鋼鉄の男7
鋼鉄の男7
トマス・ベケットは気づくと、自身が勇者たちの元いた世界に似た異世界で高校の英語教師となり、教壇に立ち、生徒たちに古英語を現代語訳しながらシェークスピア時代のソネットを教えていた。
だから彼は非常に混乱した。
周りは知らない人間ばかりだ。それなのにオレがここにいることを誰も不審そうに見ない。
話している言葉も実に不思議だ。知らないはずの言葉なのにスラスラと口から紡がれる。もっとも、イントネーションは生徒たちのと多少違うようではあるが。
そして、教えているのは英語。
英語?
それも異世界ですらもう使われていない古英語。
そんなもの、オレは知らないはずだ。
だが、オレは知っているし、馴染んでもいる。元の世界で使っていた日常語のように。
なぜなんだろう。
「……続きを読んで」
トマス・ベケットは指名していた生徒に朗読の続きを促す。
一重瞼だが、目と眉毛との間が少々離れていて間の抜けた印象のある小柄な女の子がなぜかため息をつき、ゆるゆると柔らかな声で続きを読み上げる。
「人が息をし、目がみうるかぎり、この詩は生きる。そして、この詩がきみにいのちをあたえる」
恋愛のソネット。
暗殺と疫病が日常だった時代。人の生は儚く、直ぐに過ぎ去る夏のようなもの、あるいは花火か。
それゆえにこそ、この時代の恋愛は真剣であり、そのソネットも儚く美しい……。
ああ、オレのいたところとまるで同じだ。
トマス・ベケットが朗読した生徒を席に座らせると、ちょうど終業の鐘が鳴った。
その後、生徒たちは三々五々と教室から立ち去っていったが、トマス・ベケットだけは未だに教壇の前にいた。
トマス・ベケットは臆病な人間だった。
彼は昔、司法学校にいた頃、ひとつの冤罪事件にかかわった。荷馬車の御者が王城からの宿下りの侍女を轢き殺したとされた事件だった。
当時、故意であれ過失であれ馬車が人を轢けばその御者は死刑だった。
現場を見ていた貧民の女の証言によれば、この事件は走る荷馬車の前に怪しげな男たちの手によってぐったりとした様子の侍女が投げ出されたことによるもので、実際には馬車の轢殺ではなく男たちの手による殺人事件だった。
当然、御者は無罪放免となるはず。
だが、そうはならなかった。侍女は何らかの秘密を知り口封じのため消されたらしく、裏から御者の裁判に政治的な圧力がかかったのだ。結局、御者は死刑となるところをもったいぶったわけのわからない理由で刑を一等減ぜられて5年間鉱山への徒刑を命ぜられた。
当時若かったトマス・ベケットは怒り、事件の告発文を書いた。しかし、それを読んだ彼の父は告発文を燃やした上で彼に謹慎を命じた。
裁判官たちも事件に裏のあることはよくわかっていた。だからこそ御者を死刑にしなかったのだ。現状では最善の手が尽くされたのだ。これ以上ことを荒立てても誰も得をしない。釈然としないが、仕方がないのだ。忘れてしまえ、と。
当時のトマス・ベケットは父の言い分もわからないではないが、それでも怒りが収まらない。再び告発文を書くと、今度は木版で大量に印刷してビラとして広場に撒こうとした。
しかし、ビラは撒かれることはなかった。
木版彫りの職人が密告して彼は王室顧問官たちの私設の秘密警察に捕まり、拷問されたうえ「今後は一切政治活動に関わりません」との誓約文まで泣きながら書かされたのだ。
以来、彼は臆病者になった。学生時代に覚えた魔薬草も何の役にも立たなかった。シルヴィアに会いシルヴィアに惹かれてもそれは変わらなかった……。
「もう学園でお教えになることにも慣れられましたわね。ベケット先生」
トマス・ベケットは飛び上がるほど驚いた。
さきほど朗読をした女子生徒が話しかけてきたのだ。幼い声色のはずだが、なぜか大人の、それも非常に艶のある女の声に聞こえる。
彼が顔を見ると、先ほどの少し間の抜けた印象はすっかり消え去っており、鉛筆で直線書きしたような黒い眉と上目遣いと透明な感じのする白い肌の色が彼女を知的にも逆にエロチックにも見せる。
彼は自分の心が女子生徒に惹かれ始めているのを感じた。
「君の名前は?」
「あら。先生は生徒の名前を覚えないタイプの方なのですか」
女子生徒はにっこり笑うと名前を告げた。
「わたくしは乃木坂夏姫と申します」
乃木坂夏姫はトマス・ベケットを乙女ゲームに引き込んだ張本人である。
「恋愛には詩人が必要不可欠」
これが、恋愛についてある固定観念を持つ女狐が己の世界を完成させるためトマス・ベケットを引き込んだ理由であった。




