28.邪神オストー、グレートワーデンに舞い戻る
オストーが目を覚ましたのは、薄暗い石室の中だった。
四隅に、篝火を持つ黒いローブの者たちが置物のようにたたずんでいる。
そして、オストーの前には、灰色のローブを目深にかぶった男がひざまずいていた。
その男が、低い声で言う。
「――お還りなさいませ、我らが神よ」
「ああ、ただいま。数ヶ月の旅だったけど、なかなかどうして、愉快な世界だった。この世界を破滅に導いた後は、ああいう世界を侵略するのも面白いかもしれない。コンジャンクションという外宇宙的偶然を待たなければならないのが難点だけどね」
オストーが肩をすくめて言う。
「おっと、面を上げて構わないよ」
「……はっ」
灰色のローブの男が顔を上げる。
若いようにも中年のようにも見える。これといった特徴のない、平凡を絵に描いたような顔だ。
が、オストーは、そもそも人間の顔に注意など払っていない。
オストーにとって重要なのは、相手が使えるかどうかだけだ。使える駒なら、識別のために名前くらいは覚えてやっている。
もっとも、使えなかったとしてもさして問題はない。代わりはいくらでも見つかるからだ。
オストーは、自分のすぐ背後に聖櫃があることに気づき、腰かける。
「ふふっ……この中に、あの忌まわしい妹神が封じられてると思うと痛快だね」
オストーは聖櫃の蓋を叩きながら、
「おーい、妹よ。聞いてるかい? 聞いてるだろうね? これからこの世界にどんな破滅がもたらされるのか、そこで黙って見ているといい。ひゃっひゃっひゃっ!」
オストーは目を見開き、口を三日月状に開いて、醜い笑い声を上げ続ける。
灰色のローブの男は、何物も映さない瞳で、その様子をじっと眺めている。
ようやく笑いやみ、オストーが言う。
「ええっと……ナザレ、だったっけ?」
「はっ」
「よくやった、ナザレ。褒めてあげるよ。お礼にどんな力がほしい? なんでも言っていいよ?」
「ほう、本当になんでもよろしいので?」
無表情だった男の顔に何かが浮かんだ。
あまり見る機会のない表情だ。オストーには、そこに浮かんだ表情がなんであるかわからない。
いや、わかる必要がない。
仮にそれが怒りや憎しみだったとして、何だというのか。
神である自分に危害を加えることなど、人間には不可能なのだから。
オストーは鷹揚に言った。
「ああ。僕は神だぞ? 人間の欲しがるようなものはなんでも用意できる」
「くく……っ」
「さあ、何が欲しいんだい? 金? 力? 女? 名誉……は間接的にしかあげられないけどね。まぁ、金なり力なりがあれば簡単だろう?」
オストーの言葉に答えず、ナザレが立ち上がる。
ナザレは片方の唇を吊り上げて言った。
「オストー様。あなたは勘違いをしておられる」
「勘違いだって? 生意気なことを言うじゃないか。もし僕が上機嫌じゃなかったら、君、もう死んでるよ?」
「そんなことができるなら、やってみるがよろしい」
「何……? できないとでも思っているのか……? 不快だ、ナザレ。君はたしかに役に立った。だけど、僕に対してそんな口を聞く権利を得たと思われるのは心外だな」
オストーが、腰掛けていた聖櫃から飛び降りる。
片手をナザレに伸ばす。
力を行使するにはそれだけで十分だ。
次の瞬間、目の前の不敬な男は跡形もなく消し飛んでいる……と、オストーは思った。
が。
「何……!?」
オストーの掲げた手から力が抜ける。
筋力ではなく、神としての力だ。
腕が途方もなく重い。
オストーは耐えきれず腕を下ろす。
「神はその身体のすべてが神である。言い伝えは事実のようだ」
ナザレがつぶやく。
「ど、どういうことだ……?」
オストーがうめく。
オストーは全身を襲う重みに耐えきれず、地面に這いつくばっていた。
「地面を御覧なさい、神よ」
ナザレの言葉に、オストーは重い頭を動かし、周囲の地面に目を向ける。
そして驚く。
「こ、これは……魔法陣?」
