第二層6つづき1
第二層6つづき1
「寒い」
気が付くと、ジャンヌ・ダルクは海鳥の舞う海岸近くの街なかで立っていた。
ニューヨークの冬は厳しい。辺りには雪が降り積もっており空気が異様に冷たかった。
ジャンヌ・ダルクもフランス北西部の寒村の出身であり寒さには耐性があったが、気を失う直前、夏の気だるい暑さの中で鎧を着て体を汗で湿らせていたのだ。
突然のことでこころばかりか身体の方も現状についていけなかった。
李鉄拐に飛ばされる直前、ジャンヌはランスのノートルダム大聖堂で入りこんだ蜂が小煩げに飛び回る中、鼻の細長い腺病質な王太子が厳かな顔つきで戴冠式を挙げるのを感涙を流しつつ見ていたのだ(1429年7月17日)。
マリアカリアたちとは違いジャンヌには事前の説明が行われていない。当然のことだが、突然のことでジャンヌはパニックに陥っていた。
クシュン
が、ジャンヌはくしゃみをすることで突然われにかえる。
そうだわ。これもきっと神さまのご配慮なのだわ。また、わたしにするべき使命が課せられたのだわ。
篤い信仰心の持ち主には世に不条理などということはありはしない。すべては神さまの思し召しどおりなのだ。
こうしてジャンヌは李鉄拐のはなはだ迷惑な演出も大いに善解してこころを落ちつけた。
つぎにジャンヌのしなければならないことは、教会を探し出して神さまから与えられたミッションの内容を理解することだった。
神さまの声を再び聞かなければならない。
しかし、ジャンヌが教会の場所を尋ねようにも早朝でだれもまわりにはいなかった。
クシュン
ジャンヌは再びくしゃみをした。
ジャンヌの今の服装は、深緑色の長めのスカートのついたナチュラルウエストのドレスに、頭にはふちの無いカーキー色の丸い帽子(皮肉にも横には百合のデザインがしてあった)が載っていた。
李鉄拐のせめてもの温情だろう、ドレスの上は黒の厚い毛織のコートだった。
しかし、それ位では冬の海から来る寒風を防ぐには心許無い。履いている編上げの長靴からもジンジンと寒さが伝わってくる。
こんなに寒いのはドンレミ村を出て王太子を訪ねてシノンへ行った道中以来のことじゃないかしら。
ジャンヌは腕を身体に巻きつけ足を踏みならして寒さに耐えながらひとりごちた。
しかし、ジャンヌには神の御加護がある。試練の時は過ぎた。
ニューヨーク市清掃局のトラックがゴトゴトと家庭から出るゴミの回収に現れたのだ。
もっとも、15世紀初めの田舎娘は大きな箱らしきものがゴトゴトこちらへやって来たのに喉から心臓が飛び出るほど驚いた。
なんだあれは。
トラックからは革ジャンパーに軍手姿の男が降りてきては家々の前に出されている鉄製のバケツから生ごみをトラックの上へと回収し、雪の街中を進んでいく。
「つかぬことを伺いますが、教会はどちらにあるのでしょうか?」
ジャンヌにとりトラックへゴミの回収に励む職員に話しかけるのは現代人が円盤に乗る宇宙人にコンビニの位置を聞くくらい大変なことだろう。しかし、神さまの使命を知らなければならない以上彼女は勇気を振り絞った。
「へっ。なんだって?教会?教会の場所を知りてえのか、あんた?」
ジャンヌに話しかけられたのは、ヤン・ポランスキー(移民したときにジャック・ポランスキーと改名)というポーランド系ユダヤ人だった。
彼はジャンヌを頭の先からつま先までジロジロ眺めながら「(朝も早くからなんてトンチキなこと聞くんだろう、この小娘。ドイツ人のパン屋の娘か?)」とポーランド語で悪態をついた。
「教会たって、ユダヤ人のシナゴークからメソジスト派や例の聖公会(カソリック系の新興教団)まであるぜ。あんたの言う教会はいったいどこのなんだ?
見ての通り、おれは仕事中なんだ。ゴミの収集ってのは迅速に空気みていに目立つことなく確実にこなしていかなければならない仕事なんだ。
あんたとおしゃべりしている暇はねえ。あんたがおれの仕事を手伝ってくれるっていうんなら別だがな」
この男、自分のいまの仕事があまり好きではない。もともと事務職員であり、今でも余暇に詩を書いている変り者だった。
故国ポーランドでピウスツキーに従いロシア赤軍と戦った後(ポーランド・ソヴィエット戦争。1919年から1921年)、その血生臭い体験を忘れて平穏な暮らしを得るため移民制限のされる直前にアメリカへと渡って来たのだ。
男は(カソリックに改宗していたにもかかわらず)同じ東欧系ユダヤ人の伝手を頼りにいまの職業にありついてようやくかつかつの生活を送っており、こころがひどく荒んでいた。だからジャンヌに対して意地悪を言ったのだ。
ジャンヌはとにかくバケツの生ごみを大きな箱のうえへ積み上げればいいと理解してさっそくバケツを掴んだ。
常に20キロはある鎧を着込んで戦場を駆け回っていたジャンヌにとりゴミの入ったバケツは鳥の羽根ほどにも感じられなかった。
「おいおい。手が汚れるぜ、お嬢ちゃん。いまのは冗談だよ、冗談。そんなことしなくても教えるって」
男は慌てるが、ジャンヌは作業を続ける。
「あなたがゴミの上にいてわたしからバケツを受け取る方が効率がいい(だから、トラックの上に登って)。
それと、わたしはドイツ人じゃない。フランス人よ」
ポーランド語が判るのか。
男は目を丸くした。
男は知らないが、ジャンヌにはマリアカリアたちと同じく自動翻訳機能が付されていたのだ。
こうしてジャンヌはヤン・ポランスキーと知り合い、李鉄拐によりニューヨークへ飛ばされた初日の食事を獲得することに成功した。
食事の内容は、ひねくれた中年男手作りの、缶詰の豆と何の肉か不明のひき肉とのごった煮であった。
しかも、さらに不味くなるような中年男の「料理はこの一種類しか作んねえ。かけられるだけの金がねえからな」「おれはもう改宗したからどんな肉食ってもいいんだ。豚の屑肉でもな」とかいうポーランド語の言い訳つきでであった。
中世の戦乱の中で飢えることの多かったジャンヌにとっては御馳走に近いとはいえ、マリアカリアたちの境遇に比べあまりにもひどい。
神さまの御加護は生活面では余り及ばないようだった。




