第二層3
第二層3
1931年のニューヨークは、第一次世界大戦後に急増したヨーロッパからの移民たちで人口1000万を超えるメガロポリスとなっていた。
とくにアイルランド人、イタリア人、ドイツ系やロシア系のユダヤ人で溢れかえっていた。
彼らは故国の貧しい生活から逃れるためにやってきたもと農民や労働者たちが大半だった。彼らは当然英語が話せないし学校教育を受けてきた者すら少なかった。そして、それゆえに彼らは新天地にやって来ても割のいい職業などには就けず下層労働者としてこき使われ、マンハッタンのロウアー・イーストサイドなどのスラムでの悲惨な生活を余儀なくされた。
さらに悲惨なことに彼らは1929年に起こった世界恐慌のあおりをもろに受けることとなる。
とにかく悲惨だった。
街では失業した労働者たちが路上で木箱にリンゴを乗せたリンゴ売りに一斉に早変わりして溢れかえった。しかし、いくら値引きしようともリンゴは一つも売れない。家族を抱えた彼らは完全に困り果てた。
悲惨なのはニューヨークだけではない。全米各地でそうだった。
とくに中西部の農村地帯の惨状はすさまじかった。世界恐慌はもともと農産物の過剰生産と投機熱の暴走が引き起こしたものだった。農産物の価格は下落する一方だった。都市ではミルクを飲めない子供たちで溢れかえっているのに価格調整のため農村では川へミルクを捨てていた。それでも農産物の価格の下落はとまらない。
借金をしていた小作人たちはたちまち首が回らなくなり、金を貸していた地方銀行は軒並み倒産した。あとは大都市の巨大銀行が乗り込んできて小作人たちを農村から追い出した。追い出された農民たちは一縷の望みを抱いて西海岸へ行くかそれとも大都市のスラムへ向かうしか選択はなかった。まさにスタインベックの『怒りの葡萄』の世界である。
この世界恐慌の経験が後にアメリカを完全に変えることになる。
古典的な経済学に代わりケインジアンたちに光が当たり、最高裁判所の裁判官たちが挿げ替えられて憲法が修正されることになる。経済の復興自体は第二次世界大戦の軍需景気が起こるまで待たなくてはならなかったが、アメリカは経済的にも文化的にも南北戦争後の体制から確実に変貌を遂げることになる。
その象徴が1933年の禁酒法の修正(実質的な破棄)だ。
禁酒法とは飲用のためのワイン、ビール、ウイスキーなどのアルコール類の生産、販売そして運送を全面的に禁止する法律だった。
禁酒法とは現代から考えるととても奇妙な法律にも見える。しかし、制定された1920年当時、アメリカ中の中産階級以下がこぞって社会変革を期待して賛成した法律だった。保守的な人達も数の少ない革新派と呼ばれている人々も南部の貧しい農民も黒人(アフリカ系アメリカ人)もそして女性たちも皆こぞって賛成した。
彼らは真剣だった。
要は経済が変貌し寡占化が進んで両極端な金持ちと貧乏人に分れていくことに不安にかられていた人々(大半が第一次世界大戦前に移住していた敬虔なプロテスタントたち)がその不安を撥ね退けるために宗教的情熱を傾けた最後のきらめきだった。
彼らにとってみれば南北戦争後の旧体制は古き良きアメリカだった。経済的に生活を脅かされずに社会が道徳的にマシになりさえすれば彼らにとってアメリカは理想郷になりえた。モンロー主義の根っこと同じである。
彼らの挑戦はそれまでにも何度となく行われてきた。銀本位制への移行やセオドア・ルーズベルトの擁護など中西部の農民たちを中心にして何度も試みられてきた。が、どれも成功しなかった。
成功したのはこの禁酒法の制定だけといっていい。アメリカがたまたま第一次世界大戦で連合国側に参戦し「ビール=ドイツ=悪」の図式が成り立っていた僥倖ともいえる。
彼らの最後の挑戦は1933年の禁酒法の修正で失敗に終わり、以後アメリカから姿を消す。経済面での反骨主義者の挑戦が表に現れるのは、現代のラルフ・ネーダーの消費者運動まで待たなければならなくなる。
この世界恐慌の影響から貧乏人で溢れかえった1931年のニューヨークでひときわ派手な生活ぶりをみせる連中がいた。
禁酒法を逆手に取ったギャングたちである。
禁酒法によりアメリカにあった4大ビール会社(いずれもドイツ系)は廃業し、需要は地下の密造酒やカナダやプエルトリコなどからの密輸品で賄われた。ギャングたちはそれを押さえたのだ。
当時ニューヨークには5万軒以上の違法酒場があったといわれている(単純計算で住民200人当たりに一軒。どれだけ需要がありもうけがあったかが判る)。いずれもギャングの息がかかっているかみかじめ料を支払っているものばかり。
酒類の製造、販売、運送がすべてギャングたちの手に落ちた。酒は品質にかかわりなくかれらの言い値で取引された。政府はアルコールにかけていた膨大な税金をすべて失い、それらがすべてギャングたちの懐へと流れ込んだ。
禁酒法はギャングたちにとってまさに金のなる木そのものだった。
