闘茶
喫茶の習慣は、鎌倉時代の初期、日本臨済宗の開祖、栄西の働きに依る。栄西は、筑前は背振山において茶の植培を始め、建暦二年(1211年)には『喫茶養生記』を著し、茶の効能を世に広めた。「茶は養生の仙薬なり」と言い、健康や、修行時における眠気覚ましに良いと説いた。
その後、栄西の弟子、明恵上人が、茶を京都洛北にある栂尾において、また後に宇治の方でも茶の栽培を始めた。
その後、喫茶が流行するのだが、それは栄西が本来考えていたものとかけ離れた目的を持っていた。
賭博である。
金や物を賭けて、茶を飲み、茶の種類を当てるという遊戯である。「闘茶」や「茶寄合」と呼ばれることがあった。
鎌倉後期にもなると、日本各地で茶の栽培が始まった。産地により品質に大きな差があり、最高の茶と評されたのは、京の栂尾のものであった。
この栂尾茶を「本茶」とし、それ以外を「非茶」して飲み比べるという単純なものから、より細かく、産地や品質などを鑑定する闘茶もあった。
この闘茶が身分の貴賎を問わず大流行した。まだ茶道が生まれる前のことである。また闘茶以外にも、香の香りを聞き当てる「闘香」、連歌を交互に詠みあう「闘歌」も賭博のひとつであった。
玉は集められてきた百を超える情報を、頭の中で一つずつ整理していった。
伊賀兼光と千種忠顕はこの闘茶の勝負を繰り返し行ったらしい。もっとも勝負とは名ばかりで、忠顕の一方的な搾取であったという。
断ることの難しい政治家の社交場。言葉巧みに誘い出し、忠顕は、あの手この手で兼光を茶会に誘った。
時には勝たせ、時には負けさせた。酒を飲ませ、冗談めかせて勝負を繰り返させ、いつの間にか、数多くの証文を書かされていたらしい。
忠顕は、目に見えない所から彼の財産を奪っていった。領地を賭けた勝負もしたらしい。ある人は「忠顕は勝負でいかさましているのだ」と言った。
すべての財産の証文を得たところで、忠顕はそれを要求した。兼光も「はい、そうですか」と言って領地財産を渡すほど、お人よしではない。当然、譲渡することを拒絶した。
すると忠顕は激怒して言った。
「帝から下賜された領地を賭け事に使うとは何事ぞ! 帝に対する反逆である! 伊賀兼光! 今すぐ殺されないだけでもありがたく思え!」
その後、忠顕の配下の兵が兼光の屋敷を襲い、金品や、権利書としての綸旨、安堵手形など、尽く持ち去ったと言う。屋敷からも、いつ追われるか分からない。
兼光は忠顕に頭を下げ、返還を求めた。すると忠顕は、美しいと評判の兼光の妻が、ひとりで頼みに来るのであれば考えても良い、と言った。
妻は夫のため、そして家のため、「大丈夫です。私が絶対に何とかいたします」と言って忠顕の屋敷に一人で向かった。
忠顕の屋敷では酒宴の最中だった。金銀を撒き散らし、酒肴を積み上げ、数百人が白拍子と淫行に耽っていた。忠顕は兼光の妻が来ると、嫌らしく笑い、楽しそうに凌辱したそうだ。
妻はボロボロになった小袖を羽織り、抜け殻のようになって家に戻ると、夫や子供に会う前に命を絶ったという。
兼光は訴えようと考えた。しかし相手は帝の側近、参議である。窪所、雑訴決断所は彼の支配下だった。たとえ訴えたとしても、賭博の禁制などはない。妻も自害である。たとえ帝まで話が上がったとしても、千種忠顕が処分されることは期待できなかった。
「何ということを……」
玉が報告すると、基久は沈鬱な様子で声を漏らした。
「なぜ、忠顕はそんな酷い事ができるのじゃ。なぜ、そうしようと思ったのじゃ……」
玉は話を続けた。