赤いライオン1
赤いライオン1
その頃、シルヴィアは楽しげに湖面を泳いでいた。
彼女にとり湖で泳ぐことなど夏の保養地で泳いだ子供時代以来だった(彼女の父親は党の地方幹部だったので保養地に別荘を持っていた。)。
あの頃は何をしても楽しかった……。
「なに楽しんでるんですか!シルヴィアさん、状況わかってますか?」
岸から飛んできたイラついたナカムラ少年の声がシルヴィアの追憶を破る。
「完全に把握しているよ、タバリシ(同志)・ナカムラ少年!」
観られているのを意識したシルヴィアはラッコのように背泳ぎの状態からくるりと一回転してみせた。そして、自慢げな笑みを浮かべる。
「遺跡の奥の封印の間に押し入ったら、突然の場面展開。転移でもしたのか、あら不思議。そこは湖底の神殿跡だった、とか。フフ。
あれには君も驚いていたよね。口から空気をすべて吐き出してしまって次の瞬間から苦しがったっけ。
非常に面白かったよ。
それから、恐る恐る湖面から頭を出して状況確認してみれば、人一人いない自然あふれる風景。
本当に拍子抜けしたね。岸辺には葦みたいな水草とひょろひょろした川柳しか生えていないし。
でも、これでいい。
ああ、のどかな風景。わたしは一気に子供時代を思い出してしまったよ。 アハハハ」
そう言うと、シルヴィアは大きく腕を回転させて激しく泳ぎ始めた。
「ああ、もう!」
ナカムラ少年はようやく引き上げた食料の入った袋鞄を振り回しながら怒鳴る。
「シルヴィアさんは想像力がないんですか?
突然、魔獣とかがあらわれて襲ってきたりしやしないかとか。ここが大変やばい土地ですぐ移動しなきゃ身体に変調をきたすとか。
そういった不安を感じないんですか、あなたは!」
シルヴィアは怒鳴るナカムラ少年を無視したようにのんびりとナカムラ少年のいる湖岸と神殿跡の上を何回も往ったり来たりした。
だが、見かけほど彼女は警戒を怠っているわけではない。
その証拠に彼女の腹の上には水に浸かっても故障しないことで有名なヘッケラー・コッホ社製の自動小銃が載っている。彼女も元軍人で今現在ナカムラ少年の身を守れるのは自分しかいないことを自覚しているのだ。
シルヴィアはようやく岸に上がってきた。そして、そのまま短い砂地を横切り丘を登って行く。
「シルヴィアさん。待って。なんで先へどんどん一人で行っちゃうんですか」
シルヴィアは慌てて追ってきたナカムラ少年を肘でつつく。
「タバリシ・ナカムラ。賭けをしないか?うん?
わたしは奴がくたばっている方に賭ける。奴が死んでいたら君は湖面に浮いているわたしのギター・ケースを取ってくること。どうかな?」
「死体があるんですか?どこに?」
「タバリシ・ナカムラは目が悪いようだな。ほら」
シルヴィアが指差した方向へ目をやると、砂まみれの西瓜大の物体があった。
「ひっ。生首じゃないですか、あれは」
「死体だと認めたんだな、タバリシ・ナカムラ。じゃ、ひと泳ぎしてきてくれ」
「い、いやです。僕はまだ返事していない。それに生首じゃ最初から賭けにならない」
「ほう。死んでる方に賭けたかったのか。いいよ。わたしはそれで」
「いやいや。そんな問題じゃないでしょ。生首ですよ、生首。やっぱりここは危険地帯なんですよ。早くどこかへ行った方が……。
って、シルヴィアさん、どうしてそっちの方へ行くんですか!」
シルヴィアは生首の前に立つ。
砂だらけのちじれた黒い髪。伸びきった無精髭。苦悶を現す眉毛の間の縦皺と歪んだ唇。額から鼻柱に沿って流れた血は乾燥して黒くこびりついている。
まったくこのほこりにまみれた中年男の顔は凄まじい。
シルヴィアはさっきまで歩く度ごとにチャプチャプ音を立てていた長靴を脱ぐと、そのまま中年男の顔へと中身を注いだ。
反応なし。
今度は白と緑の迷彩色の上衣を脱いで絞りかける。
男の頬がぴくりとしたのをシルヴィアもナカムラ少年も見逃さなかった。
「おお。わたしの勝ちだな、タバリシ・ナカムラ。ひと泳ぎしてこい。ダバイ、ダバイ」
「いやいや。そんなことより人命救助ですって」
ナカムラ少年は持っている袋鞄から細長い首の付いた陶製の壺を取り出し、未だ意識のない男の口へあてがい中身を注ぐ。
男はむせた反動で意識を取り戻し、口の中に注がれているのが飲み物だと知ると、今度は鶴首に噛みつくようにして飲み始めた。
「オリンポスの神々謹製の飲み物ですから、文字通り生き返りますよ。安心して下さい」
ナカムラ少年は優しく男へ告げる。
「タバリシ・ナカムラは衛生兵みたいな口をきくんだな。優しいな。もう右翼の尻馬に乗って囃し立てていた奴には見えないよ」
「シ、シルヴィアさん。昔のことは言いっこなしにしてください。誰だって恥ずかしい黒い歴史はあるでしょ。人は成長するんですよ。前だけ向いて見ていてくれませんか」
「人は成長する、か」
シルヴィアは自嘲するように皮肉な微笑を浮かべた。
「どうだろう?本当にそうかな。わたしは人はあまり変わらない存在だと思う。
変わったように見えても、それはもともとあった内面の一部が表に現れただけだと思わないかい?
