第一話
「……此処は、何処だ? 俺は一体何を……」
頭が痛い、俺はどうしてこんな所に倒れている?
俺の記憶が確かなら、確か自分は──
ぼんやりと靄が掛かった様な記憶が徐々に鮮明になって来る。
確か俺は高校からの帰り道に……あぁ、そうだ。
「確か、そうだ。小さな女の子が車に轢かれそうになって……」
その時、足が竦まずに動けた自分を褒めてやりたかった。
考えて動くのではなく、咄嗟に身体が動いていた気がする。
ただ、助けなければ、という気持ちだけがあった。
女の子を助ける為に、その子を庇ったまでは良かったが……。
「どう見ても、病院なんて物じゃないな……なんだ、此処は。確かに病院は真っ白な空間だろうが、此処まで何も無い所じゃないぞ」
俺、天久 翔の居る空間は明らかに普通の空間じゃなかった。
今しがた、立ち上がってみたが遠くを見ても、ただ白く、地平線すら見えないまっさらな世界。
足を踏みしめてはいるが、これでは何もない中空に浮いていると言ってもおかしくはなかった。
「そもそもの問題は、これを俺が当たり前のように受け入れてるっていう所が一番腑に落ちないんだが……」
もっと混乱しても良いんじゃないのか? とすら思うほどに自分は落ち着いていた。
むしろ、懐かしさすら感じるのは、気のせいだろうか。
この、心の奥から湧き上がる……嬉しさと、寂しさの混じった感覚。
他にも、さまざまな感情が入り混じっていて、ちゃんと説明出来ないのがもどかしいのだが。
「……天国、とかじゃないだろうな」
「あながち、間違いではないと思いますよ?」
突然響いた声のする方に視線を向ければ、そこには女性が姿を現していた。
しかし、その容姿は明らかに日本人の物ではない。
長く腰まで伸びた髪は金を帯び、瞳は青く澄んでいる。
女神が居るとすれば彼女のような存在をいうのだろう。
顔の造形を見ただけでも溜め息を吐きたくなるほど美しく、薄布を纏ったその肢体もまた整っていた。
そして、何よりも特徴的なのは耳が細く、尖っている。エルフ、とかいう奴だよな……。
年の頃は見た目で判断するに20代前半といった所に見える。
そして何よりも、綺麗だ。そう思った。
他に褒める言葉の引き出しがない自分に内心苦笑したが、仕方ない。
そもそも俺自身、母親は愚か同年代の女子とも会話を殆どした覚えも無いのだし。
けれど、この女性を何処かで見た事があるような……。
「やはり、覚えていらっしゃらないのですね……」
こちらが彼女を見つめて、物事を思案していると彼女は寂しそうに表情を変えてそう呟いた。
「覚えていない?」
「私は女神イリューシア、そして、あなた様は地球においては天久 翔という名で生きていたと記憶しております」
こちらの質問を無視して、目の前に居る女神とやらは会話を進めるつもりらしい。
まあ、今は情報が欲しい。状況を思い返せば、何処かのネット上の小説にでもありそうな話を思い出してそれはありえないだろう、と首を僅かに小さく振った。
「名乗られたなら、名乗るのが礼儀じゃあるか……あぁ、確かに俺は天久 翔だ。確か、学校の帰り道に女の子が車で轢かれそうになった所は覚えているんだが」
確かめたくない、とも思ったが半ば確信している事を確かめる為に、問いを投げる。
「俺は、死んだのか」
「…………はい、ですがあなた様がお助けになられた小さな女の子は無事なのは確認しています」
僅かに長い沈黙の後、彼女はその質問にイエスと返した。
「……16にもなってなかったってのにな。施設の皆にも、恩を返さなくちゃと思ってたが……そうか、親不孝者だな、俺は」
俺は昔、小さな赤ん坊の頃に施設の前に俺は捨てられていたらしい。
母親も父親も誰かは知らないが、その事については今更恨んでいるだとかそういう感情は持ち合わせては居なかった。
ただ、自分を此処まで育ててくれた先生や同じ様に育った兄弟達の事は俺なりに大切にしていた。
「ですが、立派な事を為したのだと思います。でなければ、あなた様のお助けになられたあの子が亡くなっていたのですから」
何かを抑えるような、悲しげな表情をしながらイリューシアはそう呟いた。
その目端には僅かに涙が滲んでいる。
「おいおい、止めてくれ。あんたは神様なんだろう。俺の気持ちを慮ってくれるのは嬉しいが泣く事はないだろう……未練がない、とは言えないけどな。最後に良いことが出来たんなら、それで良い」
