向日葵インザプール
うだるような暑さ。蝉の鳴き声。刺すように眩しく照りつける太陽。水面で乱反射する光の模様。湿り気を帯びた風、滴る汗。拭うことも、適わない。
夏は、嫌いだ。
絵の具の青を薄く伸ばしたような大袈裟な青空に、堂々とそびえる入道雲。これこそまさに夏。体感温度はすでに四十度を超えていて、これ以上プールサイドに居続けるのは危険な気すらして。
「鴨川先輩、休みましょうよ?」
水泳部の先輩に懇願する。しかし通じるはずもなくて。
「日向はヤワだね。あとちょっとだから頑張って」
あっさりと否定されてしまった。
「……はい」
やっぱり僕は夏が嫌いだ。なぜ水泳部に入ってしまったのだろうと思う。一番最初にプールに入れるのは水泳部員。部活説明でそう聞いて、ものすごく魅力を感じたことは覚えている。
けれど、プール掃除をするなんて、聞いていなかった。
「休憩入ったら何か飲み物買って来てあげるからさ」
部員がこんなに少ないとも聞いていなかった。少ないというか、来年の今頃は、僕ひとりだけになってしまう。今年の新入部員はひとりもいないし、僕の学年は僕だけ。三年は鴨川先輩と金谷先輩の二人しかいない。
ひょっとしたら、先輩たちが引退したら。僕が部長になるしかないのだろうか。それは結構困った話だ。ちょっとばかり面倒だし、何より僕には向いていない。
「僕、コーラが良いっす」
鴨川先輩のように面倒見も良くなければ、金谷先輩のように実績もない。大体、僕なんかが部長になったら、廃部になるに決まっている。間違いなく、僕のせいで。
「コーラね。かねやんは?」
「俺はいつもの」
「了解」
今の弱小水泳部をどうにか存続出来ているのは、副部長の金谷先輩のおかげだと思う。去年度の市の水泳大会における“中学生の部準優勝”は、やっぱり本当に凄い。僕はカナヅチだから、大会にすら出られなかったのに。
鴨川先輩は金谷先輩と違って、そんなに水泳は得意ではない。だったらなぜ水泳部に入ったのか、と前に聞いたら、泳げるようになりたかったからと言っていた。理由が僕と少しだけ似ていて、少しだけ親近感がわく。
けれど先輩は余裕で二十五メートルを往復出来るので、やっぱり僕よりずっと凄い。鴨川先輩の泳ぎは決して早くはないけれど、なんというか、とても綺麗で。滑らかな動きが魚のようで、僕はひそかに憧れている。
もちろん、恋とかそういうものではない。と、思うけれど。
「じゃ、私は買い出し行ってくるから。あとはよろしく」
確かに鴨川先輩は美人だし、どことなく華やかでもあるし。けれどやっぱり年上だし、部活の先輩だし、女性としてどうこうなんて考えられないし。
部活説明の時のあの笑顔だって、ただの営業スマイルだったのだ。今思えば。
「金谷先輩」
対岸でデッキブラシを操っている、金谷先輩に声をかける。
「鴨川先輩もいないし、少しさぼりません?」
「おう、そうしようぜ」
こういう話の判る性格が、金谷先輩の良いところだと思う。もちろん、泳ぎが早いところも。
僕はデッキブラシを片づけ、日陰になっている場所へと急いだ。走ると体温が上がるが、日なたに居続けるよりもましな気がする。本当はどうなのか、僕には判らないけれど。
「暑いっすね」
ようやく拭うことの出来た汗をタオルに含ませながら、僕は何ともなしに口を開いた。
「暑いなあ。今年は特に暑い気がする」
拭っても拭っても、汗は引かない。
「そうっすね。地球温暖化とか、そういうのも関係あるんすかね?」
引かないどころか、ますます噴き出してくる。だから僕は拭うのを諦め、Tシャツの裾をぱたぱたとはためかせることにした。腹にあたる空気が心地良い。少しだけ、気温が下がった気がする。
「ああ、あるかもな」
少し含みのある先輩の言葉に、僕は引っかかりを覚えた。けれど、問いただすわけにもいかないので。
「でもプール入れば涼しくていいっすよね?」
話題を転換して、気付かなかったふりをする。それが、僕に出来る精一杯だ。
「そうだな」
