脱線6つづき2
脱線6つづき2
今、わたしはダンスホールの片隅の卓で足を組んでシガレットを喫っている。
薄暗い周囲はわたしの吐く紫煙と音だけ。バンドネオン。バイオリン。ピアノ。そしてギターとドラム。
わたしは中央でタンゴを踊る男女を観ている。とくに男の手を。
相手(女性)の右の肩甲骨にそえる男の右手が非常に艶めかしい。
2回同じステップを繰り返した後女性が上体を男の右手に預け、仰け反り、そして口を半開きにする。
女性は男の右手に集中していて官能を感じているのだ。
男は女性の上体をなぞった左手で女性を立たせ半回転させる。男は左手で女性の右手を握ったまま背後から右手で女性を抱きしめる。女性はピンと突っ張らせた足を開いて立ち、目を閉じ首を右へ傾げたまま吐息をつく。
わたしは深くシガレットの煙を吸い込む。
この世界でタンゴは爆発的に広まった。
魔王をダンス教師にしたのがよかった。
超絶美青年であることが広まり、有閑マダムたちが大挙して押し寄せたのだ。すると、つられて有閑マダムのヒモ予備軍の男たちも魔王のやっているダンス教室に現れるようになり、ついでに魔王のファッションセンスを盗んでいった。
あとは雪崩式だった。
まあ。嫌な思いもしたよ。
有閑マダムたちに何度も魔王との関係を訊かれたのは非常に鬱陶しかった。
彼女たちマン・ハンターは律儀にも狩場の掟を守り獲物の横取りにならないかどうかをしつこく訊いてきたのだ。それで、その都度、わたしは「好みでないし、肉体関係もない。(肉体関係がないので)味は保証しかねるが、お好みであればトライなさってはいかが?」と表明させられる破目となり、あんないい男をモノにしないなんてどこか欠陥があるんじゃないかと憐みの目で見られたりレズビアンではないかと警戒されてさんざんな目に遭ったのだ。
チッ。厨二病の中身のない奴のどこがいい男なのだ。
でも、まっ。その辺はご自分で確かめて虚しい思いをなさるがいいさ。
やめよう。愚痴りながら喫うシガレットの味は不味い。
ところで、タンゴのいいところはダンスが決して若者の特権ではないというところだ。年齢に応じた楽しみ方ができる。ミロンガのように速いステップのダンスもあれば、逆に休みのあるスローステップのダンスもある。
それにダンスは表現だ。ついテクニックに目が行きがちだが、踊り手の個性とか癖がどうしても現れて同じダンスでも表現するものが違ってくる。それこそ眉の動き、指先の動きひとつで表現するものが全く別物になる。ステップのテクニックがすべてではない。
老いた男と若い女の組み合わせも大変いいものだ。
タンゴでは主に女性のステップの華麗な足さばきが売りだが、それはすべて男の適切なリードがあってこそだ。
映えるには陰の支えが必要。
老いた男の人生経験がみずみずしい若い女の肢体を存分に躍動させ、かえって若い肉体の歓びをこれでもかというほどに強調する。おお。セクシー!