親に捨てられてしまったこの命でも、確かに生きていた意味があったに違いない。
今はそう俺は切り替える事にした。少なくとも、演技には見えない涙を流すこの女神に八つ当たりをする気にもなれなかった。
女の嘘を見抜けるほど経験値がある訳ではないのはさておいて。
「それで、これから俺はどうなる。あんたは俺を案内してくれる死神か?」
もしそうだったら、せめて天国に連れて行って欲しい。生きている間多少のやんちゃはしたが、それらしい悪行はしていない筈だし。
……精々、女子の着替えを覗きに悪友と悪乗りをしたくらいだろう、たぶん。
「いいえ、違います。漸く……漸くです、あなた様が私達の世界に帰られる準備が整いました」
この時を本当に待ちわびていたかのように、彼女はゆっくりと俺へと手を差し出した。
「……帰る?」
「かの魔神が私達の世界、グローリアへと現れた時、私達神々は戦いました。人はまだ弱く、彼らに太刀打ち出来る英雄は現れていませんでしたから」
彼女は視線を俺に向けながらも、その視線は遠い別の誰かを見るような目をしている気がする。
「魔神の力は私達神々の力を合わせてもほぼ拮抗し、このままでは長い泥沼の戦いへと陥る所でした。しかし──当時、最も力を持った神が名乗りをあげたのです」
そこからは、黙ってただ彼女の話を俺は聞いていた。
何でも、その神とやらがその魔神を世界から追い返すべく、自らを構成する魂すらも削った力を使ったそうだ。
結果は成功し、魔神は世界から姿を消した。大地にも大きな傷は残したが人は生き残り、それを見守る神々もまたその多くが生き残った。
けれど、肝心のその神とやらは魂の欠損が激しく、そのままではただ消滅するだけの運命を辿る事になりつつあった。
そこで、他の神々──イリューシア達はその力を使って、その魂を癒す為に神よりも遙かに小さい器の人間へと魂を移して転生させたのだ。
いつか傷ついたその魂が、元の状態まで癒える事を願って。
……つまる所、イリューシアはその魂が俺だと言うのだ。
「何かの間違いじゃないのか?」
「いいえ、あなた様の魂をこの私が見間違える筈はありません」
断言されてしまった。しかも少し今何か目つきが怖かったぞ。
しかし、どうしたものか。結局、俺はどうすれば良いのか見えないのだが。
「あー、つまり俺はこの後どうすれば良いんだ?」
「二つ、選択肢があります。ひとつは、私達の世界グローリアへと転生していただくこと。もうひとつは……輪廻へと再び戻り、別の何かとして生まれ変わる事、でしょうか」
前半と比べて、後半は明らかにそうして欲しくなさそうなニュアンスが含まれている。
わざわざ準備が整った、とまで言っていたのだから俺……もとい、その神とやらが帰って来るのはずっと前から予定されていた事だったのだろう。
敢えて選択肢を二つ出したのは、俺への気遣いからか。或いは……まあ、それは良いか。
黙って考えこんでいる俺に抑えが効かなくなったのか、先ほどから目の前のイリューシアがそわそわしている。
最初に出会った時の女神らしい対応は何処へやら。今のほうが女の子らしいし、可愛いらしいとは思うが。
「解った。なら、連れて行ってくれ、そのお前達の世界に」
「……宜しいのですか?」
「正直、疑問もあるが……少なくとも、あんたからは嘘が見えない。何より、どうせ選べるなら俺が救った世界とやらに興味がある」
先ほどの話をすべて信じてる訳じゃないが、先ほどの話を聞くにどうやらグローリアとやらは魔法の存在する世界らしい。
魔神が居た当時の爪痕か、魔物も生息しており、冒険者何かも居るんだそうだ。
目の前にイリューシアがどう見てもエルフにしか見えないのもあるし、異種族も存在するのだろう。
冒険、その言葉が嫌いな男はそういまい。なにせ浪漫が溢れている。
「良かった、あなた様が了承してくださらなければ他の神にも叱られる所でした」
「あん……いや、いい加減名前で呼ぶべきか。イリューシアが一番偉い神様じゃないのか?」
「先程のお話を聞いていました? 私達の世界で最も力を持った神があなた様だったのです」
「……いや、そもそも今は居ない神なんてどうでも良いだろうに」
俺なら、実際に助けてくれる神を信仰するぞ。間違いなく。
「……生まれ変わっても、本当にあなた様は変わっておられませんね」
俺の単純な感想にピクリ、と柳眉を動かすイリューシア。
その後の言葉に明らかに怒気が混じっているのは、間違いない。
