五,心を打つ雫
ストーリ上の都合により、第4話を改編しました。
続けて呼んでくださっている方は、誠に申し訳御座いませんが、戻って読み直す事をお勧めします。
作者の勝手な行動、どうかお許しいただけるようよろしくお願いします。
「今日、文化祭の準備するかもしれんけど、後片付けだけしっかりな。」
疲れきった様子で担任はそう皆に注意する。
無論、疲弊しているのは生徒も同様である。
進学校であるがゆえに一つ一つの授業が重い。まして理系教科に関して言えば、集中力を切らせばそのすばやい授業展開についていけなくなる。一年の間はまだ良いとして、二年に上がれば授業は実技教科を除いたものとなるらしい。今この調子で一年後やっていけるのかどうか。皆小さな不安の種を抱えていた。
担任も進学クラスを任されたプレッシャーに時折顔を歪めていいるらしい。
幾ら新米の先生ではないにしても、40名の優秀な生徒の成績を確実に維持、向上させることなど到底不可能である。どれほど教師が熱を入れて話そうとも、生徒自身の勉強に対する姿勢がなっていなければ意味がない。
そして勉強に気を向けさせるのも教師に委ねられている現在の教育で、彼の背負う責任というのはただの生徒、16年しか生きていない生徒には理解し得ないものなのだろう。
そうして大きく息をつく生徒と教師ではあるが、教師とは違って生徒の何人かの瞳は希望を抱いていた。
二週間後開催される学校の一大イベント、文化祭があるからだ。
待ってましたと机を隅に寄せ、準備に取りかかる。
一方で、そんな彼らを他人事のように眺めながら小百合はそさくさとユニオンジャックのマークがあしらわれたリュックに予習の必要があるものだけを詰め込んでいく。そんな小百合の背中に一つの影がにじり寄っていた。
「残るよね。」
背後から弱点である脇腹をそぉっと撫でられ、目を丸くした小百合は女の子らしく「きゃっ」としゃがみこむかと思いきや、「うぎゃっ」という声とともに脇腹をおさえようとした腕がそのまま後ろに振りかざされ、肘が後ろにいた芽衣にクリーンヒットした。
「ふわぁ・・・痛いってぇ・・・。」
小百合が振り返ると芽衣は笑い混じりに肘のあたったお腹を抱えていた。傍目にはただ腹を抱えて笑っている芽衣とそれを冷ややかに眺める小百合という構図に見えるのだろうが。
「条件反射でやっちゃうんだよ。」
「どこに条件反射で肘でアタックする屈強な女子がいるの!?」
「君の目は節穴だね?ここに、さっ!」
背景にドヤッというオノマトペが表示されそうな勢いで小百合は手を腰に当て、高らかに笑って見せた。
これには芽衣も少々参ったといった様子で眉尻を下げて、一息ついた後にまだ痛むのか、お腹を左手でさすりながら話題を本筋に戻した。
「はぁ・・・、ところで、残るよね。」
「何に?」
「文化祭の準備。」
「なんでよ?」
「それこそなんでなの?楽しみじゃないの?楽しいよ文化祭!」
「君にいわれてもなぁ・・。」
首をかしげながら、考えているとクラスメイトが続々と折りたたまれたダンボールやビニールの紐など準備に使うと思われる品々を床に並べだした。
「まあ、いいよ。」
「そうだね、強制するものでもないからね・・・。って?今なんて?」
腕を組んで納得っといったように頷いていた芽衣は予想に反した小百合の答えにすぐさま頭を上げた。
「だから、別に残ってもいいかなって。今日バイト定休日だし。」
基本めんどくさがりで集団行動は常に他人事のように眺めている、少なくともたった数ヶ月で芽衣にそういうものだと断定させる小百合の普段の態度からすれば、芽衣の驚きようはけっして大げさではない。
むしろ、バイトが休みだからといって、通常の小百合ならばイベント事に参加しようなんて自分から言うはずもないのだ。
訳が分からずに口をあんぐりあけて棒立ちしていた芽衣は暫く後に、はっと気づいたように小さく跳ねるとその間抜けな顔は、何か企んでいると言わんばかりのにやけ顔へと変わっていった。
「あははぁー?さては、あのひとですかぁ~?」
小百合はきょとんとした顔で芽衣の指差す先を見やると瞬く間に目をそらした。
「ちっ、違うよ!そんなんじゃないよ!」
「ほんとにぃ~?」とニヤニヤしながらこちらを見上げる芽衣に少しめんどくささを覚えた小百合は、芽衣に一声かけると、彼女の背中を押しながらダンボールのおいてある家庭室へと足を向かわせた。
作業開始から30分。
小百合はひたすらダンボールをカッターで切り展開する、という単純作業に没頭していた。
周囲から、幾度となく「代わろうか?」と声はかけられるものの、小百合からすれば一番楽な仕事だったのだ。日頃作業に参加していない小百合には大まかな計画さえ分からないし、何より何も考えなくていいからだ。楽しくないだろうと思われるかもしれないが、小百合は小百合なりに顔には出ていないが、なかなかにその作業を楽しんでいた。
一枚、また一枚とダンボールの山から新しいダンボールを取り出し、広げ、もう一方の山に乗せていく。
そろそろ無くなる。そのことに気づいた小百合は教室の中心で熱心に話し合いを広げる集団に声をかけることなく部屋を後にした。
「そういえば、芽衣ってば誘っておいて教室にいないけど何してんだろ・・・。」
ちょっとした疑問を胸に家庭室に向かう。
