建武の新政
後醍醐天皇は、鎌倉幕府が滅ぼされた後、天皇を中心とした「公家一統の政務」を推し進めようとしていた。元号を「建武」としたのは、その意思を強く表している。
漢王朝は王莽によって滅ぼされ、一旦途絶えた。しかし光武帝は王莽の立てた新を滅ぼし、漢を復興した。その時の元号が「建武」である。
約百四十年前、公家は源頼朝に幕府を作られ、その後、多くの権力を取り上げられた。寛元四年(1246年)には、北条家との権力闘争に敗れた後鳥羽上皇は隠岐に配流された。後醍醐天皇が倒幕に失敗した時に流されたのも隠岐であった。
後醍醐天皇は、延喜天暦の治世を理想とし、武家から出来る限り力を剥ぎ、公家の力をつけようと試みた。護良親王は自分を征夷大将軍にしてほしいと頼んだが、帝が、征夷大将軍に足利尊氏ではなく護良親王をすえたのも、それが理由の一つである。
その「建武の新政」は問題だらけであった。
ひとつは恩賞の問題である。
後醍醐天皇は「旧領回復令」を出し、一旦、土地の所有権を全て取り上げた。その上で天皇が綸旨を出して、土地を再分配しようと試みた。しかし、全国から認可を申請する者が都に殺到し、朝廷は麻痺状態に陥った。一月後には「旧領回復令」を撤回し、「諸国平均安堵法」を発令した。これは所領の安堵を、国司に委任するものであり、一貫性のない政治に対して不信感が高まった。
その中での不公平な恩賞である。思うように所領を得て出世した武士は、名和長年や結城親光、新田義貞、楠木正成、足利尊氏など数えるほどだった。
六波羅攻略に大功のあった赤松則村などは逆に領地を減らされた。命をかけて幕府を倒すことに協力した武士たちだったが、その多くは苦労が報われず、ほとんど何もしていなかった公家が恩賞に与っているのを見て、疑問に思わない人はいなかった。
後醍醐天皇の側近のひとり、北畠親房は、
「帝に味方して家を潰さないだけでも余りある皇恩である。そのうえ恩賞を望むとは何事か。鎌倉幕府を滅ぼしたのは天の功である。自分たち武士の功だと言うのは、思い違いも甚だしい」と断じた。
これは元寇の後、恩賞を出すことが出来なかったことで、鎌倉幕府の求心力が大いに落ちたことと、ほとんど同じ状態であった。
また増税、増課役の問題があった。
腐敗しきった鎌倉幕府の政治が終わり、多くの人々がこれで生活が楽になると期待に胸をふくらませた。しかし後醍醐天皇は安元二年に焼失していた大内裏の造営を決め、二十分の一税を課した。また、諸国の所領や大荘園を分け与えられた官人たちは、田地から税を搾り取り、贅沢な生活を始めた。結局、蓋をあけてみれば、鎌倉時代よりも税が上がり、苦しい労役を課せられることになった。人々は怨嗟の声を上げた。
基久の前で、玉は静かに語った。
「伊賀兼光様だけではないようです」
基久は部屋の外、青空を見ながら聞いていた。
―― あの空と庭の紫陽花の色は似ておる……。兼光殿の妻もあれを見ながら逝ったのじゃろうか……
「他にも、元幕臣の諏訪様や二階堂様なども財産を賭博で失っているようです。奥方様の自害にまでは至りませんでしたが」
―― 千種忠顕は馬鹿であろうか。不公平な恩賞だけに留まらず、武家から博打で経済力を奪おうとしているのだとしたら、ますます不満が募るだけではないか。武力を持たない公家が、武家を敵にしてどうする……
後醍醐天皇は、政治を天皇中心に戻そうと努力していた。しかし、武力、軍隊を持とうとはしなかった。何故なら、殺生を行う兵は「穢」と見なしていたからである。
基久にはその問題点が見えていた。
陰陽家は、単なる呪術家とは異なり、合理的な思考を持っていた。陰陽五行論は科学の一つであった。天文学、暦学、気象学、地理学などの集合体であり、天地の理を明らかにし、それに干渉する学問であった。それゆえ賀茂家は独自の軍隊、警固衆を持つことにも抵抗が少なかったのである。
玉は続けた。
「また、雑訴決断所や恩賞方では、巨額の賄賂を受け取っているようです」
―― 金で沙汰が変わるのなら、朝廷の権威が失墜してしまうではないか……
基久は苦々しく思った。
建武の新政が始まり、伊賀兼光が図書頭に任命された時、基久はおどろいた。図書頭と言えば、医家である和気家と丹波家、そして陰陽家である賀茂家が持ち回りで務めてきた職である。
基久は後醍醐天皇が、本気で、先例にとらわれない実力主義の政治を行おうとしていることを知った。
和気家、丹波家ともその決定に不快感を示した。由緒正しい名家の職を、六波羅にいた武士に横取りされたのだから当然である。図書頭の職務は基久が兼光に教える事になった。
―― 兼光殿は一生懸命働き、朝廷に尽くそうとしているのだが……
基久は寂しく思った。
―― 努力の報われる世にならぬものか。皆がいがみ合わずに暮らしていける世にならぬものか……
基久は、どうすべきか考えながら、賀茂祭の準備に取りかかった。それは十一月の大嘗祭に次ぐ、最も重要な祭事の一つである。