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鋼鉄の男11

 鋼鉄の男11


 要所要所をスターリンの警護隊が詰めるクレムリン内の廊下を案内係に誘導されてシルヴィアとくたびれたうす茶色のスーツを着た男が書類カバンを持って歩いていく。


 男は昨日、NKVDの監獄から解放されたばかりのもと政治犯だった。

 もと政治犯といっても大したものではない。男はパーヴェル・ミハイロヴィッチ・レービンという電気技師であり、主に博物館の配電盤の保守点検をして暮らしていて特に政治的な不満を漏らしたこともないごく一般の市民であった。

 男が逮捕された理由はバケツ一杯のジャガイモを盗んだと密告されたことによるものだった。男の職場は畑ではなく住んでいるところも農村ではないので明らかに冤罪であったが、男は同じ共同住宅に住むNKVDの運転手の妻と折り合いが悪く、いつもぞんざいな挨拶をしていたことを根にもたれた報いであった。

 人民の財産を盗んだ罪は重く、7年以上10年以下の矯正労働キャンプへの監置に処せられる。

 男は深夜NKVDの職員の訪問を受け、着の身着のまま横にアイスクリームの絵のついたバンに押し込められて本部に連れてこられ、取り敢えず職員に殴られて顔を腫らしたうえ読み上げられた供述調書にサインをさせられた。

 その後は床のぬかるんだ監房にぶち込まれ、直立不動のまま裸電球の下にいた(少しでも壁に寄りかかろうものなら看守から水をぶっかけられる)。

 2日間後、不眠のまま判事の前に引き出され、男は7年の判決を受けた。

 これは、男が森林地帯のラーゲリ送りとなって、ただで伐採業務に従事して7年の刑期を過ごさなければならず、刑期を終えた後も2度とモスクワ市へと戻ってくることはできないことを意味した。男には辺境の開拓村で電柱相手に暮らす未来しかなくなっていた。



 NKVDは撤退に際してすべての機密書類の焼却と政治犯をひとり残らず射殺するよう指令を受けていたので、男が昨日助かったのはまさに僥倖というところであった。

 監獄内で生きていた政治犯は男を含めて3人だけ。

 男女含めて59名の射殺死体が残されていた。

 男たちが生き残これたのは、中継監獄に送るためすでに一般の犯罪者と同じ雑居房に入れられていた、ただそのことによる。選別するのに手間取るとされ後回しにされていたのだ。



 昨日、男が解放された後、5000両の戦車の砲撃が効いたのか、クレムリンから白旗を掲げた使者がシルヴィアと魔女のもとへとやって来た。

 使者はクレムリンに停戦交渉の用意があると言う。


 このクレムリンからの申し出を聞いたシルヴィアと魔女は即座に拒絶の判断をしたが、それでもそれを秘して交渉のテーブルにつくことには了承をした。

 シルヴィアとしては体制転覆のためスターリンに直接会って弾劾するためのいい機会と思えたからである。弾劾の内容はあとで広く公表するつもりだった。

 魔女は現金にも「ヒゲ野郎に傷ひとつなく即時に賢者の石を引き渡すよう言っといてねえ」と言い添えてシルヴィアを送り出した。


 とはいえ、シルヴィアとてひとりでクレムリンに行くのは心細い。

 彼女は未だ捕虜も保護した人民も組織化ができていなかったので、政治犯であるとされたこの男を急遽参考人兼弾劾の証人として同行させることにした。

 当然男は嫌がり、今もシルヴィアのあとをついて歩きながらブツブツと不満をつぶやいている。


「タバリシ。君は殺されかけたのだぞ。悔しいとも思わないのか。文句の一つでも言う気にはなれないのか」

 男の余りにもめそめそした態度に苛立ってシルヴィアは一喝した。


「タバリシ・コマンジール。オレは一介の電気技師ですよ。平党員ですらない。社会主義国建設のお役に立つつもりは十分あるけど、それは電気に関することに限ってですよ。偉い人に向かってなんか言える柄じゃない」