タンゴが広まるにつれ、この世界のファッションも変化した。
高いヒールの婦人靴が売れ、踊りやすく足を魅せる裾の短いドレスが流行した。色も単色、グラデーション、なんでもござれ。
男たちには、わたしが期待したようにイタリア調スーツが流行った。
細い襟。太い襟。シングル。ダブル。2つボタンに3つボタン。
それにネクタイ。
細いネクタイに太いヤツや先だけ太いヤツ。縦縞。横縞。レジメンタル。すべてそろっている。
男たちはダンスホールへ来るのにご自慢の何着もあるスーツから慎重に自分の映える一着を選び、何本ものネクタイと組み合わせを考え、袖口にカフスボタンを光らせる。
ブラボー。ブラボー。ブラボー。
今日はこのダンスホール(正確には踊り場にある酒場だが。)にアポロニウス君が来る日。
お姉さんは彼と踊りタンゴの醍醐味を教えるためにわざわざ早めに来て準備しているのだ。
彼は純真で輝く美青年だから悪い虫が寄って来やすい。彼が気づかぬよう害虫を駆除する必要があるというわけさ。
渋めの中年男が好みなのだが、なぜだか彼に惹かれてしまった。
なんだろう。
ひとは自分にないものを他人に求め、その他人から自分を認められたがっているのかもしれない。
しかし、ついていない。
女郎蜘蛛みたいに彼を待ち受ける女たちを牽制するまえに、わたしのところへ厄介そうな男がひとり近づいてきた。杖を突いてな。くそっ。
あえて見ないが、男が冒険者くずれで、こないだの戦争かそれとも自身の冒険のせいかしらんが左足を失っていることが判る。しかも剣の達人だ。
内功で研ぎ澄まされた五感がわたしに教えてくる。こいつは危険な奴だと。
男はわたしの視界を遮らないよう斜め前に立つと右手で大つばの帽子を脱ぎ古風なお辞儀をした。
「セニョリータボスコーノ。こんにちわ」
わたしはチラリと目をやりはしたが、楽しみを妨害される予感がしたのでしばらく口を開かなかった。
男の太い右手のゆびには相当年季の入った剣だこが見えた。
白い鳥の羽で飾られた黒のつば広帽子。口の広い、レースの飾りのついた白シャツの袖。銀ボタンを光らせた黒い光沢のある絹のベスト。膝まである口の広い肌色のブーツ。しかも、幅広のサーベルを腰に吊っているばかりか突いている杖は明らかに仕込み杖だ。
スペイン風騎士様のご登場か。厄介ごとの予感しかしない。
「……」
相手も黙っている。礼儀なのだ。挨拶を返されずに話し続けることはできない。
わたしは根負けして口を利くことにした。障害者が脱いだ帽子を右手に掲げたまま目を伏せてじっと待っているのだからな。わたしも鬼ではない。
短くなったシガレットを灰皿に押し付ける。
「冒険者ギルドはもう1か月前に解散している。わたしはもう受付ではない。再就職の斡旋が欲しければ衣かえした職業安定所へ行け」
男は髭のある口角を上げた。
「わたしはドン・カルロ・デ・バルト(バルト地方の領主にしてカルロという名前の貴族との名乗り)。お見知りおきを。美しきご令嬢」
わたしはため息が出るのを堪える。せっかくニューエイジ・モードを広めているというのに……。
なにもかも古風すぎるのだ。
こいつはどんなときでも感情を外に表さずに穏やかな笑みを浮かべる古い世代の人間だ。古臭い貴族臭がプンプンする。メラリアでもわたしからみて4代前以前にはこういう貴族が多かったと聞いたことがある。
つまり、こいつは古風なこの世界でもとりわけ頑固で古臭い奴というわけだ。
確かに半年程度でこの世界の文化を根底から変えることなどできやしない。この世界にはこいつみたいのがまだまだ数多くいるんだろうな。
「で、礼儀正しいお貴族様がこんな小娘に何の用だ?文化破壊に対するお小言か?それとも風俗紊乱を理由に国外退去の宣告にでもきたのかな?
わたしは忙しい。用があるなら手早く頼む。何と言ってもわたしはスローライフを楽しむことのできない現代人なのだからな。
さあ。横に座るがいい。立ったままだと辛かろう」
仕方がない。勧めなければこいつはいつまでも鬱陶しく立ち続けているだろうからな。わたしは鬱陶しいのが嫌いだ。
「感謝します。ご令嬢。
万事テキパキとこなす現代式に何分慣れていないもので(自分のスタイルを変えられなくて)このまま失礼しますよ。
人間、年を取ると、自分が他人に合わせるのではなく他人が自分に合わせるべきだと勘違いしてしまう。そのうえ、世間が甘やかすものですからな。つい忘れてしまうのですよ、自分がのろまだということを」
フン。こちらが急かしているのにあくまで自分のスタイルを堅持するとの宣言か。座らしてやったら図に乗りやがる。
「ご令嬢はこのネピアの人間にいろいろ珍しいものを持ち込まれたとか。たとえば、その口にしていらしたシガレットとか。歌とか踊りとか。
