第二層6つづき2
第二層6続き2
「あんたの名前はなんというんだい?おれの名前はヤン・ポランスキー」
結局、ジャンヌはポランスキーの作業を最後まで手伝った。そのおかげでジャンヌの身体は生ゴミ臭くなり、そのままでは教会へは行けなくなった。 そこで、ジャンヌはポランスキーの部屋のバスタブを使わせてもらうことになり、ついでに朝食兼昼飯を奢ってもらうことになったのだ。
ポランスキーの借りている部屋はロウアー・イーストサイドほどのスラムにあるのではないが、それでも褒められた環境ではなかった。
ポランスキーもジャンヌを7階の自室へ入れることに躊躇いを覚えたし、入れたのを近所の金棒引きの婆さんに見られジャンヌがあらぬ疑いの目で見られることに少々気が咎めた。
もっとも、ポランスキーは自身に不良の噂を立てられることにはなんの関心もなかったし平気だった。
孤独な根無し草の都会生活者であるし、東欧系ユダヤ人の癖に片言のイディッシュ語しか話せなかったからだ(母親がポーランド人のカソリックで、ポランスキーはユダヤ人コミュニティに属することを幼いころから嫌っていた。カソリックに改宗したのもポーランドにいた頃のことだった。)。近所の人が話すロシア語もハンガリー語も知らない。
気になるのは自分とは違う将来のあるジャンヌという小娘のことだけだった。
「……お母さんにはジャンヌと呼ばれていたわ」
「はあ?……まあ言いたくないこともあるわな、誰でも(なんの限定なんだよ。意味深な。それにしてもガキの扱いは難しいな。ボッチのおれには無理だ。)。それにしてもジャンヌか。俺と同じじゃねえか。じゃあ、誕生日は6月24日かい?」
カソリックでは子供に聖人の誕生日にちなんだ名前を付けることが多い。ポーランド語でヤン(jan)は洗礼者ヨハネを示す。その女性形はヨアンナ(joanna)。フランス語表記ではジャンヌ(jehanne)となる。そして洗礼者ヨハネの誕生日は6月24日である。このことからポランスキーはジャンヌの誕生日を推測したのであった。
「知らないわ。誕生日がいつかなんて」
今度こそ、なんて難しいガキなんだとポランスキーは頭を抱えた。
が、それはポランスキーの誤解である。
後世の人はジャンヌ・ダルクのことをジャンヌ・ダルクと当たり前のように呼ぶが、ジャンヌがシオンへ王太子に会いに行った際、名前を聞かれて前述のように「家ではジャンヌと呼ばれています」と答えたがため、父親の姓であるダルクとくっつけて単にジャンヌ・ダルクと呼ばれるようになったにすぎない。ただの愛称で本当の名前かどうかは不明なのだ。また、死後の20年ほど経ってからなされた処刑破棄裁判(復権裁判)でも彼女の名付け親と称する人物が証言に出てくるが、最後まで彼女の誕生日を明言していない。当時の教区の教会には貴族の子弟の出生記録しか保管されておらず、彼女の名前も誕生日も記録に残されてはいない。1月6日説が最も有力であるが、その根拠も彼女に会ったこともないある貴族の書簡の記載にあるにすぎない。つまり、彼女の名前も誕生日もその人生と同じくかなり曖昧なものなのである。さらに年齢についても、イギリス軍に引き渡され処刑裁判が始まった時に尋問で彼女自身が「だいたい19歳くらいだと思う」と曖昧に述べたことが根拠とされていて、本当のことは判っていない。
ジャンヌ・ダルクとは本当に不思議で曖昧な少女なのである!
