エピローグ:誰が狂犬とメガネだったのか?
あの日、世界は歓声に包まれた。
最初の日、光の扉から現れた二人——特にリクだが、彼は常にハチを背に守りつつ周囲へ噛み付こうとしていたように王は思う。それはよくできた番犬か猟犬の様だった。
そんなリクが医療神官で、女性らしく荒事に縁のなさそうなハチが勇者。どちらも元の世界で戦う力を持っていてどちらも勇者たりえる資質があったからこそ召喚されたのだが、どうしてもその役割は皮肉にしか思えない。
「彼らの様子はどうだ」
「はい。本日も城内を見て回って、ずいぶんと皆に可愛がられているようです。以前の様子とは大違いですね。とはいえ、何か理由があれば迷わず報復を行ってもいるようですが」
「猟犬というよりは狂犬か」
冗談じみた態度で肩をすくめる王に、客人たちの様子を報告に来た老年になる宰相が笑った。この宰相もまた客人たちを可愛がるうちの一人だ。
誰とも慣れ合わず必要最低限のやり取りをし、自分たちだけを見て、守り、信用し、周囲を警戒し解決には実力行使を連発したリクと、こちらに協力的に見えはするが積極的には連れを止める様子がなかったハチ。そんな彼らは旅を終えてみればずいぶんと変化を見せていた。
リクの狂犬ぶりは変わらないものの、その怒りの対象以外にはよく笑い、興味を持って見学をしている様があちらこちらから報告されている。態度も威圧的ではなく、幼い者や逆に歳が祖父母ほど離れている者たちには特に評判が良かった。
「この国で犯罪に遭わなかったそうですし、それも変化の理由としては大きいのでしょう」
「そうだと嬉しいが」
「そればかりか厄介ごとの解決もしてくれたそうですよ」
国にとって犯罪率は一番の信用材料でもある。密偵たちによるとそう大きな犯罪には遭わなかったようだ。報告を受けた時には宰相と二人、ほっと胸を撫で下ろした。
ところで密偵たちは報告時にところどころ言葉を濁していたか、または揃って旅の苦労ばかりを語っていた。濁された内容が気になりはするものの、明らかに国に関わらないことは報告しないこともあるため王も宰相も深くは聞いていない。
「通常の行軍では片道で二月半かかるところを、余分な荷物がないとは言え往復で三月か。その上で細々と動いておったとは……まぁ、そのおかげで不快な思いをする暇もなかったのだろうが」
「そのようですな。本当に頭が下がります」
世界の理たる魔王を倒す旅だ。存在の一端を掴まれた足手まといばかりが彼らの後を追っても仕方がない。しかし旅の間に様々な問題あることも事実。質素な生活をさせてしまうことを悔やみつつ、それでも極力目立たず妙な連中に絡まれないよう、諸々を考えたうえで共をつけて送り出したものだ。
そうして出来る限り身動きを取りやすくしたものの、本来であれば王も宰相も、解決まではもうしばらくかかると予想していた。何しろ国を二つほど越える必要がある。出発から期間まで三月だが、いくら他国の協力があるとはいえ普通の速度ではない。ましてや片手間に付近の問題を解決して回っていたとは。
王たちの想像を裏付けるように、選ばれた精鋭である剣士と魔術師が帰還時には憔悴しきっていた。詳細を語ろうとしないその様子からは余程の無理が見られる。魔王を含め様々な問題を最速で解決してくれたことはこの世界の人間としては嬉しい誤算ではあるが、ケロリとしている頼もしい客人たちと自分たちとの差に王は苦笑を浮かべた。
(さぁ、約束は為された。これより先は、我々が為す手番だ)
苦笑に緩んでいた表情をさっと引き締める。彼らが帰還して今日で二日。そろそろこの身に潜んだ障り『たち』が恥知らずにも権利を主張し、彼らを絡め取ろうと浮かび上がる頃だ。
「誰かあるか」
「はっ」
声をあげれば、隣の小部屋に控えていた男が入室をしてくる。彼ならば客人たちとも面識があるため、伝令としても信頼できるだろう。手元の紙にさらりと何事かを書き込むと、王は宰相を通して男へとそれを渡す。
「これを客人たちに渡すように」
