赤いライオン4
赤いライオン4
ヨシフ・スターリン。
これも偽名である。
本名はイオセブ・べサリオニス・ジェ・ジュガシヴィリという。
グルジア人。
正確にはロシア系グルジア人の母をもつ。
有名な独裁者。
スターリン主義の創始者。毛沢東も金日成もポル・ポトもその追従者に過ぎない。
そして、国際テロリスト。
生前は恐怖の対象であり、死後は忌み嫌われ批判の対象になった人物。
独ソ戦でのソビエット連邦の人的被害がおよそ2000万人と言われている(あくまでおよそである。開戦前の人口からみて生死不明になった人間がおよそ2000万人いたということらしい。)。
だが、この数字は彼の人の指令のせいで亡くなった人数に比べてそれほど多いとは言えない。
一つ例を挙げてみよう。
有名なものにホロドモールというものがある。
これは、彼の人がウクライナで起こした人口的飢餓(1932年―1933年)で、およそ数百万人(数は正確には分からない。)が死んでいる。
彼の人は自分に反対する者については好んで抹殺という手段を使っていた。
「敵には徹底的な打撃を与えるべし。憐みは不要である」
この、自分のライバルであったトロッキーの主張に彼の人は大いにうなずけるところがあったわけだ。
話しを戻すと、当時、ウクライナには民族主義者やコサックが多くいた。また、ウクライナのインテリ層は彼にとっては政策批判者という意味で潜在的な敵勢力だった。
たったそれだけの理由で、本来豊かな穀倉地帯であるところで飢餓が起こり数百万人が死んだ。
小麦ライ麦はすべて供出さされ、牛や馬のエサを食べることの禁止令が出され、最後にはジャガイモの供出と食べることの禁止が強制された(村々は集団化を強制され、密告が奨励された。民警が食料の徴発に当たり、コムソモールが人々を監視した。農民が陳情に来ても隠している食料でも食ってろと追い払われた。)。
結果は街のメインストリートに飢え死んだあるいは死にかけている人たちがゴロゴロと転がり、まだ生きて動ける人たちはそれを無関心に見て通り過ぎていくという地獄が現出した(アメリカのジャーナリストの手で撮られた当時の写真が現存している。)。
娘にウクライナの飢餓について聞かれたとき、彼の人は「それは社会主義をねたむ連中の作り話だ。みんな幸せに安楽に暮らしているさ」と笑いながら答えたという。
こういうことを彼の人は生きている間に幾度となく指令した。そして、その度に地獄が現出され、多くの人が死んだ。
そういうわけで、彼の人の指令のせいで生じた死者の数は、前出の2000万人の数字に比べて決して少ないとは言えない。
断っておくが、社会主義者あるいは共産主義者というのは、すべてがすべて暴力を賛美したり他者への無慈悲な仕打ちを喜んでする異常者ではない。
マルクスもそんなことは何一つ言っていない。
マルクスは「搾取」という一つの新しい言葉と一つの外れた予言(「脱工業化を果たした先進国では生産体制と社会構造との齟齬が生じるから革命がおこるのに違いない。論理的にみてその革命で労働者は搾取の対象から外れるはずだ」)を残したに過ぎない。
決してロシアのような遅れた農業国で社会主義革命がおこるなどと予言をしていない。
ただ壮年のころ、遠い将来の革命まで労働者が「搾取」されつづけなければならないのは気の毒だ。不公平を取り除くには暴力革命でも起こして権力を奪取するしかないよなあと口走ったことはあった。だが、暴力革命がおこった場合の悲惨な状況を憂慮して晩年には絶対反対の立場だった。
つまり、スターリンやその前任者のレーニンといった連中のやり方は本来の社会主義のものではない。
1910年―1930年代の社会主義者たちからみても、レーニンやスターリンの行動やそれを裏打ちする主義主張は異質なものだった。
大多数の当時の社会主義者たち(ヨーロッパ西側。特にフランス)は、極左行動に出ることに反対だった。彼らは19世紀から続く空想的社会主義者の正当な系統に属する。人道主義が彼らの根幹にあった。
彼らの大部分の主張は、真の社会主義革命(産業構造の変化)がおこるまで搾取されている労働者の生活水準を組合活動による交渉で漸進的に向上させていきましょうという極めて穏健なものにすぎなかった(ちろろん極左側からは、不公平に故意に目をつぶった日和見主義者等の批判があった。極左の連中にとって、現に搾取され続けて困っている労働者を目の前にしながら遠い将来まで我慢しましょうね、とほざく穏健派は堕落した許し難い裏切り者だった。)。
レーニンは少しはそのことについて悩んだ節がある。
レーニンは左翼かぶれの変人の貴族の息子である。父親はことあるごとに息子たちに労働者の悲惨な生活を説き、革命家へと洗脳した。それでも同時に前時代の教養も身につけさせていた。
だからレーニンには葛藤があった。
2月革命当時はまだよかった。しかし、メンシェヴィキ(穏健派左派)から権力を奪ったのち、共闘していた社会革命党(SL。極左テロ集団)を切り捨てるときにレーニンは悩む。
