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鋼鉄の男8

 鋼鉄の男8


 午後5時すぎ。


 今日も王女クリネックスは学園からひとりトボトボと歩いて帰ってきた。


 王女はマンションの出入り口で暗証番号を押し、エレベーターに乗り、5階の自宅の玄関前でカードを差し込む。

 中で待っている人はいない。彼女は7LDKもある広いところで一人で暮らしている。


 靴を脱ぎ、首に巻いている青いスカーフを解き、ハンガーに制服を掛ける。

 それから、私服に着替え、洗面所で手を洗い、うがいをし、顔を洗う。

 彼女は一旦帰宅すると外出することはない。コンビニへ行くこともない。電話で誰かと話すこともない。

 備え付けの洗濯機のスイッチを押し、冷蔵庫からミネラルウォーターの瓶を取り出してキッチンのテーブルで開ける。そして、ため息をつく。


 彼女がこの順番を変えることはない。


 夕食は、レトルト食品を電子レンジで温めるかインスタント食品にお湯を注ぐだけで済ませる。

 彼女のカードには毎月相当な金額が振込まれるが、彼女がカードを使うことも現金を引き出すこともない。宅配されてくる日用品と食品だけですべて済ませている。


 部屋にはテレビもパソコンもない。電化製品は電子レンジと洗濯機と掃除機があるだけ。


 王女は日常を死んだようにして暮らしている。

 春野ひなたという高校2年生として。


 王女には春野ひなたとして生きてきた記憶が一切ない。

 勇者にされかけたことも偽の女神として振舞うよう暗示をかけられたことも記憶にない。

 春野ひなたとして生きる日常では、自分が王女であることすら忘れてしまった。


 王女にとり安息は眠ることだけ。

 夢の中だけは護衛騎士フランチェスコと暮らした王女としての記憶が蘇ってくるから。



 王女の夢の中で蘇ってくるフランチェスコはいつも困った顔をしている。


 王女自身もその理由を知っている。よく分かっている。

 フランチェスコの兄ドン・カルロが王女に強い思慕の念を抱いていること。兄思いのフランチェスコがそのことを知っていること。また、王女の侍女のベアトリスがフランチェスコを愛しており、フランチェスコもまたベアトリスのことを憎からず思っていること。


 だが、王女は自身の気持ちを抑えきれない。親しい間柄のベアトリスを押しのけてもフランチェスコを独占したい。


 暗がりでフランチェスコとベアトリスが夢中で口付けをしているのを見たとき、王女はもう我慢できなかった。

 フランチェスコを呼びつけ、鼻血が出るまで平手で殴った。それから彼を置き去りにして泣きながら、彼を殴った右手を叩きながら長い廊下を走った。走った。


 ここまで思い出すと、王女は夢の中で完全に自身を取り戻す。


 それから、それから……。


 ああ。そうだわ。思い出したわ。


 春のある日、わたしは無理を言ってフランチェスコだけを供にして遠乗りに出かけ、雨宿りのあばら家でフランチェスコとはじめて口づけを交わした。


 あの日から苦くて辛くてそれでいて全身が痺れるような日々が始まったのだわ。

 あの日からわたしは狂ってしまった。心の中の最後のタガが外れ、彼以外のことはどうでもよくなった。

 彼のわたしに対する感情に一喜一憂した。

 わたしは彼の奴隷になった。

 彼の心がわたしから離れていくことを恐れた。非常に恐れた。

 わたしは彼のご機嫌を取ろうと必死になった。


 王女なのに。彼の主人なのに。 


 それからしばらくして、ベアトリスは荷馬車に轢かれて死んだ。

 わたしが命じたのではない。わたしがしようとしたことに対する警告の意味でベアトリスが選ばれて罰を受けたのだ。

 わたしはフランチェスコが恨むと危惧したが、彼はかえってわたしを慰めた。


 わたしはひどい女だ。


 ベアトリスの死を悼む気持ちもおこらなかった。もうベアトリスのことを気にかけなくてよくなったとの開放感さえあった。私の心の中に占めるのはただただフランチェスコにどう思われるかということだけだった。


 そして、まもなく破局が訪れた……。



 午前7時。


 いつものように王女は目覚める。


 洗面所でうがいをし顔を洗う。それから冷凍庫から凍った食パンをとりだしレンジに入れてスイッチを押す。

 7時45分までに身支度を済ませ、8時に靴を履いて学園へ向かう。




 こうして王女の春野ひなたとしての日常がまた繰り返される。

 王女は夏姫に人質として乙女ゲーム中に連れ込まれたことをまだ知らない。

 



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