「かしこまりました」
その紙には『三日後召喚、褒美は即帰とされたし』と書かれていた。
呼び出された二人の子供たちは、最初の日と同じくお互いを守るように立っていた。
「アレが勇者とその共か」
「ふむ、見目も悪くない」
「しかしまだ幼いが」
「それは後ろ盾があれば」
——人が集まるところには自動的に権力もまた生まれる。それはいずれ顕示欲へと成長し、そこに馴染まない者を弾き出してしまうだろう。椅子は彼らの思う数しか用意されていない。その上それは、だんだんと減っていくのだから。
「本当にあの子供たちが魔王を討伐したのだろうか」
「精鋭すら近づけぬ魔王を——?」
先祖から伝えられてきた記録の一文を思い出し、王は肩がどっと重くなるような気がした。場に集まるのは選ばれた椅子に座る者たち。文官の家もあれば武官の家柄もあり考えの道筋こそそれぞれだが、目的はそう変わらない。目先の危険から解放されたことでタガが外れたのか、王の椅子にすら欲の目を向ける者が幾人もいた。
「あの子供達を手に入れられたら……」
「——の椅子も」
「王も」
「女や男、金で釣れば簡単なことだろう」
賞賛に紛れた疑問や嘲笑で、軽く伏せられたリクの眉間に刻まれたのは深いシワ。その右隣に立つハチは困ったように眉を下げている。数秒後、何を思ったのかリクがおもむろにハチの左手を握り、そのままぐっと頭を上げた。その顔にはもう何の表情もなかった。一見落ち着いたようにも見えるが、宰相はいつリクが暴れ出すかと迫る爆発に肝を冷やす。
(まったく、現金なことで情けない)
自分の身の上から危険が去ればこの様子で、本人たちは小声にしているつもりのそれが聞こえていないと思っていることが滑稽でもある。二人の表情から彼らにもしっかりと聞こえていることが分かったが、王はもはや意識することもない無表情でのしかかる疲労感を押し隠した。
「此度の戦果、実に見事だった。協力を感謝する」
「まぁ、そんなに大変でもなかったんで」
「言いおったな」
穏やかな顔でのほほんと——言い換えるなら内心を読み取れない顔で言うリクに、ハチもまた疑いようもなくにっこりと笑っている。直前の顔を見ていなければ騙されただろうと、王もまた微かに苦笑いを浮かべた。
「いくつもの村や町からも感謝の言葉が届いておる。本来の役目以外での協力にも重ねて感謝を。……して、何か褒美を取らせたい。望むものはあるか」
こちらから頼んでおいてずいぶん上から目線であることは分かっている。本来であれば玉座に座らない予定だった男は、その感覚がむしろ貴族たちよりリクたちに近い。
正直を言うならば金でも女でも、例えば土地であっても、およそこの世に存在する者ならば何を望まれても応えられる。確かにこの国は大国と言うほどではないが、褒美に関しては周辺国が協力を確約しているからだ。しかしそれではいけない。
時間がかかれば欲深い者たちに付け入る隙を与えるばかりか、下手をすれば取り込まれて客人たちを元の場所へ還すことすら叶わなくなるだろう。それはリクとハチが危険をおして助けたはずの、この世界の人間による裏切りだ。
二人が勇者として力を見せつけ、そして貴族たちが油断している。今が一番良い機会なのだと王たちは判断した。
「では」
『勇者』ハチではなく『医療神官』リクがすぅっと息を吸うのが見える。彼らは徹頭徹尾、リクだけが交渉を行っていた。
「今すぐに、この場で俺たちを元の世界に還してください」
「あいわかった」
「では、そのように致しましょう。……さぁ、準備を」
宰相が声を上げて手を二つ叩くと、事前に集められていた技術者や魔術師たちが謁見の間に入ってきた。早急に集めたため情報が伝わりきらず、邪魔が入らない代わりに不快そうに声を上げる貴族たちもいた。しかし建前とはいえ王の御前であること、また自分の立場と便利な駒を天秤にかけ、表向きには不満の声は消え失せる。
「お待ちください」
