鋼鉄の男10
鋼鉄の男10
鼓笛隊の刻むリズムにのり、縦隊から横隊へと隊列を変化させた何百ものナポレオン時代の戦列歩兵の群れが丘陵の頂へと行進を開始する。
8万人ぐらいいるのではないか。
1キロ後方からシルヴィアが無言でそれを双眼鏡で眺める。
制帽の真ん中に立てられた羽飾りの赤色。制服の袖の青色。胸の部分とたすき掛けされた肩帯の白色。
赤色。青色。白色。
そんなカラフルな色の大群が丘の上へと向かって殺到する。
♪ ピッポコポ ピッポコポ ピコピコ ピッポコ ポ ピコピコピコピッポコ ピコピコ ピッポコポ ポ ピッポコポ ピッポコポ ピコピコ ピッポコポ……
「撃ってェェイ」
丘の上からの号令とともにそのユーモラスで長閑な音色も丘の上に設置されたマキシム重機関銃の重い発射音でかき消されてしまう。
だが、色の大群は立ち止まりさえもしない。
まるで一個の角砂糖に群がる蟻の大群のようだ。
200メートル。150メートル。100メートル。50メートル……。
色の大群が迫るにつれ、丘の上の機関銃の銃手たちと保弾手たちの悲鳴が絶望の色に染まり始める。
塹壕にいる兵士たちも怒鳴りながら必死になってモシンナガン小銃で撃ちかける。
しかし、顔のない戦列歩兵たちは前進をやめない。
ザッ ザッ ザッ ザッ ザッ
12,7ミリの銃弾が当たっても誰ひとりとして倒れない。
戦列歩兵たちの横について歩いている三角帽をかぶった将校からは鼻唄すら聞こえる。
♪ ヤナヤナボンボン ヤナヤナヤナボンボン ヤナヤナボン、ボン、ボン ボン ボッボン、ボ、ボン
20メートルを超えた時点で兵士たちが怯えた顔でついに銃を投げ捨て逃げ出し始めた。
再び鼓笛隊のユーモラスな音色が聞こえ出す。
慌てたNKVDの少佐が味方を督戦するために塹壕から出て拳銃を空へ向けてぶっぱなしながら「同志スターリンと革命のために……」と言いかけるが、今度は空から飛来した軽騎兵のサーベルの一撃を受けてひっくり返る。
やがて丘の上は戦列歩兵たちの赤色青色白色で埋め尽くされた。
丘の上で三色旗が大きく振られる。
丘の上からはクレムリンの赤い壁を一望でき、戦列歩兵たちの歓声が何度も何度もあがる。
「終わったな」
シルヴィアは覗いていた双眼鏡を下げた。ドンスコイに張られたモスクワ川東岸の最後の防衛線が崩壊した瞬間であった。
シルヴィアと魔女たちの軍隊はモスクワ市から北東20キロにある州立公園から出発し、3つにわかれて、一群はライオン・ゴリナノヴォ、ヴォストチニ、リャザンスキー、ライオン・ペチャトニキ、渡河してここドンスコイと時計回りに進軍し、他の一群はライオン・ゴリナノヴォからホロシェフスキーを経てライオン・ラメンキ、ドンスコイと占拠して繋げ、モスクワ市の中心を囲む鋼鉄の輪を完成させた(ライオンとはモスクワ市を囲む行政区を意味する。もともとシルヴィアがナカムラ少年の冒険に付き合ったのも「赤いライオン」の語感に引っ掛かりを覚えたからでもあった)。
もちろんすべての幹線道路、鉄道、地下鉄の駅もしらみつぶしに占拠していき、スターリン以下党の幹部たちが逃げる隙を与えてはいない。さらに別の一群はオスタンキノを通ってドルゴブルドニまで足を伸ばし、シュレメチエヴォ空港を押さえて奴らの高飛びを絶対に許さない。
馬なしの金属製の馬具に跨って空中に浮いている西洋甲冑姿の騎士の後ろへ乗ろうとしているシルヴィアに向かって、魔女が跨った箒の上から声をかける。
「第一段階は成功したわね。わたくしたち魔女協会のおかげで。
で、これからどうするの?シルヴィアさん。
わたくしたちにはどうでもいいけど、今、市内は大混乱よ」
魔女の嫌味にシルヴィアは呻く。
包囲は完成した。あとは亡霊の軍隊と5000両の戦車を市の中心部へ投入しクレムリンを占拠すれば軍事的には勝利である。