よければ一本いただけませんかな」
わたしはもうこいつを見ていなかった。
シガレット・ケースから一本、指で摘まむと、反対側の床へ落した。
「失せろ。シガレットを拾った場合は3口喫う間だけ待ってやる。拾わない場合はいますぐケツを蹴り上げて表へ放り出す」
「おやおや、性急ですな。でも、決闘という形もいいかもしれませんな。わたしはもともと宣伝と捜索の依頼に来たのですから。わたしが勝てば名声が上がり剣術教授の宣伝になりますし、(貴女に)わたしの命令にも従ってもらえますからな」
「わたしはミュージカル女優だ。おまえの役には立たない。それに帯剣をしてない。ここはダンスを楽しむところであって刃傷沙汰をするところではないからな」
「ご冗談を。暗部くずれの凄腕を3人一度に切り捨てたり、昔から根を生やしていた街のやくざ連中を一晩で一掃したりなかなかのご活躍ではないですか。
うーん。決闘は後日、公開の場でいたしましょう。その方が宣伝になりますし、貴女の(拒否する)言い訳もできにくくなりますから」
男は愛想のよい笑みを浮かべたままだ。
こういう輩がいずれ現れると予測がついていたことなのに、わたしは調子に乗っていたのかもしれない。
再就職を斡旋した連中はもと冒険者たちであって大抵の暴力には耐性があったが、対人戦に特化した暗殺専門のもと暗部の連中や組織化されたやくざの集団には対抗できなかった。わたしの目的達成のためには斡旋した連中の仕事の成功が必要だったので、障害の排除をせざるをえなかったのだ。仕方がなかった。連中が寄生虫どもに食い物にされるわけにはいかない。
「どうやって貴女にわたしのささやかな要望を叶えていただこうかと随分悩みましたよ。わたしはどうも色恋沙汰はにが手でしてね。助かりました。
お時間を取らせましたな。では、失礼させていただきます。
ああ、のちほどお屋敷へ正式な使者を訪ねさせます。よろしく。セニョリータボスコーノ」
「待て。宣伝は分かるが、捜索とはなんだ?わかるように説明しろ」
「ふむ。貴女に興味を抱いていただけるとは大変助かりますな。
端的に申しましょう。5年前に行方が分からなくなったクリネックス王女の捜索です。
王女は女神エリエールに大層似ていた。そして、5年前から冒険者ギルドに王女に似たエリエールと名乗る女性が受付として勤め始めた。さらに半年前には自称女神に召喚されたと称する勇者のご一行が現れ、その後、勇者のひとりがエリエールと名乗る借金奴隷を買い、こき使っているとか。
王女を連れ戻すには貴女の協力が必要というわけです。女神のご主人として一言命じてくださいませんかな。
いやはや、本当に苦労しましたよ。なにぶん確かめようがないですからな。おかげでわたしは足を失う破目になるわ、官職を罷免になるわ大変な目に遭って。
女神エリエールだとの確信を抱けずに随分と時間がかかりましたが、貴女があまりに苛めるものですから女神が零した愚痴に自分が女神だと認めるのが出てきましてね。それで万事解決。いや、めでたい。長年の胸のつかえが下りた気分ですよ。
ご理解されましたかな。セニョリータボスコーノ。」
「迷惑だ。直接エリエールに頼めばいいだろう。それに、そのために決闘という癖のある手段を使うのはおまえの八つ当たりだろう。恥を知れ」
「わたしもネピアの住人ですよ。崇め奉られる女神に対して命じることはできませんし、すぐへそを曲げる女神に叶えてもらえる確実性がありませんからね。
決闘はわたしのもと騎士としての矜持とぽっと出の勇者とかいう輩に立場を分からせてあげるという親切心からですよ。わたしも相手がご婦人だというので悩みましたが、最前のやり取りで気が変わりました。
わたしは物乞いでなければジゴロでもない。無礼なご婦人に媚を売ってまで援助を乞いたいとまでは思わない」
もと騎士の男はようやく立ち去った。
ホールの中央を見ると、すでにアポロニウス君が来ており、白いドレスの女がしつこく声をかけている。
わたしはシガレットをはさむ右手をわずかに示してボーイを呼んだ。
頭をかしげるボーイに右手の残りの薬指と小指にはさんだ金貨を見せ、正面を向いたままにこやかに笑いながらわたしは告げた。
「あの白いドレスに躓いたふりをしてワインをぶっかけてやれ。そうして、騒ぐ女には支配人が弁償しますからと言って外へ連れ出せ。あとは分かるな」
右手から金貨が消えた。
これでいい。
もうすぐ邪魔ものが消え、わたしの楽しい時間が始まる。
今日は金貨2枚損をすることになった。まあ、こういう日もあるだろう。
わたしは再びシガレットの煙りを深く吸い込んだ。