「その通り。ただし、この魔法陣はただの魔法陣ではありません。神を縛り、その力を封じるための魔法陣なのですよ」
「馬鹿な! そんなものがあるはずがない! 原始の神が人々への恩恵として神の力を分け与えたのが魔法なんだ! 神から授かった力で神そのものを封じるなんてできるはずがない!」
「ええ、おっしゃる通りです。しかし、私は知ったのですよ。神ですら力の及ばない外なる宇宙のことを。コンジャンクション。そう呼ばれる現象に巻き込まれた私は、外なる宇宙で、神すら縛る異質の力を手に入れたのです」
「何だって!」
「くくく……神、いや、オストー。あなたはコンジャンクションで聖櫃から逃れられたことに小躍りするばかりで、周りの状況をろくに見ようともしなかった。聖櫃の改竄を指示しながら、私のことを疑おうともしませんでした。まるで無邪気な悪童のようです。度を超えたいたずらで意味もなく人々を苦しめて喜んでいながら、自分の面倒は誰かが見てくれるはずだと高をくくっているのですからね」
「お、おまえ……!」
オストーは顔を上げて絶句した。
凡庸を絵に描いたようなナザレの顔が一変していた。
邪悪に細められた両の眼は笑みをたたえ、低く目立たない鼻の脇がひくひくと震えている。なにより、その唇だ。もともと薄い唇が左右に限界いっぱいまで引き伸ばされ、わずかにあいた隙間からは歯並びのいい白い歯が覗いている。
「普通、平凡、凡庸、特徴がないのが特徴……等々と言われますが。私にとっては褒め言葉です。私の擬態がうまくいっているという証なのですから。真の魔導師は闇に身を潜め、世間に埋没し、決して目立とうとは思いません。冒険者の魔法使いのように、一握の水を、ひと抱えの火球を生み出して喜ぶような幼児じみた精神は持っていないのです。魔導の真髄は儀式にあります。十年、二十年と時を重ね、来るべき成就の日を待ち焦がれる。そのような忍耐の果てに得られる果実の味は、魔導師でなければわからない」
滔々と語るナザレに、オストーが噛み付く。
「ふん、それとて、神の力の前には無に等しい。せっかくの命をそのような自涜行為に費やすのは不健全というしかな……ぐぁっ」
オストーは、急激に増した重力に押しつぶされて、セリフを最後まで言い切ることができない。
「何を言う。私の魔導はこうして神の階にまで届いたのだ。いや、それすら凌駕したのだ!」
「はんっ、それはおまえの力じゃない。コンジャンクションという高次宇宙の偶然がもたらした結果だ」
「だとしても。私の雌伏は報われた。こうして神を捕らえることができたのだから」
「捕らえてどうするというんだ? この忌々しい魔法陣も、時間をかければ解除できる。ここから抜け出した後、僕にどんな目に遭わされることになるか……震えながら束の間の余生をすごすことだね」
吐き捨てるオストーの頭を、ナザレがいきなり踏んづけた。
「ぐがっ……貴様ぁっ!」
「黙れ、贋神が! 世界に寄生し、人間の生き血をすすることでしか生きられぬ巨大な蛭! それが貴様の正体だ、オストー!」
「なん……だとぉっ!」
「おまえのような悪童に、神の力はふさわしくない。その力を我がものとし、もっと有効に活用してやる」
「なっ……! ま、まさか……そんな馬鹿な! そんなことができるはずが――」
「できるのさ。これは、厳密には外なる宇宙の力ではないぞ。俺が、コンジャンクションという現象と、外なる力の性質を研究した結果生み出した純然たる魔導だ!」
ナザレはローブの奥から一振りのナイフを取り出した。
「恐れおののけ、贋神オストー! 俺とおまえは、これからコンジャンクションで入れ替わる!」
ナザレがナイフを振りかぶる。
逆手に握り――自分の腹に向けて振り下ろす。
「ぐっ……」
ナザレは呻きながらナイフを抜き、今度は左胸へ。
「な、何を……」
オストーが呆然とつぶやく。
その瞬間、地面の魔法陣が輝きを増した。