しかしただ一人だけ反対の声を上げる者がいた。この場で褒美とされる期間を邪魔する者は反逆と捉えられる危険があるが、勇気のあることだと王はいっそ感心すらしてしまう。
「何か」
王ではなく宰相が問う。名前すら呼ばない対応に宰相、国政や秩序を司る者としての不快感を滲ませていた。
「何もそう急がなくとも、晩餐を開いてねぎらう程度なら構わないのでは?」
「と、言っておるが。客人たちはいかに?」
その整った顔が何の色も浮かべないまま勇者たちに向く。確かに実質何も渡してはいないのだ。せめてひとつでも望むものを渡したいと、晩餐会を開く気など全くない王は問う。哀れな貴族、そしてその周囲の貴族たちは隠しきれない笑いを浮かべた。
「同行した者は私の遠縁でもありますし、お許しいただけるなら私が取り仕切りましょう」
晩餐会こそ彼らの得意とするところで、正式な接触の機会さえあればどうにでもなると思っており確かにその通りでもあった。晩餐会は最低でも三夜。長時間彼らの話に付き合わされたなら、気が強いリクですら一晩すらもたないだろう。全体を整えるために相応の金は出るがその分の見返りも大きいと思えた。他の貴族も隙があれば食い込む気概が見える。
交渉力も権力もある貴族たちは処分もできず、慣れている王たちですら随分と苦労させられていた。普段はここまであからさまではないが、勇者という餌が目の前にぶら下がることで抑止が効かなくなっているのだ。
「晩餐会……」
少しだけ考えたリクがハチをちらりと窺い、ハチが何かを期待するようにその大きな目を輝かせた。相変わらず一瞬で彼らだけの会話を終わらせると、リクは申し訳なさそうな態度で頭を下げる。王や宰相を含めた普段の彼らを知る面々が、その殊勝な態度に驚いた。いっそ有無を言わさず暴れだした方が普段の彼らしいほどだった。
「元の世界が恋しいのでそれは遠慮します」
「さようか。確かに、無理やり呼びつけたはこちらであるな。帰還の準備を進めよう。良いな」
決定事項として伝えれば晩餐会を提案した者たちは苦々しげに引き下がる。彼らにとって勇者は大きな戦力だが、この世界にないならば『代わりなどいくらでもある』程度の扱いらしい。腹立たしいやら安心するやら複雑な心境で、王は技術者や術師たちを再び動かしながら言葉を継ぐ。
「ハチとリク、そなたたちがそこにいては作業ができぬ」
「どうぞこちらへ」
二人を呼び寄せて玉座の横に立たせる。敵対貴族たちの接触を防ぐ目的はあるが、勇者という大義名分と移動をさせる必要性があるため大声での反対意見はない。
「さて。代わりとは言えぬかもしれぬが、他に何か望むものはあるか」
水を向ければ『待ってました』と言わんばかりに少年は唇をニヤリと歪ませる。
「では、今から何があっても、兵隊さんたちを叱らないと約束を」
「……? それを望むならば良かろう」
思わぬ追加注文に王が首をかしげた。叱るような事案は今のところ何もない。当然、彼らの望みは自動的に叶えられるだろう。なんとも不可思議な内容だが王は頷いた。たとえ自らに害が及ぼうとも、この場では誰にも責を問わないことを密かに心に決める。
そのまましばらく。走り回る者が減り皆が見守る中で、光の扉が再びこの地に現れた。それは前回と様子が違い、空中ではなく床に設置された扉が最初から開いている。玉座を立ち上がった王は二人を引き連れて光の扉に歩み寄った。
「待たせたな。この扉に飛び込めば良い。……多少、行き先も底も見えず乱暴になってしまうのは心苦しいが」
「これくらいなら大丈夫ですよ」
扉というよりも底なしの穴のような状態だった。前を見たまま小声で詫びる王にリクはしかし全く動じない。
「そろそろいいか」
「何だ?」
ぼそりと吐かれた声に王がようやく視線をずらせば、こちらもまた真っ直ぐに前を向いたリクが妙に柔らかな笑顔を浮かべている。そのまま二、三回頷くと、彼は未だにしっかりと握っていたハチの手をおもむろに離した。
「ハチ」
まるでバネ仕掛けの人形のような動きでハチはリクを見上げ、次いで嬉しそうな顔をする。ふんわりと微笑むことはあれどこの世界で初めての満面の笑顔は存外可憐で、数人の男たちを釘付けにした。
