主人公の女 6 覚醒
主人公の女6 覚醒
わたしはここ一週間ほど、マルグリットから貰った武侠小説(大陸共通語訳の金庸作品集)を読み、執務後の楽しみとしていた。
実に面白い。
小説のほとんどは無力な少年が主人公で、御都合主義満載。何度も危機に陥るが、その都度、冗談としか思えないめぐり合わせで乗り越えていき、最強の力を得るとともに美少女との恋愛も成就させる。当然、ハッピー・エンドである。
中華版ファンタジーといったところか。
マルグリットがまた何らかの悪だくみを仕組んだのであろうが、面白くない日常に飽き飽きしていたわたしはそれはそれで構わなかった。
この時点では、だが……。
昨日も同様、執務を終え、そのままデスクの前で小説を読みふけっていた。
部屋ではナカムラ少年がモップを使って床を掃除している。呼出し後、結局、彼を保安局の雑役係として雇うこととして保護することとなったのだ。もちろん青バッチ付きである。
以前、彼を脅したうえ転生のからくりを告げたのは、普通の人間の反応を見極めるためだった。
わたしだってマルグリットからコピー人間で精霊になりかかっている事実を告げられた時は、頭の中が真っ白になり人格崩壊しかかったのだ。現在、この世界には4万8千人以上の異世界人ないし転生者がいる。保安局としてはこいつらがコピー人間であることを告げられた時、どんな反応をするのか事前に知る必要がある。
パニックの末、暴動でも起こされた日にはたまったものではないからな。 送り手たちにキッチリと責任を取って貰うまでは、やつらには大人しくしていてもらいたい。
このように悩んでいた私のところへ嫌いなタイプのナカムラ少年がやってきたので、さっそく実験をしてみたというわけだ。精神崩壊しようと、嫌いなタイプだから良心の呵責も少ないからな。
人道にもとる?馬鹿を言ってはいけない。この世界では法律上、異世界人は人間ではないのだ。国際条約上、人間並みに保護される生物にすぎない。 わたしのやったことに何の問題もない。
ところがだ。実験は失敗に終わった。
こいつは精神を重視して生活するタイプの人間ではなく、そのゴキブリ並みの生存本能に従ってただ生きていくことのみを重視するタイプだったのだ。
結果、奴は何ら精神的衝動を受けずに「それなら(記憶を植え付けられるだけなら)肉体的にはこちらの世界の人間なのだから、転生者は異世界人ではないんじゃね。異世界人じゃなかったら青バッチ渡されることないんじゃね」とこちらの法律の穴を突くような言動をする始末だった(ちなみに、通達で「異世界人の記憶を持った者は異世界人とみなす」と法解釈が統一されているので、ナカムラ少年の主張は意味をなさない)。
わたしは唖然とするほかはなかったが、マルグリットは面白がった。
彼女が言うには、わたしはナイーブ過ぎて重大な局面で失敗するおそれがある。エリザベス伍長をはじめとする多くの精霊たちは(マルグリットの洗脳のせいかリンゴを齧った当時の本人の性格のせいか不明であるが)機械じみた反応しかできず支えにならないから、こういうタイプを側においておく方が為になるそうだ。前々から感じていることだが、わたしにもマルグリットの精神的拘束がかかっているらしく当初抵抗したものの結局、ナカムラ少年を雇うこととなったのだ。もっとも、どのように扱っても何ら良心が痛まない点、便利なので、雇い入れたことに現在では満足している。概ねだがね。
話を戻そう。
パシリの少年が「机の下をモップ掛けするので足をどかしてください」というのでブーツを履いた足を交互にどかしながら小説を読んでいると、ドアをノックしてマルグリットがエスターとシルヴィアを従えて入ってきた。
「おい。そいつ(シルヴィア)は公判中の犯罪者だろう。なんでノコノコとこんなところでぶらついているんだ?」
シルヴィアというのは以前私を狙撃し損ねて逮捕され殺人未遂で告訴された女である。前の世界ではソヴィエト・ロシアの軍人で将校だったらしい。 シルヴィアのやったことはマルグリットの洗脳によるものらしいが、命を狙われたのだ。私と同じ匂いがすることとも相俟ってシルヴィアにいい印象を抱けるはずがない。
「司法取引をしたのよ。重大任務に就いてもらう代わりに免責ということで。それにシルヴィアちゃんはわたしの言いつけどおりのことをやっただけだしね」
マルグリットはクスリと笑うと舌を出した。糞精霊め!生きながら地獄へ堕ちろ!