君の場合は……、そうだな。以前から優しい人間だった。ただ、人との交際については不器用すぎた。そして、孤独でさみしかった。
だから、他人からの同意と帰属意識を満足させるために最悪の方法を選んでしまった。ただそれだけ。
と、まあ、わたしは解釈する。
タバリシ・カピタン(マリアカリア)も同じ解釈だろう。そうでなければ鉄拳を振ってまで君の外面を改善しようとしなかっただろう、あのめんどくさがりな性格ではね」
「……」
「うん?よかったじゃないか。今では君の周りは優しい人たちであふれている。
君の今助けた男も優しい人間だとしたらいいね。うん?」
シルヴィアは何か含むところがあるような言い方をする。それにシルヴィアの埋められた男を見る目つきがとても冷めたものなのもナカムラ少年は気になった。
「シルヴィアさんはこの人がどんな人間か、分かっているんですか?もしかして助けちゃいけない人間だったとか」
「いいや。ただ、人が首だけ出して砂地に埋もれているなんてわたしが子供時分に見た映画にそっくりだったものだからね、びっくりしているだけさ。 映画には君みたいな銃もロクに撃てない間抜けな少年兵(アリョーシャだっけ?)が出てくる。最後の方で悪党の親玉に持っている銃剣を奪われて殺されちゃうけどね。君もそうならないように気をつけなさい。タバリシ・ナカムラ」
「……」
「坊主。ありがとよ。おかげで生き返ったぜ」
掘り返されて戒めまで解かれた髭面の男は礼を言った。
「俺はエフゲニー・バレンチンという。コサークだ」
男の上着の胸には保弾帯がついていた。
「ほう。ターバン野郎ではないのか。それはよかった。戦争に行ってからはわたしは彼らが嫌いになったからな。
わたしはシルヴィア。タバリシ・コマンジール(隊長)とよんでくれてもいい。
そして、こっちの少年はアリョーシャだ」
「嘘だ。ナカムラ・タツヤです」
「ナークムールッ・ターヤ?すまねえ。恩人の名前を言えねえ。勘弁してくれ」
エフゲニーという男は白い歯を見せた。
お互い自己紹介が終わり、エフゲニーの体調が元どうりに回復していることを確認すると、シルヴィアは賭けに勝ったと言い張りナカムラ少年を強引に湖の方へ追いやった。
そして、シルヴィアは銃の安全装置を外した。
「一度しか聞かない。正直に答えろ。おまえは敵か?そしてお前は何を知っている?」
時間をかけ苦しめられながら処刑されるはずだった男が間一髪で助けられ、それも人気のないいわくつきの湖面から奇妙な恰好した若い女性と少年に助けられたというのに、男は驚きも珍しがりもしなかった。不自然だ。
それに、シルヴィアは、助けた人間が善人で味方になるなど映画の中でしかあり得ない話だと認識していた。
ここは大尉と同じような行動を採るに限る。
彼女は少々手荒な真似をする必要を感じた。
シルヴィアの見た映画は「砂漠の白い太陽」。今から50年ほど前の映画で、ロシア版西部劇みたいな話です。中年以上のロシア人ならたいていの人が知っている有名な映画です。験担ぎにソユーズの乗組員は必ず見てから宇宙へ乗り出すとかなんとか。映画の中で流れるギターの弾き語りの曲も有名です。