特進の教室は学年を問わず全て最上階である5階に設置されている。
一方で家庭室などの実技教科の教室は一回にまとめられているため、正直なところかなりダンボールをとりに行くのは面倒である。しかし、何もしないで教室に残るのも、話し合いに加わるのもまっぴらごめんと考えている小百合からすれば、こちらの方がましであるのは明らかだった。
文化祭準備でにぎわう階段を一人降りていく。踊り場では恋人同士と思われる人々が仲睦まじくお喋りしていたり、生徒会役員のバッジをつけた生徒が壁に装飾をつけたりと様々である。
そんな彼らを横目で見ながら昨日の夜のことを思い出す。
兄と喧嘩した。自分の大好きな兄と。理由は家族、義理の家族のことだった。
小百合はずっと一緒にいたけれど、兄のあんな風に怒り、あきれ果てた様子を見たのは初めてだった。
本当は今朝からずっと昨日のことが夢であってくれと思っていた小百合だったが、おはようも言わずに家を出て行ったあの背中を思い出し、泣きそうになるのを飲み込んでいた。
(お兄ちゃんだけでいい・・・。もうお兄ちゃんしかいないのに・・・。)
今日バイトがないにも拘らず、家に帰らず学校でこんなことしているのも本当は家に帰りたくないからだった。お兄ちゃんに会いたくない。会って、また冷たい態度をされたら・・・。
小百合は不安で胸がいっぱいだった。
手伝いなんてするつもりは毛頭なく、適当な店で時間をつぶそうと考えていたが、手伝いに誘ってもらえたのは、思わぬ幸運だったと小百合は改めて感じていた。
情けない顔で階段を降りているといつの間にか一番下の段まできていた。
不安を握りつぶすように手に力を入れ、作業を早く再開しようと家庭室へ急ぐ。
パソコン室の横を通り抜ると向かって右側に電気はついていないものの、夕焼けで明るく染まった教室が見えてくる。家庭室だ。
さっき行った時、室内で自分たちのクラスのダンボールが黒板に近いほうにあったことを思い出し、前の扉を開けようとしたときだった。
「誰かいる?」
教室内で人の足音としゃべり声、それに大きく伸びた二つの影がある。
目が合っても気まずいと思った小百合はとっさに視線を足元に落とすが、聞き覚えのあるその声にぱっ顔を上げた。
ドアの窓から見えたのは男にすり寄る芽衣と、彼女を抱き留める男、鈴原だった。
自分の足音なんて気にせず小百合は家庭室の前から走り去った。
もう後のことなんて知らない。
誰かが自分の名前を呼んでいる。その声も小百合の耳には入らなかった。
来る時はあんなに時間をかけた階段をあっという間に駆け上がり、教室のドアを乱暴に開ける。
そして、驚いた表情の面々に
「用事ができた」と吐き捨てるとリュックの片紐を一方の肩にかけ、中央階段をひたすらに降りていった。
静寂に満ちた生徒玄関。一人髪の毛を解く。
見るとそのガラス戸は雨に濡れ、景色は滲んで見えた。
奇妙な感覚。不思議と涙は出なかった。
どんより地に影を差す雨雲、地を叩きつける大粒の雫。
なんとお誂え向きな事だろう、と小百合はビニール傘を片手に空を眺め、恍惚としていた。
哀れな少女を気取るでもなく、惨めさに肩を震わせるでもなく、ただうっとりと空を眺めていたのだった。
そして何の色もない傘を空に広げることもなく、帰路に着く。
辺りには忙しなく行き交う鉄の塊。
街路樹や道路沿いの紫陽花の蕾は雨の訪れに手をたたいて歓迎する。
改めて天を仰ぐと一面に広がる灰色の雲は一切の光を遮断している。
雨が頬を伝う。水滴は首から下へ、シャツの中に流れ込んでいく。
冷たい。
水分を含んで尚うねりを帯びた黒髪は透けたシャツに張り付いている。
前髪から滴る水は俯き歩く彼女の足元へと着地していく。
至る所に点在する水溜りを気にも留めずに踏んだ彼女の黒靴は足先から順に靴下を濡らし、心ごと足を凍らせる。
そして小百合は時折吹く蒸し暑い風に僅かに身震いをするのだった。
不気味な音を奏でる信号機。横断歩道を渡り、ぼんやりとそこに佇む一つの家に目を向ける。
ブレザーのポケットを手で探る。鈴の響きとともに取り出した鍵を握り締め、オレンジの光の照っているその店の看板を一瞥し、鍵を差し込みかけたその手をふと止める。
お兄ちゃん、まだ帰らないはずよ。
彼女はそう自分に言い聞かせ、ノブをひねった。
家に入ると水滴を道標のように残しながら狭い廊下を突き進み、向かいの兄の部屋に見向きもせず、自室の扉を開ける。
ぴったりと薄っぺらの彼女の体に張り付くシャツを脱ぎ捨て適当なTシャツとジャージを身につけると、
真っ先にパソコンの起動ボタンに手を触れた。
「rain blossom」
現実なんてものはろくなもんじゃあ、ない。
自分の居場所さえ分からない小百合だったが、この世界の、ゲームの中でなら自分がいることを皆から肯定されている気でいた。人間らしくいられると思っていた。裏切られないですむと思っていた。
何もかもうまくいくと思っていた。
色落ちした淡い桃色のタオルを首にかけパソコン用のデスクに伏せると、暗闇の中光る画面を睨み付けながら、ゲームのローディングを小百合は待つのだった。
それから最後に小百合が聞いたのは、夢か現か判別がつかないが、自分の名を呼ぶ温かい声、そして肩にすれる毛布の音だけであった。