悩んだ末、切り捨て、武力闘争をして打ち勝ち、社会革命党を消滅させ、一国社会革命路線を邁進していく(このとき、世界同時革命などはたわごとと化した。)。
そして、その過程でいくつもの経済施策の失敗を犯した(無能さゆえに都市への食料の供給を途絶えさせて、慌てたレーニンもウクライナの農村から食料の強制供出させて人工的飢餓を作り出している。)。
これに対して、スターリンには葛藤はない。
根っからのテロリストであったから。
まず、生い立ちからして違う。
スターリンの育った当時のグルジアという地域(今もそうだが)は独自の歪な民族主義の蔓延る、荒っぽい土地柄だった。反ロシア的で、ロシア帝国のオフラーナ(秘密警察)ですら手を焼いた。喧嘩ではすぐドスが抜かれて流血の惨事となる。
その荒っぽい、幾分神話的な雰囲気の漂う土地柄のもと、彼の人は腕はいいが酒飲みの気性の激しい靴職人の父親に激しい暴力を振るわれて育った。さらに悲惨なことに幼年のころ馬車にひき逃げをされ、左腕が不具となった(フィルム上で左腕を動かすスターリンがいたら、それは影武者である。)。
これらすべてが彼の人に世の中に対する昏い憎悪ととてつもないコンプレックスを育てた。
グルジア正教会の篤信者である母親だけが彼の人に愛情を注ぎ庇い続けたが、彼の人の性質は母親の望む方向には結局修正されなかった。
彼の人は極めて優秀な成績を取りながらも1899年に授業料不払いを理由に神学校を退学し、当然のようにロシア社会民主労働党に入党して地元ゴリでテロリストとしての腕を磨いた。
彼の人はそこで何をしていたか?
地元の悪漢どもを手なづけて党の資金集めと称して頻りに銀行強盗を働いた。銀行を襲っては地元の警官とはでに撃ち合いを興じていたのである。
連絡員であったメンシェヴィキは酒場で山賊然として冷たく笑う彼の人に戦慄を覚えたという。
その後、偶然に偶然が重なり、グルジアのケチなテロリストがソヴィエット連邦という大国の独裁者となり、一国の政治を取り仕切るという壮大な実験が行われた。
結果は歴史が示す通りだ。
数えきれないほど多くの人間が死に、それに比例した数の家族が壊され、その負の遺産の連鎖は未だに続いている。
ソ連時代に52人の婦女子を殺害したシリアルキラーにアンドレイ・チカチーロという男がいる(通称「ロストフの切り裂き魔」)。昼間は生徒にセクハラまがいの行為をするどうしようもない禿のダメ教師だが、夜になると豹変し駅や街頭で家出少年や少女たちを漁り、食べ物や小銭で暗闇に誘ったあげく好んでナイフでバラした変質者である。
ソ連崩壊後にようやく逮捕されるが、公判廷で自分がシリアルキラーになったのは子供のころ体験したホロドモールのせいだと言い立てた。街のそこここで人肉が食われていた。少年が特に狙われやすかった。だから、自分もその当時のカニバリズムが忘れられなかったのだと言い立てた。
この変質者の言い分が本当のことなのか苦し紛れの言い訳なのかについては分からない。
しかし数多くの人たちに暗い影響を与えたことだけは間違いない。
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マルグリットの洗脳が解けた後のシルヴィアは盛んにディオニソスのところで情報を探り、自分の信奉していた社会主義とはいったいなんだったのかということを検証していた。
その過程で自分の父親がスターリン時代のノーメンクラツーラだった意味も知った。
だから、彼女は中年男から忌まわしい人物の名を聞いたときに決意した。
「ナカムラ少年。冒険ごっこはおしまいのようだ。どうもここは危険すぎる。オリンポスの世界へいったん引き返す」
シルヴィアはボケーとして突っ立っているナカムラ少年へ告げる。
「それから自称コサック。おまえはまだわたしにお前のここでの目的を話していない」
「おっと。おればかり話すのは不公平というものだろう。一応おまえさん方の素性と目的を教えてほしいな」
「わたしはシルヴィア。ただのシルヴィアだ。もと自動車化狙撃部隊に所属した軍人で洗脳されたテロリスト。
目的はお前の話しを聞くまでは愚かな少年に付き合ったただの観光だったが、変わった。
目的はこの世界の社会システムの変更だ。
現時点からこの世界の正常な社会主義への復帰が目的となる!
準備を整え次第、解放しに侵攻してやる!」
「って。シルヴィアさん。それはその世界の自主性に任せることでやっちゃいけないことでは?」
「なにを言うんだ、タバリシ・ナカムラ。
同志ブレジネフも言っている。『社会主義の防衛のためには、衛星国の国内問題の主権も当然に制限される』と、な。」
「では、共闘だな。ボルシェヴィキの御嬢さん。
解呪の条件に魔女から言いつかったおれの目的は魔女が攻め寄せる準備が整うまでのこの世界の攪乱と情報収集だ。
お互いの目的に齟齬は生じないようだしな。結果が出るまでいい仲間でいようぜ」
中年男はシルヴィアがどれほど物騒なことを言っているのかまるで気が付かない様子で、付け加えた。
「救援の騎兵隊には是非ともウオッカをしこたま持ってくるように指示しといてくれよな。頼むぜ」




