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赤いライオン5

 赤いライオン5


 自分の過去を直視することは辛いことである。

 しかし、シルヴィアはそれをした。


 シルヴィアは1958年にレニングラードで生まれた。


 彼女の祖父と父親はスターリン時代の粛清を免れただけではなく、出征することもなく、後方で当時奨励された密告という手段を使って競争相手を蹴落として出世街道を邁進し、ついには保養地に別荘が持てるほどの立場に至った(もっとも、スターリンの死後(1953年)の雪解け時代にはかつて密告してラーゲリに追いやった連中が名誉回復されたせいで、彼らに復讐されるのではないかと夜もおちおち眠ることができない日々の続いたこともあったが。彼らにとってべリアの銃殺は衝撃的だった)。


 もちろん彼女が幼かった時分にはそんなことを露も知らない。

 小学校に上がってもピヨネールに入団しても、共産党の幹部の子弟というだけで周りからチヤホヤされて完全に舞い上がっていた。

 そして、持ち前のリーダーシップを発揮したおかげでピヨネールを退団するころには模範的な青年党員になるであろうと目されていた。

 学校時代にはスポーツの高得点を叩き出したおかげで、モスクワでの合宿の切符を手に入れた(ソ連時代では国内パスポート制が採られ特別な理由がない限り旅行ができない。青少年にとりスポーツ選手に選ばれることは非常に名誉で楽しみのあることだった)。彼女にとってこのときモスクワのグム(有名な百貨店)を巡ったのは忘れられない楽しい思い出だった。


 こういった輝かしい生活の裏で彼女には今では思い出したくない過去もあった。


 たとえば、いじめ。


 シルヴィアが無気力な非党員の子弟を学校でいじめたことも一度や二度ではない。恒常的と言ってよかった。


 あるいは、ピヨネールで奉仕活動に熱心ではないと同年代の女の子を吊し上げたこと。


 当時はそれが正義の行いだと信じていた。


 今では彼女は思い出すたびごとに酸に焼かれるようなこころもちがする。 しかし、もう取り返しがつかない。

 ひとを殴りつけてから反省しても遅いのだ!



 彼女は考える。

 そして、暗い気持ちになる。


 人を殴りつけたり貶めしたり軽蔑したりするのは、もしかしたらわたしの一族の血統によるのかもしれないな。

 もちろん、それをするときには後先も考えないし反省などもしない……。


 なんて嫌な血筋!


 また、彼女はこういうことも思い出す。


 彼女には作家の叔母がいた。

 

 別に大した才能の持ち主ではなかったが、党の意向に非常に敏感でおもねるような作品を書くことがうまかった。

 その叔母は「作家とか芸術家っていうのは自由奔放なのよ。みんなキラキラ輝いた生活を送っているわ」が口癖だった。

 そう言っていろんなものを軽蔑していた。


 党の作家連盟に属する人間は確かに特権階級だった。

 党から自動車、家、別荘、キャビアからタバコまでふんだんに与えられた。

 芸術家連中が世の中をバカにしながら寄り合って連日のごとくどんちゃん騒ぎをする。それが日常茶飯事だった。


 まさに酒とバラの日々。


 ただし、それは党からにらまれない限りのことだった。


 党の意向に逆らった作家たちはどうなったか。


 作品の出版禁止処分を受ける。

 作家連盟からの排斥。

 最終的には党員証の剥奪。


 そうなると、もう書くことはできない。書いても出版できず、誰にも相手にしてもらえない。つまり、書くことで食べていけなくなる。


 華やかに見える作家たちも内心では戦々恐々としていたのだ。


 シルヴィアの叔母の知り合いの知り合いに17年ぶりになぜだか出版禁止処分を解かれた女性の詩人がいた。

 かつては有名な詩人だったが、スターリン時代の末期に当局におもねった者たちから作品の攻撃にさらされて、以来ずっと沈黙を余儀なくされた女性だった。

 その彼女が久しぶりに作品を出版できることになり(それもレニングラードで)、地方の作家連盟の会合に出席した後パーティに参加した。

 幼かったシルヴィアはなぜか叔母に伴われてパーティに出て、そこで件の女性詩人を見た。


 彼女はもう若くはなかった。

 そして、ひとりソファに座ってため息をついていた。


 落ち目になった人間には誰も近づこうとしなかった。

 たとえ若い作家たちの千倍もの才能が有り、かつて有名だったウラジミール・マヤコフスキーと君僕の関係で付き合っていたソ連を代表すると称された詩人であっても、である。


 叔母は決してその女性詩人を見ようとしなかった。


 シルヴィアは今では気づいた。


 叔母がいつも他人をバカにした態度を取るのは、そうすることで落ち目になった自分を想像することから逃れていたんだ、と。



 ◆◇◆◇◆  ◆◇◆◇◆  ◆◇◆◇◆  ◆◇◆◇◆



「図に乗るなよ、人間」


 シルヴィアに向かってヘーパイストスは不機嫌な面をして見せた。


「5000両の戦車を貸してくれだと?」


「同志ブレジネフがプラハの春をつぶしたときには3000両の戦車を投入した。チェコスロバキア一国でもそれだけかかるんです。

 一つの異世界だと最低でも5000両は要るはず」


「知るかそんなこと。

 こないだセットを貸してやったのはマリアカリアが精霊だったからそれなりに敬意を示してやったからにすぎん。あと商売の便宜を図ってもらえたからな。

 それに、おまえはエリザベスのように俺の弟子でもなんでもない。

 なんでオレさまがお前に好意を見せなきゃならんのだ。

 だいたいオレさまはおまえの面が嫌いだ。

 別れた前の女房にどことなく似ているところが気に食わん。

 帰れ」


「……」

「……」

「……」


 ……

 ……


「……分かったからもうやめてくれ。

 若い女に涙をこぼしながら睨まれたら、オレさまでもなにか悪いことしている気分になってくる。

 チッ。仕方がないから事情を聴いてやるよ。

 クソッ。

 なんでオレさまはいつもいつも女に寛大になっちまうんだ?手痛い仕打ちしか受けたことがないのに!」


「……」

「!」

「……」

「!!」

「……」

「!!!」


「そういう話なら了解だ。

 内情をばらすとこの世界の台所事情はとても苦しい。父上(ゼウス)が見栄を張って神さま連合に無理やり加入したんだが、加入条件の収支の帳簿を偽造したのがばれてうちの国債が大暴落しちまったんだ。

 今は1ドラクマだって欲しい。

 この世界の神様でまともに金を稼げるのはオレさましかいなくて本当に困っていたんだ。

 もう国際条約に反して大量破壊兵器を紛争国に売りつけるしかないんじゃないのかってほど追い詰められていたんだ」


「……」


「おお太っ腹だなあ。オレさまとしては4分6くらいかなと思っていたんだが、そこまでくれるというんだったら、オレさまもセットにオプションをつけてあげよう」


「……」


「……」


「……」



 1821年7月9日にサン・マルティンとシモン・ボリバルのたった2人の会談がその後の南米の運命を決定づけたように、どこかの世界の運命がたった二人の話し合いで決められることも大いにありうることである(正確にはひとりの人間のコピーと一柱のバツイチの神様と、だが)。


 それが不条理なのかどうなのかはまさに神のみぞ知る、らしい。




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