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第二層6つづき3

 第二層6つづき3


 アンナ・モッフォは5歳の時にイタリアはナポリ近郊の農村から父母に連れられアメリカへと渡ってきた。もう30年以上も前のことである。

 当時、家族に子供は長女のアンナしかおらず、両親が季節労働者として全米各地の農村地帯を渡り歩くのに連れまわされた。

 うっすらと覚えていることは辛いことばかりだった。

 貧乏、大人たちの酔った喧嘩、地元の農民たちの嫌がらせ。


 2年渡り歩いた結果、父親が辛いばかりで儲かることがないことに気づき大都市へ流れていくことを決意した。

 それでお決まり通り家族ともどもニューヨークのロウアー・イーストサイドの貧民街に住み着くことになる。貧乏なのは相変わらずであった。父親は最底辺の肉体労働者として沖仲士や倉庫番、はては食肉の運搬人までもして働いた。

 アンナにとって変わったことは地区の学校へ通えることになったくらいであったが、2年も遅れての学校生活であり、なじめないうえ勉強がことさら嫌いだったため楽しいものではなかった。

 このころ弟や妹たちが3人も生まれ、彼女の日常は子守りに追われた。


 15歳になると、アンナもユダヤ人の経営する裁縫工場や同じイタリア人の経営する皮加工の工場へ働きに出た。

 賃金はすべて家へ入れた。

 そして、19歳になると同じイタリア系移民のジョバンニと出会い結婚する。旋盤工であった。

 結婚当初は解放感にあふれ夫も優しく彼女も幸せであった。子供もすぐに生まれた。

 しかし、夫になった男は性格的にだらしない男で、ギャンブルに溺れ、やがて家へお金を入れなくなった。

 彼女は息子が4歳になるまでなんとかやりくりして耐えた。が、夫はとうとう借金で首が回らなくなり蒸発してしまう。

 4歳になってもまだ単語しか話せず興奮するとキーキー奇声をあげる息子とともにあとに取り残された彼女は一時期絶望に打ちのめされてしまう。

 もっとも、ここで彼女はナポリ女の意地をみせる。

「人は悲しいことがあったって食って生きていかなくちゃいけない。いつまでも地面を向いて泣いてたってなんもいいことはありゃしない。

 さあ、顔をあげて前を向いて歩くんだ!(アバンティ!)」


 彼女は息子を母親に預けると再び働きに出た。

 いろいろ試みた挙句、彼女はコニーアイランドのイタリアン・レストラン「スカルバート」(一般向け。イタリア系に対しては「ヌォヴァ・ヴィラ・タマッロ」の看板をあげていた)の厨房の手伝いに職を得た。

 同じレストランでもフレンチのお店なら女性が厨房に職を得ることなどまずなかったであろう。しかし、そこはマンマの幅を利かせるイタリアン。いまでは年上の同僚のマリア・ストレータスと彼女が厨房を牛耳っており、彼女たちに文句を言えるのはコック長だけだ。コック見習いの生意気なガキどもはみんなアンナとマリアに顎で使われている(そのせいで見習いたちはフレンチ・レストランの見習いたちのように勝手に店のジェラートをくすねるようなまねができず、大いに店の経営に貢献していた)。

 ただし、彼女たちはコック長から女の手は熱いと言われ魚介類とくに貝類に手を付けることだけは禁じられていた。コック長の信念からすると(女性の手に触れると)鮮度が落ちるんだそうだ。おかげで面倒なカキの貝殻剥きは見習いコックたちの仕事となり、旬の時期には彼らはうんざりするほどの貝殻と格闘することになる。


 肝心のアンナとその息子の生活であるが、アンナが「スカルバート」へ働き始めた頃から好転し出す。

 利に敏い弟のアルカンジェロが証券会社のボーイからはじめて(カーネギーではないがときどきインサイダー情報を得て)株取引で儲け一家をブルックリンの中流階層の住宅街に引っ越させる程度には成功していた。

 家がアンナの職場と同じブルックリンに引っ越したのがよかったのか、息子も順調に成長し出した。

 以来10年、アンナは眼前の霧が晴れたかのように快活な生活を送ってこれた(3年前に大恐慌に遭遇したときも危機に敏感だった弟のおかげで一家はジョセフ・P・ケネディのように1セントも損をしなかった)。



 そんな彼女は昼の賄後の休憩時にマリアからお小言を頂戴するジャンヌを見ていた。


 あたしも前は罰当たりなことを言ったもんだよ、まったく。

 3か月前に改宗者(ポランスキー)に就職の斡旋を依頼された時には偏見でさあ、「胸糞悪いこと言うじゃないか。よりにもよって性悪のフランス女の就職を斡旋しろだって。鼻の下を伸ばしやがって。なんであたしがあんたの女遊びの尻拭いをしなくちゃなんないのさあ」と思いっきり悪態をついたもんさ。

 だけど実際に見てみると、(ジャンヌは)陰日向なくよく働くしさ。教会には欠かさずに行くし、修道女でもないのに貧しい人たち向けの無料スープの配給のボランティアも手が空いている限り必ず手伝うし。

 名前通り本物の聖女様のようじゃないか(1920年代にジャンヌ・ダルクはローマ法王庁によって正式に聖人に列せられていた)。



 ジャンヌは1931年のニューヨークでもフランスにいたときと同じく周りの人たち特に女性や子供に大変人気があった。

 ジャンヌはいつでもぶらないし、どんな人からの話でもよく聞いた。それで貧しい人も孤独な人も心を開いた。そして、よく笑い、人々の気持ちを明るくした。

 今日、マリアに「バットを職場まで持ち込むな」と叱られているのもそういうことなのだろう。

 実際、最近ジャンヌは年下の少年たちとベース・ボールをするのが楽しくてしょうがない。もちろんブルックリン・ロビンスのファンである(1932年にブルックリン・ドジャーズと改名。野茂秀雄投手がデビューを飾ったロサンゼルス・ドジャーズの前身である)。

 ポランスキーに言わせれば、(ジャンヌは)少し足りないせいなのだそうだけれども。



「さあ、今日はお偉いさんが店に来るからいつもより休憩は短いよ。いつものようにダラッとせず、しゃっきりしな。間違いがあったら大事なんだからさあ」


 マリアが見習いたちにはっぱをかけて追い立てている。


 そう。

 今日(1931年4月15日)は店のオーナーがみかじめ料を払ってご機嫌をとってるギャングの親玉に午後遅くに特別に来店するお客(当然店は貸切状態)に最高級の料理を出すように言いつかっていた(確か料理長がお出しするのはイセエビのクリーム煮だったはず)。

 道理で今日はあの嫌な巡回警官が賄賂代わりに昼飯を店にたかりに来ないはずだわ。


 

 段取りを立てたのはすべてラッキー・ルチアーノだった。彼は今日この店に親分のジョー・マッセリアを今後のことの話し合いと大食漢であるジョーにとびきりのご馳走を奢る約束で呼び寄せたのだ。



 ご馳走の真の意味は、料理ではなく鉛の弾丸であった。



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