法師と競馬
上賀茂神社の競馬は、都中から人が集まり、たいへん混雑していた。長い直線の馬場の両脇には柵が作られており、馬はその間を疾走する。柵の前にはぎっしりと見物客が立っていた。
そこへ、法師が牛車に乗って訪れた。人垣があり、車からは馬の走る姿を見物できない。そこで、法師は車から降り、人をかき分けて柵の一番前まで行こうとした。しかし分け入る隙もなかった。
法師は、ふと、馬場の向こう側を見ると、栴檀の木が植わっており、別の法師が、その木の上に登って見物しているのを見つけた。
木の上の法師は、ひどく眠たげであった。こっくりこっくりと居眠りをして、木から落ちそうになると、「はっ」と目を覚ます。それを繰り返していた。法師の横に立っていた見物客は、それを見て言った。
「あはっ、頭悪いなぁ。あんな危ない枝の上で、安心して眠ってるよ」
すると、法師は言った。
「我らが死ぬのも、今かも知れんぞ。それを忘れて、こうやって見物して、日々を暮らしている方が、よほど愚かではないか」
それを聞いた法師の前にいる人々は振り返り、口々に「本当に、そうでございます」「一番愚かですね」と感心して言った。そして皆が協力して、法師のために場所を空け、「ささ、どうぞ、こちらへお入りください」と、彼を最前列に呼び入れた。
法師は柵の一番前に出た。その目と鼻の先を、馬が「ドドドドドッ」と疾風のように駆けて行く。騎手である乗尻は朱や藍色の装束を着け、威勢の良い掛け声をかけていた。風が人々の頬を撫でる。周囲から「おおう」「速いものじゃ」「良い馬じゃ」と歓声が上がった。
法師は思った。
―― これくらいの道理は、誰もが思いよることだ。だが、このような時代だから、皆、思いがけなく、胸に響いたのだろうか……
向こうを見れば、烏帽子を被った公家たちや、甲冑姿の武士もいる。
―― しかし、公家も、武家も、いつ死ぬとも知らず、こうやって、のんきに競馬を見物しているとは……。そして、それは我もまた同じ、皆、愚か者だ……
法師は、そう思いを巡らしていると、柵の向こう側に、巫女や禰宜、神職の集団が歩いているのを見た。その中に、信じられないほど、美しい巫女が一人混ざっていた。
―― あれは何と言う美しさだ。まさしく天女。いや、あの者は、人によっては女神となり、また、人によっては傾城ともなるだろう…。色香に惑わされ、身を亡ぼすものが出るに違いない……
法師は白居易の詩を思い出した。
―― 人、木石にあらず。皆、情あり。傾城の色に遇わざるにしかず……
馬は次々に、法師の前を矢のように疾駆する。
―― 光陰矢の如し……。我も白居易のように、後世に何かを残すか。残すとしたら何が良かろう……。
法師は暫らく馬を見ながら考えた。
うむ……、そうだな…、とりあえず、心に浮かんだことを、片っ端から、書き記していくとするか……。冒頭は……
法師は澄み渡った蒼天を見あげた。
―― そう……、徒然なるままに、が良い……
見物客の一人が言った。
「法師様ぁ、今日は本当に良い天気ですなぁ」
法師は答える。
「うむ、今日のような、若葉の梢が涼しげに茂っていく時こそ、世のあわれも、人の恋しさもまさるものだ」
競馬は滞りなく終了し、玉たちは下鴨神社に帰る途中であった。
日は山入端に落ちかけ、空は橙色に染まり、鴨川には闇が流れはじめていた。土手の道には、帰京を急ぐ人々が、ちらほらといて、口々に「今日は、お疲れさまでした」と玉に挨拶した。中には、「明日、播磨にいくのだが、天気はどうだろう」と聞いてくる人がいて、玉は「明日は晴れですが、明後日以降、雨が降るのでお気をつけて」と返事をしていた。
その時である。玉たちは突然、十数人の男たちに囲まれた。彼らは下卑た顔で、にやにやと玉たちを見た。千代はそっと玉の袖を掴んだ。周りの人々はそそくさと距離をとる。
吉永と靖頼は玉を守るように、素早く前後に出た。そして棍を構える。
「何者だ」
吉永は低く響く声で言った。