玉と千代のお使い
「玉姉様とお使いなのじゃー」千代は嬉しそうにはしゃいだ。
早朝の鴨川は、爽やかな風が吹いていた。東の空がほんのりと明るくなり、月は西の山際に入ろうとしていた。道にはまだ他に歩いている人はいない。玉と千代、そして三条吉永と大友靖頼の四人は、下鴨神社から上賀茂神社へと向かっていた。
玉と千代は市女笠を被っていた。玉の笠には、半透明のヴェール、虫の垂れ衣が付いている。二人の護衛は、身長ほどの長い棍を持って歩いていた。
五月五日は端午の節句であり、この日は競馬会が上賀茂神社で執り行われる。これは堀河天皇の寛治七年に始まった、神に捧げる競馬である。この日は早朝から、神が観覧できるように頓宮遷御を行い、菖蒲の根合せ等の儀式が行われる。
「千代、道中もお勤めですよ」と玉が言うと、「はい、分かっておるのじゃ」と言って、また静々と歩いた。吉永は、まるで我が子を見るように千代を見守る。靖頼は緊張した顔でギクシャクと歩いていた。
「千種忠顕の奴め、許せんのじゃ」千代は歩きながら言った。
「千代、千種様は帝の重臣ですよ」と玉が言う。
「だが、あ奴、この所ずっと玉姉様を追いかけ回しておる。しきりに玉姉様を茶寄合に招こうとしているが、絶対に何かいかがわしい事を考えておるに違いないのじゃ」
「千代、千種様が何を考えているかなんて、分からないじゃありませんか」
「わしには分かるのじゃ。こないだは、あ奴、逃げ遅れた鶴様に抱きついて、胸元に手を入れたのじゃ。下品に笑いながら揉んでおったのじゃ。鶴様、泣いておったのじゃ」
「千種は六条家の名門出なのに、若い時から学問が嫌いで、犬追物と賭博が大好きだったって噂ですぜ。淫乱だから家を勘当されたって聞きますけどね」と吉永。
「せ、拙者は千種の馬に撥ね殺されそうになりました!」と靖頼。
「えっ、お怪我はありませんでしたか」と玉はふり返った。
「は、はい、と、咄嗟に避けましたから、だ、大丈夫です。くっ、くううっ、うっ、うっ」と靖頼は泣き始めた。
「神主様がいくら抗議しても梨のつぶてだったのじゃ」
「まったく、困ったもんですよ。誰か、どうにかしてくれませんかねぇ。玉様だって、千種が来る度に、奥に隠れさせられて、大変でしょう」と吉永。
「あ奴なんか、呪い殺してやれば良いのじゃ」
「千代、滅多なこと言うものじゃありません」
「森神主様なら出来るんじゃないですかい」
「そうじゃ、そうじゃ」
「神主様はそんな事されません。それに、試みようとしただけでも逆賊です」
「バレなきゃ、良いのじゃ」
「千代っ」
「じゃあ、誰が、あ奴を懲らしめるのじゃ」
「神社の外だったら、あっしが、この〈神切丸〉の錆にしてくれるんですがねぇ」
吉永は腰に差した太刀を叩いた。
「三条様、殺生はなりません」
「ああ、冗談ですよ」
「神社に務めているのに、〈神切丸〉て言うのか」と千代。
「そう言われると、本当、不敬ですねぇ、はっはっはっ」
皆も楽しそうにと笑った。笑い終わると、千代は言った。
「じゃあ、千種に罰を与えられるのは誰じゃ」
「主上ですかねぇ」
「一番、世を混乱させておるのは、帝じゃ」
「千代!」
「じゃあ誰なのじゃ……」
靖頼が、突然、意を決したように叫んだ。
「た、玉様じゃぁ」
皆は可笑しくて、また「はははは」「ふふふ」と笑った。