だけれど、現状はシルヴィアの期待から大きく外れてしまっていた。
魔女の言うように市内は大混乱だ。通りは避難する住民で溢れかえった。
路上では親からはぐれた子供たちが泣き叫んでいる。重い荷物を持った老人が人の波にはじかれて怪我をしてうずくまっている。人の波の中押されて離ればなれになっていく恋人たちが絶叫し合っている……。
シルヴィアの目的はこの世界の社会変革であって、人民を巻き込んで被害を与えることではない。
魔女との取り決めでも絶対に民間人を傷つけない、軍人に対してもできるだけ殺傷しないという項目を入れさせていた。
シルヴィアとしては圧政の象徴であるNKVDを打倒しその本部前にあるジェルジンスキーの銅像を破壊すれば自然発生的に人民が蜂起すると楽観的に考えていたのだ。圧倒的な軍事力を見せつけ蜂起した人民の後押しをしてやれば、この世界の体制は簡単に変わるだろうとそう思っていた。
だが、このモスクワ市800万人の住民の大半は反体制派ではなく、平穏な暮らしをしているただの労働者や主婦や子供や年金生活者でしかなかった。彼らはある日突然その暮らしの平穏を破る事態が起ころうなど夢想もしていなかったのだ。
毎日エスカレーターを使って地下30メートルのところにある地下鉄の駅で電車に乗り込み職場に通う労働者たち。ピヨネールでレーニンを称える詩を朗読する団員の少女たち。市内にある公園の池にヨットのおもちゃを浮かべて遊ぶ子供たち。チストプルドヌイ並木道を腕を組んで散策する恋人たち。公園のベンチに腰掛け編み物をしながら孫のよちよち歩きを見守る老婦人たち。
何千万人もの粛清の事実について当局は完璧な情報統制を敷いており彼らの耳には直接届かない。彼らにもごくたまにうわさでそのことを知らされるけれど自分たちとは関係のない話であると信じきっている……。
失敗した。
シルヴィアは暗澹たる気持ちになるのを隠しきれない。
いま包囲した市の中心部に突入することはできない。空いてしまった時間を使って捕虜や保護した人民を組織化するより手はないか……。
働きもしないでどこからか掻払ってきたウオッカを飲んでいい気持ちになっている1910年代のコサック兵にシルヴィアは命令を出す。
「似非コサック。お前は竜騎兵を連れて『河岸通りのアパート』(モスクワ川東岸に建てられた党のエリートたちの集合住宅。505区画のアパートメントからなり、中には2つの劇場と数多くの小売店があった)まで偵察にいけ。占拠が可能なら住人を軟禁して外に出すな」
「わっかりました。タバリシ・コマンジール」
自称エフゲニーは槍騎兵らしく踵をつけまびしに二本指で敬礼すると、回れ右して立ち去った。
似非コサックは「こりゃ、略奪し放題だな。おい」と独り言を忘れない。
シルヴィアはコサック兵の後ろ姿を苦々しく睨みつけていたが、やがて魔女を振り返った。
「ゴーリキー公園を一群の駐屯地としよう。5000両の戦車を並べてクレムリンを砲撃する。
コンサートホールには作戦本部を設置する。幕僚たちを集めてくれ。
……あと、占拠したストロヴァヤ(人民食堂)へ行こう。少し疲れた。食事をしよう」
「フーン。了承。そう出ますか。
でも、最後の指図が今まで聞いた貴女の提案のうちでいっちばんマシなものね。大いに賛成するわ。
どうせならキャビアとかイクラ山盛りの前菜にしてもらいましょうね。それとシャンパンも」
このあとのシルヴィアたちの食事にはキャビアやイクラはなかったが、モスクワ風ボルシチとキエフ風カツレツ(手羽先のついた鶏のカツ。切ると中からバターソースがにじみ出てくる。決してパパ・ブッシュの演説ではない)が出たうえ、甘い赤ワインがふんだんに付いたので、魔女は満足した。
魔女は満足するはずである。なんといっても魔女たちを若返らせてくれるという賢者の石まであとほんの数百メートルにまで迫ったのだから。