先輩の浮かない口調は、引退に対する不安だろうか。大会で上位に入ったとしても、来年の部員はカナヅチの僕だけ。このままだと、廃部になるかもしれない。
なんにせよ、次期部長が僕というのは、どうしようもなく不安だろう。僕が言うのもおかしな話だけれど、僕なんかに務まるはずがないのだ。本当に。
「……先輩」
「何?」
どこか遠くを見ていた先輩が、不思議そうな顔をする。
「僕、やっぱり泳げるようになりたいっす」
最初から、入部した目的はそれだった。
「俺がもう少し教えるのうまかったら、良かったんだけどな」
心底申し訳なさそうに答える先輩に、僕は違うと否定する。教えられても泳げないのはきっと、どこか期待しているからだ。
大会に出るような金谷先輩とは違い、自分のペースで泳ぐ鴨川先輩に、泳ぎを教えてもらうことを。
「僕の覚えが悪いんじゃないっすかね?」
鴨川先輩の流れるような動きは、僕を魅了する。早くはないし、自由すぎる型だけれど、誰よりも気持ちよさそうに水と戯れていて。
ああ、そうか。何だかんだと理由をつけて否定をしてはみたけれど、結局僕は、鴨川先輩のことが好きらしい。たぶん、きっと。
そう思うと、不思議とさみしい気持ちが湧いてくる。夏休みに入ったら、大会が終わったら、秋が来たら。先輩たちは引退してしまう。僕だけがプールに取り残されてしまう。
「日向はさ、動き自体は出来てるんだよな」
プールの水が、きらきらと反射している。
「ただこう、何つうか、ばらばらだから進まないんだろうな」
それはまるで、海底から空を見上げる魚の視界。
「息継ぎさえマスターすりゃ泳げるようになると思うよ、俺はさ」
ゆらゆらと漂い、水と戯れる。まるで、鴨川先輩のように。
「……怖いんすよね、水の中で息するの」
ああ、なんだ。僕は完璧に恋をしているじゃないか。否定のしようがないほどに。
「水の中じゃないだろ? 顔上げてんだからさ」
部活の先輩だから違うと思いたかっただけで、もう、ずっと前から。
「まあ、厳密にはそうっすけど」
たぶん、最初に見た営業スマイルに、僕は。
「……何さぼってんの二人とも」
唐突に頬に冷たい何かを押し付けられた。僕は驚いて、振り返る。
「ま、いいわ。休憩休憩」
眩しい笑顔の鴨川先輩がそこに立っていた。冷たいコーラの缶を僕に手渡し、金谷先輩との間に割って入ってくる。
「はい。かねやんはこれで良いんだよね?」
いつもの、で通じる仲が羨ましい。僕はいつも、コーラを飲んでいるのに。
「おう、サンキュ」
オレンジジュースを受け取り、金谷先輩が微笑む。
「あっちいなあ」
「ほんとだよねえ」
先輩たちの間に流れる空気に、僕は入ることが出来ない。いつもそう。学年の違いなのか、泳げないせいなのかは判らないけれど、僕だけいつも蚊帳の外に置かれてしまう。
別に良いけれど。いや、良くないか。
「……鴨川先輩」
無理やり割り込むのは、少し苦手で。
「何?」
少し戸惑う。
「どうやって泳げるようになったんすか?」
だからいつも、同じ質問を繰り返してしまう。僕と先輩との共通点。入部の決め手は、泳げるようになりたかったから。
「水がね、好きになったからかな」
スポーツドリンクを飲みながら、鴨川先輩は答える。
「私、息継ぎが出来なかったのよ。でもね、かねやんの泳ぎ見てたら、大丈夫な気がしてきたの」
ああ、そうか。鴨川先輩は、金谷先輩のことが好きなのか。
「……僕も泳げるようになるっすかね?」
少し不貞腐れたように、コーラを口に含む。
「なるんじゃない? 怖くないって判れば」
水は怖くない。僕が怖いのは、きっと。
「日向は大丈夫だろ。なんせ来年は部長なんだからな」
きっと、ひとり、取り残されてしまうことだ。先輩たちは、この夏で引退する。僕は残されて、来年はただひとり。ひとりでプールに入っても、水を好きになんてなれないから。
「でも僕カナヅチっすよ?」
鴨川先輩の滑らかな泳ぎを思い出し、水に浸かれば良いのだろうか。
「だから今季のうちにカナヅチ直せ。な?」
いや、きっと違う。
「金谷先輩、簡単に言い過ぎ」