「いいの?」
「分かってるくせに」
「ふふっ……ありがと。メガネ、預かってもらっていい?」
ハチが細い銀縁の眼鏡を宝物を扱うような丁寧さで外してリクに預ける。
「しょうがねーな」
「ちゃんと持っててね」
嬉しそうに笑う少女がやはり人形めいた動きで二、三度何かを確認するように跳ねた瞬間、謁見の間に風が発生した。
黒い風の足取りは恐ろしく軽やかで、もの慣れていない人々はうっかりとその姿を見失いそうになる。状況は遥か後方に置き去りだ。トップスピードのまま床を『タン』と軽く蹴れば、綺麗な踏み切りが力を全て距離に変える。音に回す力すら推進力に変えた小柄な体は理想的な軌道を描く素晴らしい跳躍で空を駆け、目標物の頭に小さな膝を叩き込んだ。
それは小柄で華奢な体格が生み出したとも思えないほど、兵士顔負けの見事な飛び膝蹴りだった。哀れな被害者は、最初にこっそりと暴言を吐いた貴族である。
「ぐは……っ!」
「うわ、来るな!」
「何を、う、わ、ま、待っ」
「私は何も言ってないげふぅぅぅ!」
風となったハチは彼女とその幼馴染が『こいつは失礼な奴だ』と判断した男へ躊躇なく膝を叩き込んだかと思うと、その勢いを殺さないまま周囲をもなぎ倒していく。その中には彼女たちを利用しようとした晩餐会の貴族も含まれていた。
時に腕を取り関節を極め、足払いによりでっぷりとした体を地に沈め、逃げる背に跳躍したかと思えば揃えた両足で蹴りを入れる。膝を踏み台にあごを蹴り抜いたかと思えば背中から床に倒れ込む。倒立の要領で地面を蹴り、その勢いで目標の頭へつま先をめり込ませつつ距離を取る。倒れた者の足を抱えたかと思えばその体を振り回して被害を拡大することさえあった。
そんな多彩な攻撃を彼女以外にとっては見境ない範囲に向けて見舞っていく。
細い手足が舞えば舞うほど怒号と悲鳴、それが謁見の間に広がり収集がつかなくなる。呆然としていた兵士たちもそこでようやく彼女とリクを取り押さえようと動き始めたが、その時には彼女は既に身を翻していた。
「じゃ!」
「お世話になりました」
軽すぎるリクの挨拶と直前の荒ぶり様をまるで無視したハチの丁寧な挨拶。それが意識に届いた頃には、二人はひょいと光の扉へと飛び込んだ後だ。まっすぐ飛び込んだ彼らへ王は賞賛の念を送る。例えば彼が命の危険にさらされた時に同じような光る穴があったとしても、あれほどの迷いない行動は不可能だ。
その間にも光を放つ紋様は徐々に光量を落としていく。それが消え失せた頃には、彼らの存在証明は床に沈み呻く人々以外には残っていなかった。
「まぁ、何だ。犯人がおらぬ。褒美の件もあるゆえ、この件で兵を裁くことは何人も禁じよう」
意味もない言葉を王は半ば呆然としたまま口にする。初めて見た時からつい先ほどまでは絶えず大人しく従順で、無力な少女そのものだったハチだ。思いもよらない彼女の暴行に騒然となる中、送還陣の作成に携わった術者の一人が「そう言えば」と呟いた。
「許す。言うてみよ」
「は、はぁ……同行していた魔術師が……ありえない、やら、このままじゃ私まで巻き込まれる、やら、殺されるやらと魘されておりました。そして最後にリク殿を呼ぶのです。不思議に思っておりましたが……」
「こういう事だったのだろうなぁ。一度や二度、本当にあの娘の攻撃に巻き込まれたのかもしれぬ」
「リク殿が許可を出した途端に活き活きしていましたね。あの身のこなしは相当に慣れたものでした」
思わずといった様子で宰相が零す。同じように感じた王は苦笑を浮かべただけだった。
落ちる、落ちる。まるでアリスのような自由落下はやがて何らかの力によって速度を緩めた。あの忌々しい女神だろう。リクに聞こえないよう、ハチは小さく舌打ちをした。
「何だ?」
「ううん、何でもないよ。あ、メガネ返して」
「ほらよ」