とにかくジャンヌは湯を浴びてポランスキーから割と清潔な男物のだぶだぶの衣類をもらい、食卓についた。テーブルには例の豆とひき肉のごった煮とパンが置かれている。
「……父と子と聖霊の御名において、アーメン」
二人はカソリックの食事前の祈りを捧げる。
そして、食事中は二人とも無言であった。
食後のポランスキーの第一声は「おまえ、家出少女だろう?教会案内してやるからその後は家へ帰んな。今日はもうゴミの収集なんて絶対に味わえない経験をしたんだ。満足だろう。ひとりで帰りづらいんだったら送ってやってもいい。いや、送って行こう。ここら辺も大して治安がいいとは言えないからな。すりや強盗も多いし。若い身空で男に襲われてでもしてみろ、泣くに泣けんぞ」だった。
もっとも、中世の戦乱の時代から比べれば当時のニューヨークの治安の悪さなど大したものではない。それにジャンヌ・ダルクは気が強い。オルレアンでふざけた傭兵に胸を触られそうになった時など、相手に顔面パンチを食らわして昏倒させている。軍に関係のないのについてくる連中(商人や女)を大剣の腹で殴って追い払うなどしょっちゅうであった。
そういう意味でポランスキーの心配は杞憂なのであるが、ジャンヌはその無骨な心配りを理解し感謝した。
優しい人間は他人の優しさにも敏感なのである。
ジャンヌはポランスキーに自分のことを少し話した。
◆◇◆◇◆ ◆◇◆◇◆ ◆◇◆◇◆
ポランスキーがこれほど自分以外の誰かのために懸命に努めたことは、母親か戦場での戦友のためにしたこと以外なかった。
生意気なんだが、なんだか憎めねえ不思議なガキだ。
しゃべってることもわけわかんねえけど、いっぱしの理屈をこきやがるし。
(彼女の言ったことを)もちろん信じちゃいねえ。
だいたい家族とは離れていまは大切な神様からの使命の遂行中とはどういった意味だい?
だが、よくいる信心狂いにも見えねえし。……。
まあいい。どうせ暇つぶしの人生だ。おれは本当なら10年前仲間とともに死んでたんだし。
ポランスキーは寒風に晒してできるだけゴミの臭いをとったジャンヌの衣服を再び着せて教区のカソリック教会へと向かい、そこの司祭にジャンヌを預けたうえで、彼は今晩からジャンヌの寝泊まりできるところの確保と職探しへと出かけた。
職については望みが薄い。彼自身の伝手が頼りないうえ当時の世界では女性が安心して働ける職場は少なかった。不況の真っただ中だし、ジャンヌはタイプが出来ないばかりか文字すら読めない。
不思議な奴なんだよな。たいていの語学はできそうなんだが、文字が読めない。署名だけはできると自慢げに語っていたが、ほとんど自慢にもならねえよ。
あれか。俺と会う前に頭でも打ったのか?それともその手の病気か?
まあどっちにしろ、あのガキは事務職には就けない。おれですら無理なんだからな。
あとはマックス・ファクターの店頭売り子にでもなるか(当時、あとから移民してきた東欧系ユダヤ人たちは貧しいうえ故郷の風習を固持したりしたため、古くに移民したドイツ系ユダヤ人とは違いアメリカ社会から異質な分子として既成の職業からつまはじきに遭った。そのため彼らは新規事業の開拓にいそしんだ。現代に残るアメリカの3大化粧品メーカーのいずれもがこの当時の東欧系ユダヤ人の始めた事業だった。あと既製服の「シーグラム」等衣料業界の80パーセント以上が東欧系ユダヤ人によって占められ、産業廃棄物業はほぼ100パーセント独占されていた。ポランスキーが清掃局の職の斡旋を頼ったのもこういう事情による。)。
いや、こいつは考えられねえ。アイツは田舎臭がしすぎる。
しょうがない。あとは力仕事か。
女にできる力仕事ねえ。掃除の婆さんなんてこの街にはゴマンといるし。おれに思いつくのは食堂の下働きくらいしかねえ。
ここでポランスキーはフィオレロ・ラガーディア(共和党の変わり種政治家。のちのニューヨーク市長でニューヨーク市を近代化させたことで有名な人物。イタリア系であるが母親がトリエステ出身のユダヤ人であり、貧しいイタリア系移民および東欧系ユダヤ人双方ともから絶大な支持を集めていた。とにかく身長150センチの小さな身体で精力的に動き回り、第一次世界大戦中は下院議員であったにもかかわらずイタリアで義勇兵として爆撃機に乗り込み活躍するし、共和党員のくせに大統領選およびそのニュー・ディール政策で民主党のフランクリン・ルーズベルトを支持するなど人の耳目を驚かせることを平気でする人物であった)の政治集会で出会ったイタリア系のアンナ・モッフォというレストランの下働きの中年女性を思い出した。
極めて口の悪い女性であったが、性格がサッパリとしていて珍しくポランスキーは気に入っていた。
彼女は確かコニーアイランド(ニューヨーク市に古くからあった遊園地。オー・ヘンリィの短編小説にもよく登場した。東京でいうならば豊島園といったところか。決して浦安にあるなんとかランドには当たらない。)近くのレストランに勤めていたな。
ジャンヌの就職の斡旋はしてくれなくても若い女の身の振り方についての知恵くらい貸してくれそうだ。
ともかくブルックリンの南に行くとするか。
彼はなぜだか足取り軽く、冬のニューヨークを地下鉄を乗り継ぎながら南下した。




