千代と大友
伊賀兼光を見送ったあと、賀茂基久は玉に言った。
「何とかならぬものかのぉ」
「……」
玉は幼い時から兼光を見知っていた。兼光は基久の許に歌を学ぶといった理由をつけて、よく遊びに来ていたのだ。ここ基久の屋敷に住まわせてもらっている玉も、兼光と一緒に和歌を習うことが多々あった。
彼もその妻も、とても気のいい明るい人だった。美しく楽しい歌をよく詠んでいた。
「死んでしまった奥方が生き返ることはないが、兼光殿たちが不憫でならぬ」
「……」
「そもそも、なぜ千種は兼光の財産を奪おうと思い、またそうすることが出来たのか。なぜ兼光殿の奥方に手を出したのか……」
「……」
「何かするにしても、その前に状況をよくよく調査して吟味せねば…、のぉ…。玉」
「はい」
基久には兼光の心情が痛いほど理解できた。しかし具体的に何が起こったのか、その詳細を知ることは出来なかった。
「調べてくれるか」
「分かりました」
玉は、まるで太刀で絹を斬るように、スッと静かに礼をした。
「玉姉さまー」
鴨川沿い、神社の西方に社家町がある。神社に務める者の住む町である。その基久の屋敷を出ると、小さな可愛らしい巫女が走り寄ってきた。
「あら、千代」
「玉姉様、浮かぬ顔をして、どうしたのじゃ?」
千代は数年前、巫女になったばかりである。孤児になったところを賀茂神社に拾われた。ここで務めることになったのは玉の口利きがあったからであり、千代は、まるで玉を本当の姉のように慕っていた。
千代は無邪気に玉の顔をのぞき込む。千代には玉の微かな表情の違いを見抜く特技があった。他の者なら、玉が浮かぬ顔をしていたことが判らなかっただろう。
「実はね……」
玉は千代に伊賀兼光と千種忠顕の件を話した。玉はたとえ小さな子供相手でも、何でもよく相談に乗ったし、また相談することもあった。
「よし、分かったのじゃ」
千代はそう言うと、緋袴をはためかせ、川沿いに南の方に向ってテケテケと走って行った。おそらく河原の方でたむろしている子供たちに聞きに行ったのだろう、と玉は思った。
日は高く昇り、鴨川の水面はきらきらと輝いていた。
玉は神社に戻り、他の巫女や禰宜たち、警固衆に聞いて回ることにした。ここは都の人が多く集まり、多くの悩み事が聞ける場である。
玉は社家町から本殿へと続く参道を歩いた。辺りは鬱蒼とした森である。向こうから棍を持って警邏している男が来た。基久は、千種忠顕が姿を見せるようになってから、見回りの頻度を増やしている。彼は玉を恥ずかしそうにチラチラと見て、頭を下げた。玉は声をかけた。
「大友様……」
「ひゃ、ひゃい!」
大友と呼ばれた男は、上ずった声で返事をして垂直に固まった。男の名は大友靖頼、数年前、行き倒れていた所を玉に助けられ、そのまま玉に恋して警固衆に入った青年である。
「お聴きしたいことがあるのですが」
「は、はいぃ! よ、喜んでぇ!」
大友はピシッと起立して玉の話を聞いていたが、話が終わると、「すぐに調べてきます!」と言い、棍を放り投げて詰所の方に走り去った。玉は彼の後ろ姿を見送った後、下に落ちている棍を、「どうしようか」といった面持ちで見つめた。
大友は詰所に入るや否や、「た、た、た、玉様が、わ、わしの名を覚えて下さっておったー」と、同僚にしがみついて激しく泣いた。「靖頼、どうした、何があったのじゃ」と同僚が聞いても、大友はしばらく感極まって話すことができなかった。
その日のうちに、玉が千種と伊賀について知りたがっているという話は、神社内に留まらず、京の隅々にまで行き渡った。我先にと、大勢の人々が玉の許に押し寄せ、続々と情報が集まって来た。
そして次の日には、早くも事件の全容がほぼ明らかになったのである。