分はねちねちとした嫌がらせであり、半分は逃げたくなるような脅迫であった。基久は忠顕に構っていられず、対応を禰宜ねぎたちに任せていたが、彼らの苦労は並々のことではなかったらしい。彼らも草履に火が付くほど忙しかったのである。



 基久と玉が近づくと、後伏見院はうれしそうに手を振った。頭を丸め、煌びやかな僧衣を身につけていた。


「おほう、玉や、玉ぁ、よく来たのぉ、達者であったか」


 基久と玉が膝をつき、挨拶をすると、「堅っ苦しいことはいいからっ、はよ、はよ来いっ」と手で招いた。


 基久と玉は、参加者と順々に挨拶を交わす。後伏見院の皇子、光厳こうごん上皇は玉とは初対面ではない。彼は顔を赤くして威厳を保とうと努力していた。玉は表情を変えず、静かに目を伏せていた。



 この当時、天皇家は二つに割れていた。後嵯峨天皇の後、誰が次の天皇になるのかで、第三皇子(後深草天皇)と第四皇子(亀山天皇)の間で対立が起こった。それぞれの派閥を持明院統と大覚寺統と呼ぶ。それは鎌倉幕府の裁定で、天皇は持明院統と大覚寺統と交互に輩出することに決定した。


 大覚寺統である後醍醐天皇が、鎌倉幕府に対し乱を起こし、隠岐に流された時に即位したのが、持明院統の光厳天皇である。しかし、後醍醐天皇の綸旨を受け、足利尊氏が六波羅探題を襲撃すると、探題の北条仲時、時益は、後伏見上皇と光厳天皇を連れて東国に脱出しようとした。それを阻んだのが佐々木判官はんがん高氏たかうじであった。


 鎌倉幕府が滅ぶと、隠岐を脱出した後醍醐天皇は、光厳天皇を上皇に据えた。光厳天皇の即位をなかったことにしたのである。



 次に、ひとり温泉にでも浸かっているかのように、ぽーっとしている好々爺こうこうやは、「こんにちは」と言った。


 太田時連ときつらであった。『吾妻鏡』の編纂者であり、現在は雑訴決断所衆を務めている。彼は、弱冠十五で鎌倉幕府の問注所執事(長官)となって約半世紀、人生を訴訟裁判に捧げ、その能力は天下一と言えた。


―― 陰極まれば陽となり、陽極まれば陰となる。和光同塵とは彼の事を言うのだろう。しかし、なにゆえ、彼がこの場にいるのだろうか……


 基久は少し不思議に思った。



 次に、ひときわ派手な男がピシっと立ち、笑いながら、


「お初にお目にかかります! 拙者、佐々木高氏たかうじと申す! どうぞよしなに! かっかっかっ」と言った。


 後伏見院と光厳上皇を北条の手から奪い、京に戻した人物である。それから、地味だが、やさしい表情の男が口を開いた。


「拙者は、足利尊氏たかうじと申す。はじめまして」


 玉を見る、高氏と尊氏の頬は、まるで十歳若返り、青年に戻ったかのように、桃色に染まっていた。






賀茂祭は現在は五月に行われています。四月と言うのは、太陰暦の時代です。


挿絵(By みてみん)


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