先輩たちに追いつけないことが判っているから、僕は水が怖いのだ。
「大丈夫だって。鴨川も最初は泳げなかったんだから」
鴨川先輩には金谷先輩がいたから。なんて、口に出来るはずもなく。僕は黙って俯いた。
水面のきらきらが、一層激しくなっている。夕方の光が眩しく反射している。
夏色の水槽。泳げない魚。泳げない僕。
「そうそう。目標決めれば大丈夫だって……あ」
「そんな簡単じゃないっすよ」
僕はやっぱり夏が嫌いだ。眩しいふたりに追いつけないと、確信させられてしまうから。
「ねえ、プール! ふたりとも見て、きらきらしてる」
鴨川先輩が立ち上がり、感嘆の声を上げた。
「なんか花びらが浮いてるみたい」
水面より眩しい先輩が、目を細める。
「あの、ほら、ヒマワリ」
夏色の花の名を口にし、振り返り。
「ヒマワリの花びらを敷き詰めたみたいだわ」
夏に似た、眩しい笑顔を浮かべた。まるで、太陽のような。
「……鴨川、いつからそんなロマンチストになったんだよ」
金谷先輩の言葉に、僕もつられて笑ってみせた。けれど、確かに。僕にもヒマワリが見える。細長い花びらを撒いたように、きらきら、輝いている。
ヒマワリの中なら、怖くないかもしれない。
「……よし!」
僕は立ち上がり、プールへと足を運んだ。
「日向、どうすんの?」
「泳いでみるっす」
軽い屈伸運動をして、ゆっくりと体を浸す。冷たくて心地良い。水は、嫌いじゃない。
ただ、少しだけ、怖い。
「せーの」
鼻をつまみ、顔を浸ける。目を開けるとそこには、ヒマワリの花びらが敷き詰められていた。
不安定な形で漂い、僕を惑わす。けれど、花の絨毯の下なら怖くない。僕はきっと、泳げる。僕はきっと、呼吸が出来る。
身体を浮かべ、足を掻く。不格好なので全く進まないが、不思議と恐怖感はない。ヒマワリが、僕を包み込んでいるから。
鴨川先輩が、僕を見守ってくれているから。
ゆっくりと進み、溺れかけながらも呼吸する。犬かきの方が余程ましだろうというくらいに、ひどく不格好なクロール。僕の、精一杯。
一生懸命になって、夢中になって。気付けば、指先に固い壁が当たった。
足を下ろし、顔を上げ。振り返るとそこには、花びらで満たされたプールが広がっていた。
「すごいじゃん、ちゃんと二十五メートル泳ぎ切れてる」
「息継ぎ出来てたし、あとはやる気の問題だな」
陸上から降り注ぐ、先輩たちの声。僕は泳げたのだろうか。泳いで、ここまで来たのだろうか。
呼吸を乱しながら、プールサイドに戻った。少しぬるくなったコーラを口に含み、飲む。口の中ではじける炭酸が、水の中を思い出させた。
「日向いつの間に泳げるようになってたの?」
鴨川先輩が笑顔で訊いてくる。
「さっきです」
だから僕は、笑顔で答える。
「ヒマワリの中でなら呼吸出来ると思って、それで」
夏色の花の中でなら。先輩が、そこにいるなら。
「なんだよ日向もロマンチストかよ。俺だけ仲間外れみたいだな」
口では不貞腐れたようなことを言いながら、金谷先輩は楽しそうに笑っていた。
「……よし、日向。競争してみようぜ」
飲み終えた缶を壁際に置き、金谷先輩が準備体操を始める。
「無理っすよ。僕全然泳げてないし」
呼吸は上がったままだし。コーラはまだ残っているし。
「大丈夫、ハンデキャップ戦だ。俺が往復一回半で、お前が片道二十五メートル。これなら文句ないだろ?」
「そんなの勝てるわけねえっすよ」
僕は金谷先輩には、何一つ勝てやしないだろう。けれど。
「でも、勝ったら何かあるんすか?」
少しだけ、頑張ってみようと思う。ひょっとしたら、万が一。勝つことが出来たなら。
「……考えといてやるよ」
鴨川先輩に思いを告げてみるのも、悪くないかもしれない。なんて、コーラより甘いことを考えてみる。
ヒマワリの海の中、僕は金谷先輩と並ぶ。陸の上には鴨川先輩。たった三人の、プールの楽園。
「はい、用意して」
先輩の合図で僕は泳ぎ出す。二十五メートル先のゴールまで。その先にある、未来まで。
夏は嫌いだ。
けれど、僕は。ヒマワリの咲く季節は嫌いじゃない。