もともと禁酒法は人々の道徳的向上を呼び掛けるものだった。だれもまともに取り締まりのため強制執行力を働かそうなどと思わなかった。警官たちも武装したギャングたちに目の敵にされ命の危険にさらすよりもすすんで賄賂を受け取って見て見ぬふりをした。
当時(1920年以降)のニューヨークではこのアルコールに関する膨大な利益をめぐってギャング団が乱立し縄張りを少しでも広げようとしのぎを削っていた。
抗争、暗殺、誘拐、謎の失踪など日常茶飯事の出来事だった。
ところが、このカオスへシチリアからひとりの男がやって来た。1927年のことである。
男の名はサルヴァトーレ・マランツァーノ。
彼はシチリアのマフィアのドン、ヴィト・カッショ・フェッロの命を受け、ニューヨークの裏世界を征服してすべてマフィア流に染め上げるためにやって来たのである。
当時のニューヨークのギャング団はイタリア系のものもあったが、アイルランド系やユダヤ人で構成されているものも多かった。
当然、最初から物事が彼の思うように運ぶはずもない。しかし、このもと神父志願者の男は自らの信奉しているジュリアス・シーザーのように狡知を絞り冷酷に征服に臨んでいった。
まずブルックリンのイタリア系の移民たちをまとめ上げると、強力なファミリーを立ち上げた。資金源はコステロ(アイルランド系にみえるが変名で実はイタリア人)というギャングと組んだカナダからの酒の密輸だった。これで大いに稼いで組織を大きくした。カソリックである彼にはプロテスタントの道徳などどうでもよかったのだ。ブルックリンにはダッチ・シュルツ(ドイツ系ユダヤ人)というギャング・スターが頑張っていたが、シュルツは密造酒を専門に扱っていたため商売の競合にならず最初は抗争は起きなかった(マランツァーノは典型的なマフィオーゾであり、ユダヤ人嫌いのシチリア人至上主義者であったため、いずれはシュルツを抹殺する気でいたらしいが)。
その後、マランツァーノはニューヨーク中のイタリア系ギャングを吸収して組織をさらに大きくしていく。
そして最後に同じシチリアのカステッランマーレ・デル・ゴルフォ出身のジョー・マッセリアというニューヨーク最大のイタリア系ギャング団のボスと覇を争うこととなった。
俗に言うカステランマレーゼ戦争である。
この抗争は激烈なもので、多くのギャングたちの血が流れた。
裏で両者を激しく争わせて力が尽きるのを待っていたラッキー・ルチアーノというギャング・スターがいたからである。
ラッキー・ルチアーノ(本名サルヴァトーレ・ルカーニア)はシチリア出身の移民の息子であり、御多分にもれずロウアー・イーストサイドの貧民街で食うや食わずの生活を送る。とにかく子供のころから学校嫌いで小学校でも身体の弱そうな子供からかつ上げだけをしに通っていた。
言い分はこうだ。
「アイルランド系の不良に虐められたくなかったら俺に用心棒代をよこせ」
ある日、ルチアーノは年下でチビのユダヤ人のガキを同じように脅した。
が、チビのガキはルチアーノを怖れることなくポケットに手を突っこんだまま拒否した。
「いやだ」
ルチアーノは驚く。自分に逆らったものは今までいなかった。なんて大胆なやつだ。
それ以降、かれらは無二の親友となる。
ユダヤ人の名前はマイヤー・ランスキー。後にルチアーノの参謀役となり、ナンバーズ賭博などを開発して大いに彼を儲けさせることになる。
ルチアーノはこのランスキーとの出会いがあったためシチリア出身であるにもかかわらず人種的偏見をもたなかった。だから前出のダッチ・シュルツとも親交を持てたし、仲間内にはアイルランド系やユダヤ人の有名なギャング・スターたちがごろごろいた。
ルチアーノは小学校を出るとすぐさま地元のファイブ・ポインズ・ギャング団に入り、めきめきと名前を売る。
酒の密輸、賭博、売春が主な収入源だった。
20代後半ですでにブロードウェイ・ギャング団のとりまとめ役だった。
偽名でマンハッタンにあるアストリアホテルという超高級ホテルに住居代わりに部屋を借り、高いスーツを身に纏い、夜は美女たちを引き連れて違法な高級クラブで豪遊した。
そんなルチアーノに本物のマフィオーゾであるサルヴァトーレ・マランツァーノが目をつける。
マランツァーノはルチアーノをよびだし、脅しをかけた。
「ジョー・マッセリアを裏切れ(当時ルチアーノはジョー・マッセリアの傘下にいた。)」「仲間のユダヤ人たちを粛清しろ」
マランツァーノは同じシチリア人のルチアーノがユダヤ人たちとつるむのが我慢できなかったのだ。
ルチアーノは子供時分のランスキーに倣って抵抗した。
「いやだ」
結果は凄惨な拷問だった。拷問にかけられルチアーノの顔には生涯残る傷がつけられた。
マランツァーノはその場でルチアーノを殺す気でいたらしいが、なぜか放置することになった。パトカーのサイレンが聞こえたためとも言われている。
そこでルチアーノにあだ名がつく。
『ラッキー・ルチアーノ』と。
こんな世界へジャンヌ・ダルクとマリアカリアたちは飛ばされたのであった。