「今日は何なんだ?いつもの野暮ったいゲシュタポ・ルックではなくスタイリッシュなコートまで着て、そのうえ妙な奴まで連れて。ええ?また性懲りもなく悪だくみか?わたしとしては問題を起こす前にキッチリクッキリ説明を願いたいんだが」
「いいわよお。そのつもりで来たんだから。でも、そのまえに確かめさせてもらうわね」
そう言うとマルグリットは指を鳴らしてわたしの従卒であるエリザベス伍長に軽騎兵用サーベルを作って持って来るように命じた。なんのかのと言ってもマルグリットはこの世界で一番偉い精霊であり、わたしはお飾りの指揮官にすぎない。エリザベス伍長はわたしに断ることもなく部屋の外へ出て行った。
「今日はカリアちゃんにいろいろ驚いてもらうお知らせがあります。まず一つ目は、カリアちゃんの二つ目の能力の発表です。じゃーん。カリアちゃんはなんと他人の妄想を自分の能力として発現することができるのデース」
わたしはピンときた。この時点で非常に嫌な予感がした。マルグリットがわざわざ小説をくれてまでわたしに読ませたがったわけは……。
「ハハハ。今回はお前の悪だくみも失敗だな。わたしはこの金庸作品をファンタジーとしてではなく、現代の中国社会の政治的寓意として楽しんだのであって、小説の虚構を信じたのではないからな。特に『笑傲江湖』などは中国の文化大革命を批判したものであって……」
「それはどうかしら。まあ確かめてみればわかること。実験につきあって貰うわよ、カリアちゃん」
ちょうど帰ってきたエリザベス伍長の持つサーベルを手渡される(サーベルはエリザベス伍長のお手製である。エリザベス伍長は素材さえあればいかなるのもでも作り出せる能力を持つ精霊なのだ)。
「いいだろう。断ろうとしても断れまい。偉大な精霊様のお力が働いているからな」
「嫌味言わない。カリアちゃんは『笑傲江湖』読んだよね。じゃ、独狐九剣を思い出してみて」
独狐九剣とは、小説『笑傲江湖』の主人公令狐冲が会得する剣法の奥義である。「攻撃に優る防御はなし」「型無しは型ありを破る」を特徴とした小説上の最強剣法である。あくまで小説上だがな。
「カリアちゃんは破箭式を。ナカムラ少年はカリアちゃんに向かってモップを投げつけてみて」
ハハハ、馬鹿な。そんなことできるものか。破箭式とは矢などの飛び道具を大量に投げつけられたときに対処するための返し技の体系だ。小説にあるように同時に数十本の矢に対処するなんて物理的にみて不可能だろう。できるわけない。
カッカッカッカッカーン
が、モップはMG汎用機関銃で薙いだように細かい木片と化してしまった。
なぜだ?
「アハハハハ。カリアちゃん、大成功。じゃあ、ついでに九陽真経の内功をめぐらしてみて」
九陽真経とは小説『倚天屠龍記』の主人公張無忌が会得して病を治す究極の内功教本だ。人体の経絡もよくわかっていないわたしがなんで出来よう……。いや、小説の巻末にやたらと詳しい図解や人体の経絡図がついていたな。張無忌が崑崙に埋めたはずの九陽真経そのものまで大陸共通語訳版で載っていた。わたしは馬鹿にしながらもそれらを熱心に読んでいた。
まさか……。
わたしが抵抗を諦めてその独特の呼吸法にしたがって気を廻らしはじめると、やはり身体のすべての気穴から陽の気が溢れ出し、経絡に沿って全身を廻っていく。なんと、小説どおりなのか……。
しばらくすると、身体が急激に熱っぽくなり、気の廻りもスピードを増す。く、苦しい。
頭上に白い雲気がたなびきはじめる。や、やばいのではないか。いかん。このままでは気が暴走してしまう。精霊となりかかっているとはいえ、未だ肉体すべてがエネルギー体に変わったわけではないのだ。気の暴走で肉体がはじけ飛んでしまう。あとでエリザベス伍長が復元してくれるとはいえ、グロは嫌だ。
と。突然、すべての気穴からものすごい勢いで気が噴出された。や、やばい。
……。
……。
結果だけ伝えよう。わたしは通常人にかけられているリミッターを外され、強力な内功持ちとなってしまった。カッコ悪くも得る過程で鼻血を出してしまったがな。
「やった!成功だね、カリアちゃん。これでカリアちゃんは素手で銃弾を掴めるし、刀で切られても身体に傷一つ付かないね。おめでとう!おめでとう!」