落とさないよう慎重に受け取ると、メガネをかけてハチはようやく安堵の息を吐いた。このメガネはリクと弟が選んでくれたものだから傷をつけたくない。だからこそハチを止めたい時のリクは前もってメガネを外すことを禁じ、ハチもまたそれに逆らえないのだが。
本当なら勇者はリクでも良かった。むしろ魔力や魔術、女神の力に最低限の資質しか持たなかったハチとは違い、リクは勇者として力を振るうための高い資質を持っていた。資質だけではない。興味がないように見えて他人のために親身になれる優しさもだ。事実、旅の途中で解決した問題もリクが気にしたから手を出しただけであり、ハチ自身はそのために暴れられる楽しさが大半を占めていた。
それを自覚していてなおハチは自分が勇者だと言い張り、ほぼ無理やり女神の剣を奪い取ったのだ。
ただでさえ子供である上、女の身で勇者を名乗ることは愉快なことばかりではなかった。あの腰の低い王が最大限に風除けをしてくれていたものの、人が人である以上は完璧にはなり得ない。ひとつの事象には必ず陰陽の両面が発生し、応じて両極の声が波紋のように発生する。今までの経験からそれを本能的に理解していたためハチは反感も甘んじて受け入れていた。
リクが勇者にならなければ何でも良かった。
最初こそ直感に任せた行動だったが、あの『自分に協力するのが当たり前』とでも言いたげなクソビッチの声がリクに届かなかっただけでも、色々なものを曲げた価値があったとハチは思う。ハチは自分が思考に向いていないことを自覚している分、野生の勘とも揶揄される自らの直感を信用していた。
「そろそろ、か?」
「そうだね。あ、底だ」
足がゆっくりと、そっと底につく。僅かによろめいたその時、白ばかりだった空間が爆発した。極彩色が弾ける視界が眩しい。慌てて目を庇うこと長く——あるいは、一呼吸分の時間の後か。まぶたと腕の上からでも見える光が落ち着いた頃に二人が目を開ければ、そこは西日の射す通学路だった。
「……時間、五分くらいしか経ってないよ」
スマホをしまって息を吐くのはハチ。存外機嫌のいい幼馴染を視界の端に収め、リクはリクで、何となく一息をついた。まずは巻き込まれた事件に。そして、二人が無事に戻れたことに。いくら王が身を保証していても、本当の意味での安息はなかったのだ。特に隣に時限爆弾のような幼馴染がいる状況では。
「そうか」
「うん。今なら暇つぶしにだって行ける時間だよ」
「やめとけ」
リクの制止にハチは頬を膨らませて不満を見せたが、それもすぐに消えて諦めたように肩を竦める。銀縁のメガネをそっと直して幾分上機嫌に空を見上げているが、許可を出せばすぐにでも。出さずとも明日には巡り合わせを自分から探して、正当防衛を主張できるシチュエーションで『暇つぶし』と称した乱闘騒ぎを起こすくらいには目が離せない。
蜂谷美緒。間島陸斗の小柄な幼馴染はその見るからに清楚な容姿とは裏腹に、ご近所と一部界隈では『狂犬ハチ公』と異名を持つ女である。
ある時は後ろに押し込んで、自分が常に相手とハチとの間に入るようにして。時にはハチが暴れるより先に自分が暴れて——リクにとっては多方面で残念なことに、彼がどう暴れたところでそちらの方が被害が少ないのだ。基本的にはハチが勝手に動かないように手をつないだままにして。アシュケプトに召喚された瞬間からリクがどれほど苦労してこの狂犬を抑えていたのか、あの国の人々は想像もできないに違いない。
乱闘騒ぎにしても市街地に出現する魔物相手であること、それ以前にこの世界にも魔物や魔王がいるからこそ許される暴挙だが、それでもおかげさまでリクには交番勤務の知り合いが何人もできた。
「疲れた。帰るぞ」
「リクは体力がないからなぁ」
「うるせぇ。お前と一緒にすんな」
何気ない言い合いも二人だけでは久々だ。随分長かった五分間をそっと『過去』にして、ハチはそっとリクの少し後ろを歩く。
リクはハチを常識という周囲の目から。ハチはリクを、あらゆる物理的な危険から。お互いが無言で配置について、彼らは突然魔物が発生するいつもの帰り道を、いつも通りに歩き出した。