というか、何か後ろから変なオーラが見えるんだが。落ち着いてください、イリューシア様。
「ええ、ええ、そうでしょうとも。あなた様が居なくなって、どれだけ私達が嘆いたのかも知りませんものね」
「済まん、俺が悪かったから落ち着いてくれ」
反射的に謝罪をするが、どうやらそれでは駄目だったらしい。
「昔からあなたはそうです! 相談も無しに勝手に居なくなって、帰って来たらボロボロでっ! あの時程、私は自分の力の無さを悔やんだ時は、ありませんでした……!」
「あの」
「挙句の果てに、あなたは最後に俺が居なくても、お前達ならやっていけるさ、とか格好をつけて消えてしまって……!」
やばい。踏んだらいけない虎の尾どころか竜の尾を踏んでしまったかも知れん。
イリューシアが完全にスイッチが入ってしまったのか泣きじゃくっている。
誰か助けろ! と、言いたい所だが完全に今のは俺が悪い。
むしろ、それだけ大切に思われていたという気持ちの吐露なのだ。
突然居なくなってしまったかつての俺への、言いたくても言えなかった言葉。
だったら、今の俺に覚えが無いにせよそれを受け止めてやるべきだろう。
「なあ、イリューシア」
「……ぐす、なんでしょう」
「その、前の俺がどうだったかどうかは今の俺には分からないんだ。魂がどうだとか、まだ半信半疑だし……だけど、これだけは言える」
俺の言い聞かせる様な言葉に、イリューシアは涙を拭いながら耳を傾けてくれていた。
「皆を、そいつは信じてたんじゃないか。きっと、俺が居なくても皆がこの世界を幸せにしてくれる。他の皆を導いて、その世界を素敵な場所にしてくれるってさ」
勿論、本当はどうだったかは知らない。けれど、そう考えると俺自身が何故かしっくり来たのだ。
「あの」
「うん?」
「その、手が……」
ふと気づけば、知らない間に泣き止んだイリューシアの頭を俺の手がぽんぽん、と撫でていた。
しまった、子供達をあやす時の癖が出ていたか。
「あ、すまん」
言われて、すぐさま手を離す。
少なくとも神様にする様な事じゃなかった。何より、見た目も歳も俺より遙かに上だろうしな、イリューシアは。
「いえ、別に良いのですが……むしろ、もっと……」
「うん? 何か言ったか?」
「いいえ、何でも!……申し訳ありません、取り乱しました、本題に戻りましょう」
こほん、と咳払いをしてイリューシアは佇まいを元に戻した。
案外、彼女の素は先程の物なのではないだろうか。
「転生をする場合ですが、ゼロからやり直すか、それともある程度の年齢で世界に降り立つのかを決めて頂きます」
「どちらでも良いのか?」
「はい、これに関してはあなた様の意見の伺う事が神々の総意になっています」
「選択権があるのは良いことだな、じゃあ年齢はこのままで──そうだな。姿形もこのままで良いが、髪の色や瞳の色はそっちの世界で不思議じゃないのを頼む」
「……それだけで宜しいのですか?」
不思議そうに首を傾げるイリューシア。
「あぁ、何だかんだで俺はそう長くは今の人生じゃ生きられなかったからな。……どうせなら、別世界で続きをしても良いと思ってる。あと、カケルで良い。昔は偉かったかどうかは知らんが、俺は俺だ」
赤ん坊からのスタートとかだと、面倒な事もありそうだしな。
俺は嫌だぞ、意識を持ったまま母親の乳房から飯を貰うなんて。
「わかりました、カケル様。そう仰られるのでしたら」
様が取れて居ないが、それが最大限の彼女の譲歩なのだろう。
「それと、カケル様には様々な神の加護が与えられる事になると思います」
「ほう、神の加護か……名前だけ聞くと中々強そうなあれだが。まあ良い、後でのお楽しみにとっておくか」
この俺の選択が、実は後ほど大きな問題を引き起こすフラグになりえるのだが、今の俺にそれを知る良しはなく。
「それでは、早速転生なさいますか?」
「あぁ、そうするか。……基本的な生活知識くらいは教えてくれると嬉しいが」
「ふふ、それについては問題ないと思われますよ」
何やら、含む所がある笑いだがまあ、楽しそうだから良いか。
……さっき、泣かせてしまった負い目もあるしな。
くっ、女の涙がこれほど強烈な物だとは思いも寄らなかった。
「それではカケル様、また後ほど……お会い致しましょう」
「あぁ……うん?」
また後ほど、と言うのは一体──それを彼女に聞く前にカケルの意識は深く、水底に沈むかのように途切れたのだった。
最後まで読んで下さり、ありがとうございます。