「やかましい!おまえは他人を改造人間にして楽しいのか!この糞精霊が!おまえのように根性の悪い奴は見たことがない。わたしはますます人間から遠ざかってしまったではないか。化け物に化け物とされてしまった!」
わたしが言葉を吐いた途端、マルグリットの顔から表情が消えた。わたしの言葉がずいぶんとお気に召さないらしい。
「ふん?化け物?それは少し言いすぎじゃないかしら、大尉殿。遅かれ早かれ、あなたも完全な精霊になる。そんなあなたが貶めてもいいわけ?エリザベス伍長を見てよ、大尉殿。この娘も精霊。この娘も化け物なの?」
マルグリットの口調が変わっていた。マルグリットももと人間。精霊になるときはそれなりに悩んだというわけか。
「……」
「まあいいわ。最近まで精霊の知識なんてなかった大尉殿のことだもの、特別にユ・ル・シ・テ・ア・ゲ・ル。でもまあ、そこら辺の妄想過多なら泣いて喜んだでしょうに。大尉殿はやっぱりナイーブなのねえ。できないことができるようになるのよ。いいことじゃないの?気楽にいけばぁ」
「ちがう。アイデンティティの問題だ。わたしはコピー人間だとしても人間として生きたいんだ。おまえも完全な精霊となるまであと百年はあると言ったではないか。その百年の間は人間として生きたいいんだ、わたしは」
「ふん?いいじゃない、別に。限界を押し広げるだけで精神は何も変わらないのよ。こういうことは早めに気持ちに決着をつけとけばいいのよ。ダラダラと百年伸ばしたからといって何も変わりはしない。精神的につぶされてしまうのがオチよ」
「おまえは人間というものを理解していない。力が弱いから大抵の人間は欲望のままに生きていけない。自己を保存する本能から人間には欲望を抑えつける理性が働く。理性は人間をけだものと区別する唯一の根拠だ。だが、脅威に晒され続けずに理性を強く保つ人間なんてそうはいない。大抵の人間はおのれの力の限界を感じ続けることで理性を維持しつづけているんだ。気高い精神を持ち合わせていない奴らはただですら欲望に従いやすい。そんな奴らの限界を取っ払ってみろ。何が起こる?
わたしは自分がしっかりとした気高い精神の持ち主でないことを知っている。わたしには百年という時間が必要なのだ。わたしはよく知っている心の弱いクズどもと同じにはなりたくないんだ」
わたしはサルヴァトーレのもとで暴力をふるうクズ共のことを思い浮かべた。列に並ぼうともせず、欲しいものはなんでも暴力をちらつかせて掠め取る……。嫌だ。わたしはあんな存在になりたくはない。
「気にしすぎじゃないかしら。もう幼児ではないんだから。それに大尉が理性の弱い人間ならリンゴを齧ろうとした時点で精霊にはじかれている。精霊たちは自分たちと反対の性質を好む。特に理性のある人間は大歓迎なのよ」
「人間の精神なんてコロコロと移ろいやすいものなんだ。清貧を是としていた人間がご馳走にありついた翌日には贅沢を素敵と考えるようになることなどよくあることなんだぞ。弱いんだ、人間は。常に縛り続けないと自分を保てない存在なんだ」
「ハイハイ。大尉殿が禁欲的な性格なのはよくわかったわ。かなり困った性格ね。ご同情申し上げるわ。でも、大尉に今後起こるであろう精神的苦痛についてはセラピストでも交えてまたの機会にジックリと話し合いましょう。今回はこの世界で活動する精霊としての義務の話なんだから、ダダこねずにちゃんと聞いてちょうだい。大尉殿も知らずとはいえリンゴ齧って精霊になった以上、精霊としての義務を果たしてもらうわよ。それがこの世界でのあなたのアイデンティティとやらなのだからね。アー・ユウ・オーケー?ユー・アンダスタンド?」
確かに精霊になったのだからその義務を果たさないとこの世界に存在する意義がない、か。
「次に二つ目のビック・ニュースは外の奴らがこの世界へ進攻しようと計画していること。その計画の前提として外の奴らは……」
この日、わたしは以前クツキ・ヨウコから警告された黒い塊の正体を知った。
わたしは精霊としての義務を果たすために蓬莱山とやらの剣譜争奪の大会に出場しなければならなくなった。
わたしはすぐにそこが戦場であることを知ることになる。鉄さびの匂い。苦鳴が響く。思い出深い戦場……。




