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向日葵インザプール

作者: 戸雨 のる
掲載日:2013/07/30

 うだるような暑さ。蝉の鳴き声。刺すように眩しく照りつける太陽。水面で乱反射する光の模様。湿り気を帯びた風、滴る汗。拭うことも、適わない。

 夏は、嫌いだ。

 絵の具の青を薄く伸ばしたような大袈裟な青空に、堂々とそびえる入道雲。これこそまさに夏。体感温度はすでに四十度を超えていて、これ以上プールサイドに居続けるのは危険な気すらして。

「鴨川先輩、休みましょうよ?」

 水泳部の先輩に懇願する。しかし通じるはずもなくて。

「日向はヤワだね。あとちょっとだから頑張って」

 あっさりと否定されてしまった。

「……はい」

 やっぱり僕は夏が嫌いだ。なぜ水泳部に入ってしまったのだろうと思う。一番最初にプールに入れるのは水泳部員。部活説明でそう聞いて、ものすごく魅力を感じたことは覚えている。

 けれど、プール掃除をするなんて、聞いていなかった。

「休憩入ったら何か飲み物買って来てあげるからさ」

 部員がこんなに少ないとも聞いていなかった。少ないというか、来年の今頃は、僕ひとりだけになってしまう。今年の新入部員はひとりもいないし、僕の学年は僕だけ。三年は鴨川先輩と金谷先輩の二人しかいない。

 ひょっとしたら、先輩たちが引退したら。僕が部長になるしかないのだろうか。それは結構困った話だ。ちょっとばかり面倒だし、何より僕には向いていない。

「僕、コーラが良いっす」

 鴨川先輩のように面倒見も良くなければ、金谷先輩のように実績もない。大体、僕なんかが部長になったら、廃部になるに決まっている。間違いなく、僕のせいで。

「コーラね。かねやんは?」

「俺はいつもの」

「了解」

 今の弱小水泳部をどうにか存続出来ているのは、副部長の金谷先輩のおかげだと思う。去年度の市の水泳大会における“中学生の部準優勝”は、やっぱり本当に凄い。僕はカナヅチだから、大会にすら出られなかったのに。

 鴨川先輩は金谷先輩と違って、そんなに水泳は得意ではない。だったらなぜ水泳部に入ったのか、と前に聞いたら、泳げるようになりたかったからと言っていた。理由が僕と少しだけ似ていて、少しだけ親近感がわく。

 けれど先輩は余裕で二十五メートルを往復出来るので、やっぱり僕よりずっと凄い。鴨川先輩の泳ぎは決して早くはないけれど、なんというか、とても綺麗で。滑らかな動きが魚のようで、僕はひそかに憧れている。

 もちろん、恋とかそういうものではない。と、思うけれど。

「じゃ、私は買い出し行ってくるから。あとはよろしく」

 確かに鴨川先輩は美人だし、どことなく華やかでもあるし。けれどやっぱり年上だし、部活の先輩だし、女性としてどうこうなんて考えられないし。

 部活説明の時のあの笑顔だって、ただの営業スマイルだったのだ。今思えば。

「金谷先輩」

 対岸でデッキブラシを操っている、金谷先輩に声をかける。

「鴨川先輩もいないし、少しさぼりません?」

「おう、そうしようぜ」

 こういう話の判る性格が、金谷先輩の良いところだと思う。もちろん、泳ぎが早いところも。

 僕はデッキブラシを片づけ、日陰になっている場所へと急いだ。走ると体温が上がるが、日なたに居続けるよりもましな気がする。本当はどうなのか、僕には判らないけれど。

「暑いっすね」

 ようやく拭うことの出来た汗をタオルに含ませながら、僕は何ともなしに口を開いた。

「暑いなあ。今年は特に暑い気がする」

 拭っても拭っても、汗は引かない。

「そうっすね。地球温暖化とか、そういうのも関係あるんすかね?」

 引かないどころか、ますます噴き出してくる。だから僕は拭うのを諦め、Tシャツの裾をぱたぱたとはためかせることにした。腹にあたる空気が心地良い。少しだけ、気温が下がった気がする。