いや、正確には、最初の魔法陣に重なるようにして、別の魔法陣が現れた。
「ま、まさか……やめろおおおおおおっ!」
オストーが叫ぶ。
その身体が光に包まれる。
胸を刺したナザレが魔法陣の上に倒れる。
ナザレの身体も光に包まれた。
どれほどの時間が経っただろうか。
魔法陣の中心で、オストーが立ち上がった。
オストーが言った。
「くふふ……成功だ! これが神の身体というものか! 力が溢れる……いや、力そのものだ!」
地面に伏したナザレが、顔だけを持ち上げる。
「ぐふ……く、くそぉ……僕が……こんな……」
オストーが、ナザレに近づく。
オストーの足がナザレの頭を踏みつける。
「くくく……神でなくなった気分はどうだ、元神オストー?」
「ぐぁ……力が……血が、溢れて……心臓が……」
「入れ替わる前に、痛めつけておいたからな。いかに神様でも、くたばりかけの人間の身体に閉じ込められては何もできまい? おっと。何も好き好んでこんな姿を取り続ける必要もないな」
オストーの身体を光が包む。
光が消えた後、そこにいたのはナザレだった。
ただし、胸にも腹にも傷はない。
胸と腹を刺された「ナザレ」は、新たに現れたナザレの足の下で最後のあがきを見せている。
「くくく……くたばるまで放っておくのも面白そうだが、万一があっては困る。この場で殺してやるぞ、オストー」
「ぐ、ぐぞぉっ……ぐぞぉぉぉぉっ!」
「くはははっ! いいざまだな、贋神! 屈辱にまみれた貴様の姿は最高だ! これ以上の見世物は存在すまい! 神がひざまずき、死ぬることに怯えながら怨嗟の声を上げているのだからなぁっ!」
ナザレは顔を仰け哄笑する。
ひとしきり笑い終えた後で、ナザレは唐突に真顔に戻る。
「言い残すことはあるか、オストー?」
「……ぁ……」
「ちっ、痛めつけすぎたか。しゃべれもしないんじゃ面白くねぇ。かといってあまりヌルい損傷だと反撃を許していたかもしれんからな。まぁいい」
ナザレは、オストーの胸に刺さっていたナイフを、よじりながら抜き取った。
オストーが弱々しい苦悶の声を漏らす。
ナザレは回収したナイフを、親指と人差指でつまむように持つ。刃先は、白目になって苦しむオストーの喉の真上にある。
「おーい、オストー。こいつが見えるかぁ? 俺が手を離したら、おまえの命は燃え尽きる。神様は基本的に不滅なんだってな? 味わったことも、想像したこともない死の恐怖はどんなもんだ? おい、返事をしろよ、俺を楽しませられないんなら、俺の指が滑っちま……」
ナザレの指が、血まみれだったナイフの柄でつるりと滑る。
ナイフが落ちる。
ナイフは、地面に転がる「ナザレ」の喉に突き刺さる。
「ぁかっ」
というのが、「ナザレ」――いや、ナザレだった肉体に押し込められたオストーの、最期の言葉となった。
ナザレが顔をしかめる。
「ふん……しまんねぇ終わり方だったぜ」
ナザレは手のひらに炎を生み、「ナザレ」の死体に投げつける。
死体は激しく燃え上がり、十秒もせずに灰になった。
「ありがとよ、オストー。俺に神の身体を献上してくれてよ。なに、おまえさんよりはずっとマシな神様になってやるよ」
ナザレが嗤う。
ナザレは、元は自分の身体だった灰を踏み潰し、聖櫃の上に手を置いた。
「こん中にも神様がひとり、か。吸い出したいところだが、今の一幕は見られただろう。そもそも、オストーのやつを封じるために生まれた神だってんだから、今の俺でも分が悪い」
ナザレは、聖櫃の周囲を回りながら、空中に指で印を描いていく。
「魔法陣、ならぬ、魔法立方陣だ。理論だけはできてたが、神でもないと使えん役立たずの技術だった。それがいとも簡単に扱える」
ナザレが愉快そうに笑う。
「オスティルだっけか。聞いてるんだろう、見てるんだろう。俺は、今からおまえを、聖櫃ごと世界の狭間――外なる宇宙に放り出す。聖櫃の中に封じられてりゃあ何もできんだろうが、またぞろコンジャンクションでも起こって解放されたら事だからな。俺はおまえの兄貴と違って慎重なんだ」
