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塔の女 5

 塔の女5


 ハイドゥー・ミハーイはセイジャクという異国の女に三度立会い、叩きのめされた。


  一度目に相対したとき、自分では絶対に勝てない存在であることを確信した。

 だが、そういう存在はこの世に多くいる。自身の剣の師匠もそういう存在だ。

 だから、宣言通り胸を借りるつもりで立ち会った。負けるにしても何合かはもつと信じていた。


 が、結果は何をされたかも判らぬまま地面に膝をついていた。


 全く相手の振るう剣が読めなかった。手加減すらされていた。確実に相手は自分の手の内を読み切っていた。

 なんといことだ。

 畢生のすべてをつぎ込んで立ち会ったはずなのに。自分と異国の女との間には蟻と象ほどの違いでもあるのか?


 茫然としていると、異国の女が小首をかしげながらなにやら言葉を掛けてきた。

 側の少年が言うには、もう一度立ち会ってほしいとのことだ。


 自分もコガンだ。挑戦は受けて立たなければならない。次は刺し違える覚悟で臨んだ。


 ……そのはずだった。


 だが、一度目と同じくなにも判らぬまま地面に膝をついていた。


 ありえん。


 異国の女は小首を傾け無表情な顔でもう一度立ち会えと催促してきた。


 剣を持つ手がブルブルと震えていることに気付く。


 ありえん。


 戦場では常に先頭に立ち、敵が何人いようが笑いながら騎馬で突撃をかけるこの俺が震えている。


 ありえん。……あってたまるか。


 雄たけびとともにミハーイは静寂尼に突っ込んでいった。




 一方、塔の魔女ことケイトは静寂の様子を吊り橋の向こう側から睨みつけていた。


 コトリ派というのはそもそも虐げられた農民たちのルサンチマンから派生した宗教だった。

 領主や正教の坊主たちから毟りとられ続けた農民たちは現世に希望を抱くことができず死後の世界に救済を願っていた。

 自分たちにとって現世は地獄だ。

 何も悪いことはしていない。なのに懸命に働いても領主や坊主たちにすべてを持っていかれてしまう。食うや食わずで、ただただ搾取の対象として生かされ続けている。

 これは一体どういうことなのだろうか。


 領主は税は義務だと云う。坊主たちは死後の安楽を願うのなら教会に献金せよと云う。

 しかし、なにゆえ奴らが贅沢に生活できるために我々が汗水たらして働かなければならないのか。


 領主は口では民のためとか偉そうなことを言いながら自分の領地の拡大のことしか考えていない。坊主たちは説教台では神妙な顔で清貧を説きながら裏で贅沢三昧な生活をしている。

 そして、奴らは自分たちに税だの献金だのを押しつけるだけの力がある。反抗しようものなら懲罰や異端諮問が待ち構えている。

 自分たちには力がないから現世を住みよいように変革できない。


 ならば、死後はどうか。

 坊主たちの説教では神の代行者である教会へより多くの献金をしたものが優先して天国へ行けると云う。

 それでは、貧しい農民は死後の世界でも虐げられる存在なのか?

 そんなのではたまらない。

 自分たちこそが現世でこれだけ苦労しているのだから天国の住民になれるはずだ。

 そうでなけりゃおかしい。


 こうしてコトリ派は誕生した。


 それゆえ、コトリ派の信者は、殊に完全な信者は力あるものを憎む。

 これは、やっかみであり、自身が負け犬であることを自認したうえでの感情だ。

 けれども、先祖代々受け継がれた負の感情を信者たちは自分で抑えることができない。彼らは狂信者なるがゆえに自己のアイデンティティを崩すのものへ反発は強烈だった。


 幼き頃より完全な信者になるべく教育されてきたケイトも自己の内から湧き上がる感情を抑えきれない。

 彼女の中では焼き焦がれるような羨望が憎しみを通り越して冷たい殺意に変わっていく。


 荒くれのコガンたち相手になんの怖れも示さずに近づいていく静寂。


 次々に現れる挑戦者をことごとく退ける静寂。


 ミハーイ相手に絶妙な剣技を振るう静寂。


 そのどれもが眩しく、憎い。


 死ね。おまえなど殺されてしまえ。おまえの存在など私たちには要りはしない。死んでいなくなれ。そして、地獄へ行け。

 今まで抱いたことのない強烈な負の感情はケイトに塔の魔女の称号に相応しい変化をもたらした。



 他方、ケイトに負の感情をぶつけられる静寂尼はエゴイストである。

 自身の解脱しか考えていない。

 だから、強化した五感で周りの人間の悪感情を認識しても何の痛痒も感じない。

 人に気に入られようがいまいが、あるいはよく評価されようが悪く評価されようが、自身の解脱に何の影響もない。何の価値もない。気にする必要はまったくない。


 第三者から見れば、静寂尼はよく人助けをしている。


 しかし、これは人に評価を求めての所業ではない。善行を積み極楽浄土へ往くための準備をしているのでもない。

 釈尊ならばそうするであろうと思うからそうしたまでであって、それ以上のものでもそれ以下のものでもない。

 だから、自身の所業について人にどう思われようとどうでもいいことである。


 すべては自身の解脱のため(これは清涼寺で修業する者すべてに共通する考え方である)。解脱のためである。


 

 ただ、静寂尼にも思うところがあった。

 自分に剣才があることについて疎ましく感じることがあるのだ。

 剣技に長けることは自身の限界を見えにくくする。事象を正しく認識するには限界をより多く感受することこそが重要ではないのか。剣才が無い方が諦観を確立し解脱に早道ではないのだろうか、と。

 詰まる所、千日廻刀を修めた自分よりも狐の横で居眠りこけている静聴尼の方がよっぽど悟りに近いはず。

 静寂尼はそう少し羨ましく思っていたのである。


 だが、静寂尼はミハーイの剣筋を見て認識を改めざるを得なくなる。

 静寂尼は達人である。剣技がどのような発想でどのような修業で編み出されたものか一目で見てとることができる。反射的に静寂尼が見て取ったとき、雷に打たれたような衝撃をうけた。


 このとき、静寂尼は自分に少しく剣才があったことに感謝した。


 中華民国初頭の禅僧は小坊主が朝のお茶を手を滑らして零したの見て頓悟したという。悟りとは頭で理解することではなく体感することである。卑近な事象が真剣に求道するものに悟りのきっかけを与えることはよくある。


 はたして、静寂尼は頓悟したのだろうか?

 

 

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