「タバリシ。社会主義国の労働者ならいつでも社会主義の英雄になる心構えがあるはずだろ。今がその時だぞ」

 シルヴィアは右手で拳を作って構えてみせた。が、それでも男は渋い顔を見せるだけだった。

 

 それからふたりは案内役について長い廊下を黙々と歩いた。

 ふたりの小声は聞こえているはずだったが、案内係は素知らぬ顔をしていた。



 マリアカリアによく揶揄されているようにシルヴィアの社会主義についての思想はこれまでフラフラと変遷を続けた。

 彼女は公平という観点から見る限り社会主義という考え方そのものについては今でも正しいと信じている。

 しかし、思う。

 現実を見、過去の歴史を振り返ると、マルクスの考えを金科玉条のように扱うのは硬直過ぎる。誤りだ。

 特に革命家論。あれはダメだ。

 社会主義革命のような高度なものは一介の労働者が片手間にできるものではないから社会主義を信奉する知識人が主導しなければならないなんてただの驕りだ。それを発展させたレーニンやスターリンの外部注入論や前衛党論などなおさら。

 それらは、大して現実を知っているわけでもないのに自分たちならなんでもできると妄想した自称エリートどもが周りをさんざん振り回して迷惑をかけた上、結局自分たちが特権階級に成り上がるための理由付けにつかわれただけじゃないのか。


 党は前衛党論を振りかざして10月革命当初あれだけいた他の社会主義政党を自分たちとは考え方が違うというだけで革命の敵とレッテル張りして内戦を引き起こし、無用の血を流してまで国力を弱めてしまった。

 また、明らかに自分たちの政策の誤りなのにすべてを農民のせいにしていじめ倒しそれを正当化した。

 その結果、党は独善化してますます暴走をし、内部では権力闘争を激化させてスターリンの個人崇拝へとたどり着く。


 最悪だ。

 党を中心とした新たな階級社会の誕生。ノーメンクラツーラしか生まない考え方なんてわたしとしては断固として反対だ。

 社会主義はもともと搾取に苦しむ労働者を救済し人民全体が公平で豊かな社会を享受すべきとした考え方だったはずだ。だったら、他者に対していくつしむ感情こそが基本なのではないのか。

 レーニンは革命には人道主義やロマンチズムは不要だと言ったが、それは違う。なによりも根本に置かれるはずなのだ。


 根本に置かれていれば、粛清などおきはしない……。



 シルヴィアはピヨネールやコムソモールでした自分の言動を今では恥じていた。

 字も書けない幼い頃からレーニンを称える詩を暗唱させられる教育をうけたシルヴィアにとってレーニンを批判することは非常に辛い。


 しかし、これはわたしの贖罪。これからわたしがスターリンを弾劾することもわたしに課せられた義務。



 シルヴィアはやや緊張した面持ちで交渉のテーブルが設定された部屋の前に立った。

 やがて部屋の中から応答があり、扉が開けられ、案内役が下がり、シルヴィアたちが中へとはいる。

 だが、しかし……。


「ズドラーストヴィチェ。タバリシ。

 われわれ新生共産党政治局はこころから貴女を歓迎しますよ。もうスターリンはいません。われわれの前にあった黒い霧はすっかりと取り払われたのですよ。ええ。もう誰もあいつに気兼ねする必要はなくなったんです。

 さあ、どうぞどうぞ。おすわりになってください。

 われわれは貴女がたとともに交渉のテーブルを囲めることに非常な喜びを感じます」


 禿げてメガネをかけた小男がにこやかな顔で席から立ち上がる。

 シルヴィアはこの小男の正体を知っていた。

 ラベンチー・ベリア。NKVDの長官で大粛清の執行者だった。


 昨晩のうちにベリアたちは自分たちの生き残りをかけてクーデターを起こしスターリンを失脚させていたのだ。

 


 

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