六,黄金の少女
そうして今に至る。
ひとまず一段落つけてはみるものの、寝落ちしてから今に至るまでの経緯が全く分からない。
寝たまま、夢遊病のように歩き回って他人の家に来てしまったのか、などと考えては見るものの、そうなればいったい自分はどれほど歩いてきてしまったのだろうか。
見る限り、家全体はログハウス、屋根裏部屋つき。
床に絨毯がひいてはあるものの、自分の家の近辺の住宅街にこんな時代錯誤の建物はなかったはずである。
観葉植物の鉢植えも見慣れない植物ばかり植えられている。来ている服がローマ時代の衣装のような着流しになっているのも奇妙だった。
そして何より目に付くのが空中をシャボン玉のようにふわりと漂う球体。
屋内でシャボン玉を吹くなどなんと非常識なことだ。
高校生になった今ではもうシャボン玉で遊ぶことはなくなったが、 『ひまわり』にいた頃はよく先生と兄と吹いたことがあった。そういえば、確かいつか真夏日に外に出るのが嫌でこっそり校舎でシャボン玉を吹いたこともあった気がする。
結局、先生にこっぴどく叱られ泣いてしまったけれど、今となってはそれも先生との貴重な思いでのひとつだ。
近寄るシャボン玉の一つを半身で軽く避けながら息をつく。
「お姉さん、だいじょうぶですか?」
「うぎゃっ」
突如視界を占領した人影にベッドの上で大きく後ずさる。
―ゴン
「ってぇ・・・。頭打った・・・。」
屋根裏部屋というだけあって、天井は三角屋根。
低い天井にぶつけた頭を抱えうずくまると、その小さな人影は申し訳なさそうに頭を下げた。
「ごごご、ごめんなさい。その、驚かせるつもりはなかったのですが。。。」
そう金の瞳を潤ませる彼女の頭部には同色の猫の耳。
そして背後に隠れた尾骶骨あたりから生えていると推測される黄金色の尻尾の毛先。
まるで値踏みするかのように頭から爪の先まで眺める。
豪く完成度の高いコスプレだと感心の眼差しを向けていた小百合は何か思い立ったようで、北欧風の寝具から立ち上がり身を屈めた。
この時既に小百合は視界のシャボン玉のような虹色がかった透明の球体の存在を感知出来ないほど別のものに気をとられていた。
「そんな謝らなくていいよ。」
胡散臭い笑みを浮かべた小百合に女の子は首をかしげる。
「はい、あ、ありがとうございます…」
「それより、その尻尾とか耳とかどうなってるの?動いちゃってるってことは電動?凝った作りしてるのね。」
微笑で幼い少女に近寄る小百合。
震え混じりに一歩引き下がる少女。
「あ、あの……?」
わなわなと肩を震えさせ、ふっくらしたその幼い顔を上から見下ろす小百合に向ける。
覆い被さるように立つ小百合に身体を強ばらせる。
そうして、少女の耳に小百合の手が忍び寄っていった。
-パシッ
「え?」
弾かれた自分の手の感触に呆然とする小百合。
自分が何をされたのか瞬時には理解できなかったらしい。
そして一拍ついた後、少女の歪んだ唇が開いた。
「鱗まみれのきたねぇ手でさわってんじゃねえぞ、この魚風情が。俺のこの可憐で優雅な毛並みが乱れたらどうしてくれんだ、あ?これだから、水中の下等生物は。」
その愛らしい顔からは到底想像もつかない低く唸るような声。
それは確かに目の前の幼女から発せられていた。
と思う。
小百合自身、今の声が本当にこのベビーフェイスの少女の口から漏れて出たとは信じられなかったのだ。
「あの、今・・・。」
目を丸くする小百合に途端微笑んだ少女は何事もなかったかのように
「今、おかみさん呼んできますね」
と作ったような甘い声で言い残し、背を向けた。
―数分後
再び木製のはしごが軋む音がすると、30代前後ほどの黒髪の女性がのっそりと顔を出した。
「先程は下のものが失礼致しました。ささ、どうぞこちらへお越しください。朝食を用意いたしましたので、ぜひお召し上がりください。」
女将と呼ばれたこの女性に一体どのような口調で、声色で自分の事を伝えたのか気にならずには居られなかったが、場を弁え、あまり言及しないことにした。
「あ、いえ。私の理性というか、諸々がブレイクしちゃたといいますか。
その、こちらこそすみません。ところで、あの、ここは・・・。」
「そのことは食事の際にお話いたしましょう。」
丁寧な言葉遣い。育ちの良さが思われる。
女性が朗らかな笑顔で手招きをするので、誘われるままに小百合は躊躇うことなく体を屈めて梯子のほうへと向かった。
「綺麗な家ですね。」
きちんと整頓された書物や所々に飾られた絵などを眺めながら下階へと降りていく。すっかり忘れていたシャボン玉風の球体は他の部屋にもふわふわと幾つも浮かんでおり、それが一層部屋を幻想的に仕上げていた。そして目の前で靡く美しい髪に魅せられたかのようにおもむろに微笑む。
「お姉さんも美人さんですし。」
何気なく発した言葉。しかし直後予想以上の反応が返ってきた。
それはもう、後退りしたくなるほどに。
足を止め、小百合の一歩先に立つ女性は急に振り向いて、ついさっきとはまるで別人のように眼球をずるりと小百合に向ける。瞬間、何か気に障ることを口走ったかと緊張に息を呑んだ。
しかし、どうやらそれは杞憂に過ぎないようだった。
「あら、やだわ。お姉さんだなんて。まあ、なんて教養のある子なのかしら。いえ、あたし位の年ならやっぱりお姉さんよね?ね?だけれど、たまに居るのよね。思わぬ不届き者が。
美を理解できない可哀想な輩がね。
あいつらと来たら、このあたしをおばさんだのアラサーだのと。次あったら・・・・。」
「あ、あははは・・・ひ、酷い輩ですねえ。全く。はははっ。」
拳を震わせる彼女にその怒りに巻き込まれまいと差障りのない相槌を打つ。
その後も長々と独り語り続ける女性の横で苦笑しながら、彼女を宥めるのはダンボールをカッターで切り開くよりも相当苦労の要る仕事だった。
いっそ、失言をしてさくっと叱られるほうがましだったかもしれない。
疲れ果てたようにうな垂れる小百合に気づいた女性は我に返ったのか、はっと声を上げた。
「あら、だめね。あたしったら。ごめんなさいね。
料理が冷めてしまうわね。急ぎましょう。」
「はい・・。」
話が終り、安堵感に思わず弛んだ笑みを零す。
そうして二人は小さな踊り場で止めていた足を再び進め始めた。