伊賀兼光の悲劇
「なんと、兼光殿の奥方が自害されたとは……」
神主、賀茂基久は「まさか」と思った。美しく慎み深いと評判の女性で、基久も何度か会ったことがあった。土佐守、伊賀兼光は、基久の前で、床を見つめ涙していた。
賀茂神社に隣接する社家町。そこにある基久の寝殿の一室には彼らの二人、庇の間には美しい巫女が静かに控えていた。
「奴を赦してはおけません。今すぐ殺したいくらいです……」
兼光の声は震えていた。
時は建武元年(1334年)。鎌倉幕府が滅亡してまだ一年ほどである。後醍醐天皇は、約百四十年続いた武家中心の政治を改め、公家一統の政治を推し進めようとしていた。直接、天皇が政治を主導する。それが「建武の新政」であった。
京には鴨川が縦断している。北東、比叡山の方角から流れる高野川は、都の鬼門において鴨川に合流する。下鴨神社はその川と川に挟まれた要衝にある。
賀茂氏は京でも最も古い名家の一つであった。神事、陰陽道を司どり、平安中期、天文方になった安倍晴明は賀茂家の下で修業を積んだと言われている。
現在の宮司は賀茂基久であった。基久は森神主とも呼ばれ、歌人でもある。彼の歌は、後に『続千載集』や『続後拾遺集』など多くの歌集に収載されることとなる。基久と兼光は昔から親交があった。
兼光の父、山城守、伊賀光政は六波羅探題の越訴頭人であり、そのため兼光もまた六波羅探題にて引付頭人と評定衆を兼任した。しかし一年前、その六波羅探題は後醍醐天皇の綸旨を受けた足利尊氏らにより滅ぼされた。
北条の一門や六波羅の主だった奉公人は処刑された。公家たちの中には、長年、武家政権に辛酸を嘗めさせられてきたことを恨んでいた者も少なくなかった。皆殺しにするべきだという意見も出たが、後醍醐天皇は政治に有能な人材を生かす事を選んだ。
兼光が後醍醐天皇の下で新政に携わり、守護や国司を兼任し、図書頭、雑訴決断所、記録所、恩賞方など歴任して活躍したのは、その才を買われただけではなかった。
彼は六波羅探題に務めていたころから後醍醐天皇に内通し、協力していたのである。彼が朝廷での要職を得たのは、その褒美でもあった。
その兼光の妻が自害させられた。
彼は血の涙を流し、怒りと悔しさに耐えていた。兼光は財産をすべて奪われたあげく、妻を公家たちの面前で凌辱されたという。彼女は怒りと悲しみを抱え、ひとり世を去った。妻の部屋は血の海となっており、亡骸の前には、一通の遺言と辞世の句が置かれていたと言う。
耐え忍び ついに開いた 紫陽花は 千草のために 露と消えらむ
彼とその妻を追い詰めたのは、千種忠顕。従三位の参議であった。
その名を聞き、庇に控える巫女は微かに眉をひそめた。もし誰かが彼女を見ていたとしても、誰もそれに気づかなかっただろう。それほど、その眉の動きは微かなものだった。
巫女の名は玉と言う。
庭には、うす水色の紫陽花が咲き始めていた。