「ああ、あるかもな」

 少し含みのある先輩の言葉に、僕は引っかかりを覚えた。けれど、問いただすわけにもいかないので。

「でもプール入れば涼しくていいっすよね?」

 話題を転換して、気付かなかったふりをする。それが、僕に出来る精一杯だ。

「そうだな」

 先輩の浮かない口調は、引退に対する不安だろうか。大会で上位に入ったとしても、来年の部員はカナヅチの僕だけ。このままだと、廃部になるかもしれない。

 なんにせよ、次期部長が僕というのは、どうしようもなく不安だろう。僕が言うのもおかしな話だけれど、僕なんかに務まるはずがないのだ。本当に。

「……先輩」

「何?」

 どこか遠くを見ていた先輩が、不思議そうな顔をする。

「僕、やっぱり泳げるようになりたいっす」

 最初から、入部した目的はそれだった。

「俺がもう少し教えるのうまかったら、良かったんだけどな」

 心底申し訳なさそうに答える先輩に、僕は違うと否定する。教えられても泳げないのはきっと、どこか期待しているからだ。

 大会に出るような金谷先輩とは違い、自分のペースで泳ぐ鴨川先輩に、泳ぎを教えてもらうことを。

「僕の覚えが悪いんじゃないっすかね?」

 鴨川先輩の流れるような動きは、僕を魅了する。早くはないし、自由すぎる型だけれど、誰よりも気持ちよさそうに水と戯れていて。

 ああ、そうか。何だかんだと理由をつけて否定をしてはみたけれど、結局僕は、鴨川先輩のことが好きらしい。たぶん、きっと。

 そう思うと、不思議とさみしい気持ちが湧いてくる。夏休みに入ったら、大会が終わったら、秋が来たら。先輩たちは引退してしまう。僕だけがプールに取り残されてしまう。

「日向はさ、動き自体は出来てるんだよな」

 プールの水が、きらきらと反射している。

「ただこう、何つうか、ばらばらだから進まないんだろうな」

 それはまるで、海底から空を見上げる魚の視界。

「息継ぎさえマスターすりゃ泳げるようになると思うよ、俺はさ」

 ゆらゆらと漂い、水と戯れる。まるで、鴨川先輩のように。

「……怖いんすよね、水の中で息するの」

 ああ、なんだ。僕は完璧に恋をしているじゃないか。否定のしようがないほどに。

「水の中じゃないだろ? 顔上げてんだからさ」

 部活の先輩だから違うと思いたかっただけで、もう、ずっと前から。

「まあ、厳密にはそうっすけど」

 たぶん、最初に見た営業スマイルに、僕は。

「……何さぼってんの二人とも」

 唐突に頬に冷たい何かを押し付けられた。僕は驚いて、振り返る。

「ま、いいわ。休憩休憩」

 眩しい笑顔の鴨川先輩がそこに立っていた。冷たいコーラの缶を僕に手渡し、金谷先輩との間に割って入ってくる。

「はい。かねやんはこれで良いんだよね?」

 いつもの、で通じる仲が羨ましい。僕はいつも、コーラを飲んでいるのに。

「おう、サンキュ」

 オレンジジュースを受け取り、金谷先輩が微笑む。

「あっちいなあ」

「ほんとだよねえ」

 先輩たちの間に流れる空気に、僕は入ることが出来ない。いつもそう。学年の違いなのか、泳げないせいなのかは判らないけれど、僕だけいつも蚊帳の外に置かれてしまう。

 別に良いけれど。いや、良くないか。

「……鴨川先輩」

 無理やり割り込むのは、少し苦手で。

「何?」

 少し戸惑う。

「どうやって泳げるようになったんすか?」

 だからいつも、同じ質問を繰り返してしまう。僕と先輩との共通点。入部の決め手は、泳げるようになりたかったから。

「水がね、好きになったからかな」

 スポーツドリンクを飲みながら、鴨川先輩は答える。

「私、息継ぎが出来なかったのよ。でもね、かねやんの泳ぎ見てたら、大丈夫な気がしてきたの」

 ああ、そうか。鴨川先輩は、金谷先輩のことが好きなのか。

「……僕も泳げるようになるっすかね?」

 少し不貞腐れたように、コーラを口に含む。

「なるんじゃない? 怖くないって判れば」

 水は怖くない。僕が怖いのは、きっと。

「日向は大丈夫だろ。なんせ来年は部長なんだからな」

 きっと、ひとり、取り残されてしまうことだ。先輩たちは、この夏で引退する。僕は残されて、来年はただひとり。ひとりでプールに入っても、水を好きになんてなれないから。

「でも僕カナヅチっすよ?」

 鴨川先輩の滑らかな泳ぎを思い出し、水に浸かれば良いのだろうか。

「だから今季のうちにカナヅチ直せ。な?」

 いや、きっと違う。

「金谷先輩、簡単に言い過ぎ」

 先輩たちに追いつけないことが判っているから、僕は水が怖いのだ。