ナザレの言葉とともに、聖櫃が地面から浮かび上がる。
その周囲を、ナザレ言うところの魔法立方陣が囲んでいる。
「俺の研究によれば、聖櫃ってのは、そもそもが外なる宇宙からやってきた異物らしい。そいつの裏側に、ぎっしり溝が掘られてるのがわかるか? その溝の正体は文字なんだよ。この世界の文字とは異質だから解読するのは大変だった。結局、ごく一部しかわかってねぇ。言語そのものの難しさもさることながら、俺には理解できない異世界の概念が多出してるのが原因だ」
聖櫃が光り始める。
「おっと、時間がねぇ。こんな解説は、神が相手でもなけりゃする機会がなくてな。平々凡々が信条の俺だが、研究成果を誰かに知ってもらいたいという渇望は常にある」
ナザレが肩をすくめる。
「で、聖櫃だったな。昔々、滅びを迎えかけている異世界があった。そこに、一人の天才的な魔導師がいた。そいつは了見の狭いことに、なんとか自分だけでも助かれないかと思って研究に勤しんだ。その成果が聖櫃だ。そいつの用語によれば、方舟というらしい。そいつは出来上がった方舟に乗り込んで、滅びかけの世界から外なる宇宙へと繰り出した。が、外なる宇宙のことなんざ、何もわかってなかったらしい。方舟は広い広い宇宙をさまよった。方舟は悠久の刻を経て、ある世界――そう、このグレートワーデンに漂着した。中に、朽ち果てた魔導師の成れの果てを乗せたままな」
ナザレが聖櫃の蓋を軽く叩く。
「方舟を見つけたのは神代の賢人たちだったとされている。その時代、双子神オストーとオスティルは相争い、海は荒れ、陸は裂け、空からは雷雨と竜巻だ。人間にしてみりゃたまったもんじゃねぇ」
ナザレは、両手を胸の前で開き、そこに雷雨と竜巻を生み出してみせた。
「神代の賢人たちは、そう呼ばれるだけのことはあったらしい。方舟の仕組みを解析し、これは箱の内部にひとつの独立した世界を創り出す装置だと割り出した。そうでねぇと、外なる宇宙を乗り越えられるわけがねぇからな。つまり、方舟は、グレートワーデンと同じ一個の世界だってことだ。サイズはずいぶん違うけどな」
ナザレの右手には大きな光の渦が、左手には小さな光球が生み出された。
「神代の賢人は考えた。方舟の中に二神を閉じ込めてしまえば、この世界は平和になるのではないか? 神の力はあまねく世界に及ぶが、別の世界の中に閉じ込めてしまえば、神はこの世界に対して力を行使できなくなるのではないか? とまあ、そんなふうに思ったわけだ。で、その仮説はどんぴしゃり。方舟に、双子神オストーとオスティルを『保護すべき搭乗員』として登録したところ、方舟は勝手に双子神を自分の中に閉じ込めてしまった」
ナザレが両手をパンと打つ。
「方舟は、その中に神を封じていることから、いつしか聖櫃と呼ばれるようになった。神代時代には何人もいた賢人たちも、神の力が世界からなくなったことで、不老でも不死でもなくなった。で、人間と同じ寿命でおっちんだ。彼らの蓄えた知識のほとんどは継承されず、グレートワーデンは原始時代を迎えることになる。……ま、そっから先は言うまでもないよな。以上、俺の調べた話はここまでだ」
魔法立方陣が縮んでいく。
描かれた図形が聖櫃の各側面に張り付いた。
「というわけで、俺は聖櫃を本来の役割で使ってやろうと思ってるのさ。方舟に乗って、悠久の刻を外なる宇宙ですごすがいいさ、オスティル。神ですら懈怠から逃れられないような、果てのない時間旅行だ。どっか、よその世界に漂着できるといいな。もっとも、外なる宇宙はおそろしく疎な空間で、偶然他の世界に漂着する可能性なんざ……この俺でもとても計算しきれんほど小さなもののようなんだがな」
聖櫃が、徐々にその姿を透過させていく。
「じゃあな、会ったこともない女神さん」
聖櫃が、その空間から完全に消失した。