「大丈夫だって。鴨川も最初は泳げなかったんだから」

 鴨川先輩には金谷先輩がいたから。なんて、口に出来るはずもなく。僕は黙って俯いた。

 水面のきらきらが、一層激しくなっている。夕方の光が眩しく反射している。

 夏色の水槽。泳げない魚。泳げない僕。

「そうそう。目標決めれば大丈夫だって……あ」

「そんな簡単じゃないっすよ」

 僕はやっぱり夏が嫌いだ。眩しいふたりに追いつけないと、確信させられてしまうから。

「ねえ、プール! ふたりとも見て、きらきらしてる」

 鴨川先輩が立ち上がり、感嘆の声を上げた。

「なんか花びらが浮いてるみたい」

 水面より眩しい先輩が、目を細める。

「あの、ほら、ヒマワリ」

 夏色の花の名を口にし、振り返り。

「ヒマワリの花びらを敷き詰めたみたいだわ」

 夏に似た、眩しい笑顔を浮かべた。まるで、太陽のような。

「……鴨川、いつからそんなロマンチストになったんだよ」

 金谷先輩の言葉に、僕もつられて笑ってみせた。けれど、確かに。僕にもヒマワリが見える。細長い花びらを撒いたように、きらきら、輝いている。

 ヒマワリの中なら、怖くないかもしれない。

「……よし!」

 僕は立ち上がり、プールへと足を運んだ。

「日向、どうすんの?」

「泳いでみるっす」

 軽い屈伸運動をして、ゆっくりと体を浸す。冷たくて心地良い。水は、嫌いじゃない。

 ただ、少しだけ、怖い。

「せーの」

 鼻をつまみ、顔を浸ける。目を開けるとそこには、ヒマワリの花びらが敷き詰められていた。

 不安定な形で漂い、僕を惑わす。けれど、花の絨毯の下なら怖くない。僕はきっと、泳げる。僕はきっと、呼吸が出来る。

 身体を浮かべ、足を掻く。不格好なので全く進まないが、不思議と恐怖感はない。ヒマワリが、僕を包み込んでいるから。

 鴨川先輩が、僕を見守ってくれているから。

 ゆっくりと進み、溺れかけながらも呼吸する。犬かきの方が余程ましだろうというくらいに、ひどく不格好なクロール。僕の、精一杯。

 一生懸命になって、夢中になって。気付けば、指先に固い壁が当たった。

 足を下ろし、顔を上げ。振り返るとそこには、花びらで満たされたプールが広がっていた。

「すごいじゃん、ちゃんと二十五メートル泳ぎ切れてる」

「息継ぎ出来てたし、あとはやる気の問題だな」

 陸上から降り注ぐ、先輩たちの声。僕は泳げたのだろうか。泳いで、ここまで来たのだろうか。

 呼吸を乱しながら、プールサイドに戻った。少しぬるくなったコーラを口に含み、飲む。口の中ではじける炭酸が、水の中を思い出させた。

「日向いつの間に泳げるようになってたの?」

 鴨川先輩が笑顔で訊いてくる。

「さっきです」

 だから僕は、笑顔で答える。

「ヒマワリの中でなら呼吸出来ると思って、それで」

 夏色の花の中でなら。先輩が、そこにいるなら。

「なんだよ日向もロマンチストかよ。俺だけ仲間外れみたいだな」

 口では不貞腐れたようなことを言いながら、金谷先輩は楽しそうに笑っていた。

「……よし、日向。競争してみようぜ」

 飲み終えた缶を壁際に置き、金谷先輩が準備体操を始める。

「無理っすよ。僕全然泳げてないし」

 呼吸は上がったままだし。コーラはまだ残っているし。

「大丈夫、ハンデキャップ戦だ。俺が往復一回半で、お前が片道二十五メートル。これなら文句ないだろ?」

「そんなの勝てるわけねえっすよ」

 僕は金谷先輩には、何一つ勝てやしないだろう。けれど。

「でも、勝ったら何かあるんすか?」

 少しだけ、頑張ってみようと思う。ひょっとしたら、万が一。勝つことが出来たなら。

「……考えといてやるよ」

 鴨川先輩に思いを告げてみるのも、悪くないかもしれない。なんて、コーラより甘いことを考えてみる。

 ヒマワリの海の中、僕は金谷先輩と並ぶ。陸の上には鴨川先輩。たった三人の、プールの楽園。

「はい、用意して」

 先輩の合図で僕は泳ぎ出す。二十五メートル先のゴールまで。その先にある、未来まで。

 夏は嫌いだ。

 けれど、僕は。ヒマワリの咲く季節は嫌いじゃない。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 終わり方が良かったです!未来に向かって泳ぐような、何かが始まるような期待を込めるような終わるタイミングが絶妙でした!最後の3文は良かったです!前半の嫌いだ、と後半の嫌いだ、と同じ台詞ですが…
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